非常識工作


非常識性を利用した疑惑回避による犯罪隠蔽


 集団ストーカー犯罪では、全体的に、非常識であるという理屈で疑惑を回避するような犯罪・嫌がらせ行為の隠蔽が行われています。被害者の言うことに対して、普通であればそのようなことは起こらない、非常識である、などとして、様々な犯罪行為や嫌がらせを隠そうとします。

 政府・マスコミによる集団ストーカーという用語の規制・使用禁止や、創価学会の暴力的な凶悪性アピールによって批判を回避しようとうとする、被害者に敬遠策をとらせるような、批判抑圧策が犯罪者側によって行われています。これはどちらも、非常識工作、非常識性を利用した疑惑回避による犯罪隠蔽を目的としている行為だと言えます。




犯罪は常識では説明できない … ルールを守ることが前提の常識は、ルールを破る犯罪行為の説明根拠にはならない


 非常識だという理屈で、非常識なことを否定する、非常識工作は、そもそも論理的に破綻しています。常識で非常識な行為や事態を説明することはできません。なぜならば、常識を無視した、常識の外にあるものが非常識だからです。

 常識的におかしいという理屈で説明できることは、それが非常識であるというところまでです。それも非常識性が証明できるだけで、非常識な犯罪や嫌がらせの存在、それらが行われているかどうかは、証明することも、否定することもできません。

 常識論は、あくまで、それが常識的か非常識か、どちらであるか(どちらの状態や性質であるか)を論じることしかできない理論にすぎません。非常識な犯罪の有無を説明することはできません。長さを測るメジャーで重さを測ろうとしているようなものです。

 つまり、常識論は、非常識な犯罪の存在を否定することができないのです。

 それにもかかわらず、非常識という理由だけで、犯罪の存在を否定する方法、集団ストーカー全般で使われるこの方法は、理屈として間違っているのです。



常識的におかしい、だからこそ犯罪なのだ


 社会やそのなかで暮らす人々は常識を守ります。われわれの社会は常識というルールを守ることで成立しています。犯罪はその逆です。常識を守らない、無視することで、殺人や窃盗、企業や役所などの不成行為は、犯罪として成立しているのです。常識を正しく守った犯罪行為など、そもそも犯罪ではありません。それは常識のある人がとる常識的な行動にすぎません。

 やはり常識で犯罪は語れません。集スト犯はそれでもしつこく常識論を持ち出してくるかもしれません。そのときは、「愉快犯も常識では説明できないではないですか」などと言って、非常識工作を論破してはいかがでしょうか。集スト犯も社会や警察の認めている犯罪者である愉快犯すら説明できないような常識論は取り下げざるをえないことでしょう。(2015/12/25)

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最終更新:2019年04月16日 17:29
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