<日本と東アジア・年表>先史~紀元千年

<日本と東アジア・年表>先史~紀元千年         (mac:w32/F13,win:Gungsuhche,F8)
1000万年前 類人猿よりゴリラ分岐 /600万年前 類人猿よりヒトとチンパンジー・ボノボ系統とが分岐
500万年前 中国雲南省[禄豊猿人]
400万年前 華奢型猿人(アウストラロピテクスなど)出現
300万年前 南アフリカの華奢型猿人出現(のち絶滅?)。地球寒冷化
270万年前 頑丈型猿人(パラントロプス)と原人(ホモ・ハビリス)分岐。原人、言語使用か(左脳ブローカ野の痕跡より)
260万年前 華奢型猿人のアウストラロピテクス・ガルヒ、オルドヴァイ型石器を発明 (石器による動物の解体。肉食開始。)前期石器時代の開始
230万年前 ホモ・ハビリス出現(脳の増大、歯の縮小化)。
200万年前 巫山県竜骨坡遺跡【重慶市】[巫山人]。旧石器。これらを含む地層は200万~204万年前のものと確定され、中国ないしアジア最古のホモ・ハビリスの化石。
180万年前 ホモ・ハビリスの出アフリカ。ユーラシアへの拡散
170万年前 中国北緯40度に石器・元謀遺跡【雲南省】[元謀人]
160万年前 ホモ・エレクトス出現。現代人に近い身体/100万年前 ジャワ原人(ホモ・エレクトス)
73万年前 藍田遺跡【陝西省】[藍田原人]。石器使用。
60万年前   アフリカで旧人。ネアンデルタール人と人類の分岐。エチオピアのボドから石器で切り付けられた頭骨
50万年前 ヨーロッパ旧人
46万年前周口店遺跡猿人洞【北京】[北京原人]火、石器の使用。
38万年前 仏テラ・マタ遺跡で最古の小屋。
30万年前 ネアンデルタール人(-35000年前、絶滅?):言語使用
28万年前 石龍頭洞窟遺跡【湖北省】剥片石器。23万年前 大茘遺跡【陝西省】
20万年前 ユーラシア旧人(ユーラシア原人からの進化かアフリカからの拡散か)
13万年前  ラザーレ遺跡で住居
12万年前 丁村遺跡【山西省】[丁村人]鶴嘴形で尖状石器。
10万年前 赤黄茶の中間色のオーカー(クレヨン)出土。線刻 /イスラエルのカフゼーとスフールで埋葬の痕跡。 骨器。獅子岩遺跡【広東省】[馬覇人]。
8万年前 カフゼー・スフール集団、ネアンデルタル人に土地を明渡し、消失。
7万5千年前 南アフリカのブロンボス洞窟で赤色オーカーに幾何学模様の線刻→世界最古の抽象模様。象徴操作能力の証左。 貝製ビーズ,骨器,錐か槍。
7万年前  細石器。ネアンデルタール人、積極的に埋葬
6万3千年前  アフリカ人、東ユーラシア人系統集団、西ユーラシア-に分岐
6万年前 ナミビアのアポロ11遺跡より岩板に動物壁画/ネアンデルタール人、ポルトガルで構造的な炉。ウクライナのモロドヴァ遺跡でマンモスの骨で作られた小屋ないし風除け構造物。サフル大陸に遺跡 
5万年前 カフゼー遺跡で線刻石片。サフルに原アボリジニ。舟。
4万5千年前 ケニヤのエンカプネ・ヤ・ムト遺跡よりダチョウの卵殻製ビーズ/ユーラシア大陸で骨角器。サフルで大型動物絶滅。狩猟によるか。
4万3千年前 日本列島で遺跡 /3万7千年前 独のガイセンクレステレで鳥骨フルート■沖縄山下町洞穴。舟。
3万5千年前 クロマニヨン人大地母神崇拝(ヴィーナス像)、壁画/【内蒙古自治区】[オルドス人]・【湖北省長陽】[長陽人]・【広西チワン族自治区】[柳江人 麒麟山人]・【北京市】[山頂洞人]洞窟で赤いビーズ、縫い針・【四川省】[資陽人]■日本で局部磨製石斧(世界最古)(磨製石斧は3~4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない)■シベリアのC3系統が列島に移住。
21500年前 フローレス島で身長1mの小型人類(ホモ・フローレシエンシス) /21000年前 最終氷期の最寒冷期。夏の気温、15度下がる。
18000年前 沖縄で港川人 /18500年前 アルタミラ洞窟壁画。クロマニヨン人 
16500年前 青森で縄文土器(大平山元I遺跡)
16000年前 長江【湖北省】玉蟾岩遺跡(〜BC12000)、稲モミ発見、栽培か?
