第零話 <ヴァーチャルタイピング>
聖暦三千三百年、十二月七日。
「純白の旅城」と名高いブリュッセン———————。
大空の中、いつも通りの朝を迎えていた。
多くの宿泊客が既に目を覚まし、窓から海よりも深くて広い青天を眺めている頃だろうか。
ブリュッセンが現在飛んでいる空は専用の航路であるから、
辺りの雲海を覆っている影は、ブリュッセンのものただ一つだけ。
静かに、そして雄大に。
外壁、内壁、塔。 いずれも全て白く染められた巨大な城が朝日を直に浴びて、音も無くゆっっくりと、
雲をかきわけ首都の上空を目指している。
「食べる」「寝る」といった生き物のあらゆる動作を、人々が念じ “打ち込む” だけでソフトが作動するこの時代。
巨大な機械仕掛けとなっているブリュッセンもまた、「飛ぶ」という人々の意思で進んでゆく今日の朝。
いまの時分、城内でもっとも忙しいのは厨房とその周りと決まっている。
内部構造が完全に左右対称となっているブリュッセンでは、厨房も例に漏れず、二カ所にあった。
メイド……髪型、衣装、すべて統一された女性達がそれぞれ二百人体制で、二つの厨房を使用している。
客のためにとっておきの朝食を用意しなくてはならない。
やはり、肝心なところでは人の力がものをいう。
旅城ブリュッセンは、いわゆる“死打ち人” のために造られたものだ。
ブリュッセンの航行は彼らにも手伝ってもらうことで成り立っている。
昼夜問わず、彼らは客室という名の特別トレーニングルームで “タイピング(打ち込み)” に励む。
それゆえ、集団で利用する施設はほとんど用意していない。
食堂も無いので、調理班とは別に、給仕を任されているメイドが部屋まで食事を運ぶ仕組みになっている。
客のことを第一に考えれば、使用人がすすんで働き回るのは当たり前といえた。
なお、食事は“死打ち人”にとって、テストの意味をあわせ持つので極めて重要なのだ。
移動の手段としてよりも、贅沢な食事をとることを目的に寝泊まりしている“死打ち人”は少なくない。
さて。ブリュッセンの第七フロアでは丁度、廊下中央のエレベータから、
七十人ほどのうら若いメイド達がぞろぞろと出てきたところだった。
エレベータ一つをとっても、並の居間の五倍はある広さ。
メイド達はオーダーを受けたのだろう、誰の両手にも銀のトレイと熱々のご馳走とがある。
「じゃあ、わたしはFの三十四号室だから」
城の各階は基本的に、千メートルはある一本の長い廊下と、廊下の左右にずらり並んだ客室のみで構成されている。
決してややこしい造りではないが、うっかり朝食の届け先を間違うと大変である。
「行ってらっしゃい。うちは、百六十二号室なのよ」
「知ってる。ミアも頑張ってね。そうそうマロン、特に貴方は大役よ。絶対、失礼の無いようにね! それから、くれぐれも気をつけて!」
「はぁい」
彼女達は互いに短く挨拶と礼をしてから、左右に別れた。
そのうちの一人、控え目にはぁいと応えたのがマロン・ミネルヴァ。
「難易度HARD」と描かれた矢印型のプレートに示された、廊下の左側を一人進んでいく。
子猫のように円い紫色の瞳は、廊下の一番奥を目指している。
つばのついた黒の大きな帽子と、ワンピース。それとフリル付き赤のチェックスカートという格好はあくまでフォーマルのものである。
ボブカットにされた頭髪もまた他のメイドと同じ髪型なのだが、マロンは他の誰よりも抜きん出て華やかだった。
何より、色彩が美しい。
果実のオレンジそのもののような明るい頭髪は本人も自慢とするところで、
忙しくすれ違っていくメイドもマロンを見てはそっと溜め息をこぼすのである。
(さすが、純粋な“エウレカ”は何もかもずば抜けてるわね……)
“エウレカ”。
自立行動型タイピング・ソフトの総称。
マロンはタイピングトレーナーとしての役割のみならず、美しい少女なみの容姿をもった……“少年型”のソフトであった、実は。
