第八話

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*[[BACK>紺沌のナミダ]]  ----   第八LV <ラグナロク・アゲイン>      聖暦3353年 -霜月 十四日-  全くもって、非常に恥ずかしい話なのだけれど。  僕、ティルミン・レラは丸一日以上、部屋に閉じこもっていたのだという。  兄さんへのアプローチが失敗し、生きる屍のようになっていると時間の経つのも早かったようだ。  まず、ブリュッセン城の広さが災いした。  次に、通信を完全に遮断していた僕が悪かった。  部下のメイドシミラー達が、解錠にいちいち難儀しながら、僕の居る部屋を特定するまで半日かかり。  そこからテコでも動こうとしなかった根性の悪さが、僕をさらに引きこもらせた。  その間、聖成もせずに飲まず食わず。  時間の感覚無く、マイクロコンピューターをいじる気力無く、心身ともに参りきった僕が、ようやく倒れ込むようにして扉を開けたのが…… 十四日の早朝だったというわけ。  僕は最も信頼の置けるマロンとメロンを、喫茶店を模した食堂(もちろんブリュッセン城の一室である)に招き、 これまでの経過を聞くことにした。  とても狭いテーブルを三人で囲い、話を始める。 「……わたくしは、お嬢様に謝らなければなりません」  今日も清掃員の身なりをした、長い金髪の娘メロンは、まずそう言って深々と頭を下げる。  僕は聖成したサンドイッチをほうばりながら話を聞いている。 「……お嬢様とアシュレイ様から、わたくしは“ヒトミ・ラクシャーサ”の調査を命じられました」  兄さんは、教会がヒトミの身体をあの後どうしたのか、とにかく知りたがっていた。  しかし僕にとっては、どうでもいいことである。  あいつが生きていようが、死んでいようが、兄さんが僕の側に居てくれるならそれでいいと、最初はそう考えていた。  ゆえに、情報屋トレマルという逸材の起用を許さなかった。  兄さんと、本人を説得し、メロンを派遣するに留めたのだ。 「……お嬢様は、わたくしに期待されていなかったのですね?」  まぁ、そういうことになる……  僕はそのことで非難されるかと思ったけれど、実際に恐縮し続けたのはメロンのほうだ。 「……すみません。わたくしったら、身の程をわきまえず……色々しでかして」  めそめそと泣き出してしまうメロン。  マロンは、複雑な表情で僕らを見比べていた。  僕はわざとらしく咳払いをすると、メロンを問いただした。 「実際、メロンはどういうことをやったんだ?聞くところによると、大けがをして帰って来たそうだけど」 「……全て、わたくしの不甲斐なさが原因ですわ……」  ひと呼吸おいて、メロンは語り出す。  教会議員のロカセナに片っ端からハッキングを試み、幾つかの重要情報を引き出したという。  ヒトミらしき女が、教会本部に現れたらしいこと。  さらに、近々その女が、何らかの任務を帯びてラングフルク近くを訪れるらしいこと、などを。  僕は眼を丸くした。 「メロン一人で、調べ上げたの?」 「……いいえ。手伝ってもらいました」  メロンの隣に座るマロンが、何やらにこにこ笑っている。なるほど、そういうことか。 「それで、大けがを負った理由は、どうしてなんだい」  僕はサンドイッチを食べ終わったので、食後のコーヒーを飲み始める。  ごくごくごく。  喉を流れゆく、飲料水。 「……はぁ。実は。五体満足のヒトミさんを本当に見つけてしまいましたので、  なんとか交戦し、討ち取ろうとしたのですが」  僕は口から黒い液体を盛大に吹きながら、椅子ごと後方へ倒れてしまった。 「あぁ、お嬢様!」  マロンに起こしてもらいながら、起き上がるなり僕は言った。 「メロン!いくら君がけっこう強いからって……あの女に実戦で勝てるわけないだろう!」 「ご、ごめんなさい!」  再びメロンは泣き出してしまう。  僕は溜め息をつくが、マロンは僕に対して少し怒っているようだ。 「お嬢様。メロンお姉ちゃんは、お嬢様のことを考えて、すごく頑張ったんですよ」  だからって。  手放しで誉められるようなことでもないし……  僕が憂鬱な顔をしていると、それをまたマロンは何か勘違いしたらしい。 「お嬢様!」  両方の拳をテーブルに叩き付けて、マロンは意気込む。 「な、なんだ?」 「アシュレイさんも奪われちゃって。このままで、いいんですか?」   兄さんを、奪われて、か。  そういえば、先ほどから幾ら城内をアイカメラでスキャンしても、兄さんのシミラー反応が見つからない。  僕の言葉を真に受けて、本当に出て行ってしまったのか。  今度は僕の表情をちゃんと拾い、マロンは言った。 「アシュレイさんなら、トレマルさんと、ラングフルクのコロッセオに向かわれましたよ。  アシュレイさん、またここに戻ってくると言っておられましたけど、どうだか」  マロンにしては、ずいぶんと素っ気ない口調だった。  僕はマロンの話に少しだけ興味を覚えたので、さらに尋ねてみた。 「トレマルは、どうしてコロッセオに?ひょっとして、またあの理由?」 「そうです。娘さんが、闘技に参加されるとかで」 「親バカか…………で、兄さんのほうの理由は?暇つぶしかな」  すると、マロンは待ってました、とばかりに笑顔になった。 「ヒトミさんに、逢いにいったんですよ」 「———————————何だってぇッ?」  僕は、椅子から立ち上がって叫んだ。  マロンとメロンは、椅子に座ったまま僕を見上げている。 「アシュレイさんってば、お姉ちゃんからヒトミさんが生きてることを聞くなり、慌てて飛び出しちゃって……」  ねえ。と、顔を見合わせるマロンとメロン。 「で、でも、どういうことなんだ!ヒトミと逢いに、コロッセオって!」 「……それは。こういうことです」  メロンが服のポケットから取り出し、おずおずと差し出して来たチラシを、僕は夢中で広げた。  チラシには、ラングフルク中央コロッセオで、“ネオ・ミズガルズ(新人類世界)”と題されたイベントがあると紹介されていた。  しかも今日の午後、これから開かれるらしい。  内容は、祝宴として日頃の一般参加型闘技。ゲストは案の定“黒騎士”。  さらに、教会と反教会機構の、親睦会を行う、だって?  そして教会側の代表者は、ヒトミ・ラクシャーサあ?  僕は、もう一度倒れそうになった。  衝撃ががくがくと身体を伝い、持っているチラシまでぶるぶると震わせてしまう。 「な、なんなのこれぇっ!」 「お嬢様。仮にも反教会機構の一員として、それくらい知っておきましょうね。まあ発表されたのはつい最近なんですけど」  マロンは、妙にすましている。  なんだかマロンじゃないみたい。  続いて、メロンが控えめに言う。 「……あの、お嬢様。いかが致しましょう。お嬢様も、参加してみては……?  お兄様の見ている前で、ヒトミさんと雌雄を決するチャンスもあったりするわけですが……ヒトミさんも、闘技に出るようです」  僕は、身体中の血が沸き上がるのを感じた。  どうやらこれは、ヒトミに恥をかかせてやろう、だとか。  兄さんを死ぬほど困らせてやろう、だとか。  もの凄く陳腐な想いが最大加速してしまったものだと思う。  でも、そんなもので、良いのではないか?  僕は自分で自分に言い聞かせ、声高らかに、叫んだ。 「出る!このイベントに、僕も絶対参加するッ!」  僕の言葉を聞いて、さも嬉しそうに顔を見合わせるマロンとメロン。  二人も椅子から立ち上がると、マロンのほうは部屋の扉へと向かう。 「じゃあ、お嬢様は反教会機構“ラグナロク”の一員として参加してきて下さい。  マロンはこれから、コロッセオと教会本部に話をつけてきますから」  そう言って、マロンは出て行った。  ……今マロンのやつ、何かとてつもないことを言わなかっただろうか。 「……いかがなされました、お嬢様」  食器の後片付けを始めようとしたメロンに、僕は疑問を口にした。 「コロッセオのほうはともかく。教会本部と話をつけるって———————そんなこと、出来るのか?自信満々だったけれど」 「……大丈夫ですよ」  メロンは、太陽のように微笑んで言った。 「……マロンは、とても人付き合いが良いですから」  かくして、僕のブリュッセン城がラングフルク北に設けられた臨時空港に不時着しても、問題は一切起こらなかった。  青い服で統一された教会議員達に歓迎されながら、僕は他の反教会機構の人間達と、車に乗り込む。 「いってらっしゃいませ、お嬢様」  大勢のメイドシミラーに見送られ、僕はラングフルクのコロッセオへと向かった。  ……本当に、どうしてこんなにあっさりとしているのだろうか。  マロンがどういう手品を使ったのか、車の座席で腕を組んで考えたが、ついに分からなかった。  