プロジェクト発足までの経緯

最終更新:

atelier71

- view
メンバー限定 登録/ログイン

日球革命プロジェクト発足までの経緯


■海外放浪時代(1998年3月~1999年2月)

大学3年が終わって、1年間休学し、ワーキングホリデーでカナダへ。
当初、バンクーバーに1ヶ月半ほど滞在する。
しかし、日本人社会が出来てしまっているバンクバーに嫌気がさし、なぜかアラスカに行っていた。理由とかない。ただ、行ってみたかった。
アラスカ~バンクーバー間、約3000kmを自転車で走破する。ただひたすら走った。自然と立ち向かいながら、寄り添いあって生き抜く人たちと出会い、人間の営みの原点を強く感じる旅だった。
この体験によって、旅に目覚める。
その後、北米・中米から、20世紀最後の皆既日食があったベネズエラまで、旅を続けた。
これらの歩みは、私達のルーツであるモンゴロイドの遥かな旅の軌跡をなぞるものでもあった。

この旅を通じ、自分が日本人である事、アジア人である事、モンゴロイドである事、地球人である事を学ぶ。人生の大きな転機となった。

旅をする中で、西洋化したたくさんの街々に滞在しながら、エスキモーや、インディアン系の先住民に出会ったり、彼らが残した数々の遺跡を訪ねたりした。建築を専攻していた私は、それらを見てまわる中で、大航海時代にスペインやポルトガルが多くの街を破壊し、今の街を作りだした事実を目の当たりにした。

私の目には、自分達のルーツであるモンゴロイドの文化の破壊の上に築かれたものであるように映った。ショックだった・・・。

そして、自分の母国である日本でも、同じ事が繰り広げられているという事を痛感するようになったのであった。


■日本異国時代(1998年3月~1999年8月)

帰国後、母国であるはずの日本という名の異国を旅する。

(カルチャーギャップを強く受けていた私は、日本という国が別の国のようにしか見る事が出来ない状態になっていた。)

大学に復学し、旅によって自分が得た事柄を伝えようと躍起になっていたが、うまく周囲と馴染む事が出来ず、学校が嫌いになり、登校拒否になった。
いつしか人間不信に陥った私は、周囲に対して、心を閉ざしはじめ、自己嫌悪の末、生死の境を彷徨うように日々を過ごすようになった。

(この当時、多くの本を読んだが、今でも忘れられない本の一つに『バックミンスター・フラーの宇宙学校』がある。その本の内容自体をはっきり覚えているという訳ではないが、現代の教育に対する彼の意見は、教育者として、バックミンスター・フラーの名を記憶するに至った。)

そんな日々の中、ふと気付くと足を運んでいたのが、レイヴパーティだった。世界を旅するトラベラーが集うこの手のイベントでは、自分の考えに共感を持つ人が多くいた。また、そこにはルールがなく、オルタナティブで開放された世界が存在していた。

それは、私にとって衝撃的に新鮮で、ただ自然の中で自由に自らを表現する事に喜びを感じていた。


■日球胎動時代・初期(1999年8月~2000年3月)

ジオデシックドームの存在を知ったのは、レイヴの世界に慣れはじめたこの頃であった。というのも、ジオデシックドームをレイヴ会場で見かける事が多かった。

それは、球状の空間形態が、最小限の表面積で最大の体積を得られるカタチであり、特にジオデシックドームは、その球というかたちを最も合理化した構造体である為、キャンプインが一般的なレイヴにおいて、DJブースなどとして使われていた。

いつしか、その独特なカタチの持つ美しさに魅了されていた。

建築を専攻していた私は、この構造体をテーマとして、卒業の為の作品を創りたいと思うようになった。そこである人物と再会する事になる。

その人物こそ、前述した本の作者であるバックミンスター・フラーであった。

彼は、私が知っていた教育者という側面の他にも、多彩な顔を持っていた。その中でも、ジオデシックドームを発明した建築家として、彼は最も知られているかもしれない。

そう、ジオデシックドームは、彼が人生を捧げたライフワークでもあった。

この事実を知り、少しずつ止まっていた車輪が回りはじめる。学校に足が向かうようになり、ものづくりの本質を初めて意識的に感じつつ、目が覚めるような思いで作品作りに没頭した。

まるで、今まで経てきた自分の体験を吐き出しているような、胎児が子宮から産道を通って生まれていくような、そんな毎日だった。

『希望』を持つ事の大切さを、身で読んだ時期であった。


■日球胎動時代・中期(2000年4月~2001年11月)

大学を卒業し、設計事務所でのアシスタントをやり始める。その設計事務所に幸田露伴の『五重塔』が好きな先輩がいた。その人の話を聞く中で、今の建築に欠けた宮大工の熱い生き様を感じ、いつしかそのように生きたいと望むようになる。

しかし、合理化されきった現代建築において、宮大工仕事は数少ない。そこで考えた。そもそも宮大工によって作られてきた寺社・仏閣は何を目的として、存在しているのか?

