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317 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/22(土) 23:57:36 ID:6lYBvxQ2

「守らねばならん場所が、広すぎる」

 大広間。作戦会議は早急にはじまった。今は、アニエスが卓の上にのった館の地図を指し示して説明している。

「この館をかこむ塀は、長すぎるのだ。そのうえ高さはせいぜい人の上背くらいだ。無いよりははるかにましだが」

 集っているのはアンリエッタ、館の主である老領主、先刻に敗北を喫した近衛メイジたちの指揮官。そしてルイズと才人、ギーシュ。

「館からあまりに離れているのだ。館から約100メイルの距離でぐるりと取り囲み、ややひらけた森の中にめぐらされている状態で、その全長は700メイルに達する壁。  これを、銃士隊五十二名、水精霊騎士隊三十一名、新たに来て館にたどり着けた近衛兵四十八名、その他の随行員および館の人間三十八名の総勢百六十九名で守る。  一人当たり4メイル以上の壁を担当せねばならない計算になる。  戦力が分散しすぎる」

 アニエスはそう言ってから、面々を見渡した。

「言っておくが、『その他』の三十八名は、治療士、料理人、召使、侍女のたぐいが含まれ、マザリーニ様や領主どののように老境にあるものもいれば、銃士隊とちがい武器など手にしたこともない女性もいる。  そして水精霊騎士隊および近衛兵については、メイジとしての能力を奪われている以上、その戦闘力はいちじるしく低下している。  なぜ魔法が使えなくなったかは、今考えてもしかたがないので後回しにする。まともな戦力を保有しているといえるのは実質上、銃士隊五十二名のみだ。  これで、どこから来るかわからぬ敵をしりぞけねばならぬ」

 集まった者たちは、少しのあいだ誰も何も言わなかった。重いため息さえ出なかった。  ややあってから、館の主が白くなった頭をかいて言った。痩せた人柄のよい老貴族である。

「まいったの。森中の塀については、はるか昔の先祖が築いたものじゃが、実はもっと内側にもう一つ、館を囲む石壁があったんじゃ。  数代前、館の改築のとき、内側の壁を壊してしまったらしい。  街道に大規模な盗賊の横行する時代は過ぎ去っておったし、もう一つあるならよいと思ったんじゃろうが……」

 その慨嘆は、残念ながら現状を乗り越える役にはたたないようだった。

「それならいっそ敵には壁を乗りこえるにまかせ、館にこもって戦うってのはどうだろう?」

 才人の提案に、アニエスと近衛の指揮官が同時に「駄目だ」と首をふった。アニエスが説明する。

「館にこもれば包囲され、火を放たれる。突撃してこられれば、魔法なき白兵戦では向こうがずっと有利だ。銃士隊とて女の力だからな、一対一でさえ危ない。  壁で撃退するしかない」

 近衛メイジの指揮官がいまいましそうに床をけりつけた。もともと副官だが先刻の戦で、派遣された指揮官が斧で首をはねられたので、自動的に昇進したのだった。  軍人らしい精悍な顔だちをゆがめて、その青年は罵声をはなった。

「ちくしょう! 竜さえ残っていれば、包囲の上を飛び越えて近隣の領地に速やかな援兵をたのむことも、陛下をお逃がしすることもできたのに!」

 アンリエッタが彼に問う。

「竜は全滅したのですか?」

318 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/22(土) 23:58:17 ID:6lYBvxQ2

「……はい、投網や矢を使われて。真っ先に、敵は数匹いた竜を狙ったのです。われわれのほとんどは、魔法を放とうとしてそれが出ないことに狼狽し、まともな対応ができませんでした」

 アニエスが彼に向き直った。

「竜はもう仕方がない。貴君には、今夜の作戦でわたしの指揮下に入ってもらう」

 指揮官の顔がどす黒くなった。  ありありとその顔には、「メイジが、平民上がりの女の下に?」と書いてあった。  が、それでも現状の自分たちは平民に劣る戦闘力しかない、とわきまえてはいたようで、渋々とうなずく。アニエスが、全員に顔をめぐらせながら声をはりあげて言った。

「今夜だけだ。おそらく潰走した近衛兵たちの一部は、来た道を必死に戻って連絡をつけるはずだ。早ければ今夜中には援軍が来る。遅くともきっと、明日の昼までには。  耐えてほしい、さまざまなことに。メイジには屈辱かもしれないが、平民の武器を手にして戦わねばならないぞ」

 アニエスは最後にアンリエッタを見た。まだ銃士隊服のままの女王が、こくりとうなずいて後押しした。

「銃士隊長に采配をあずけます。ただ勝利のことを考えてください」

 アンリエッタの発言をうけて、そこでマザリーニが手をあげた。黒衣の宰相は、冷たい目でアニエスを見た。

「言っておこう。われわれの勝利とは敵を破ることではない。陛下の御身を守ることだけが目的とこころえよ」

 アンリエッタが眉をひそめ、枢機卿に向けて口をひらいた――が、その前にアニエスが頭を下げた。

「近衛兵とは、そのために存在するのです。無論、陛下の身の安全が最優先です」

 なにかを言いたそうなアンリエッタの様子に気がつかないふりで、アニエスは締めくくりに入った。

「大まかな方針は、壁で敵を防いでひたすら時間をかせぐ。銃士隊をできるかぎり無駄なく使いまわして、防備の薄さをおぎなう。  細かいところは、現場に出る兵たちと一緒に伝える」   「ひたすら防戦、ですね」