車はそのままラングフルク市街へと入り、大勢のシミラーによる混雑で少し時間を取られつつも、  特に何事もなくコロッセオの正面に辿り着いた。  入り口は、数百メートル先である。  教会議員の運転していた車は、別のゲストを迎えに行くのであろう、早々に立ち去った。  僕と同乗していた反教会機構の人間も、仲間同士で喋りながらさっさとコロッセオへ向けて歩いて行く。  僕もぶらりと、彼らのあとを追った。  ここへ来るのは初めてではないが、高さ十メートルの大きな正門はいつ見ても迫力がある。  柱の至る所に闘神が彫られ、ここがどういう場所なのかを雄弁に物語る。  今日が晴天ということも手伝い、日光をふんだんに浴びる石造りのコロッセオの姿はいっそう素晴らしい。  僕はしばし、景観に魅入っていた。  ……と、そこへ、大声が聞こえてくる。  「こらこら!そこの燕尾服のお嬢さん。通り道で立ち止まってはいけませんよ」  コロッセオの中から現れた、感じの良さそうな青年議員に指差され、僕ははっとする。  門へ向かう通路は横に広く、一度に大勢の人間が絶え間なく歩いていたが、僕はそのど真ん中に突っ立っていたようだ。  気付けば、周囲に凄まじいざわめきと人の数。景観に見とれていたのが仇となった。  僕は慌てて横へ突っ切り、草むらの所まで移動した。  笑いながら、先ほどの青年議員が近付いてくる。 「大丈夫ですか?立ち止まっていると、何より貴方が危ないですからね」  がっしりとした体格だが、声は意外と高く、聞き心地の良い声だ。  僕はすみませんでした、と謝罪した。いや、ありがとうと言ったほうが良かったのか。  いずれにせよ、日々医車狩りの憂き目に遭っていた僕が、教会議員と口を聞こうとは。  いくら今日が特別な日だからとはいえ、調子が良すぎないだろうか。  思わず、いぶかしんだ表情を相手に向けてしまったらしい。  青年議員は苦笑した。 「あっはっはっは。まあそう固くならないで下さいよ、“ティルミン・レラ”さん」  僕は、今度はぎょっとした。やはり、素性は知られているのだ。  青年議員はあくまで態度を変えず、頭を掻きながら言う。 「実はオレ、貴方を捕獲する担当の議員なんですよね。とは言え、別に貴方個人に恨みがあるわけではない。  エウレカに対してはともかく、貴方はシミラーを傷つけるようなことは極力しない。  だから僕も、今日は穏便にしようと思っています。ひょっとしたら、これからも、になるかも知れませんしね」  相手が話す最中、僕は何度か気が動転したが、どうやら相手の言葉に嘘は無いようだ。  そうやって相手を安心させる何かが、この男にはあるのかもしれない。  と、突然、男は両手を叩いて言った。 「あ、ちなみにですね。今日は闘技にも参加されますか?」 「えっ。……あぁ、一応そのつもりなんだけど……」  トレマルはともかく、兄さんは確実に参加するだろう。  そういえば二人とも、もうとっくに会場入りしているはずである。  僕は、急にコロッセオの中の様子が気になり出した。 「じゃあエントリーを急ぎましょう。観戦と違って、こちらには制限があるのです」  青年議員に手を引かれ、他の大勢の来場者と共に、コロッセオの中へと入る。  構造は単純なので迷う事はない。   円形の通路は基本的に一本道なのだ。  人込みのせいで歩くのには難儀したが、やがて通路の途中、何列にもシミラー達が並んでいる現場に遭遇する。  彼らの先には、テーブルを挟んで何やら紙に書き記しているシミラーが何人か居る。  あれは、名前を書いているようだ。 「人が多いので、あちらで臨時の受付をやっています。では、僕は見回りがあるので、これで」   青年議員は笑顔で礼をして去っていった。  最後に名前くらい、聞いておけば良かったかも。並びながらそう思う。  そして十五分ほど並んでいると、僕の順番が回って来た。 「はい、お名前と、規格は?」  ぶっきらぼうにそれだけ聞かれ、僕は言葉を失った。  別に、質問の内容に窮したわけではない。  質問を出した相手が、問題だったのだ。 「———————って、きさまレラじゃねぇかぁ!」  僕を間近で指差して絶叫したのは、銀髪の女、エリザだった。  よりによって彼女が受付担当者の一人だったとは……  よりによって彼女が受付担当者の一人だったとは……  結局、列の進行を少し遅らせてしまった。  エリザとは先ほどの青年議員と同等の会話がかなり乱暴に行われたが、どうにか殺し合いにはならず、抽選番号が書かれたプレートを頂いた。   番号は、「1」。  銀髪の女の陰謀を感じるが、「1」。  すなわち、本日最初に競技場で戦う、ということだ。  時刻はちょうど正午を過ぎた頃。  ラングフルクのコロッセオに、競技場を覆う屋根は無い。  僕は直射日光から、腕で眼をかばいながら、  ウワアアアアアアアア  凄まじい、もはや絶叫に近い大歓声を、肌でびしびしと感じる事が出来た。  僕にだけ向けられた歓声でないことは承知だが、四方の観客席全てから馬鹿でかい叫びがあがっているというのは、 何だか戦場で活躍していた頃に戻ったようで、心地が良かった。  実は、僕はいま、競技場中央の、大規模な石盤の上に立っていたのだ———————。  さらに。すぐ傍らには、ヒトミ・ラクシャーサが居る!  大舞台に、何故か、僕とヒトミの二人だけ。  ヒトミは怯えたような眼で僕を見ているが、それは、僕も案外同じであったりする。  決着をつける、はずだったのだが。 「ど、どうしてカッシュが居ないのよ!」  ヒトミは、完全に狼狽していた。 「カッシュって……司会者?」 「そうよ!痩せてて、蒼い髪で、金色の眼……もう、どうして来ないの!」   確かにプログラム通りに事が進むなら、最初にカッシュという男が現れ、簡単に挨拶。  次にヒトミが教会の代表者として、反教会機構の代表者である、黒騎士ミルドーレに花束を贈呈する——— という展開でなければいけない。  だが、競技場のどこにもカッシュの姿は無い。  もちろん、黒騎士の姿もだ。 「レラあ!どうして、どうしてあんたが今こんなとこに居るのッ!いまわたしを殺したいわけか!  両組織が和平の道を歩むって日にッ!」 「うぅ!」  さすがに、はいそうですとは言えない状況になっていた。  そもそも僕だって、闘技の開始は一時からだという認識だったのに、ある男に直接言われたものだから、 慌てて正午に間に合うよう飛んで来たのである。  多少は、弁解をしておくべきではないか。 「ぼ、僕はな!その、カッシュって男に、“今すぐ競技場へ行け”って言われたから来たんだよ!」 「……何ですって!」  周りが大歓声を送り続けているから、僕らはお互いに声を張り上げるしか無い。  そろそろ、客なり、係の者が異常に気付きそうなものだが……  早く 何か やれ  獣の姫ヒトミが、どっきりをやっているという見方が客席を包み込んでいるようだった。  前回、この場で首をはねられながら、今回はなんと教会議員として舞い戻った彼女に対し、過剰に好意的な解釈が行われている。  ヒトミはもう半泣きになりながら、抱えた花束を振り回していた。 「うわあああああん」  アドリブの弱さこそ、ヒトミの致命的な弱点だったのだ。  だんだんと観客の視線が痛くなってきたが、どうやら僕の目的は、直接手を下さずして達成されたような。  兄さんの姿は、一万を超える客席から見つけ出せないけど、この光景をどこかで見ている筈だし……  本当に、今日は素晴らしい日だ。  僕は、ヴァーチャルタイピングで場を盛り上げようか、などともはや別のことを考え始める。  僕が独りで満足していると、何やらまた、歓声が大きくなった。   響き渡る、黒騎士を讃える声。  見れば北の闘士入場門をくぐり、アイドルといっても過言ではない人気をもつ闘士がやって来るではないか。  黒い袴に、ビゼンを手にした少女は間違いない、アズキ・ミルドーレだ。 「いったい、おぬしらは何をやっているでござるか!既に、お偉い様方は怒り心頭であるぞ」  アズキは厳しい眼をしながら、つかつかと僕とヒトミに迫ってくる。  彼女にそう言われると、何だかいま聞こえている歓声も、全て自分は脅迫する内容に聞こえ始めた。  少しだけ、ヒトミの気持ちが分かった気がする。 「だいたい、貴様は何者か!」  アズキの持つ物干し竿、ビゼンが僕に突きつけられる。  僕はそれをはねのけると。 「お久しぶり、“ミッキー・チャリオット”」  と、彼女の本名を言ってやった。  するとアズキは、最初こそ面食らったものの、既に笑顔を浮かべて僕に抱きついてきた。 「医車!お医車殿でござるかぁ?」 「そうだよ。本当に久しぶりだね」 「あははははははは」  僕らは抱き合ったまま、くるくると回る。  ヒトミと客席は、突然の出来事に半ば呆然としている。 