人型をしたソフトは、特に“シミラー”と呼ばれて他のソフトと区別されている。
ほんのりと化粧がのせられた人肌など、一見した程度でマロンが人造人間だとは分からない。
身体の内部にしても同じことで、機械の助けもあるものの、臓器を働かせている。
人ではないことを見破るにはそれこそ、他の性能のよいソフトを用いるしかない。
マロンの足は先ほどからかなり急いでいるものの、息があがっている様子は全く無かった。
内蔵しているソフトのスペックもさることながら、ブリュッセンでの長いメイド生活が様々なスキルを可能にしていた。
例えば、重い荷物のを床と水平に保ったままの早歩き。
踵の高い白ハイヒールでそれを行なうのだから見事なものだ。
か細い両手に余るような特大トレイを、涼しい顔をしながら下から両手で支える。
湯気が立ち昇る肉汁たっぷりのハンバーグは未だじゅぅじゅぅと食欲をそそる音をたて、多くのコーンを上に乗せている。
それを彩るようにぐるりと丁寧にトッピングされた大量のサラダ。
ほどよく塩がふられた、白身と黄身がまばゆいスクランブルエッグ。
マロンの指三本ぶんはありそうな太いソーセージの数々。
ぎりぎり苦くない程度にまで薄めた、見事なまでに真っ黒のコーヒーは高さ約三十センチのグラスと共に。
五人前に匹敵する量だが、これは一人分の朝食、いや、テストとして運んでいる。
このモーニングメニューは、マロンが自分の手で調理したものだ。
二カ所ある厨房のうち、設備が大きいほうでは上級者向けの特別メニューを作ることができる。
“死打ち人”を試す材料としては格別の出来である。
「さぁて。着いたぞ……っ、と」
目的の部屋の前に辿りついたマロンはひとり呟いていた。
よそよりも豪華に飾り付けられた扉には貼紙がされていて、
“英雄王ランディとその彼女ヒトミ様のお部屋” と、あまり上手くはない、丸みのある字で書かれている。
それを見て苦笑しつつ、ひとまず深呼吸。
なにせ自分がこれから応対するのは国中、いや、世界中の人間が知る二人組なのだ。
銀トレイを慎重に左手だけで支え、扉から離すようにして持つ。
続いて、右手で慎重に扉をノックする。
「すみませーん。ルームサービスをお持ち致しましたぁ」
ややあって、扉が勢いよく内側に向かって開かれた。
フレームの無い色が薄めのサングラスをかけ直しつつ……現れたのは黒いセミロングストレートの女性。
マロンが運んで来たコーヒーよりもさらにずっと深みのある黒い髪、背後の窓からの光を浴び黒ダイヤのように輝いて
一本が一本が流れるように頬と首筋にかかっている。首にはめているのは、小さな棘がびっしりとついた銀の首輪。
少し視線を下げれば深緑のタンクトップに、ふくよかで張りのあるとても大きな丘が二つ。
彼女の身長は、百八十センチ近くもあるだろうか。
胸元だけでなく、男物の灰色ジーンズを履いた両足も太股のところでほどよく膨らみ、そして驚くほど長い。
開けたドアのてっぺんに片方の手を乗せ、もう片方の手は革パンツのポケットの中へ。
彼女は、大きな自分の身体をドアにもたれかけている。
サングラス越しに、女=ヒトミ・ラクシャーサが冷めた鋭い瞳でマロンの頭を上から覗き込んでいる。
マロンは、早くもおじおじ俯いてしまっていた。ヒトミの視線を浴びただけで、
心臓を直に撫でられたような苦しさと息詰まるような心地良さ まであった。
ヒトミは眼を合わせようとしないマロンに不満があったのか、口をへの字に曲げてしまう。
ポケットから出した手でマロンの顎をきゅっとつまみ、むりやり自分のほうへ顔を向けさせた。
反動で大きくマロンの持ったトレイが傾き、
「あわわっっ」
グラスの中身が激しく波打つ。
「ぅっと……」
こぼしては、大いに、まずい。
慌てて両手を使い安定させ、どうにか一滴の犠牲も出さなかったが、
