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流血少女エピソード-裸繰埜病咲風花-






病院特有の清潔感溢れる白く明るい廊下の突き当たりには、
1つの個室が設えられている。
クリーム色の引き戸には【騒音厳禁につきノック不要】と几帳面に書かれた
コピー用紙が貼り付けてあった。
ドアノブにそっと手をかけ、ぐっと体重を外側に預けると、
ドアは音も無く滑り、室内から微かな黴の臭いが漂って来た。

全ての窓が暗幕で覆われた仄暗い病室には、バイタルを示す無機質な電子音と、
蛇を思わせる人工呼吸器のシュウシュウという駆動音だけが満ちていた。
風花は外部の光が入らぬよう慎重にドアを閉め、
極力足音を立てずゆっくりと患者台に近付く。
狂犬病と破傷風を足して2を掛けたような病状を呈すこの患者は、
僅かな音や光にも敏感に反応し、重篤な発作を引き起こす。
恐水症対策として、点滴の容器にさえ黒いカバーが掛けられていた。
風花は手足と胴体を頑丈な布で拘束され、人工呼吸器を装着させられた患者――
美咲 花(みさき はな)の虚ろな瞳を覗き込み、にっこりと微笑んだ。

「おはよう、花ちゃん。眠っていたのかな?起こしてしまったのなら済まないね」

刺激を与えないよう、極小さな声で囁くように喋りかける。
名を呼ばれた少女は弱弱しく風花に目を遣り、己の覚醒を示した。
10日に及ぶ過酷な闘病生活を経た結果、14歳の身体は痛々しいまでに痩せ細り、
落ち窪んだ眼窩の底は深い闇に覆われていた。
資料に添付されていた、名前通りの花のような笑顔は最早見る影も無い。
花の意識を確認した風花は、ベッドの脇に吊られた折鶴を1つ手に取った。
白い羽にはたどたどしい筆致で『はやくよくなってね』
と、可愛らしい文字が躍っている。

「良く出来た弟さんだね。あのぐらいの齢の子供が、毎日これだけの鶴を折るのは
 さぞ大変だろうに。花ちゃんが慕われている何よりの証拠だ」

その文字が見えるよう、羽を広げてみせる。少女は何の反応も示さない。
何かに感動を覚えるような心の余裕は、無慈悲な病魔が一片残らず奪い去ってしまった。
今少女の心を支配しているのは、汚泥のように重々しく絡み付く疲弊と絶望である。

ほんの2週間前まで健康体であった花の身体は突然未知のウイルスに侵された。
感染経路は不明、治療法も不明。症例から病名を特定する事も不可能だった。
日夜不規則に襲い来る激烈な発作が花の顎部を硬直させて舌を傷つけ、
強直性痙攣によって緊張した筋肉が背骨を軋ませても、
医師達はただ悪夢のように変化する病状の対応に追われる事しか出来なかった。
発作の激痛に絶叫する少女の声は3日と経たぬ内に嗄れ果て、
以降は全身を痙攣させながら声ならぬ声を上げて喘ぐだけだった。
発作による自傷を防ぐ為に体を拘束し、顎と咽頭の痙攣による呼吸困難を防ぐ為
合金でカバーした呼吸器を取り付けた今でも、その苦しみは恐らく変わらない筈だ。
破傷風に見られる意識レベルの高さが顕著な上、観測されている体内物質の関係上
モルヒネを始めとする鎮痛剤の殆どが投与出来ないのだ。

発症以来付きっ切りで看病し、娘の惨状と向き合って来た母親は5日目に倒れ、
父親も7日目には病室のドアを開ける事が出来なくなった。
彼は重度のストレス障害と診断された。
唯一彼女の弟だけは毎日病室に通い、折鶴を届けている。
その思いが果たして姉に届いているのかどうかは、風花にも解らない。