15000年前 ラスコーの壁画。クロマニヨン人。絵の具の配合など、原始的な化学的な操作。石のランプ、松明の使用■D2系統、列島へ移動(D2系は大陸では絶滅。北米へも移動)同時期、インド系のD1系統、南九州へ。局部磨製石斧、骨製釣針、隆起線文系土器。
14000年前 静岡で浜北人。長江で仙人洞・呂桶環遺跡:稲の栽培。
13000年前 ■旧石器時代の終わり。中石器文化。マンモス、バイソンはいなくなっていた。ツンドラステップは北方へ後退、樹林がひろがる。鹿、猪、鳥、魚介類、木の実。弓矢、石臼の普及。他方、壁画の伝統は途絶える。■海進により日本列島が大陸より分離。
12000年前(BC10000)列島、完全に大陸から分離。弓矢、尖底土器、貝塚、屈葬。
11000年前シュメール人(イラン高原かインドよりメソポタミアに渡来)農耕開始。シュメール人は自らをsaa-gi-ga黒い頭の人と名乗る。■長江の彭頭山遺跡・パシータン遺跡で稲栽培、高床式住居 (〜BC6100)
10500年前 レバントで新石器時代開始
10000年前 八十ダン遺跡【湖北省】:栽培稲の籾殻。
9000年前■新石器時代■黄河中流域で裴李崗文化(紀元前7000?~紀元前5000?):円形・方形の竪穴式住居、粟作などの畑作農業。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器■彭頭山文化【湖南省】(紀元前7000?~紀元前6000?)最古の環濠集落、稲の散播農法。■西アジアから伝わった農耕、牧畜が欧州で開始。土器、村落社会、交易システム。フリント、石斧、琥珀、貝殻、金、銅、錫など。巨石文化もはじまる。
8000年前 日本でも稲作、丸木船、漆、繊維土器、勾玉。人口10万5500人/メソポタミアでウバイド文明:灌漑農耕/■河姆(かぼい)渡(と)文化(浙江省):稲栽培、木造ホゾ組みの高床式住居、機織り、うるしを使用、豚を家畜に。■老官台文化(紀元前6000?~紀元前5000?)陝西省華県老官台。円形の竪穴式住居、粟作などの畑作農業。暗紅色の夾砂陶。本格的な農耕の開始。北辛文化【黄河下流域】(紀元前6000?~紀元前5000?)山東省滕県北辛。黄褐色陶器。磁山文化【黄河中流域】(紀元前6000?~紀元前5000?)河北省武安県磁山。円形・楕円形の竪穴式住居、粟作などの畑作農業。紅褐色の夾砂陶。
7000年前 ■江南のヘムドゥ遺跡で稲栽培、農耕具■馬家(まか)浜(ほう)文化【浙江省】(紀元前5000?~紀元前3500?)河姆渡文化を継承。紅陶や玉器。■列島で植林農法。人口26万1300人。朝鮮で磨製石器。仰韶文化
(紀元前5000?~BC2500)河南省。粟・黍栽培、豚犬飼育。鹿狩猟。竪穴住居。彩陶は薄赤色の地に赤・白・黒などの色で文様、素焼きの土器で甕・鉢・碗型。仰韶文化半坡類型【黄河上中流域】(紀元前5000?~紀元前4800?)陝西省西安市。紅陶。母系制、農村の階層化。
6800年前 仰韶文化後崗一期類型【黄河上流域】(紀元前4800?~紀元前4000?)河南省安陽市後岡。北辛文化を継承。
6500年前紅山文化【遼寧省西・内蒙古東南・河北省北】(紀元前4500~紀元前3000)彩陶文化の系統で、黒彩土器。細石器、玉器。小河沿文化【内蒙古自治区赤峰市】:祭文の痕跡。男女合葬墓、身分差で分葬。列島に丸木船遺構。
6400年前 大渓文化【四川省】(紀元前4400?~紀元前3300?)紅陶、灌漑農法が確立、葛を用いた織物。
6300年前 大汶口文化(〜BC4000):山東省。紅陶、のちに黒陶・灰陶。
6千年前 西アジアで青銅器使用/仰韶文化廟底溝類型【黄河上中流域】(紀元前4000?~紀元前3500?)ろくろ使用■列島東北で環状列石。人口16万300人。
5500年前シュメール人、楔形文字使用/ドラヴィダ人、地中海からインド北西部に移住。
5300年前 長江の下流域で良渚文化(〜BC2200) 浙江省:馬家浜文化を継承、玉器、絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造。稲・豆・ゴマ・落花生。父系社会に移行し、階級制のある都市国家。西ヨーロッパで巨石文化(‐1000)。
5100年前ウバイドで洪水
5000年前 エーゲ文明/■長江の中流域の屈家嶺文化(〜BC2600):大渓文化を継承、職集団分業化、城壁都市、黒陶、城内には運河。貧富の差。中流域では黄河の二里頭文化がのちに移植→黄河文明(竜山:父系制:夏につながる遊牧系)による征服か→黄帝による三苗征服伝説(三苗はミャオ族の祖:母系制):以後、500年間、緊張状態?
4800年前■四川省で三星堆文化(〜BC1000):青銅器の仮面、仮面王国。城壁都市。金器・青銅器・玉器・象牙・子安貝、「立人像」「神樹」「縦目仮面」。史書によると古代四川省では蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が出現、太陽神信仰。天府の国と呼ばれ、長江上流域の中心地。内部抗争で紀元前850年ごろに滅び、新たにこの地方に拠点を作った勢力が「蜀」、「巴」という氏族国家。「巴蜀文字」はインダス系か。■石家(せきか)河(が)文化【湖北省】(紀元前2800?~紀元前1500?)長江中流域最大級の都城遺跡。屈家嶺文化を継承し、灰陶器、銅器。城壁、運河。石家河の住民は三苗民族とされ、堯・舜・禹に代表される黄河流域の勢力と死闘を繰り返した。■日本:木製太刀、夜臼式土器。人口7万5800人/チベット高原でカロ文化
4600年前インダス文明(〜BC1800):青銅器、レンガ、服は綿、牧畜、氾濫農耕、ビーズ、メソポタミアと交易。
4500年前■龍山文化(〜BC2000)。山東省で黒陶。後期には銅器鋳造。このころ黄河の部族が長江に侵攻か(石家河文化:江漢平原:三苗)/アーリア人のアンドロノヴォ文化がアラル海から東トルキスタンで展開。
4300年前 丁公村出土陶片
4350年前 アッカド王サルゴン、メソポタミア最初に統一(-BC2200) /4100年前 ウル第三王朝、メソポタミアを支配。
4070年前 禹、夏を興す。二里頭文化(〜BC1800/BC1500):青銅器使用 。夏王朝か?同時期に五つの青銅器文化があった。東の岳石文化、河南省北部の下七垣文化、遼寧西・モンゴル東南の夏家店下層文化、西の四ハ文化、東南の馬橋文化(良渚文化の継承)。