間抜けにも片足だけ上がりバレエを踊るような格好になってしまう。
そんなマロンの必死な様子を見て、ヒトミはようやく表情を変える。
「おぉう。やるじゃないの!あぁら、可愛い娘が運んで来てくれたんだぁ」
そう言いながらバンバンと、やっと姿勢を戻したマロンの肩を叩いた。
並の男なら崩れ落ちそうなウインクまでして頂き、どうやら機嫌をとることには成功したようだ。
女子だと勘違いされた件について(マロンにとっては珍しくもないことだが)は、
本当の事がバレてしまうと怖いことになりそうなので黙っておく。
「キミがテストしてくれるっつぅんなら、オレ様も満足だわ」
あっさりとマロンから銀トレイを奪うと、背を向けて部屋へと戻っていく。
「早く入りなよ。それともナニか?廊下でやるってか」
「は、はい……入っちゃいます。いえ!入らせて頂きますっ」
最初に現れるのが目の前の女性、ヒトミ・ラクシャーサだとは予想していなかったので、
マロンは内心かなりうろたえていた。びくりとしたあと、慌てて彼女のうしろに続く。
思わず頭の中で繰り返される、「気をつけて」という同僚の言葉。
高鳴る鼓動を片手でむりやり押さえ込んで、改めてヒトミを眺める。
優雅に腰を振って歩いている。
“黒色殺女” という通り名に相応しい、最強の“死打ち人” 。
未だ、誰にも破られないほどのハイスコアを持つ。
何故なら、彼女のは“人を殺すことで得たスコア”だからだ。
決して油断のできる相手ではない。
けれど仕事とはいえ、これほどの人物と勝負できるのも楽しみで仕方ない。
中に入り扉を閉めて、トイレとバスルームの前を横切り……マロンはブリュッセンの最上級スゥイートルームに居る。
白を基調とした、喫茶のインテリアにも似た少しばかり古風な部屋。
このタイプの部屋に入るのは初めてではないが、マロンは不思議な違和感を覚えた。
理由のひとつは、中央にある四角い机の椅子に腰をおろす、とても美しい青年の存在だろうか。
短い茶髪をわずかに逆立てた、眼鏡をかけた若い青年。
眼鏡をかけて新聞を読んでいる。
「ラぁーンディ。可愛い娘がオレのために来てくれたよ〜」
あっけらかんとした口調と共に、四角くて茶色い机に銀トレイを放り投げるヒトミ。とても乱暴だ。
ガシャン!という音をたててわずかに跳ねる皿と料理たち。
椅子に座っていた青年の新聞にはコーヒーの飛沫がかかる。
「……お!すごいなぁ。ものすごく美味しそうだね」
少しばかり遅れた反応を見せて、青年=ランディ・スィウーズは新聞を折り畳み、
目の前のコーヒーグラスに手を伸ばそうとする。
すると、いつの間にかヒトミの手に握られていた折り畳み新聞が、彼の手を景気よく叩いた。
スパぁーン
「いっ、た!」
「ヘイヘイ、オレのカレ。いまどき、ご飯は手で摂るもんじゃねーでしょうが」
「……あっ。ひょっとしてこれが今日のテストなのか?」
「そゆことよん」
自分の隣でくるりと回転するヒトミを、ランディは椅子に座ったまま微笑ましく眺めていた。
ふと、もう一人の視線に気付いて、部屋の入り口のほうへ眼を向ける。
そこにメイド姿の少女(本当は少年)を見つけ、慌てて駆け寄っていく。
「あ、どうもすみません!お礼を言うのが遅れてしまった」
毛皮の絨毯を踏み、足早にやってきた青年の言葉に、マロンのほうが恐縮したようだった。
「いえいえいえいえ!とんでもないです、ランディさま。こちらは仕事ですから」
スカートの先端を伸ばして深くおじぎするマロンは思っていた、なんて優しげな人なんだろうと。
英雄王の異名をもつランディは、ヒトミと同じく最強の“死打ち人” と知られている。
ヒトミ以上の長身であるが、要所に危険なくらい肉をつけているヒトミに対して、身体の線はかなり細い。
ともすれば、ヒトミよりも女性的に見える切れ長の眼。
白にワイシャツに黄色のネクタイという、各国のニュースで彼の偉業が伝えられたときと同じ服装だ。