「花ちゃん、私は今から残念なお話をしなくてはならない。
 辛いだろうが聞いてくれないか。とても大事な事なんだ」

折鶴を元の場所に戻してながら風花が言った。
その言葉が聞こえているのか否か、少女は虚ろな視線を宙に彷徨わせるばかりである。
唯一効果的な鎮痛剤である麻酔を投与されている影響で、
ここ数日の花の意識は眠っているか、起きていても常に霧がかったように朧げだった。
彼女が完全に覚醒するのは、薬品の抵抗性を弱める為に麻酔を切る数時間だけである。
現在、花が曲がりなりにも意識を取り戻しているという事は、
完全なる目覚めが近いという事実を示唆していた。麻酔の切れる、地獄の数時間が。

「本当に心苦しいし、医者として情けなく思うよ。しかし、やはり言わねばならない。
 私の見立てでは、貴方は後24時間以内に、極めて高い確率で死ぬ」

朦朧とした花の脳裏に先ず浮かんだのは、死という単語。
次に、その言葉が自分を指し示している事を理解した。
最後に、ああ、やっと死ねるのかという安堵が心に去来した。少女は疲れ果てていた。
花は風花の目を見つめた。その視線に、精一杯の謝意を込めて。


同時に、とうに枯れ果てた筈の少女の心に何かが産み落とされた。
カラカラのスポンジが水を吸うように、それは一瞬にして心の隅々まで行き渡り、
深々と根を張って雁字搦めに縛りつけた。獲物を襲う蛇のような速度だった。
花を見つめる風花の目。凍りつくような悍ましさを湛えた、静かで冷たい視線。
それはまるで、昆虫学者が毒ガスを注入したガラス瓶の中でもがく
1匹の小虫を無感情に眺めるような。
少女は悟った。
この女医は、美咲花という人間そのものには欠片の興味も抱いていない事を。
その焦点は、彼女の内側を蝕む、正体不明の病毒にしか合っていない事を。
そして、己が心に沸いた感情の名を。
未だかつて経験した事の無い、戦慄と恐怖と、どうしようも無い嫌悪感。

「―――ッぁ、~~~ぁあ、うぅ」
「……怯えさせてしまったかな」

心拍数を示す電子音の間隔が狭まる。縛り付けられた手足が、空しくベッドを揺らした。
気管内に挿管された人工呼吸器が花の発声を阻み、まともに声を出す事もままならない。
少女はただ虫ピンで留められた蝶のように弱弱しくもがき、
擦れた呻き声をあげるだけだった。
風花は柔らかく微笑み、少女の額に優しく掌を置いた。氷のように冷たい手だった。

「本当に残念で仕方無いよ……こんな事を告げるのも、
 貴方が生きる望みを手放してしまった事も」

実際、風花は失望の色を露わにしていた。


「花ちゃんなら、最後まで希望を失わずに居てくれると思っていたのに。
 貴方なら、この試練に打ち勝ち、次のステージに進んでくれると思っていたのに。
 ……正直言って、貴方の話を耳にした時は嬉しくて嬉しくて、泣きそうになったよ。
 ずっと昔に撒いた種が、今になって芽を出してくれたのだから。
 それだけに、こんな結末を迎えてしまったのは本当に残念だ」

少女の瞳が俄かに見開かれた。
どんどん激しくなる電子音は、そのまま花の感情を現していた。
魔人能力『ブレイクアウト』の効果で、風花は花の心理状況も
微に入り細に入り把握する事が出来る。
脈拍、心拍、体温、脳波――ありとあらゆるバイタルを常に知覚するという事は、
即ちガラスを透かすように心を読めるという事と同義である。
                     ・・・・・・・・・・・
「うん、貴方が今想像しているのが正解だよ。貴方の病気は私が創った。
 花ちゃんの資料を見せて貰ったけれど、貴方のように前向きで明るい性格の子は
 病気に対する免疫が強いんだ。そういう意味で貴方は理想的な被験者だったよ。