4055年前 斉家文化(-3900年前):農耕・家畜飼育、氏族社会でなく父権制社会:青銅器を多用。
4000年前気候変動か地殻変動でインダス乾燥/カッシート人、バビロニアで活動。アッカド語でカッシュ、自称はガルズ/アーリア人、古代アフガニスタンのアーリヤーナに移住(-3500年前)
3900年前 アムル人、バビロン第一王朝建国   3800年前 ガラス製品
3725年前 フルリ人、西へ移動:北シリアで痕跡。  
3700年前 フルリ(ホリ)人、ミタンニ王国を建国(-BC1500):アッカド語の楔形文字、シュメール表意文字を使用。膠着語、サンスクリットも流入?/ハンムラビ、第六代バビロニア王。
3600年前(BC1600) 殷(商)、夏を滅ぼし、興る:黄河の二里岡文化:甲骨文字(亀甲獣骨文字)と青銅器。殷は「夷」で北方民族か。王家の姓は「子」ないし「好」。祖先は契。河北省南部のショウ水から山東省にかけて活動。遊牧民族。鳥トーテム。ツバメ(玄鳥)を祖。/北方に鬼方:姓はキ(媿:女偏に鬼)
3595年前 鉄器を発明したヒッタイト、バビロニアを滅ぼす。
3500年前 アーリア人、イラン高原から南下、パンジャーブ地方を征服/朝鮮半島に中国から農耕伝わる■呉城文化【江西省】(紀元前1400?~紀元前1000?)青銅器王国。殷代後期の大規模な墓。独特の青銅器。
3475年前 カッシート王ウラム・ブリアシュ、バビロン第二王朝(海の国第一王朝)を滅ぼしバビロニアを統一し、バビロン第三王朝(カッシート王国)を興す。カッシートとエジプトとの外交書簡アマルナ文書残存。
3400年前 呉城文化(〜BC1000)では磁器使用:長江文明と黄河の二里岡文化の融合。
3450年前 カッシート王国、アッシリアやエラムと紛争 /
3300年前 アーリア人、ドラヴィダ人を支配するためにカースト制度を構築
3345年前 カッシートのクリガルズ二世、エラム侵攻、スサ陥落。しかしアッシリアに敗れる。
3225年前 カッシート王カシュ・ティリアシュ四世、アッシリアのトゥクルティ・ニナルタ四世に敗れ、アッシリアに連行される。バビロニアは以降、アッシリアの支配。
3200年前(BC1200)ヒッタイト突然滅ぶ。アッシリアがバビロン占領。同世紀にアーリア人がインドに侵攻。
3160年前 カッシ-トでザババ・シュマ・イディナ即位、アッシリアと戦うが敗れる。エラムがバビロン侵攻、マルドゥク神像やハンムラビ法典がスサに持ち去られる。
3155年前 カッシート王国(バビロン第三王朝)滅ぶ。 
3100年前(BC1100)  衛国、黄河中原に起こる。アッシリア帝国、馬・戦車・鉄器で勢力拡張。
3046年前 周、殷(商)を滅ぼす。周の国姓は姫(キ)で漢民族。/殷の箕子、周を逃れ北方へ亡命。朝鮮に建国。
3000年前(BC1000)■中国語、統辞構造変化:殷は南方系で修飾語は後ろの順行構造[猶大(大いなる道),丘商(商の丘。タイ語、カンボジア語、マレー語なども]。周代以降、とくに春秋時代(前8c)以降、逆行構造へ[大道、甲祖]。(佐々木‘97:55,橋本‘78)■周が諸民族を統合し、漢民族を形成。南方系民族は百越。■弥生時代・部族戦争。環濠集落。高地性集落。
BC1122 周の武王、殷の箕子を朝鮮王
BC1100 晋、建国(国姓は姫)。このころ宋も建国(殷の末裔、国姓は  燕も建国(国姓は姫)
BC1046  太公望により斉が建国(国姓は姜-BC386)
BC949 九州北部で弥生時代早期(-BC915)。
BC810 弥生時代前期(-BC350)
BC806 鄭が建国(国姓は姫)。
BC800 ■O2aは南下、O2bは北上し山東、列島へ。(崎谷)
BC770 周の幽王が西の犬戎に殺害され春秋時代へ。翌年、鄭の武公の協力により洛陽に遷都、東周。武公の権勢を疎んじた周の桓公は、武公死後、鄭に侵攻。
BC745 アッシリアのティグラト・ピレセル3世、メソポタミア、シリア、パレスチナ支配。BC772 アッシリア、北イスラエル王国を滅ぼす。
BC700 朝鮮半島に青銅器。北方スキタイの影響。大同江等流域にドルメン(~前3世紀)
BC671 アッシリア、エジプト併合により、オリエント地域の大帝国へ。
BC667 斉の桓公は周王より覇者として認知。
BC660  衛国、狄により滅ぼされる。
BC638 泓(おう)水(すい)の戦い:楚と宋→楚が勝利
BC632 城濮の戦い:晋と楚→晋の文公が覇者に。
BC612 新バビロニアとメディア、アッシリアの首都ニネヴェ陥落。
BC609アッシリア滅亡。メディア、新バビロニア、リディア、エジプトの四帝国時代へ。
BC593 南ユダ王国と新バビロニアが戦争
BC 585 太伯,句呉(春秋の呉)を興す。
BC586 ユダヤ人、新バビロニアに捕囚。  
BC575 鄢陵の戦い:晋と楚→晋が勝利
BC539 アケメネス朝ペルシア帝国、オリエントを支配。
BC500(2500年前) 日本へ大陸文化の影響。日本で青銅器使用。イト地域に首長。
BC475 晋の趙無恤、代を滅ぼす。
BC473 越により呉滅ぶ:日本列島へ?:『翰苑』倭人、太伯の苗と称す。
BC457  晋で范・智(荀)・中行(荀)・趙・韓(公族)・魏の各氏が台頭。
BC453  趙・韓・魏、協力して智氏を滅ぼし、独立、晋を分割。
■前4‐3世紀、半島で鉄器使用。燕の明刀銭分布→燕の満の建国との関連。この頃より半島では北方文化より中国文化の影響が強くなる。
BC403〜221 趙・韓・魏、正式に諸侯となる[戦国時代]
BC386  斉、田和のクーデタ。
BC371 馬陵の戦い:斉、魏を破る。
BC359 秦、 公孫鞅(こうそんおう)の改革(変法):民を五戸一組に分け、相互に監視させる。法を暴力的に強制。
BC352 秦、 魏に侵攻。
BC350 秦で公孫鞅の第二次変法:父子兄弟が一つの家に住むのを禁止、区画整理、度量衡統一。
BC341 斉、 魏を破る。
BC340 秦の公孫鞅、 魏に侵攻。
BC338 公孫鞅(商鞅)反対派から追われ殺害。
BC318 韓・趙・魏・燕・斉の五国とともに匈奴ら連合軍、秦を攻撃するが惨敗。
BC316 秦、蜀(古蜀)を滅ぼす。
BC307 趙の武霊王、胡服騎馬軍隊を編成。
BC300 このころより月氏、タリム盆地で活動。カッシート、チベット、モンゴル系か?/朝鮮半島に鉄器。辰国(扶余系)→のち列島へ?