彼の、仕事ができそうな知的な素顔にとてもよく似合っている。
マロンはすっかり気をよくし、喋りだした。
「ヒトミさま、ランディさま。この度はブリュッセンの一泊二日の旅をご利用頂き、ありがとうございます。
現在、当旅城は首都ラングフルクの近郊を飛行中です。あと三時間もすれば到着となりますので、
これから行ないます“朝食”で、くれぐれも無理はなさらぬようにお願いを……」
ランディの席についていたヒトミは、不意に声を荒げてわざとらしく笑ってみせた。
「いいからいいから!つまらん能書きは置いといてさ、とっとと始めちゃってよ〜メイド試験官。オレ様、腹ぺこなわけよ」
腹を指差して大きく口を開くヒトミを見て、マロンと、そしてランディは少しばかりむっとした。
「こら。そんな言い草は無いだろ」
ランディは振り返って恋人をたしなめるが、ヒトミは両手を外側に開き、ふざけたジェスチャーをとっただけだった。
こうなるとランディは苦笑するしか無い。
「ごめんなさい、あんなので」
「いえいえいえいえ!ほんと、とんでもないですぅ!」
英雄王に二度も頭を下げられ、もはや焦りと嬉しさで舞い上がってしまいそうなマロンだったが、
ヒトミの睨むような視線を受けて、早く仕事にとりかかるべきだと考えた。
「で、では!早速ヒトミさまの、進級試験を始めさせて頂きます」
姿勢を正すと、ヒトミのほうを振り返って言った。
「ヒトミさま。タイピングプログラムの起動はお済みでしょうか?」
「とっっっくに出来ていますよぉー」
片手をあげて応えるヒトミ。
プログラムの起動に、特別な作業はいらない。
「やりたいこと」を「綴ろう」とする意気込みがしっかり出来ていれば問題無いのだが、
彼女は朝食(テスト)を前にし、椅子に深く腰掛けてのんびり構えている。
やる気というものがどうにも伝わってこない。
「じゃあ最初に確認します。ハンバーグの上のコーンの、“属性ワード”を読み取って下さいな」
おいしそうに焼けたハンバーグの上には、やや大きめのコーンが数多くトッピングされている。
ヒトミは少しだけ息を吸ってから目を閉じた。
……次に、かっと目を開けたヒトミは、コーンの表面にマジックで描いたような黒い文字が浮かび上がっているのを見つける。
コーンの焦げと思えなくもないが、それが全て正確にアルファベットのある文字を象っていれば話は別。
「L、だな。こいつらの属性ワードは全てLだ」
「ご名答です」
マロンは満足げに頷いた。万一こんな初歩の初歩で、つまずかれてしまうようでは困る。
“属性ワード”とは、原子構造を極めて大ざっぱに、アルファベット配列に置き換えたものである。
タイピングプログラムを持つ者ならば、じっくりと眺め思考することでそれをスキャンする事が出来る。
ランディもマロンのように笑顔を浮かべて、ヒトミの正面の椅子に腰掛けた。
「いやぁ、いまのは僕にも一瞬で分かったね!」
「おっまえなぁ。対象が何であろうと、属性見抜く作業なんざ秒殺レベルじゃないと駄目だろう」
とはヒトミの弁である。
「じゃあさぁ……。ヘイ、オレのカレ。こいつの属性ワードを当ててみな!」
ヒトミは便宜上用意されているフォークを使って、やわらかそうな人参を貫いてみせた。
サラダに含まれていたものである。
ランディは少しだけ難しい顔をしてから、勢い良く答える。
「見えた、S・T・W・L・H!」
マロンは二人のやり取りを見守りつつも、堪えきれなくなって悲しく声を張り上げる。
「あのぅ!ボクを抜きにしてテストを進めないでくださいぃ!」
顔を見合わせてから、大物カップルは吹き出す。
「あぁ。悪い悪ィ」
「ごめんなさい、これはヒトミの為の進級試験だったものね。失礼しました、続けて下さい」
「ちなみに、おい」
「うん?」
ヒトミは、ランディにそっと耳打ちする。
(S・T・W・L、P、な。さっきの間違ってるぜ)
(……ええええっ?)