 話は変わるが、花ちゃんはミケランジェロという芸術家を知っているかな?
 彼は石材の中に、既に完成された像の姿を見る事が出来たそうだ。
 理想に近付けるように彫るのでは無く、理想それ自体を掘り出すのだと……
 実に興味深い話だと思わないかい?
 言わばそれは、石の中に埋まった運命だ。私も、貴方の中に運命を見出したのだが
 ……やはりまだまだミケランジェロには遠く及ばないようだね。
 ああ、これは失礼な話だった……まだ花ちゃんが死ぬと決まった訳では無いのに。
 申し訳無い、この通りだ。どうか許してくれ給え」

風花は胸に手を当て、慇懃に謝罪した。
花は流し尽くした筈の涙を瞳に溜め、声にならぬ悲鳴を上げていた。
身を捩っても喉を絞っても、拘束具は無情に少女の体をベッドに縫い止め続ける。
必死にもがく少女を一顧だにもせず、風花は腕時計に目を落とした。

「……それはそうと、そろそろ麻酔が切れる時間だね。注射をしなければ」

そう呟くと、風花は白衣のポケットから金属製のケースを取り出した。
中身は筋弛緩剤入りの注射器である。
麻酔が切れる前にこの注射を打たねば、発作により無用な体力を消耗する事になる。
ぼろぼろと涙を零しながら、花が小さく呻いた。

「何、怯える事は無い。いつもの注射だよ。チクッとするだけだ
 良いかい、よく聞いて……この後、貴方は麻酔が切れて激痛に襲われ、
 数時間後にはまた麻酔がかけられる。
 それから更に数時間後……今から大体半日後、
 これまでで一番激しい発作が来るだろう。
 それを耐え抜けばもう安心だ、ウソみたいに良くなって行くよ。
 無事快復したら、素敵なケーキ屋さんに連れて行ってあげよう。何でも奢ってあげる。
 それとも、私なんかと一緒にケーキを食べるのはお断りかな?それでも構わないよ。
 花ちゃんが生き延びてくれるのなら、私はこの命でも差し出せる。
 貴方の命にはそれだけの価値があるんだ。だから、もう少しだけ頑張るんだよ」


注射器を爪先で弾いて細く鋭い針先の雫を飛ばしすと、
風花は少女の枯木のように痩せ細った腕を取り、皮膚に浮き出た血管に針を挿入した。
注射は3秒程で終わった。薬の効果は劇的で、少女は瞬く間に全身の力を奪われた。
針を抜き取った風花は、静かに泣き続ける少女に笑顔で話しかけた。

「さぁ、もう済んだよ。麻酔が切れた時に発作が来ると辛いだろうが、
 何とか耐えてくれ給え。それじゃあ、また来るからね」

風花は花の目元を流れる涙をハンカチで拭い、その頭を優しく撫でた。
そのまま踵を返して病室を出ようとしたが、ふと少女の弟が持ち寄った千羽鶴が
目に入り、足を止めた。手で掬うと、確かな重みが伝わってきた。

「そういえば……結局最後まで現実に向き合っていたのは、弟さんだけだったね」

おもむろに振り返り、何の反応も返せなくなった少女の目を見て、風花が言った。

「とても強い子だね。それに利発そうな眼をしていた。将来は素敵な男性になりそうだ。
 羨ましい限りだね……本当に。もし病気に罹ったのが彼だったとしたら、
 一体どうなっていたのかな?」

風花の言わんとする事を少女は十分に理解出来なかったが、
その言葉がとても嫌な雰囲気を孕んでいる事だけは本能的に解った。
しかし仮に全てを見抜いたとして、彼女にはもう告発する為の声も
風花を止める為の力も残ってはいない。
少女の全ては奪い尽くされた。