BC277 高句麗建国
BC286 斉、宋を滅ぼす。
BC260 長平の戦い:秦、 趙を破る(戦死5万,坑刑40万) 趙の平原君、魏楚に救援。
BC256 秦、周を滅ぼす。ディドトス反乱しバクトリア王国を建国。北のソグディアナ、西のマルギアナを併合。
BC228 秦、 趙を滅ぼす。趙の公子嘉、代に移り、代王を名乗る。
BC222 秦、燕を滅ぼす。
BC221■秦による統一。斎、滅ぶ。斎(江蘇省)の徐福ら三千人、山東半島の連雲港を出、朝鮮を経由し、日本列島へ。平原広沢の王となる。
BC214 朝鮮王否、秦に服属。その子(箕準)準王の時代には燕・斉・趙より半島へ亡命者増加、王は西方に居住させる。
BC209匈奴の冒頓単于、クーデタで父頭曼単于らを殺害。東胡王、馬や土地を匈奴に要求、争い、匈奴に滅ぼされる。東胡の残党は烏桓(BC1世紀-AD4世紀)、鮮卑(BC1世紀-AD6世紀)、柔然(5世紀―6世紀)となっていく。
BC206 楚漢戦争(-BC202)。前漢興る。劉邦による。匈奴の冒頓単于、東胡を滅ぼす。(烏桓山に逃げた勢力は烏桓・烏丸といい、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑といった)また、月氏へも侵攻。
BC200 冒頓単于、40万で代へ侵攻。代王、韓王信を寝返らす。白登山で漢の劉邦軍を破る。漢、匈奴に朝貢。
/北部九州で
BC195 燕の衛満,半島に亡命。
BC194 衛満、逃亡民勢力とともに王権簒奪、半島北部に建国。
BC176 冒頓単于、再び月氏を攻撃。月氏、西のイリ地方に逃走(大月氏)。一部は甘粛省と青海省に残り、小月氏とよばれる。
BC175 バクトリアのデメトリオス、印のパンジャーブ侵攻。本国をエウクラティデスに奪われる。
BC162 冒頓の息子・老上単宇によって、月氏の王殺害。そのご月氏は西のソグディアナに逃れ大夏を滅ぼし大月氏国をたてる(大夏はバクトリアかスキタイ系のトハラ人の国か)。/デメトリオス、エウクラティデス軍に敗死。バクトリアは北西インドのグリーク朝と分裂。
BC130 前漢の張騫が対匈奴戦のため大月氏に同盟を求めるが、大月氏は断る。/大月氏、バクトリア征服、トハラ国へ。
BC128 衛氏朝鮮に反対する濊(かい)君(くん)南(なん)閭(りょ)ら28万を率いて遼東郡に降る。武帝は滄海郡を置いて支配しようとするが三年で失敗(南(なん)閭(りょ)ら漢への服属も中止か)
BC108 満の孫の右渠、漢への朝貢をせず、また真番諸国の朝貢を妨げたため、漢、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡設置(他侵攻の原因には匈奴との連合を防ぐこと、朝鮮が発展したことを怖れたため)→衛氏軍の一部、南下。この頃、茶戸里遺跡で筆・刀子が使用。
BC100頃 青銅器・鉄器日本へ。北九州・山口で青銅器細形短剣出土。
BC75 楽浪で人口40万人。
BC57 新羅興る。
BC50? 扶余国
BC37 高句麗、朱蒙(チュモン)によって建国。
BC18 百済興る。
BC2大月氏国の使者伊存(いそん)が中国の景蘆に『浮屠教』を口伝、最初の中国への仏教伝来。
8年 王莽、新を興す。
12年 王莽、高句麗に匈奴出兵を要求するが、高句麗王スウが拒否したため高句麗に侵攻。半島の諸族が反乱。中国周辺の諸族は統一はされていないが、場合によっては中国の権力への反対運動で団結する。範囲は極めて広大で、匈奴から西の羌(きょう)・氐、南の滇(しん)・閩までに至る/新(8 -23)の貨幣=貨(か)泉(せん)、一支国、伊都国ほかで出土。(志摩町御床松原遺跡、原の辻遺跡)
25年 後漢、新を滅ぼす。
27年  高句麗、北沃沮(よくそ)接収。
30 楽浪郡の中国系豪族王調が反乱。後漢、内政自治を認める。
42  南越でハイ・バ・チュン(徴姉妹)の乱(当時南越は女系社会か)
44 半島南部の韓人の廉斯の人蘇馬諟(そばし)より楽浪へ朝貢。
57   奴国王、後漢に遣使。半島南部の倭、韓族の朝貢。(井上p44)
100 大月氏国でトハラ人のクシャーナ朝に変る。中国ではこのクシャーナ朝も大月氏とよぶ。
105   高句麗、遼東侵攻。中国の蔡倫、紙を発明。
107   倭面土国王、後漢に遣使。倭国王帥升、後漢に遣使。
111 扶余、楽浪へ侵攻。
118 高句麗、楽浪・玄と郡に侵攻。
121-2 高句麗、馬韓や濊(わい)貊(はく)らとともに遼東郡の玄と城を攻撃。このとき扶余は遼東側につき、高句麗らと戦う。扶余と高句麗は元は同一種族であるが、この頃は互いに牽制しながら遼東平野への進出を目指していた。
146-189倭国大乱(『後漢書』『隋書』)
167 扶余王の夫台は二万で玄と郡に侵攻するが失敗。後漢書の記述はこの年まで。以後は三国史や魏書。
168 鮮卑族・濊(わい)貊(はく)族が河北省北部に侵入。
169 度(たく)遼(りょう)将軍橋(きょう)玄(げん)の支援で玄と郡、高句麗を破る。
172 高句麗は自律し、遼東郡と対立。遼東軍、高句麗へ侵攻するが、失敗。
173  卑弥呼、新羅に遣使。
178-184倭国大乱あるいは卑弥呼即位?(『梁書』『北史』)
<200年代 倭国で古墳文化>。
190 高句麗、公孫度に従い、富山討伐軍を派遣。
197 高句麗の故国王、没。発(はっ)岐(き)と延優の兄弟、争う。当時継承はモンゴル的なクリルタイ方式:五部族による選挙。兄発(はっ)岐(き)を支持するのはケン奴部のみだったが公孫氏に救援を求め王位につく。弟延優と四部は新国を建国。のち高句麗は新国に吸収され、新国が高句麗を名乗る。それゆえ高句麗の政治体制は五部(ケン奴・絶奴・順奴・灌奴。桂ろ部)構造。