(おまえさぁ、まだまだほんとの実力とか絶対隠しとかなきゃいけないレベルだから。オレがヒヤヒヤしたぞ)
マロンには、英雄王ランディが何故肩を落としたか分からない。
きょとんとしつつも話を先に進める。
「本番です!タイピングテストに入りますよ〜」
「これを完食、でいいのか? 細かなルールは?」
口調がいくらか鋭いものになっているヒトミ。マロンは心を落ち着けて応える。
「時間は、五分です。量にして五人前の食事ですが、ボクの手でさらに属性ワードの改変をして、
ひとつの文章になるようにしてあります。ヒトミ様は制限時間である五分以内に、どれだけ
正確に長く“タイピングで摂れるか”、それでテストします。
合格ラインは、三人前ぶんの量をクリアし、綺麗に食べること!」
「どう、やれそう?」
少しだけ心配そうなランディに、ヒトミは冷たい笑みで応えた。
「オレを誰だと思ってるんですかチミは」
準備よしと判断したマロンが、手元の腕時計を見て始まりの合図を告げる。
ヒトミは改めて、机に置かれた料理の数々、計五皿を眺めた。
立ちこめる湯気が、文字になっていくのが分かる。
ヒトミはその湯気を目で追うようにして、料理が秘めている属性ワードを丁寧に読み取っていく。
(なに、なに……)
『牛のロースをこれでもか、という位めちゃくちゃ沢山ふんだんに利用した当店の新メニュー「NEOハンバーグ」は
食べて熱々な感動の味ッ!を再現しました。人が何故、美味い食べ物を美味いと感じるかに関しては
諸説ありますが、理由の一つとして挙げられる心理的要因は今日でも特に重要であると考えられています。
具体例を挙げますと、同じ食べ物でも、貴方が愛する人が調理したものだと聞かされた上で食べれば、
自ずと「上手い!」という感想が飛び出してしまう事でしょう。この仮説を裏付ける貴重な情報として、
九十七年に行なわれたフリソニア国立大学の食物科名誉教授、ジーグンベルド氏によるアベックを使った
実験をご紹介致します。ファミレス・ジョルサン(某大人気血統漫画の主人公の名前はここの店名から名付けられた!?)
で行なわれた件の実験では、五日前に賞味期限の切れた冷凍ハンバーグを彼女の自作と偽って差し出し、
当店の人気ハンバーグメニューと比較させた所、より美味かったのは冷凍ハンバーグの方だっという店内シェフを号泣させる
実験結果が導き出されました(ただし近年、実験に被験者のコワい彼女も同席していたという新事実が指摘され、この実験結果に
疑問を投げかける声もちらほらと出始めている)。人々の食べ物への興味が尽きる日はありませんが、「NEOハンバーグ」は
その一つの結論として、貴方の彼女が造ったんだぞとそう思わせる程ラヴリーな味を完全再現した自慢のメニューなのです』
(……長ぇだけの文ね、これ)
全て解読し終わったヒトミは、不敵にマロンを見据えた。
(そ、そんな!もう読み終わったんでしょうか……?)
声には出さないが、マロンはそわそわしている。何せ、苦心に苦心を重ねて造りあげたメニューなのだ。
いくら相手があのヒトミ・ラクシャーサとはいえ、あっさり攻略されたのではプライドに関わる。
(い、いいや。まだですよ、ヒトミさん!肝心なのは、タイピングです。これを“ヴァーチャルタイピング”出来るかどうかが……)
しかしマロンが呟いている間にも、ヒトミは、超高速で指を動かし始めていた。
『GYU NO RO-SU WO KOREDEMOKA TO IU KURAI…… KYUJYUUNANANENN NI OKONAWARETA……』
(ええええっ?そんな、早いよ、早過ぎるよ!)
“ヴァーチャルタイピング”。
何もない虚空を、両手の指を使い、高速で“叩いて”いく。
まるでコンピューターのキーボードを打つ仕草、そのものである。
指で叩かれた空間は、その部分だけ瞬時の光を放つ。
“死打ち人”は例外なく、タイピングソフトを自分の両腕にインストール、要するに機械化している。
ソフトの使用無くしてタイピングを行なう事は不可能だからである。
マロンが純粋なソフトウェアであるのに対し、“死打ち人”は腕だけが人工のソフトウェア、
古い言葉でいうところの、サイボーグである。
「食べる」「寝る」といった生き物のあらゆる動作を、人々が念じ “打ち込む” だけでソフトが作動するこの時代。
いまヒトミは、「朝食を食べる」という“打ち込み”を光速で行なっているのだ。
ヒトミは、椅子に座って手を動かしているだけに過ぎないが、次々と料理に変化が起こる。
みるみるうちに、ハンバーグの上のコーンが一個また一個と無くなり、左端から食べやすい大きさに