世界には、様々なカタチでたくさんの宗教が存在している。日本は聖徳太子が日本に仏法を輸入して以来、仏教が栄えた。

そして、当時の国家的な教育体系として普及する中で、寺社・仏閣は仏道を極める道場として、全国に建築されていった。

そこで湧いてきた疑問は、仏法などの宗教は何の為にあるのか?ということである。ここでその思索を書き連ねるのは省略するが、結果として宗教や祭りといった神仏に対する人間の姿勢は、自然に対する畏敬の念や生きる事に対する感謝から生まれ、お祈りや祭りなどの非日常的な行いの中で、人々は、日頃の心を解放しているのだと考えるようになった。

ここで、自分が好きだったレイヴという行為を捕らえた時、それも現代の一つの祭りの形態である事に気がついた。なぜなら、自分自身がそこに解放を見出していたからだ。

この気づきによって、宮大工という仕事の目的が、人の心を自由にする空間を造る事なのではないかと思うようになり、純粋に私自身を解放してくれるカタチである球をテーマにした空間に携わる仕事をしようと考え、日本では、まだ数少ないドームハウス事業を行っている株式会社ミロクに就職した。

自分が日球と名乗るようになったのは、この時期ぐらいからだ。


■日球胎動時代・後期(2001年11月~2003年3月)

球状の空間に携わる仕事をするようになって、様々な現実に直面した。

その中で最も強く感じるのは、現代の暮らしが経済価値の追求が第一義となってしまっていて、その為に人々は、マスメディアや権力体の独占的な社会構造の中で、多くを犠牲にしているという事実だ。

この構造は、政治や宗教、企業などの組織から、学生のイジメなど、思想や世代を超えてどこにでも存在する。それは、あたかも現代に生きる一人一人の人間に規定された一つの仕組みのように感じている。

なんとかして、このような権力的な社会構造を変えていくことが出来ないだろうか?
私は、人類的といっても過言ではないこのテーマを切り口に次のようにアプローチで、それを実現する試みをイメージしはじめた。

建築という分野は、個々の生活というソフトウェアを動かす巨大なハードウェアである。ハードウェアの果たす役割は大きく、ソフトウェアの構造を規定している。例えば、CDプレイヤーでは、DVDが読み込めないように,ハードウェアである建築によって、ソフトウェアである人間自身の生活が規定されてしまっていると考えるようになった。

これは逆に言えば、建築のカタチ、住まい方のカタチを自分達で変えていく事も出来るということであり、生活が変われば、人が変わる。人々が変われば、社会が変わる。ということでもある。
つまり、自分達が住むハードウェアを自ら変えていく事で、生活環境によって作り出される一人一人の生活行為の規定を塗り替えて行く事も可能なのだ。

そして、今、旧時代の枠組みが機能しなくなりつつある。
権力では人は動かなくなりつつある。
そのようになったのは、様々な原因があると思うが、インターネットの普及が果たした役割は大きい。業種の違いなどあらゆるカテゴリーの枠を超えて、誰でも自由に情報を共有できる時代になった為である。

構造認識の深化が速いのだ。

また、ナノテクノロジーの登場によって、ソーラーエネルギーなどが一般化しつつあり、巨大インフラから、独立したエネルギーの確保も可能となりつつある。

これらの次代をつくる技術を、私は『解放系テクノロジー』と呼びたい。

この考えを、建築分野において適用するなら、それは、従来の建築の不動産的な発想から、動的なプロダクトとして捕らえなおす部分にあるのではないだろうか。それが全てではないとしてもその一翼を担う観点であろう。

移動できる生活空間である日球ドームは、建築分野における私なりの『解放系テクノロジー』の表現であり、次代の生活のカタチの第一歩となる事を期待している。


未知の向こうに、本当の道がある。
日球革命プロジェクト開始!!!
記事メニュー
目安箱バナー