204、楽浪の公孫氏、楽浪郡南部を分割し、帯方郡とし、南部の韓・倭族を支配。
220 魏、後漢を滅ぼす。
233年10月 公孫淵、呉の使者を斬り、魏への忠誠を示す(呉が遼東の公孫氏と国交すると、背後を脅かされた魏は公孫氏の両属政策を非難したため)。この時呉の秦旦ら高句麗に逃れる。高句麗の東川王、呉と同盟をむすぶ。
236、7月、高句麗、呉の使を斬る。
237 魏、幽州の毌(カン)丘倹(キュウケン)に高句麗討伐を命じる。公孫氏を襲うが撤退。
238、8月、毌(カン)丘倹(キュウケン)、遼東半島の公孫淵を滅ぼす。魏、後漢以来放置されてきた二郡を復活するとともに、東方民族とむすび呉に対抗する戦略。
239、邪馬台国、難升(なし)米(め)と都市牛利らを帯方郡と魏に遣使。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では(238年))。
240 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受。
242  高句麗、魏に侵入。
243  邪馬台国、魏に朝貢。倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
244 毌(カン)丘倹(キュウケン)、高句麗侵攻、王都丸都城陥落(なんらかの理由で魏と高句麗とが対立)。邪馬台国の掖邪狗
245(正始六年)毌(カン)丘倹(キュウケン)、高句麗を攻め、粛清に至る。東川王、ハム鏡南道まで逃れる。
韓人、魏に抵抗。難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
246 帯方郡を通じて難升米に黄幢(旗さし)を仮授(帯方郡に保管)
247 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。卑弥呼没(『梁書』では正始年間240- 249に没)。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千余人が死んだ。 卑弥呼の宗女・台与=壹与を十三歳で王に立てると鎮定。女王壹与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
248 邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政、倭国へ。
261 韓人、魏に朝貢。
265(泰始元年)司馬炎、晋建国。『晋書?』:邪馬台国?からの最後の入貢。
266 倭女王壱与、晋に遣使。(「晋書」)
280 西晋が暫し統一するが、以降、300年に渡り戦乱が続く。
286 高句麗、帯方郡を襲う。
289 三国志の『魏書』編纂。

294 鮮卑の慕容廆(カイ)、高句麗の大棘城を占拠。
300 西晋で八王の乱
■<4世紀 倭国は半島より鉄輸入>
312 扶余系の高句麗、楽浪郡を滅ぼす。韓族・ワイ族、帯方郡滅ぼす。
319  高句麗、慕容廆を攻め敗れる。
331 高句麗美川王没。
336 前燕より冬寿が高句麗に亡命。以後、中国の文化・文字、高句麗に普及。
346  百済建国。
355  高句麗、鮮卑系の前燕に服属。※4世紀 倭国は半島より鉄輸入 
※5世紀 経済発展を遂げた倭国、鉄資源を求めて半島進出
364 4月倭、新羅侵攻。
366(神功46)倭国、斯摩宿禰(しまのすくね)(シマ国)を伽耶諸国の卓(とく)淳(じゅん)国に派遣。百済の肖古王と正式に国交開始。肖古王より鉄テイ40枚が贈与。宗像君が対外交渉に関与、また沖ノ島祭祀を開始。
367  百済の使者、来倭。
369 倭国軍、百済と通じ、新羅を破る。倭国、氏族社会。/高句麗、百済を攻め、敗れる。
371  百済、高句麗の故国原王を殺す。
372 前秦の僧・順道が高句麗に仏像・経文を伝える。百済の久氐ら、倭に七支刀を奉献。
391  倭国軍、百済・新羅を破り、臣民となす(碑文)。
392  高句麗南下。
393 倭、新羅王都包囲。新羅奈勿王、挟撃で倭を破る。
397 百済、阿莘王の王子腆支を人質に倭に送り、国交を結ぶ。
399  百済、高句麗を裏切り倭と通ず。倭、新羅侵攻。新羅、百済に求援(碑文)。
■< 5世紀 経済発展を遂げた倭国、鉄資源を求めて半島進出>
400 倭人、新羅王都の金城占領。高句麗の広開土王が兵力五万で新羅を助け、倭軍と戦う。倭軍は任那・加羅に退く。高句麗、伽耶まで侵攻(碑文)。
402 2月新羅奈勿王、没。その子未斯欣、人質として倭へ。
404 倭国軍、帯方郡まで侵攻、高句麗と戦争(碑文)。腆支、倭により百済王として即位。
※倭の五王、中国に朝貢→渡来人増加。
※五世紀中葉、対国内「治天下大王」と呼称→中国王朝と異なる別の天下:小中華主義
※部(べ)民(みん)制・氏姓(うじかばね)制度=ウジ組織。雄略天皇VS諸王
※五世紀中葉、国内で「治天下大王」と呼称→中国王朝と異なる別の天下
413 倭国、晋に朝貢(「晋書」)
414 高句麗、広海土王碑を立碑。また中原碑も。
420  倭王讃、宋の武帝より除授。/430 宋に朝貢。/438  倭王珍、宋に朝貢。安東将軍の号を得る。/443 倭王済、宋に遣使。
450 高句麗、新羅征伐。
456 , 8月 安康天皇、眉輪王派に暗殺。大泊瀬皇子、八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子 ・眉輪王、市辺押磐皇子・御馬皇子を殺害し、11月に大王になる。(市辺押磐皇子の子億計・弘計、逃亡)平群 真鳥、大臣に。