切られて無くなっていくハンバーグ。くるくると巻かれて無くなっていくサラダの葉。
どれもこれも、眩しく光ったと思った次の瞬間には消え失せている。
すべて、ヒトミの両腕に吸収されていくのである。
『>ヴァーチャルタイピング:命令>対象ワードを喰う』
一皿目、二皿目、三皿目。
皿の上に残っていた、わずかなドレッシングやソースですら舐めとられていく。
ヒトミの手の動きはさらに素早くなっており、もはや美しい光の点が線で繋がったように見えている。
光のあやとり、上級の“死打ち人”のタイピング術はそのように称されることもある。
「実に綺麗だ」
ランディなど、腕を組んで感嘆していた。
(あわわわわ)
マロンはというと、卒倒しそうだった。もとより、じっくり味わって食べてもらうものではないにせよ、
誰にもタイピングで食べられなかったものがこうもやすやすと無くなっていく様は、自らの財産が消えていくように思われる、らしい。
『NANODESU』
ついにヒトミが最後の一行をタイプし終わったとき、机の上には銀トレイと真っ白な皿が五枚あるだけだった。
しかも時間は、ちょうど二十秒しか経過していない。
「ふぃぃ〜っす。ゴチソウサマ!」
ヒトミは、汚れてもない口元をナプキンで拭っていた。
「あああっ、けっこう腹にたまるな。実際のところ美味かったわ、うん。
ま、オレ様の腕の栄養とするにはちぃとばかし物足りなかったがね」
ヒトミがマロンのほうに視線を持っていくと、目と口をぽっかり開いているマロンが居た。
「…………」
絶句中。
「おいおいどうなんよオレ、合格した?まさかスピード違反だと取り消しとか、そぅゆうのは無いよね?」
「……………………あ。はい!そうですね、合格です!」
ようやくマロンが正気を取り戻した所を見計らって、ランディがにこやかに拍手をする。
「おつかれさまヒトミ。ほんと、流石だね」
「いいえいいえ、すべてランちゃんの指導のおかげですわよ」
ここでまた小声で、
(ということに、世間ではなってるんだよな?)
(ううぅ、あまり僕をいじめないでくれよ)
にっしっしとヒトミも笑う。
笑うどころじゃないのはマロンだ。どうにか立ってはいるものの、
今まで多くの“死打ち人”をうならせてきたマロンにとって、この結果はどうにも受け入れ難い。
「でさぁ、証書とかもらえるんだよね、確か?」
ヒトミの質問も耳に入らない。
「おーーい、メイドちゃーん」
全く、耳に入っていないようだった。笑みを貼付けたまま窓のほうなどを見ている。
ヒトミは思いっきり舌打ちすると、マロンのほうを見ながら、またタイピングを初めていた。
(ほんと……ヒトミさんの実力って、なんなんだろう。ボクの料理が……いま気付いたけど、
部屋の本棚に、練習用の本が一冊も残ってないよ……凄いなあ。きっとあの量を全部タイプしたんだ。
こんなノリで、人だって……ほんと、化け物みたいな…………でも一応これで、“任務”は達成………
うん?)
ふと、マロンは妙に自分の身がすーすーするのを感じた。
室内の空気をとてもよく感じられる。
おかしいなあと思い、何気なく自分の身体をみると、桃色の可愛らしい輪が二つ目に入る。
「……はっ?」
まったく盛り上がっていない、綺麗な肌色の面。
マロンの胸である。でも、見えているのは、おかしい。
「服剥ぎぃぃぃぃ」
ヒトミがまるで鬼の首でも討ち取ったかのように、くしゃくしゃにしたメイド服を掴んでいる。
『>ヴァーチャルタイピング:命令>対象ワードを奪う』
どうやらマロンの、衣服の属性ワードも見切っていたらしい。
マロンは、上半身裸にされていた。
「いやあああああああああああん!馬鹿ぁぁぁぁっ」
少女ですらうっとりしそうな悲鳴をあげて、マロンはトレイもさげずに部屋から飛び出していった。
「あっはっはっは!オレ様を無視するからだ……いってェッ!」
「こらぁ!人を虐めたらだめだろ、ヒトミ!」
「な、なんだよ、ちょっとからかっただけじゃん!」
「まったく。また、人を消すのかと思ってヒヤヒヤした」
ランディは丸めた新聞を投げ出し、ソファに横になる。
「ちょっとぉ。あれくらいでキレて人を殺すか?だったらオレ、まるで殺人鬼ぢゃん」
大袈裟に頬を膨らめて抗議するヒトミを見て、ランディは苦笑しながらも溜め息をついた。
つい最近まで、タイピング殺人鬼の異名で呼ばれていたのはどこの誰だと。
まだまだ、この危険な彼女と付き合うのは忙しく、うんと楽しめそうである。
「ところでさぁ。オレの進級証書はどうなったん?」
「知らないよ!」
最終更新:2007年01月28日 18:37