「花ちゃん、またお話出来る事を祈っているよ」

薄暗闇の中の風花は輪郭さえ曖昧で、その表情を読み取る事は終に叶わなかった。

風花は個室を出ると同時に盛大に咳き込んだ。
患者の手前ずっと我慢していたのだ。顎の引っ掛けていたマスクで口元を隠す。
微熱と咳はあるが気分はむしろ良い。これから始まる事を思えば尚更だ。
花の体内にあるウイルスは約半日後に急激な変異を起こし、先程注射した
筋弛緩剤の成分と反応して強烈な毒素を作り出す。
その結果が具体的にどうなるのかは風花にも解らないが、ただ確実に言える事は、
宝くじの1等が当たるような奇跡でも起こらない限り、少女が助かる事は無い。
恐らく劇毒にもがき苦しみながら世を恨み運命を呪って無残に死んで行く事だろう。

その事実を知る者は、ウイルスの創り手である風花以外には誰一人として存在しない。





















午前10時17分、患者のバイタルに異常発生。
個室に向かうと既に痙攣発作が始まっていた。
急ぎ鎮静剤と筋弛緩剤を投与するも効果無し。心拍数は200超。
男性医師3人で押さえ込むが、
その内木田先生が右腕の拘束を破った患者の右腕を受け鼻骨と頬骨を骨折。
後に判明した事だが、患者の右手首は脱臼し、基節骨及び中手骨が骨折していた。
14歳の少女がこのような膂力を発揮した事は実に驚くべき事実だが、
これはウイルスと筋弛緩剤の反応によって産み出された毒性の副作用により
大脳基底核が発する抑制シグナルの不活化が促された為と予想される。
それから患者は医師の制止を振り切って呼吸器を外し、舌を噛み千切った。
舌圧子で歯をこじ開けようとするも抵抗甚だしく失敗、
止む無く前歯を砕いて咽頭に溜まった血液をを吸入し呼吸確保。
今度は左手の拘束が留め具ごと外れ、村井先生が喉を掴まれ甲状軟骨及び気道を損傷。
直後、心拍数が240を越えた辺りで突如心停止。
AED及び強心剤によるCPR(心配蘇生法)を試みるも効果無く、
午前10時24分死亡を確認。_


キーを打ち終えた風香はオフィスチェアの背もたれによりかかり、
天井を仰いで目元を押さえた。そのまま首を左右に振って凝りを解す。
今日は急死した花とその遺族、死亡後の手続き等に追われて碌に休む暇も無かった。
花の死は残念だが、彼女は様々な興味深いデータを残してくれた。
ウイルス研究の発展に貢献したという一点で、
彼女の生にはかけがえの無い価値があったと言えよう。

一方で、娘の死を告げられた花の両親は、その事実を無感動に受け入れた。
2人の目元には真っ黒な隈が刻まれていて、頬は餓鬼のように痩せこけ、
瞳はガラス玉のように生気の無い光をギラギラと反射するだけだった。
まるで呼吸をする人形のよう。あれでは素体にもならない。
ただ1人、花の弟――友という名前だった――は目に涙を溜めて拳を握り締めながら、
しっかりと前を見据えていた。彼は夕方、1人で風花の元を訪ねて来た。





















「先生、あの……お姉……あっ、姉が、お世話になりました。その……
 マ、母と父が何も言わずに帰っちゃったから、それで、気になって」

姉とは対照的に大人しい性格であるらしい少年は、
少し震えた声でおずおずと礼を述べた。
まだ小学校の高学年にもなっていないと言うのに、本当に立派な子だ。
風花は膝を付き、目線を友に合わせてから優しく微笑んだ。

「友くんだったね。ありがとう、わざわざお礼を言いに来てくれたんだ」
「いえ、そんな……」

少年は少し頬を赤らめてもじもじと視線を逸らした。
その仕草がまた微笑ましくて、風花は友の頭に手を置いた。

「ごめんね、お姉ちゃんを助けてあげられなくて……友くんも辛いでしょう。
 泣かない事は立派だけれど、ずっと我慢をしていたら心にも体にも良くないよ」
「いえ、……僕、本当は泣き虫で……いつも姉に怒られてましたから。
 泣いちゃダメだって、辛い時こそ笑って、周りを明るくするのが男なんだって……」