「—————あんた達、知り合いなの?」  ヒトミが恐る恐る、といった調子で尋ねる。  答えたのはアズキだ。 「そうでござる!昔、拙者が死にそうだったところを、助けて頂いたでござるよ」 「レラ。エウレカを助けたの?」 「まぁ、ね」  ヒトミの疑問に、僕はそっぽを向いた。 「そういうこともあるさ。だって、弱ったエウレカを後生大事に抱えて頼まれたんじゃ、断れないだろ」  アズキは、はっとなった。 「ひょっとして、今日は父上も来ているでござるか?」    父上とは、もちろん…… 「うん。今日だけじゃなくて、トレマルはミッキーが出る試合なら、いつも見に来てるよ」  アズキは眼を輝かせながら、客席をひとつひとつ探し始めた。  すっかり舞い上がってしまったアズキ。  結局、事態の根本的な解決には至っていない。  ばつが悪そうに突っ立っているヒトミに対し、いいかげん何か声をかけようと、僕が近付いた瞬間だった。  突然、空が。真っ赤になった。 「!」  コロッセオ中が、言葉を失う。  いきなり時刻が夕方になった?  違う。ときおりノイズを生じる赤い空、あれは、 「“ヴァイルス・フィールド”!」  ヒトミと僕は、同時に叫んでいた。  ある程度、ヴァーチャルタイピングに精通した者であるからこそ分かる。  だが、コロッセオを丸々包み込み、しかも効果が持続しているヴァイルス・フィールドなどとは……  全てにおいて、規格外である。  観客達だけでなく、僕ら三人も驚きを隠せない。 「これはいったい!……面妖でござる!」 「ヒトミ、教会が何かやったの?これ」 「わ、わたしが知るわけ無いでしょ!」     「ご名答。教会の仕業だよ—————」  そう言って、競技場へ新たに入って来たのは。  蒼いばさばさした長髪をもち、百八十センチ以上はある長身男。  獣のような金色の眼をぎらぎらさせている。 「闘士は戦い、己が夢のため汗と血を流す。それもまた、中略。  はい、コロッセオの皆様、御機嫌よう。これからのイベントを務めさせて頂く、カッシュ・ジワルドです」  カッシュが競技場中央へ足を踏み入れるなり、ヒトミはその男の胸ぐらを掴んでいた。 「おやおや。痛いな……ヒトミ君」 「—————カッシュ、どういうつもり!」  ひょっとするとヒトミは、進行の不手際のほうを問いただしたのかも知れないが。  カッシュはヒトミの手を払いのけると、今度は彼のほうがあっさりとヒトミを掴む。  それも、両手を一切使わずにだ。 「……えっ?」  見えない手によって背中を摘み上げられた、そのような姿勢で宙に浮いてしまうヒトミ。  カッシュはその状態の彼女を蹴り飛ばした。 「ぎゃん!」  ヒトミは大石盤上を地滑りし、レラとアズキのところまで転がって来た。 (獣の姫であるこの女を、—————楽々と!)  レラは戦慄した。カッシュという男、いったい何者なのだ?  観客達も、ただならぬ出来事が起きている事を感じ取ったらしい。  ざわめきには、怯えの声が混じっていた。 「はいはい、来賓の皆様、ご静粛に!」  カッシュはわざとらしく手を叩くと、響きの良い声を張り上げた。 「今日は皆様を、素晴らしき実験の場にご招待したい。教会と反教会機構が、共に新人類の礎を築くのです!  いま床に倒れているような、プロトタイプではなくてね!」  両腕を広げ、熱弁をふるう男。  誰もが言葉の意図を分かりかねる中、男は凄まじい早さでヴァーチャルタイピングを行った。  幾らなんでも、その動作が早過ぎる。加速装置でも使用しているのだろうか?  みるみるうちに男の周りには、十、二十、四十、百、二百、それ以上のディスプレイが出現する。 ■ダウンロードファイル名/ 「混沌の種」 ■ファイルパスワード /「CHOAS THEORY」 「さあァ、偽りの皮を破り捨てよ!エウレカども!」   カッシュは狂気の笑みを浮かべながら叫んだ。  直後のこと。  まず、アズキが突然頭を抱えて絶叫した。 「キャアアアアアアアアア!」  彼女はのたうち回るに、人としての姿をどんどん崩して行く。  全身から毛が生えると、体色が紫色に染まり、人間大サイズの狼へと変わってしまった。  その姿。エウレカ、である。 「なっ?…………アズキ!」   客席と競技場とで、アズキを案じる声がする。  しかし起き上がった彼女が発したのは、獣の咆哮だった。  地獄の底の音声を引き揚げたかのような、その恐るべき声は、コロッセオ中へ轟く。  客席には、エウレカであることを隠した反教の特殊シミラー達が居た。 「ウワアアアアアアアアアアアア」  彼らもまた、アズキのように、獣へと姿を変えて行った。  狼型、巨大昆虫型、猛禽型。  紫色のシルエットが、次々にコロッセオに出現し、客席のシミラーを襲い始める。  コロッセオはもはや大パニックに陥っている。  カッシュは高らかに宣言した。 「さあエウレカども。我らシミラーを進化させろ!第二、第三のロスト・アーカイブを生誕させるのだ!」  阿鼻叫喚の光景が繰り広げられる中、カッシュは、笑っていた。  レラはあまりの出来事に、すくんで動けない。 「うぐうう………ッ!」   ヒトミは強烈な頭痛に襲われつつも、まだ、人の姿を保っていた。  カッシュはヒトミのもとにひざまずき、妖しい言葉を囁いた。 「ふむ………頑張るね、ヒトミ。先日の試合で君の細胞と交わってしまったアズキは、あれほど簡単に変異してしまったのに。  やはり、喰われて臨死したシミラーがエウレ化するという事象は、究極生物を生むのだな………」  カッシュは声をあげて笑った。 「くひゃひゃひゃひゃ。しかしまったく、君も早く変異したまえ。究極生物である君がここで暴れれば、  生き残った者にどんな影響が出るのか。楽しみで仕方無いよ!さァ早く、皮を脱いでしまえ!」  容赦なく、靴でヒトミの頭を踏みつける。   レラはぺたりと座り込んだ姿勢で、後ずさりしていた。 「く、狂ってる………」   レラの、その小さな呟きが気に食わなかったらしい。  カッシュはいきなり真顔になると、今度はレラに襲いかかった。 「私は正常だ!この世で最も、崇高なる科学者だ!」  カッシュが足を振り上げようとしたとき、突如、客席で爆発が起こった。 「!」  炎に焼かれた無数のエウレカが競技場に立つカッシュのもとに降ってくるが、彼らは見えない何かに弾かれて周囲に落ち、 カッシュに被害が及ぶことは無かった。 「ほう。ようやくお出ましか。英雄アシュレイ」  カッシュが苦々しげに笑うと、客席から一気に競技場へと降り立つ、髪を逆立てた戦士の姿があった。  その眼は、手に持つ炎剣よりも、激しく燃え盛っている。 「兄さん!」  レラは、叫んでいた。  かつて、これほど禍々しい兄の姿を見ただろうか。  あたかもコロッセオが戦役当時の様相へと化けて行くなか、アシュレイの放つ殺気も、英雄と語られる以前のものだ。 「てめえだけは絶対に許さんぞ、カッシュ!」  一方、ヴァイルス・フィールドの影響で中央から隔離されたコロッセオの廊下では、難を逃れた教会議員と、反教会機構の人間達が 必死に動いていた。 「一瞬でもいい!なんとか、このヴァイルス・フィールドを消滅させられないか!」 「駄目です!内部からあまりに強力なロックがかけられています。中の様子を知ることも出来ません!」 「くそ……!」  闘士入場口、客席入口を抜け目無く覆う赤い壁に、教会議員ランディは苛立っていた。  教会本部に居るツォング議員に増援は要請したものの、今のままでは手をこまねいているしかない。  そんな彼をあざ笑う、銀髪の女が居た。 「中の様子が分からないですって?簡単、地獄よ」  「なに!……あなたは、オレの知るあいつじゃないな」  死神のような装束を来た女は、恭しく礼をする。 「ご名答。あたしはシスベリア。あの方の偉業を、側で観察する者よ」  あわただしくランディの部下達が行き交う中、ランディとシスベリアは対峙していた。 「あの方、とは誰だ」  くすくすと、シスベリアは微笑む。 「さて、ね。この赤い防壁が破られることがあれば、あるいは分かるかもね」  動物を愛でるようにヴァイルス・フィールドに触れ、身震いをする。 「あなたは不愉快だよ。向こうに行っててくれないか」 「ええ。言われなくても」  シスベリアは両手を後ろで組んで、コロッセオの出口へ向けて歩いて行く。 「ああそうそう。貴方の好きな娘は、いま、中に居るわよ」 「ッ?エリザのことか!」  ランディを振り返り、けたけたと笑う。 「まだ、頑張っているみたい。でも後、どれくらいもつかしらね……」  客席で、オリジナルのエリザは獅子奮迅の活躍をしていた。  襲って来た鳥型エウレカの翼をもぎ、落下させる。  アシュレイがカッシュを倒しにいってしまったので、ますます仕事が増えてしまっている。 (くそ!戦える能力のある闘技エントリー者が、ことごとく外ってのはツイてない!  ランディ、お前の先輩、悪魔のような奴だぜ!)  落下したエウレカを踏みつけてトドメを刺す。  パニックを起こし逃げ惑うシミラー達を、エウレカから守る力を持っている者は、ごく僅かだった。  その頃、アシュレイはカッシュに一歩、また一歩と迫っていた。 「くっくっく!英雄アシュレイ、大したものだ。我が結界の中にこうも容易く侵入するとはな……」 「ああ。空気読まずにとっとと来れば良かったぜ。いや……最初コロッセオで会ったとき、貴様の頭は殴っとくんだったな!」  アシュレイは、本当にカッシュに向けて殴りかけた。  カッシュは口笛を吹きながらそれを避ける。 「最初ねえ。アシュレイさん。私達が最初に会ったのは、三年以上前だ。覚えてないかね?」 「……なんだと?」 「くっくっく—————今日こそ恨み、晴らしてくれる。覚えてないか、この眼鏡」  カッシュは懐から眼鏡を取り出し、かけてみせた。  さらに髪をヘアバンドで留め、髪型をオールバックにする。 「どうでしょうか。可能な限り、当時に近いパーツで揃えてあるんですがね、身体のほうも……」  アシュレイはしばらく黙った後、吹き出した。 「てめえ。まだ生きてやがったのか、“クゥライド・ドラクロア”!」  懐かしく、邪悪な名前だった。  ヒトミは割れそうな頭を抱えつつも、しっかりとアシュレイがその名前を語るのを聞いていた。  怯えているレラの傍らで、よろよろと立ち上がり、叫ぶ。 「—————元凶ッ」  クゥライドは眼鏡を光らせた。 「まだそんな力があるとは、大した…………おっと、会話中だよ」   構わず斬り掛かって来たアシュレイの剣撃を、素手で受け止める。 「ちぃ!どっからそんな力が出ていやがる!」 「秘密です。…………お前だけは私の手で殺す、アシュレイ。サンプルに、加われい!」  クゥライドはアシュレイの鳩尾を蹴って客席まで突き飛ばすと、自らも後を追った。  初めて、ヒトミとレラのもとから離れた。 「レラ!」  ヒトミは、レラの腕を掴んだ。立つ事もままならないほど、よろめいてはいたが。 「お願い。アズキを、治して。そうすれば、コロッセオのエウレカは全てもとに戻るはず。  あの男の力の秘密も、知れると思う」  レラは、少し離れた所で咆哮し続ける、狼となったアズキを見た。  そして、客席を。  いったい、どれほどの者が生きているのか、死んでいるのか、見当もつかない。 「医車である貴方なら、この惨状を、全て回復できるはずよ」 「ば、馬鹿言わないでくれ!」  自分だって、生きている事が不思議なくらいの惨状ではあったが、レラは叫んでいた。 「これだけの人と、エウレカを、一人で救うなんて!MSCが底をついて、僕の身を空にしたって無理だッ」 「……あんたの目の前の女を使えばいい」 「—————え?」 「ロスト・アーカイブであるわたしを、同じロスト・アーカイブであるあなたが使う。面白い事に、なりそうじゃない」  ヒトミは頭痛を堪え、引きつった笑みを浮かべる。 「…………いいのかヒトミ。完全に、消えてしまうかもしれないよ?」 「どっちに転んだって、あんたには美味しいんじゃないの?」  拗ねたように話すヒトミに、レラは、真の意味で敗北を覚えた。  いっそ、気持ち良いくらいに。 「はあ。……大した女だね。兄さんが惚れちゃうのも、よく分かったよ」  レラは苦笑すると、両手の指を全て、ヒトミの後頭部に突き刺した。 「ヒトミ、絶対死ぬな。一緒に、兄さんを助けよう」  ヒトミは、口から血を流しながら笑った。  二人を中心に、不思議な光が広がっていく。  その頃、コロッセオ西側の客席では、アシュレイがカッシュ相手に劣勢を強いられていた。 (どうなってるんだコイツ!いくら俺がファーヴニルで斬っても、すぐに自己再生しやがる……)  メスと体術で襲いかかるカッシュ。 「ひゃひゃひゃひゃひゃ!」  勝利を確信しているのか、狂笑している。 「天才に、楯突く者は、みんな死んでしまえばいいんだッ!私こそが救世主!新時代の、神!」  再び、カッシュの蹴りがアシュレイを撃つ。 「がはぁっ」  アシュレイは西から東、反対側まで吹き飛ばされ、落下点で何十という客席を巻き込む。  さらに、近くには一体のエウレカが居た。  獣型のエウレカがアシュレイに迫り、大きな口を開く。 (こいつは……終いかな)  だが、アシュレイの命運は尽きていなかった。  そのエウレカは、競技場から発せられたまばゆい光に照らされ、もとのシミラーの姿へと戻ったのである。 「!」  アシュレイも、カッシュも、驚いた。  アズキが、人に戻っていたのだ。競技場で、安らかに眠っている。  さらに極小な虫エウレカがコロッセオ中に、何億と飛来して行って、破損した生命の肉体を修繕し、さらに機械身へと転移する。  オーロラのように美しい紫色の光が渦となり、コロッセオの生命が、次々に甦る。  聞こえていた悲鳴も咆哮を止み、あとには眠りに落ちたように倒れる人が、しっかりと原型を留め出現した。  アシュレイの側にあった死体が、色付いていく。  生命だけではない。たったいまアシュレイの身体が破壊した客席さえも。  全ての有機物・無機物が再生して行く。 「こ、これは医車の能力か!だが、いったい誰が!」   アシュレイを追撃しようと、彼の側に降り立っていたクゥライドは、驚愕していた。  アシュレイは客席で大の字になって倒れながら、競技場のほうを指差した。 「おぉい、後ろ見てみろ……」 「何……!何者だ、ヒトミの隣に居るのは!私がさっき声をかけた少女ではないのか!」  カッシュ、レラのことをまるで知らないかのような話し振りである。  アシュレイに背後を見せたまま、クゥライドはひたすら驚いている。 「そしてこいつは、お約束だ」 「はッ」  あっちを向いたままだったクゥライドの頭部を、アシュレイが全力で殴りつけた。 「うをば!」  奇怪な悲鳴をあげ、カッシュは客席から競技場の大石盤付近へと頭から落下し、動かなくなる。  辺りで静かに眠っている、再生した者達の寝顔を見ながら、アシュレイは競技場の二人に声をかけた。 「最高だぜ、お前達は!」  作業を終え、肩を寄せて抱き合うヒトミとレラの姿が見える。  お互いに、微笑している。  どうやら二人とも無事だったようだ。  アシュレイは客席から飛び降り、二人のもとへと向かう。  そのとき、気絶したかに見えたカッシュが、再び起き上がった。  噴煙をまき散らしながら、悪鬼のような形相になっている。  アシュレイは溜息をついた。 「…………しつけぇな」 「レラぁ…………医車のレラが…………何故ココに居るゥ…………私は、彼女を招待しなかった…………  オーディンの権限まで用い、彼女だけは、厄介だから来れないようにした……貴様はよく似た別人だ、そうだろうッ!」  カッシュに指差されたレラは、疲労で座り込みつつも、さらりと言った。 「お馬鹿な理屈だね」 「ほんと、阿呆だわ」  ヒトミも、さりげなく付け加える。 「私を馬鹿にするなあああああ」   凄まじい勢いで飛びかかるカッシュを、銀色の影がさっそうと現れ、横からどついた。 「んがあ!」   自らが突っ込んだ勢いのまま、カッシュは吹き飛んで行って壁に叩き付けられる。  エリザのお手柄だった。 「おお、上出来」  三人から賞賛されて、エリザはぺろりと舌を出す。  一撃もらう毎に怒り狂い、カッシュはまだ立ち上がってくる。 「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ…………許さんッ許さんぞォ」  既に、身につけていた法衣はぼろぼろだ。  彼の上半身がほぼ露となり………、アシュレイは彼を見て吹き出してしまった。  身体に、杭のような装置が沢山刺さっていたからだ。  ブリュッセン城などでも使われている代物である。 「おまえ。自分の身体を、MSCに常時接続していやがったな!モノと一体化していたとは、道理で再生が早いわけだ」 「ギグ!」 「ネタが分かれば、もう怖くねえ。ヒトミ、おまえのタイピングで引導を渡してやれ」  ヒトミは弱々しくも、しかしハッキリとした声で頷いた。 「りょーかい!」  エリザとレラに支えられ、渾身のタイピングを開始する。 「や、やめろ」  慌てて止めようとするカッシュを、アシュレイは炎剣で制する。 「………観念しな」 「ウぅぅ」  ■エントリーネーム/ 「ヒトミ・シスベリア」  ■アクセスパスワード/ 「KONTONnoNAMIDA」  ■アップロード対象の座標/ 「ラングフルク−コロッセオ−X7Y2」  ■実行パスワード / 「Drag & Drop」     ---- *[[BACK>紺沌のナミダ]] 