460・462 倭王興、宋に遣使。
463 吉備氏の乱:任那に出兵していた吉備田狭、新羅と結託し、朝廷に反乱。雄略が田狭の妻稚姫を奪ったため。(のち稚姫は雄略の子星川稚宮皇子を産み、雄略死後に、星川皇子の乱を起す。吉備田狭ら水軍40艘を率いて来援するが、皇子敗死により戻る)
464,2月 任那日本府軍、高句麗を破る。
465,5月 倭国軍、新羅に侵入。紀小弓宿禰が戦死し、敗走。(「新羅本紀」では462,5月に倭、新羅の活開城を落とし、463,2月にも侵入したが、倭を撃退。
469  雄略、 播磨の文石小麻呂を討伐。
471 稲荷山古墳鉄剣銘文:獲加多支鹵大王=大泊瀬幼(おおはつせわか)武(たけ)=雄略天皇。
474  雄略、伊勢の朝日郎を討伐。
475,9月高句麗南下、百済王を殺害、百済陥落し熊津に遷都。(このころ高句麗は遼東半島、満州も領有)→倭にとっては鉄輸入減少。ヤマト王権混乱。
477,雄略、百済に任那を与える。
478  倭王武、宋に遣使。
479 星川皇子の乱。4月百済の三斤王が没。入質の昆支王の次子未多王を筑紫兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。8月雄略、没。
481 億計・弘計、発見。
482 億計、皇太子に。
484 清寧天皇没。
485 弘計,顕宗天皇に(-488没)。
488 億計、仁賢天皇に。
493 高麗へ日鷹吉士を派遣。
494 小泊瀬稚鷦鷯皇を皇太子に。
498, 8月仁賢天皇没。平群真鳥、政権を握る。11月、大伴金村と平群真鳥を討伐。武烈天皇に(10才)。
■<6世紀 継体天皇により統一、磐井の乱(新羅軍との連合軍)。以降、対外志向弱まり、内向化・内政強化>
500,9月 11才の武烈天皇、猟奇行動。
502 、梁の武帝、倭王武(雄略)に征東将軍に進号(「梁書」)
503 新羅、迎日冷水碑を立碑。和歌山・隅田八幡宮人物画像鏡。
507,1月 武烈天皇、没(武烈は雄略の部分伝承で非実在とも)。大伴金村ら、越前の大迹王に推戴。継体天皇へ。
512 大伴金村、伽耶四県を百済に割譲。
513  百済、五経博士を献ず。
520 新羅、律令制定。
521 百済、新羅を伴い梁へ遣使。
524 新羅、蔚珍鳳坪碑。※蔚(うる)珍(ちん)は秦氏の故郷。
526 大倭(のちの大和)に遷都。百済へ救援軍、派遣。
527  磐井、新羅と結び反乱。以降、対外志向弱まり、内向化・内政強化。磐井の子・葛子が糟屋の地を献上。那津、筑後、豊、火国に屯倉(みやけ)(官家)を設置。肥(ひの)君(きみ)を志摩に派遣(肥(ひの)君(きみ)は肥後南部出身)
532 伽耶金官国、新羅に投降。
536 那津官家修造。(対新羅)
538 百済王、倭国に仏像と経文を献ず→廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏とが対立。百済、扶余遷都。
539 欽明天皇、即位。
540 大伴金村、失脚。以後、物部氏と蘇我氏の二極体制。
544  粛慎人、佐渡に来る。
545 新羅、丹陽赤城碑。552(または612)新羅、壬申誓記石を立碑。
553 新羅、百済から漢山地域を奪取し、新州を設置。
554  百済聖王、新羅と戦い敗死。倭、高句麗に軍隊派遣(『三国史記』)
556(欽明17)正月、百済王子恵を本国へ護送するため、筑紫火君(嶋郡の肥君か)ら千名派遣。
561 新羅、昌寧碑。新羅、安羅の波斯山に築城し、倭軍に備える。
562  新羅、伽耶を滅ぼす。倭、新羅侵攻:新羅、白旗を立て欺く(書紀、新羅本紀)。
564 新羅、北朝の北斉に朝貢。
568新羅、南朝の陳に朝貢。磨雲嶺碑、黄草嶺碑、北漢山碑を立碑。
577 百済の扶余で王興寺建立
578 初の官寺 四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より三人の宮大工を招聘(内一人が金剛重光で、最古の企業・金剛組の創業者)
581  隋による統一。高句麗遠征を4度→弱体化
585 用明天皇、即位
586高句麗、長安城(平壌)に遷都。
587 用明天皇没、蘇我馬子/厩戸皇子との武力闘争で物部氏滅ぶ。/蘇我氏か百済の客(元興寺縁起)が、法興寺(のち飛鳥寺)建立を計画
588  百済より技術者を呼び、 法興寺建設開始。
589 隋、270年振りに中国統一→高句麗・新羅、倭国とむすぶ
※律令制:王土王民による統治。均田制で土地を百姓に配給また律令格式に基づく精緻な官僚機構が構築。律令制は日本、新羅、渤海、吐蕃も導入。
591、紀・巨勢・大伴・葛城の四大将軍、筑紫に派遣。
592 蘇我馬子、東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる。推古天皇を擁立。
593 四天王寺創建。
595 高句麗から僧慧慈が来日。厩戸皇子に隋の官僚制と仏教国教化について教示。
600 倭、新羅征討軍。遣隋使:倭王、姓は阿(あ)海(ま)、字は天足彦(たりしひこ)。天を以て兄とし、日を以て弟となし:幽祭形式による祭政二重政権(鳥越04,179)
602 倭、新羅征討軍:将軍に来目皇子(聖徳太子の弟)。筑紫兵2万5千。来目、暗殺さるか→遠征は中止。百済、新羅侵入、敗れる。
603 冠位十二階
604 憲法十七条
607  高句麗、百済侵入、敗れる。倭国「日出處天子」と称し、後再び倭を称す。煬帝怒るが高句麗遠征のため諌めるにとどめる。法隆寺創建。