訥々と呟く少年の瞳は既に潤んでいて、零れ落ちる寸前に慌てて袖で目元を擦った。
同時に鼻を啜る音。風花は思わず小さく吹き出し、恥ずかしげに俯く友に語りかける。

「偉いね、お姉ちゃんの言い付けをちゃんと守ってるんだ。
 それに友くんぐらいの齢の子供が身近な人間の死を受け入れるという事は、
 貴方が思っている以上に難しいんだよ。友くんは本当に強い心を持っているね。
 でも、先生はやっぱり心配だな。人間、我慢ばかりがそう長く続くものじゃない。
 ……そうだな、特別にこれをあげよう。私の宝物だが、友くんになら任せられるよ」

風花は懐から金色の古めかしいロケットを取り出し、友の小さな掌に握らせた。
鈍く光るロケットの表面には精緻な十字架の装飾が施されており、
よく目を凝らすとその十字架の最下部を横切るように1本の線が走っている。
友は顔を上げて風花に戸惑いの視線を向けた。

「これ……こんな綺麗な物、良いんですか?」
「勿論だとも。こんな物で罪滅ぼしが出来るとは思っていないが、
 せめてもの気持ちと思って受け取って欲しいんだ。私が昔から持っているお守りだよ。
 これにはある魔法がかかっているんだ」
「魔法?」

友が首を傾げる。

「そう、魔法だ。貴方がこれから先の人生で、もしも辛くて辛くて、
 どうしても耐えられないような出来事が起こったら、この十字架の下の部分……
 解るね?ここを押す。良いかい、どうしても駄目だと思ったら押すんだよ。
 このロケットには誤魔化しが効かないんだ。本当に心から願わないと開かない。
 その代わり、開けば君に力を与えてくれる。生きる力をね」
「生きる力……」

友は不思議な物を見る目付きで楕円形のロケットを繁々と眺めながら反芻した。

「そう、生き延びる為の力。それは開けた時に解るよ。
 勿論、友くんがそんな辛い目に合わないならそれに越した事はないけれどね。
 現実がそう上手く行くとは限らない。その時の為のお守りだ。
 大切にしてくれると嬉しいな」
「はい、ありがとうございます。きっと大切にします!」
「うん、良い返事だ」

風花は直角に頭を下げた少年の頭をもう一度撫でた。
くすぐったそうに目を細める友。彼の悲しみを紛らわせる事ぐらいは出来たようだ。
その時ふと何かを思い出したように表情を変えた風花は、友の目を見据えて言った。

「おっと、そうだ、1つ言い忘れていた。
 友くん、そのロケットは極力誰にも見せないでおいてくれ。
 魔法の効力が薄れてしまう。それに、こんな事を言うのも何だがそのロケットは
 それなりに高価な物だ。万が一誰かに盗まれてしまっては大変だからね。
 約束してくれるかい?」
「はい、約束です」
「良し、じゃあ指切りだ」

友は風花の差し出した、すらりとした小指に自分の小指を絡め、2、3度上下に振った。
そして「指切った」の声と同時に、絡み合った指が外れる。
風花が微笑むと、友もはにかんだように歯を見せた。

「これでロケットは君の物だ。さぁ、もうすぐ日が暮れるよ。
 ご両親を心配させてはいけない」
「あ、はい。つい長居をしてしまって……」
「ふふふ、君は難しい言葉を知ってるんだねぇ。将来が楽しみだね」
「いえ、そんな……」
「ふふっ、そればっかり」
「あぅ……」