*[[BACK>紺沌のナミダ]]  ----   第八LV <ラグナロク・アゲイン>      聖暦3353年 -霜月 十四日-  全くもって、非常に恥ずかしい話なのだけれど。  僕、ティルミン・レラは丸一日以上、部屋に閉じこもっていたのだという。  兄さんへのアプローチが失敗し、生きる屍のようになっていると時間の経つのも早かったようだ。  まず、ブリュッセン城の広さが災いした。  次に、通信を完全に遮断していた僕が悪かった。  部下のメイドシミラー達が、解錠にいちいち難儀しながら、僕の居る部屋を特定するまで半日かかり。  そこからテコでも動こうとしなかった根性の悪さが、僕をさらに引きこもらせた。  その間、聖成もせずに飲まず食わず。  時間の感覚無く、マイクロコンピューターをいじる気力無く、心身ともに参りきった僕が、ようやく倒れ込むようにして扉を開けたのが…… 十四日の早朝だったというわけ。  僕は最も信頼の置けるマロンとメロンを、喫茶店を模した食堂(もちろんブリュッセン城の一室である)に招き、 これまでの経過を聞くことにした。  とても狭いテーブルを三人で囲い、話を始める。 「……わたくしは、お嬢様に謝らなければなりません」  今日も清掃員の身なりをした、長い金髪の娘メロンは、まずそう言って深々と頭を下げる。  僕は聖成したサンドイッチをほうばりながら話を聞いている。 「……お嬢様とアシュレイ様から、わたくしは“ヒトミ・ラクシャーサ”の調査を命じられました」  兄さんは、教会がヒトミの身体をあの後どうしたのか、とにかく知りたがっていた。  しかし僕にとっては、どうでもいいことである。  あいつが生きていようが、死んでいようが、兄さんが僕の側に居てくれるならそれでいいと、最初はそう考えていた。  ゆえに、情報屋トレマルという逸材の起用を許さなかった。  兄さんと、本人を説得し、メロンを派遣するに留めたのだ。 「……お嬢様は、わたくしに期待されていなかったのですね?」  まぁ、そういうことになる……  僕はそのことで非難されるかと思ったけれど、実際に恐縮し続けたのはメロンのほうだ。 「……すみません。わたくしったら、身の程をわきまえず……色々しでかして」  めそめそと泣き出してしまうメロン。  マロンは、複雑な表情で僕らを見比べていた。  僕はわざとらしく咳払いをすると、メロンを問いただした。 「実際、メロンはどういうことをやったんだ?聞くところによると、大けがをして帰って来たそうだけど」 「……全て、わたくしの不甲斐なさが原因ですわ……」  ひと呼吸おいて、メロンは語り出す。  教会議員のロカセナに片っ端からハッキングを試み、幾つかの重要情報を引き出したという。  ヒトミらしき女が、教会本部に現れたらしいこと。  さらに、近々その女が、何らかの任務を帯びてラングフルク近くを訪れるらしいこと、などを。  僕は眼を丸くした。 「メロン一人で、調べ上げたの?」 「……いいえ。手伝ってもらいました」  メロンの隣に座るマロンが、何やらにこにこ笑っている。なるほど、そういうことか。 「それで、大けがを負った理由は、どうしてなんだい」  僕はサンドイッチを食べ終わったので、食後のコーヒーを飲み始める。  ごくごくごく。  喉を流れゆく、飲料水。 「……はぁ。実は。五体満足のヒトミさんを本当に見つけてしまいましたので、  なんとか交戦し、討ち取ろうとしたのですが」  僕は口から黒い液体を盛大に吹きながら、椅子ごと後方へ倒れてしまった。 「あぁ、お嬢様!」  マロンに起こしてもらいながら、起き上がるなり僕は言った。 「メロン!いくら君がけっこう強いからって……あの女に実戦で勝てるわけないだろう!」 「ご、ごめんなさい!」  再びメロンは泣き出してしまう。  僕は溜め息をつくが、マロンは僕に対して少し怒っているようだ。 「お嬢様。メロンお姉ちゃんは、お嬢様のことを考えて、すごく頑張ったんですよ」  だからって。  手放しで誉められるようなことでもないし……  僕が憂鬱な顔をしていると、それをまたマロンは何か勘違いしたらしい。 「お嬢様!」  両方の拳をテーブルに叩き付けて、マロンは意気込む。 「な、なんだ?」 「アシュレイさんも奪われちゃって。このままで、いいんですか?」   兄さんを、奪われて、か。  そういえば、先ほどから幾ら城内をアイカメラでスキャンしても、兄さんのシミラー反応が見つからない。  僕の言葉を真に受けて、本当に出て行ってしまったのか。  今度は僕の表情をちゃんと拾い、マロンは言った。 「アシュレイさんなら、トレマルさんと、ラングフルクのコロッセオに向かわれましたよ。  アシュレイさん、またここに戻ってくると言っておられましたけど、どうだか」  マロンにしては、ずいぶんと素っ気ない口調だった。  僕はマロンの話に少しだけ興味を覚えたので、さらに尋ねてみた。 「トレマルは、どうしてコロッセオに?ひょっとして、またあの理由?」 「そうです。娘さんが、闘技に参加されるとかで」 「親バカか…………で、兄さんのほうの理由は?暇つぶしかな」  すると、マロンは待ってました、とばかりに笑顔になった。 「ヒトミさんに、逢いにいったんですよ」 「———————————何だってぇッ?」  僕は、椅子から立ち上がって叫んだ。  マロンとメロンは、椅子に座ったまま僕を見上げている。 「アシュレイさんってば、お姉ちゃんからヒトミさんが生きてることを聞くなり、慌てて飛び出しちゃって……」  ねえ。と、顔を見合わせるマロンとメロン。 「で、でも、どういうことなんだ!ヒトミと逢いに、コロッセオって!」 「……それは。こういうことです」  メロンが服のポケットから取り出し、おずおずと差し出して来たチラシを、僕は夢中で広げた。  チラシには、ラングフルク中央コロッセオで、“ネオ・ミズガルズ(新人類世界)”と題されたイベントがあると紹介されていた。  しかも今日の午後、これから開かれるらしい。  内容は、祝宴として日頃の一般参加型闘技。ゲストは案の定“黒騎士”。  さらに、教会と反教会機構の、親睦会を行う、だって?  そして教会側の代表者は、ヒトミ・ラクシャーサあ?  僕は、もう一度倒れそうになった。  衝撃ががくがくと身体を伝い、持っているチラシまでぶるぶると震わせてしまう。 「な、なんなのこれぇっ!」 「お嬢様。仮にも反教会機構の一員として、それくらい知っておきましょうね。まあ発表されたのはつい最近なんですけど」  マロンは、妙にすましている。  なんだかマロンじゃないみたい。  続いて、メロンが控えめに言う。 「……あの、お嬢様。いかが致しましょう。お嬢様も、参加してみては……?  お兄様の見ている前で、ヒトミさんと雌雄を決するチャンスもあったりするわけですが……ヒトミさんも、闘技に出るようです」  僕は、身体中の血が沸き上がるのを感じた。  どうやらこれは、ヒトミに恥をかかせてやろう、だとか。  兄さんを死ぬほど困らせてやろう、だとか。  もの凄く陳腐な想いが最大加速してしまったものだと思う。  でも、そんなもので、良いのではないか?  僕は自分で自分に言い聞かせ、声高らかに、叫んだ。 「出る!このイベントに、僕も絶対参加するッ!」  僕の言葉を聞いて、さも嬉しそうに顔を見合わせるマロンとメロン。  二人も椅子から立ち上がると、マロンのほうは部屋の扉へと向かう。 「じゃあ、お嬢様は反教会機構“ラグナロク”の一員として参加してきて下さい。  マロンはこれから、コロッセオと教会本部に話をつけてきますから」  そう言って、マロンは出て行った。  ……今マロンのやつ、何かとてつもないことを言わなかっただろうか。 「……いかがなされました、お嬢様」  食器の後片付けを始めようとしたメロンに、僕は疑問を口にした。 「コロッセオのほうはともかく。教会本部と話をつけるって———————そんなこと、出来るのか?自信満々だったけれど」 「……大丈夫ですよ」  メロンは、太陽のように微笑んで言った。 「……マロンは、とても人付き合いが良いですから」  かくして、僕のブリュッセン城がラングフルク北に設けられた臨時空港に不時着しても、問題は一切起こらなかった。  青い服で統一された教会議員達に歓迎されながら、僕は他の反教会機構の人間達と、車に乗り込む。 「いってらっしゃいませ、お嬢様」  大勢のメイドシミラーに見送られ、僕はラングフルクのコロッセオへと向かった。  ……本当に、どうしてこんなにあっさりとしているのだろうか。  マロンがどういう手品を使ったのか、車の座席で腕を組んで考えたが、ついに分からなかった。  車はそのままラングフルク市街へと入り、大勢のシミラーによる混雑で少し時間を取られつつも、  特に何事もなくコロッセオの正面に辿り着いた。  