609(推古17)4月、肥後国葦北津に百済僧ら85人来着。
618 煬帝が殺害。唐が興る。
620 『国記』『天皇記』編纂
622 厩戸皇子,没。
623(627) 百済、新羅を侵す。
628 唐による統一
630 唐、突厥を破る。倭、遣唐使開始。
634 石国(タシケント)、唐に朝貢。
635 5月、吐火羅、唐に朝貢(吐火羅はタシケントの隣)(唐会要・初回遣使年次1)。
639 田村皇子、百済大寺を建立。
642,8月 百済、新羅の大耶城を攻める。金春秋、高句麗に救援、失敗し監禁、のち脱出。
643 百済、高句麗と同盟(麗済同盟)
644  唐、西域の高昌国を支配、高句麗を三度攻めるが(-647)失敗。
645 ,唐、高句麗侵攻。 6/11中大兄皇子(諱は葛城),蘇我入鹿を殺害。高向玄理(魏の曹操の末裔を自称する渡来人)、旻(日文)、国博士に。八省百官の制を立案。
647 玄理、訪新羅:「任那の調」廃止と引き換えに「質(人質)」差出し交渉。金春秋、来日(人質として:日本書紀25,孝徳3年)。
648 金春秋、唐へ救援。
649 玄理、八省百官を定める。
651 新羅の使者、来日、新羅が唐制に改めたと聞き、追い返す。巨勢徳多,中大兄皇子に新羅進軍を進言、採用されず。
653 難波宮から中大兄皇子らが飛鳥へ戻る(孝徳天皇は失意)
654 ,3月新羅の真徳女王没、 金春秋、武烈王として即位。/4月、吐火羅国4人、舎衛国女1名、来日(トハラかタイのドヴァラーヴァティか。舎衛はソグドか)。/5月、律令整備。玄理、長安で客死。宗像の尼子娘が大海人皇子の子、高市皇子を産む。
655,1月、新羅に高句麗・靺鞨・百済連合軍が侵入。新羅、百済の刀比川城を攻撃。
658  阿倍比羅夫、蝦夷征伐。
659 百済、新羅に侵入。斉明天皇、遣唐使。
660,3月 新羅・唐、百済討伐、7/16吐火羅の乾豆*波斯 達阿(カンドのダラーィ)欲歸本土、求請送*使曰、願後朝於大國。所以、留妻 爲表。乃與數十人于于西海之路」:ササーン朝最後の王族ペーローズとダラーィか。
7/18百済滅亡。百済レジスタンス;鬼室 福信・黒歯 常之ら、倭に滞在していた扶余豊璋を擁立し、倭へ救援。
661 斉明天皇、難波から九州へ出兵、邦の津にて急死(暗殺か)。5月安曇 比羅夫ら第一派、半島上陸。/ 新羅・唐、高句麗へ侵入、6月武烈王没。
662,3月阿倍比羅夫ら第二派
663,豊璋王、鬼室 福信を殺害。8/27-8白村江の戦い。新羅・高句麗・唐の連合軍(唐水軍は女真族)、倭・百済軍を破る。倭と新羅は殆ど直接戦闘せず。
→国政整備がすすむ→律令制導入:氏姓制度:統治技術として、「名前」が一般民衆(部民)にまで拡大:
664(天智3) 「甲子の宣」で複姓は消滅(例:阿部布勢、蘇我石川)
665 唐の劉徳高が戦後処理で来日。2千の唐軍が進駐。
666 唐・新羅、高句麗討伐。
667 天智天皇,大津京へ遷都、防衛体制を完成。
668 唐・新羅、高句麗を滅ぼす:この間の戦力を支えたのは伽耶の鉄。戦後、唐は新羅にも圧力。第一回遣新羅使
669 天智天皇,河内鯨を遣唐。新羅と旧高句麗、反唐蜂起。
670 国号を日本に更む(『三国史録』)。庚午年籍(最古の戸籍)/新羅、旧百済領に侵攻、唐軍を駆逐/第二回遣新羅使。
671 天智天皇,没(暗殺か)
672  壬申の乱。
675 唐と新羅、和睦により、新羅の半島統一。第三回遣新羅使676 第四回遣新羅使
681 天武、大宝律令編纂開始。第五遣新羅使。群馬県高崎市の山之上碑。
684  「八色の姓」。第六遣新羅使687 第七遣新羅使
690 契丹、暴動。
692 第八遣新羅使695 遣新羅使
698 高句麗遺民(粟末靺鞨人)の大祚栄、唐軍を破り震国を建国。
700 遣新羅使。那須国造碑。
701  大宝律令完成。倭国、国号を正式に「日本」とし(『旧・新唐書』には「日本が倭国を併合」)また天皇(てんわう:明治に-のう)と称す:唐の高宗(在位649-683)が道教由来の天皇(神格化された天の北極=宇宙の中心)を称し、死後は天皇大帝の諡(おくりな)を付与。
702 まだ無姓の者、族姓の者がいた※氏姓制度の緻密な浸透によって、人々は漏れなく国家身体に「登録」された。
703 遣新羅使704 遣新羅使706 遣新羅使
711 多胡碑(群馬県吉井町)
712古事記成立。遣新羅使
718 遣新羅使719 遣新羅使
720 日本書紀完成。この頃、薬師寺出土千字文木簡、平城京二条大路と長屋王家から出土木簡(変体漢文)。半島で雁鴨池遺跡出土木簡・鉄製鍵。
722 遣新羅使724 遣新羅使732 遣新羅使
735 新羅使、国号を「王城国」と改称した旨、日本に伝えると、無断で改称したことを責め、追い返す。
736 阿部継麻呂、新羅へ。冷遇され以後、暫く 新羅使を太宰府にとどめ、入京を許さず。
740 遣新羅使
742 遣新羅使
752 新羅王子金泰廉ら来日、入貢。遣新羅使
753 遣新羅使
756 怡土城築城開始(768完成)
759 恵美押勝、渤海と連合し新羅討伐計画。
779 遣新羅使
780 正規の遣新羅使を停止。
797 『続日本紀』
804 最澄、空海、菅原清公、唐へ
818 菅原清公、朝廷儀式・風俗の唐風化を建議。人名称を、二文字訓読みか一文字訓読みにし、女性の名前を「-子」という形式にすることを提言(例:坂上田村麻呂は四字→菅原道真のように二文字か、源信のように一文字)
■9世紀の藤原時代/臣籍降下(桓武から平朝臣、清和から源朝臣の氏姓が誕生)→律令的氏姓制度が破綻していく。>