風花は一頻り赤面する少年をからかうと、病院の外まで送り出した。
友はずっと魔法のロケットを握り締めていた。それは心細さの表れのようにも思えた。
家に帰っても慕っていた姉はもう居ない。
人形のように生気を失った両親だけが、友の帰りを待っているのだ。

「先生」

病院の玄関口で風花に話しかけた友の声は、どこか縋るような響きを帯びていた。

「また、会いに来ても良いですか?」

風花はおもむろに友の体を抱き、その背中に手を当てて答えた。

「勿論だとも、いつでも会いに来てくれ給え。歓迎するよ」
「……ありがとう、ございます……」

白衣の袖をきゅっと握り返し、少年はやっとの事でその言葉を振り絞った。
震える喉は、嗚咽を漏らさないようにするのが精一杯だった。
友は歯を噛み締め、静かに泣いた。


文章を保存してパソコンの電源を落とすと、風花は大儀そうに立ち上がって伸びをした。
背骨から小気味良い音が鳴り、筋肉が解れていくのが解る。
しょぼつく目をパチパチと瞬かせ、腰を拳で叩きながら当直部屋を出た。
2、3度咳をした所でふと己の年寄りくささに気付き、苦笑する。
元来体が凝りやすい体質の上、自身をウイルスの実験台としているツケが回っているのだ。
それでも、風花の気が沈む事は無い。彼女の機嫌は過去に例を見ない程良好だった。
まるで毎夜夢に見ていた運命の人と巡り合ったかのような。

「(いや、『まるで』では無いな)」

風花は無人の廊下をゆっくりと歩きながら黙考する。
美咲友と巡り合ったのは、正に運命のような僥倖であった。
あの少年は、風花の求める全ての条件を満たしていた。
強い意志力、辛い現実を受け止める精神力、言葉の端に浮かぶ聡明さ。
間違いなくあのロケットを渡すに足る価値を持つ子供だった

「(あのロケットを開けたら……あの子はどう思うだろう)」

風花が渡したロケットには仕掛けが施されている。
開閉のスイッチを押しても2度までは開かない。3回押す事で初めて開くのだ。
そしてその3回目で、スイッチ部分に仕込まれた極小の針が友の指に打ち込まれる。
その針にこそ、風花の人生を集約した、『取って置き』が塗布されている。
試算によれば友の感染後、2ヶ月もすればウイルスは世界中を巡り、
人類の約半数が罹患し、その内の70%以上が死に至る。
但し、最初に感染した友自身が死ぬ事は無い。彼は特に自覚症状も無いまま、
生きた殺戮兵器としてその後の人生を歩む事になるだろう。

しかし、その確立は決して大きいものでは無い。
まず友があのロケットを使う事が無いかもしれない。
使ったとして、3度もボタンを押す事は無いかもしれない。
あるいは長年放置され、成長した友がふと押してみようという気になったとして、
その時には塗布したウイルスが死滅している可能性もある。
誰かに見つかり、盗まれるかもしれない。その可能性が最も高いのは友の両親だ。
自分の娘の病気に対し何も出来なかったに等しい風花がプレゼントした物を、
果たして放って置いて貰えるだろうか?
上手く針が刺さったとしても感染しない可能性も考えられる。
針を抜き、適切な処置を施せば感染確立は極端に落ちるのだ。

これほどの不確定要素を、風花はしかし意図的に受け入れていた。
彼女の持つ確固たる思想がそうさせていた。

全ては運命に従って動いている。

風花は美咲友という素材の中に、掘り出すべき運命を見出していた。
そう、彼ならばきっと、ロケットの裏側に掘られた『Survive』の意味を
真に理解してくれるだろうと確信していた。
彼の歩む道の途上に、どのような困難が待ち構えていようとも。

「フフッ……運命は……石の中で掘り出されるのを待っている」

裸繰埜病咲風花は薄暗い廊下で誰にとも無く呟き、

「ああ―――楽しみだなぁ」

うっとりと、微笑んだ。