入り口は、数百メートル先である。  教会議員の運転していた車は、別のゲストを迎えに行くのであろう、早々に立ち去った。  僕と同乗していた反教会機構の人間も、仲間同士で喋りながらさっさとコロッセオへ向けて歩いて行く。  僕もぶらりと、彼らのあとを追った。  ここへ来るのは初めてではないが、高さ十メートルの大きな正門はいつ見ても迫力がある。  柱の至る所に闘神が彫られ、ここがどういう場所なのかを雄弁に物語る。  今日が晴天ということも手伝い、日光をふんだんに浴びる石造りのコロッセオの姿はいっそう素晴らしい。  僕はしばし、景観に魅入っていた。  ……と、そこへ、大声が聞こえてくる。  「こらこら!そこの燕尾服のお嬢さん。通り道で立ち止まってはいけませんよ」  コロッセオの中から現れた、感じの良さそうな青年議員に指差され、僕ははっとする。  門へ向かう通路は横に広く、一度に大勢の人間が絶え間なく歩いていたが、僕はそのど真ん中に突っ立っていたようだ。  気付けば、周囲に凄まじいざわめきと人の数。景観に見とれていたのが仇となった。  僕は慌てて横へ突っ切り、草むらの所まで移動した。  笑いながら、先ほどの青年議員が近付いてくる。 「大丈夫ですか?立ち止まっていると、何より貴方が危ないですからね」  がっしりとした体格だが、声は意外と高く、聞き心地の良い声だ。  僕はすみませんでした、と謝罪した。いや、ありがとうと言ったほうが良かったのか。  いずれにせよ、日々医車狩りの憂き目に遭っていた僕が、教会議員と口を聞こうとは。  いくら今日が特別な日だからとはいえ、調子が良すぎないだろうか。  思わず、いぶかしんだ表情を相手に向けてしまったらしい。  青年議員は苦笑した。 「あっはっはっは。まあそう固くならないで下さいよ、“ティルミン・レラ”さん」  僕は、今度はぎょっとした。やはり、素性は知られているのだ。  青年議員はあくまで態度を変えず、頭を掻きながら言う。 「実はオレ、貴方を捕獲する担当の議員なんですよね。とは言え、別に貴方個人に恨みがあるわけではない。  エウレカに対してはともかく、貴方はシミラーを傷つけるようなことは極力しない。  だから僕も、今日は穏便にしようと思っています。ひょっとしたら、これからも、になるかも知れませんしね」  相手が話す最中、僕は何度か気が動転したが、どうやら相手の言葉に嘘は無いようだ。  そうやって相手を安心させる何かが、この男にはあるのかもしれない。  と、突然、男は両手を叩いて言った。 「あ、ちなみにですね。今日は闘技にも参加されますか?」 「えっ。……あぁ、一応そのつもりなんだけど……」  トレマルはともかく、兄さんは確実に参加するだろう。  そういえば二人とも、もうとっくに会場入りしているはずである。  僕は、急にコロッセオの中の様子が気になり出した。 「じゃあエントリーを急ぎましょう。観戦と違って、こちらには制限があるのです」  青年議員に手を引かれ、他の大勢の来場者と共に、コロッセオの中へと入る。  構造は単純なので迷う事はない。   円形の通路は基本的に一本道なのだ。  人込みのせいで歩くのには難儀したが、やがて通路の途中、シミラー達が並んでいる現場に遭遇する。  また彼らの先には、テーブルを挟んで何やら紙に書き記しているシミラーが何人か居る。  あれは、名前を書いているようだ。 「人が多いので、あちらで臨時の受付をやっています。では、僕は見回りがあるので、これで」   青年議員は笑顔で礼をして去っていった。  最後に名前くらい、聞いておけば良かったかも。並びながらそう思う。  そして十五分ほど並んでいると、僕の順番が回って来た。 「はい、お名前と、規格は?」  ぶっきらぼうにそれだけ聞かれ、僕は言葉を失った。  別に、質問の内容に窮したわけではない。  質問を出した相手が、問題だったのだ。 「———————って、きさまレラじゃねぇかぁ!」  僕を間近で指差して絶叫したのは、銀髪の女、エリザだった。  よりによって彼女が受付担当者の一人だったとは……  結局、列の進行を少し遅らせてしまった。  エリザとは先ほどの青年議員と同等の会話がかなり乱暴に行われたが、どうにか殺し合いにはならず、抽選番号が書かれたプレートを頂いた。   番号は、「1」。  銀髪の女の陰謀を感じるが、「1」。  すなわち、本日最初に競技場で戦う、ということだ。  時刻はちょうど正午を過ぎた頃。  ラングフルクのコロッセオに、競技場を覆う屋根は無い。  僕は直射日光から、腕で眼をかばいながら、  ウワアアアアアアアア  凄まじい、もはや絶叫に近い大歓声を、肌でびしびしと感じる事が出来た。  僕にだけ向けられた歓声でないことは承知だが、四方の観客席全てから馬鹿でかい叫びがあがっているというのは、 何だか戦場で活躍していた頃に戻ったようで、心地が良かった。  実は、僕はいま、競技場中央の、大規模な石盤の上に立っていたのだ———————。  さらに。すぐ傍らには、ヒトミ・ラクシャーサが居る!  大舞台に、何故か、僕とヒトミの二人だけ。  ヒトミは怯えたような眼で僕を見ているが、それは、僕も案外同じであったりする。  決着をつける、はずだったのだが。 「ど、どうしてカッシュが居ないのよ!」  ヒトミは、完全に狼狽していた。 「カッシュって……司会者?」 「そうよ!痩せてて、蒼い髪で、金色の眼……もう、どうして来ないの!」   確かにプログラム通りに事が進むなら、最初にカッシュという男が現れ、簡単に挨拶。  次にヒトミが教会の代表者として、反教会機構の代表者である、黒騎士ミルドーレに花束を贈呈する——— という展開でなければいけない。  だが、競技場のどこにもカッシュの姿は無い。  もちろん、黒騎士の姿もだ。 「レラあ!どうして、どうしてあんたが今こんなとこに居るのッ!いまわたしを殺したいわけか!  両組織が和平の道を歩むって日にッ!」 「うぅ!」  さすがに、はいそうですとは言えない状況になっていた。  そもそも僕だって、闘技の開始は一時からだという認識だったのに、ある男に直接言われたものだから、 慌てて正午に間に合うよう飛んで来たのである。  多少は、弁解をしておくべきではないか。 「ぼ、僕はな!その、カッシュって男に、“今すぐ競技場へ行け”って言われたから来たんだよ!」 「……何ですって!」  周りが大歓声を送り続けているから、僕らはお互いに声を張り上げるしか無い。  そろそろ、客なり、係の者が異常に気付きそうなものだが……  早く 何か やれ  獣の姫ヒトミが、どっきりをやっているという見方が客席を包み込んでいるようだった。  前回、この場で首をはねられながら、今回はなんと教会議員として舞い戻った彼女に対し、過剰に好意的な解釈が行われている。  ヒトミはもう半泣きになりながら、抱えた花束を振り回していた。 「うわあああああん」  アドリブの弱さこそ、ヒトミの致命的な弱点だったのだ。  だんだんと観客の視線が痛くなってきたが、どうやら僕の目的は、直接手を下さずして達成されたような。  兄さんの姿は、一万を超える客席から見つけ出せないけど、この光景をどこかで見ている筈だし……  本当に、今日は素晴らしい日だ。  僕は、ヴァーチャルタイピングで場を盛り上げようか、などともはや別のことを考え始める。  僕が独りで満足していると、何やらまた、歓声が大きくなった。   響き渡る、黒騎士を讃える声。  見れば北の闘士入場門をくぐり、アイドルといっても過言ではない人気をもつ闘士がやって来るではないか。  黒い袴に、ビゼンを手にした少女は間違いない、アズキ・ミルドーレだ。 「いったい、おぬしらは何をやっているでござるか!既に、お偉い様方は怒り心頭であるぞ」  アズキは厳しい眼をしながら、つかつかと僕とヒトミに迫ってくる。  彼女にそう言われると、何だかいま聞こえている歓声も、全て自分は脅迫する内容に聞こえ始めた。  少しだけ、ヒトミの気持ちが分かった気がする。 「だいたい、貴様は何者か!」  アズキの持つ物干し竿、ビゼンが僕に突きつけられる。  僕はそれをはねのけると。 「お久しぶり、“ミッキー・チャリオット”」  と、ずばり彼女の本名を言ってやった。  するとアズキは、最初こそ面食らったものの、既に笑顔を浮かべて僕に抱きついてきた。 「医車!お医車殿でござるかぁ?」 「そうだよ。本当に久しぶりだね。あれから少し身体変えたから、分からなかった?」 「あははははははは」  僕らは抱き合ったまま、くるくると回る。  ヒトミと客席は、突然の出来事に半ば呆然としている。 「—————あんた達、知り合いなの?」  ヒトミが恐る恐る、といった調子で尋ねる。  答えたのはアズキだ。 「そうでござる!