845 唐・道教に傾斜した武宗が会昌の廃仏:仏教・マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派弾圧。
892 甄萱(けんけん、キョンフォン)、挙兵。/900 甄萱、後百済建国。
901 弓裔、後高句麗を建国。
907 唐が滅亡する。五代十国時代にはいる。
918 後高句麗の王建将軍、高麗を興す。/920 後百済、高麗と戦争。/922 後百済、日本に救援、拒絶さる
926 遼、渤海を滅ぼす。高麗、渤海遺民を吸収。
935 後百済、 甄萱長男の神劍の反乱。甄萱を幽閉。甄萱は高麗へ亡命。
936 高麗、後百済を滅ぼす。半島統一
939 日本で将門と純友が反乱をおこす。
960 宋が成立。 日本は平安中期。国交なしか。
993 契丹、高麗に侵入。
1004 喫丹の遼による侵略
1010 契丹、高麗に再侵入。1013,1015にも再侵入。
1018 契丹10万軍、高麗侵攻。高麗14万軍勝利。
1019 女真、日本侵攻(刀伊の入寇)
1107 女真、高麗侵攻。1115 女真、金を建国。
1125 宋、金と同盟し遼を滅ぼす
1126 南の宋と北の金に分裂(南北朝時代)。日本は源平の対立。清盛による日宋貿易。
1145 高麗で「三国史記」完成
1220 チンギス、ソグディアナ再建のため行政機構整備
1221 承久の乱:後鳥羽上皇、鎌倉幕府に対して挙兵。上皇は配流、後鳥羽の兄・守貞親王を新天皇とする(武家による天皇廃位)。以降、幕府に無断で行われる皇位継承は無効とされる→1629
1223 倭寇、高麗沿岸を侵す(新羅末期の動乱期には半島人が日本を侵す)
1225オゴディ「帝国の征服は馬上でできた。だが馬上では統治できない」→行政機構整備・外国人官僚の登用
1231 モンゴル、使節遭難で高麗侵攻。江華島で3年抵抗→半島は荒廃。
1234 モンゴル、金を滅ぼす
1235 オゴディ=ハン、南宋とキプチャク草原・欧州方面への二大遠征を決定。交通環境整備→商業・金融の発展:パクス・モンゴリカ:相対的に平和と安定。:法制度整備・信教の自由→1260 カトリック活動開始。1281フランシスコ会中国で布教。元は厚遇するが、ネストリウス派と衝突。
1247 モンゴル、高麗侵攻。
1246  天皇家、皇位継承を巡り、大覚寺統と持明院統に分裂(→幕府仲介で交互即位へ)
1259 モンゴル、高麗を服属
1270 三別抄の乱:モンゴルへの高麗抵抗。
1271 クビライ、大元ウルス建国。救貧政策。
1273 三別抄の反乱者、済州島で抗戦、鎮圧さる。
1274 モンゴル、日本侵攻:忠烈王、日本侵攻を積極的に提言。
/81 元寇:太宰府からの蒙古牒状を朝廷の院権力は幕府に委ねる:天皇による外交権の自発的な放棄。
1301 大元ウルス、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン朝の連合王国体制へ(モンゴルは同化政策をとらず、言語を属国に強要せず)
1321  ◆大覚寺統の後醍醐天皇、親政開始→1331 後醍醐挙兵。幕府、後醍醐を廃位し、隠岐に流す。
1333 名和一族によって島より脱出、伯耆船上山(鳥取)で倒幕の綸旨発布=挙兵。幕府から派遣された尊氏、後醍醐側に寝返り、鎌倉幕府滅亡。建武の親政:中国的な天皇専制を目指す。
1335  尊氏、恩賞を巡り離反、持明院統の光厳上皇を擁立[北朝]、後醍醐、吉野へ→南北朝動乱は王権の形態(親政か院政か)を巡る争いでもあった。
1350 倭寇、活発に。
1351  紅巾の乱(白蓮教;弥勒下生:終末論・メシアニズム的・ミトラス教系・革命思想)
1352  南朝軍、光厳上皇を拉致。幕府、受禅儀式を行うために弥仁の祖母を「治天の君」と見たてる→天皇を欠いたままでは、権力の正統性立たず。
1354 近江土一揆。
1368 ◆朱元璋、大明を興す。大元ウルスは北走(以後、北元)→モンゴル帝国の終わりでなく、イラクのジャライル朝や、1370に建国されたティムール朝(後身ムガル帝国1526-1858)など、様々な継承帝国が続く。
文字の獄:光・禿・僧などの文字を使うとあてこすりとして処刑。文人・功臣粛清は朱の死まで続いた(〜1398)。
1372明、海禁。私貿易を禁じる
1380 クリコーヴォの戦い:キプチャク=ハン帝国からのロシア独立運動開始  1385 ポルトガル王国、カスティーリャ(スペイン)から独立
1388  高麗の武将李成桂クーデタ。 
1387  朱元璋、北元をほぼ壊滅する。
1393  高麗、滅ぶ。李成桂、朝鮮を建国[李氏朝鮮]。
1395 ◆義満出家、法皇に擬し、綸旨を上回る御教書を発給:武家による皇位の簒奪。義満は百王思想を意識、また朱元璋を憧憬。皇位簒奪は死によって挫折(暗殺か)
1415  ポ、モロッコのセウタ攻略。エンリケ航海王子
1419 応永の外寇:李氏朝鮮、対馬侵攻。
1428 1月籤で義教将軍跡目。9月正長の土一揆(日本開闢以来とされる)
1438  後南朝・大和土豪・関東公方ら連合し、永享の乱:義教、朝敵征伐の「治罰」の綸旨を得る:天皇権威の復活。治罰綸旨の復活は極秘にされたが(幕府の権威にとっては問題)、義教が赤松満祐に暗殺され(1441)、赤松討伐に治罰綸旨が適用。以後、天皇の名による平定戦争(秩序回復)が定着。
1453 オスマン、東ローマ帝国を滅ぼす。
最終更新:2009年12月12日 23:42
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