昔、拙者が死にそうだったところを、助けて頂いたでござるよ」 「レラ。エウレカを助けたの?」 「まぁ、ね」  ヒトミの疑問に、僕はそっぽを向いた。 「そういうこともあるさ。だって、弱ったエウレカを後生大事に抱えて頼まれたんじゃ、断れないだろ」  アズキは、はっとなった。 「ひょっとして、今日は父上も来ているでござるか?」    父上とは、もちろん…… 「うん。今日だけじゃなくて、トレマルはミッキーが出る試合なら、いつも見に来てるよ」  アズキは眼を輝かせながら、客席をひとつひとつ探し始めた。  すっかり舞い上がってしまったアズキ。  結局、事態の根本的な解決には至っていない。  ばつが悪そうに突っ立っているヒトミに対し、いいかげん何か声をかけようと、僕が近付いた瞬間だった。  突然、空が。真っ赤になった。 「!」  コロッセオ中が、言葉を失う。  いきなり時刻が夕方になった?  違う。ときおりノイズを生じる赤い空、あれは、 「“ヴァイルス・フィールド”!」  ヒトミと僕は、同時に叫んでいた。  ある程度、ヴァーチャルタイピングに精通した者であるからこそ分かる。  だが、コロッセオを丸々包み込み、しかも効果が持続しているヴァイルス・フィールドなどとは……  全てにおいて、規格外である。  観客達だけでなく、僕ら三人も驚きを隠せない。 「これはいったい!……面妖でござる!」 「ヒトミ、教会が何かやったの?これ」 「わ、わたしが知るわけ無いでしょ!」     「ご名答。教会の仕業だよ—————」  そう言って、競技場へ新たに入って来たのは。  蒼いばさばさした長髪をもち、百八十センチ以上はある長身男。  獣のような金色の眼をぎらぎらさせている。 「闘士は戦い、己が夢のため汗と血を流す。それもまた、中略。  はい、コロッセオの皆様、御機嫌よう。これからのイベントを務めさせて頂く、カッシュ・ジワルドです」  カッシュが競技場中央へ足を踏み入れるなり、ヒトミはその男の胸ぐらを掴んでいた。 「おやおや。痛いな……ヒトミ君」 「—————カッシュ、どういうつもり!」  ひょっとするとヒトミは、進行の不手際のほうを問いただしたのかも知れないが。  カッシュはヒトミの手を払いのけると、今度は彼のほうがあっさりとヒトミを掴む。  それも、両手を一切使わずにだ。 「……えっ?」  見えない手によって背中を摘み上げられた、そのような姿勢で宙に浮いてしまうヒトミ。  カッシュはその状態の彼女を蹴り飛ばした。 「ぎゃん!」  ヒトミは大石盤上を地滑りし、レラとアズキのところまで転がって来た。 (獣の姫であるこの女を、—————楽々と!)  レラは戦慄した。カッシュという男、いったい何者なのだ?  観客達も、ただならぬ出来事が起きている事を感じ取ったらしい。  ざわめきには、怯えの声が混じっていた。 「はいはい、来賓の皆様、ご静粛に!」  カッシュはわざとらしく手を叩くと、響きの良い声を張り上げた。 「今日は皆様を、素晴らしき実験の場にご招待したい。教会と反教会機構が、共に新人類の礎を築くのです!  いま床に倒れているような、プロトタイプではなくてね!」  両腕を広げ、熱弁をふるう男。  誰もが言葉の意図を分かりかねる中、男は凄まじい早さでヴァーチャルタイピングを行い始めた。  幾らなんでも、その動作が早過ぎる。加速装置でも使用しているのだろうか?  みるみるうちに男の周りには、十、二十、四十、百、二百、それ以上のディスプレイが出現する。 ■ダウンロードファイル名/ 「混沌の種」 ■ファイルパスワード /「CHOAS THEORY」 「さあァ、偽りの皮を破り捨てよ!エウレカども!」   カッシュは狂気の笑みを浮かべながら叫んだ。  直後のこと。  まず、アズキが突然頭を抱えて絶叫した。 「キャアアアアアアアアア!」  彼女はのたうち回るうちに、人としての姿をどんどん崩して行く。  全身から毛が生えると、体色が紫色に染まり、人間大サイズの狼へと変わってしまった。  その姿。エウレカ、である。 「なっ?…………アズキ!」   客席と競技場とで、アズキを案じる声がする。  しかし起き上がった彼女が発したのは、獣の咆哮だった。  地獄の底の音声を引き揚げたかのような、その恐るべき声は、コロッセオ中へ轟く。  客席には、エウレカであることを隠した反教の特殊シミラー達が居た。 「ウワアアアアアアアアアアアア」  声を聞いた彼らもまた、アズキのように、獣へと姿を変えて行った。  狼型、巨大昆虫型、猛禽型。  カッシュは高らかに宣言した。 「さあエウレカども。我らシミラーを進化させろ!第二、第三のロスト・アーカイブを生誕させるのだ!」  阿鼻叫喚の光景が繰り広げられる中、カッシュは、笑っていた。  紫色のシルエットが、次々にコロッセオに出現し、客席のシミラーを襲い始める。  コロッセオはもはや大パニックに陥っている。  レラはあまりの出来事に、すくんで動けない。 「うぐうう………ッ!」   ヒトミは強烈な頭痛に襲われつつも、まだ、人の姿を保っていた。  カッシュはヒトミのもとにひざまずき、妖しい言葉を囁いた。 「ふむ………頑張るね、ヒトミ。先日の試合で君の細胞と交わってしまったアズキは、あれほど簡単に変異してしまったのに。  やはり、喰われて臨死したシミラーがエウレ化するという事象は、究極生物を生むのだな………」  カッシュは声をあげて笑った。 「くひゃひゃひゃひゃ。しかしまったく、君も早く変異したまえ。究極生物である君がここで暴れれば、  生き残った者にどんな影響が出るのか。楽しみで仕方無いよ!さァ早く、皮を脱いでしまえ!」  容赦なく、靴でヒトミの頭を踏みつける。   レラはぺたりと座り込んだ姿勢で、後ずさりしていた。 「く、狂ってる………」   レラの、その小さな呟きが気に食わなかったらしい。  カッシュはいきなり真顔になると、今度はレラに襲いかかった。 「私は正常だ!この世で最も崇高なる科学者だ!」  カッシュが足を振り上げようとしたとき、突如、客席で爆発が起こった。 「!」  炎に焼かれた無数のエウレカが競技場に立つカッシュのもとに降ってくるが、彼らは見えない何かに弾かれて周囲に落ち、 カッシュに被害が及ぶことは無かった。 「ほう。ようやくお出ましか。英雄アシュレイ」  カッシュが苦々しげに笑うと、客席から一気に競技場へと降り立つ、髪を逆立てた戦士の姿があった。  その眼は、手に持つ炎剣よりも、激しく燃え盛っている。 「兄さん!」  レラは、叫んでいた。  かつて、これほど禍々しい兄の姿を見ただろうか。  あたかもコロッセオが戦役当時の様相へと化けて行くなか、アシュレイの放つ殺気も、英雄と語られる以前のものだ。 「てめえだけは絶対に許さんぞ、カッシュ!」  一方、ヴァイルス・フィールドの影響で中央から隔離されたコロッセオの廊下では、難を逃れた教会議員と、反教会機構の人間達が 必死に動いていた。 「一瞬でもいい!なんとか、このヴァイルス・フィールドを消滅させられないか!」 「駄目です!内部からあまりに強力なロックがかけられています。中の様子を知ることさえ出来ません!」 「くそ……!」  闘士入場口、客席入口を抜け目無く覆う赤い壁に、教会議員ランディは苛立っていた。  教会本部に居るツォング議員に増援は要請したものの、今のままでは手をこまねいているしかない。  そんな彼をあざ笑う、銀髪の女が居た。 「中の様子が分からないですって?……簡単、地獄よ」  「なに!……あなたは、オレの知るあいつじゃないな」  死神のような装束を来た女は、恭しく礼をする。 「ご名答。あたしはシスベリア。あの方の偉業を、側で観察する者よ」  あわただしくランディの部下達が行き交う中、ランディとシスベリアは対峙していた。 「あの方、とは誰だ」  くすくすと、シスベリアは微笑む。 「さて、ね。この赤い防壁が破られることがあれば、あるいは分かるかもね」  動物を愛でるようにヴァイルス・フィールドに触れ、身震いをする。 「あなたを見ていると不愉快だ。向こうに行っててくれないか」 「ええ。言われなくても」  シスベリアは両手を後ろで組んで、コロッセオの出口へ向けて歩いて行く。 「ああそうそう。貴方の好きな娘は、いま、中に居るわよ」 「ッ?エリザのことか!」  ランディを振り返り、けたけたと笑う。 「まだ、頑張っているみたい。でも後、どれくらいもつかしらね……」  客席で、オリジナルのエリザは獅子奮迅の活躍をしていた。  襲って来た鳥型エウレカの翼をもぎ、落下させる。  アシュレイがカッシュを倒しにいってしまったので、ますます仕事が増えてしまっている。 (くそ!戦える能力のある闘技エントリー者が、ことごとく外ってのはツイてない!  ランディ、お前の先輩、悪魔のような奴だぜ!)  落下したエウレカを踏みつけてトドメを刺す。  パニックを起こし逃げ惑うシミラー達を、エウレカから守る力を持っている者は、ごく僅かだった。  その頃、アシュレイはカッシュに一歩、また一歩と迫っていた。 「くっくっく!英雄アシュレイ、大したものだ。我が結界の中にこうも容易く侵入するとはな……」 「ああ。空気読まずにとっとと来れば良かったぜ。いや……最初コロッセオで会ったとき、貴様の頭は殴っとくんだったな!」  アシュレイは、カッシュに向けて殴りかかった。  カッシュは口笛を吹きながらそれを避ける。 「最初ねえ。アシュレイさん。私達が最初に会ったのは、三年以上前だ。覚えてないかね?」 「……なんだと?」 「くっくっく—————今日こそ恨み、晴らしてくれる。覚えてないか、この眼鏡」  カッシュは懐からいかつい眼鏡を取り出し、かけてみせた。  さらに髪をヘアバンドで留め、髪型をオールバックにする。 「どうでしょうか。可能な限り、当時に近いパーツで揃えてあるんですがね、身体のほうも……」  アシュレイはしばらく黙った後、吹き出した。 「てめえ。まだ生きてやがったのか、“クゥライド・ドラクロア”!」  懐かしく、邪悪な名前だった。  ヒトミは割れそうな頭を抱えつつも、しっかりとアシュレイがその名前を語るのを聞いていた。  怯えているレラの傍らで、よろよろと立ち上がり、叫ぶ。 「—————元凶ッ」  クゥライドは眼鏡を光らせた。 「まだそんな力があるとは、大した…………おっと、会話中だよ」   構わず斬り掛かって来たアシュレイの剣撃を、素手で受け止める。 「ちぃ!どっからそんな力が出ていやがる!」 「秘密です。…………お前だけは私の手で殺す、アシュレイ。サンプルに、加われい!」  クゥライドはアシュレイの鳩尾を蹴って客席まで突き飛ばすと、自らも後を追った。  初めて、ヒトミとレラのもとから離れた。 「レラ!」  ヒトミは、レラの腕を掴んだ。立つ事もままならないほど、よろめいてはいたが。 「お願い。アズキを、治して。そうすれば、コロッセオのエウレカは全てもとに戻るはず。  あの男の力の秘密も、知れると思う」  レラは、少し離れた所で咆哮し続ける、狼となったアズキを見た。  そして、客席を。  いったい、どれほどの者が生きているのか、死んでいるのか、見当もつかない。 「医車である貴方なら、この惨状を、全て回復できるはずよ」 「ば、馬鹿言わないでくれ!」  自分だって、生きている事が不思議なくらいの状況ではあったが、レラは叫んでいた。 「これだけの人と、エウレカを、一人で救うなんて!MSCが底をついて、僕の身を空にしたって無理だッ」 「……あんたの目の前の女を使えばいい」 「—————え?」 「ロスト・アーカイブであるわたしを、同じロスト・アーカイブであるあなたが使う。面白い事に、なりそうじゃない」  ヒトミは頭痛を堪え、引きつった笑みを浮かべる。 「…………いいのかヒトミ。完全に、消えてしまうかもしれないよ?」 「どっちに転んだって、あんたには美味しいんじゃないの?」  拗ねたように話すヒトミに、レラは、真の意味で敗北を覚えた。  いっそ、気持ち良いくらいに。 「はあ。……大した女だね。兄さんが惚れちゃうのも、よく分かったよ」  レラは苦笑すると、両手の指を全て、ヒトミの後頭部に突き刺した。  そのまま彼女を抱き寄せる。 「ヒトミ、絶対死ぬな。一緒に、兄さんを助けよう」  ヒトミは、口から血を流しながら笑った。  二人を中心に、不思議な光が広がっていく。  一方、コロッセオ西側の客席では、アシュレイがカッシュ相手に劣勢を強いられていた。 (どうなってるんだコイツ!いくら俺がファーヴニルで斬っても、すぐに自己再生しやがる……)  メスと体術で襲いかかるカッシュ。 「ひゃひゃひゃひゃひゃ!」  勝利を確信しているのか、狂笑している。 「天才に、楯突く者は、みんな死んでしまえばいいんだッ!私こそが救世主!新時代の、神!」  再び、カッシュの蹴りがアシュレイを撃つ。 「がはぁっ」  アシュレイは西から東、反対側まで吹き飛ばされ、落下点で何十という客席を巻き込む。  さらに、近くには一体のエウレカが居た。  獣型のエウレカがアシュレイに迫り、大きな口を開く。 (こいつは……終いかな)  だが、アシュレイの命運は尽きていなかった。  そのエウレカは、競技場から発せられたまばゆい光に照らされ、もとのシミラーの姿へと戻ったのである。 「!」  アシュレイも、カッシュも、驚いた。  アズキが、人に戻っていたのだ。競技場で、安らかに眠っている。  さらに極小な虫エウレカがコロッセオ中に、何億と飛来して行って、破損した生命の肉体を修繕し、さらに機械身へと転移する。  オーロラのように美しい紫色の光が渦となり、コロッセオの生命が、次々に甦る。  聞こえていた悲鳴も咆哮も止み、あとには眠りに落ちたように倒れる人が、しっかりと原型を留め出現した。  アシュレイの側にあった死体が、色付いていく。  生命だけではない。たったいまアシュレイの身体が破壊した客席さえも。  全ての有機物・無機物が再生して行く。 「こ、これは医車の能力か!だが、いったい誰が!」   アシュレイを追撃しようと、彼の側に降り立っていたクゥライドは、驚愕していた。  アシュレイは客席で大の字になって倒れながら、競技場のほうを指差した。 「おぉい、後ろ見てみろ……」 「何……!何者だ、ヒトミの隣に居るのは!私がさっき声をかけた少女ではないのか!」  カッシュ、レラのことをまるで知らないかのような話し振りである。  アシュレイに背後を見せたまま、クゥライドはひたすら驚いている。 「そしてこいつは、お約束だ」 「はッ」  あっちを向いたままだったクゥライドの頭部を、アシュレイが全力で殴りつけた。 「うをば!」  奇怪な悲鳴をあげ、カッシュは客席から競技場の大石盤付近へと頭から落下し、動かなくなる。  辺りで静かに眠っている、再生した者達の寝顔を見ながら、アシュレイは競技場の二人に声をかけた。 「最高だぜ、お前達は!」  作業を終え、肩を寄せて抱き合うヒトミとレラの姿が見える。  お互いに、微笑している。  どうやら二人とも無事だったようだ。  アシュレイは客席から飛び降り、二人のもとへと向かう。  そのとき、気絶したかに見えたカッシュが、再び起き上がった。  噴煙をまき散らしながら、悪鬼のような形相になっている。  アシュレイは溜息をついた。 「…………しつけぇな」 「レラぁ…………医車のレラが…………何故ココに居るゥ…………私は、彼女を招待しなかった…………  オーディンの権限まで用い、彼女だけは、厄介だから来れないようにした……貴様はよく似た別人だ、そうだろうッ!」  カッシュに指差されたレラは、疲労で座り込みつつも、さらりと言った。 「お馬鹿な理屈だね」 「ほんと、阿呆だわ」  ヒトミも、さりげなく付け加える。 「私を馬鹿にするなあああああ」   凄まじい勢いで飛びかかるカッシュを、銀色の影がさっそうと現れ、横からどついた。 「んがあ!」   自らが突っ込んだ勢いのまま、カッシュは吹き飛んで行って壁に叩き付けられる。  エリザのお手柄だった。 「おお、上出来」  三人から賞賛されて、エリザはぺろりと舌を出す。  一撃もらう毎に怒り狂い、カッシュはまだ立ち上がってくる。 「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ…………許さんッ許さんぞォ」  既に、身につけていた法衣はぼろぼろだ。  彼の上半身がほぼ露となり………、アシュレイは彼を見て吹き出してしまった。  身体に、杭のような装置が沢山刺さっていたからだ。  ブリュッセン城などでも使われている代物である。 「おまえ。自分の身体を、MSCに常時接続していやがったな!モノと一体化していたとは、道理で再生が早いわけだ」 「ギグ!」 「ネタが分かれば、もう怖くねえ。ヒトミ、おまえのタイピングで引導を渡してやれ」  ヒトミは弱々しくも、しかしハッキリとした声で頷いた。 「りょーかい!」  エリザとレラに支えられ、渾身のタイピングを開始する。 「や、やめろ」  慌てて止めようとするカッシュを、アシュレイは炎剣で制する。 「………観念しな」 「ウぅぅ」  ■エントリーネーム/ 「ヒトミ・シスベリア」  ■アクセスパスワード/ 「KONTONnoNAMIDA」  ■アップロード対象の座標/ 「ラングフルク−コロッセオ−X7Y2」  ■実行パスワード / 「Drag & Drop」     ---- *[[BACK>紺沌のナミダ]] 

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