 緊張で顔色をやや青くしているギーシュが、ごくりと固唾を飲みながら言った。  メイジの指揮官が、うなずいて彼に説明した。

「敵は弩(いしゆみ)を持っていた。銃もいくつか。壁からうって出て攻撃しようとすれば、われわれは飛び道具の雨に相対するだろう。  実質的な戦力に勝る相手には、防壁に拠って援軍を待つしかない」

319 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/22(土) 23:58:50 ID:6lYBvxQ2

 最後に、ルイズが提案した。

「アニエス、村はどう? あの村の石壁は、この館に来るとき見た壁よりも高く、頑丈そうだったわ。それに、村人の協力が得られるはずよ」

「ラ・ヴァリエール殿、それは考えたが不可能だ。ああ、確かにここより守りやすかっただろう。しかし、この館と村とのあいだは街道をはさんで離れている。  村まで移動しようとすれば、街道を押さえた敵に見つからないではすまない。全員で館を出たとしても、敵の戦力のほうが勝っているのだ。  ……逆にきわめて少人数なら、見つからないですむかもしれないが……」

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 〈山羊〉は、近衛のメイジを奇襲したあとの死体転がる街道で、あらためて兵の編成をしていた。かがり火のそばに立つロマリアから来た傭兵隊を見る。  たった今駆けつけたその傭兵隊は、総勢三十名、全員が騎馬である。その代表を目にしたとき、〈山羊〉は片眉をあげた。

「あんたはたしか副隊長じゃなかったか? 数日前に俺が話をつけた隊長どのはどうした」

「前の隊長なら、まあ、いろいろあってね。そのおかげで来るのが遅れちまったよ。今は俺が傭兵隊をひきいてる」

 そのひげ面でがっちりした体格の男がにやりと笑った。全身にごてごてと金の装飾具を飾っており、悪趣味なほどである。

「……まあ、仕事さえしてくれるなら誰が代表だろうと構わんが」

 傭兵隊という集団は、内部でさえときには血みどろなのである。細かいことをつっこんで訊く気は〈山羊〉にはなかった。

「できればもう少し早く来てほしかったところだがな。すでに緒戦は終わったところだぞ」

「だからいろいろあったんだって。まあ、もういいじゃねえか、勝ったんならよ。それより、あらためて訊くが、金のほうはどれだけいただけるかね?  いやさ、前の隊長しか聞いていなかったんでな」

 悪びれもせず金の交渉に入る傭兵隊長に、〈山羊〉は金額を告げた。普通なら目をむく額だったが、その傭兵隊長はうなずいてから言った。

「まあ、なかなかの額じゃねえか。しかし、相手はトリステインの女王とか。さすがに一国の王権を相手にするとなると、もう少し色をつけてもらわんと割にあわんね。  後がこわそうだからな、ロマリアの南端まで逃げても」

 〈山羊〉はぐるりと眼球をまわし、肩をすくめる。傭兵の貪欲さは、自分自身が金でやとわれた身である〈山羊〉にとっては理解可能であるが、だからといって愉快ではない。  とはいえ、「金を惜しむことはない」と雇い主である紫のローブから言われているのも確かだった。  その者は、とっくにこの場から去っており、代わって自分が全権をあずけられている。   「成功したら報酬に上乗せしよう、大幅に」と約束すると、傭兵隊長はにやりと笑った。

「結構、結構」

 それから、その男は笑みを消して鼻をこすり、腰にさした剣のつかを手のひらで撫でた。

「じつは個人的にも悪い話ではないと思ってる。よくある話だが、貴顕の者ってやつが俺は大嫌いでね。金をもらってそれを相手取れるってのが心地よい」

320 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/22(土) 23:59:26 ID:6lYBvxQ2

 傭兵隊長の言葉に適当に相槌を打ちながら、〈山羊〉は思考する。  これで、兵力は百七十名を越した。もっと集めたかったが、そうもいかなかった。  トリステインやゲルマニアの当局に気づかれず、国境を越えさせたり武器を運ばせたりするのは至難の業だったのだ。武器も重火器や攻城やぐらなどもちろん無い。  それでも、敵よりは準備がととのっているはずだ。

 敵はおもに銃士隊になるだろう。事前に調べたところ、今回の女王の巡幸に付きしたがっているのは五十名ほどである。  武器でもこちらには銃と剣のほかに弓、弩(いしゆみ)があり、銃と剣しかない敵よりはるかに有利だろう。マスケット銃は大音響と破壊力があるが、命中率は弓のほうが高いくらいだ。  しかし、向こう側には低いとはいえ石壁がある。おそらく、その壁を最大限に利用した戦闘をするはずだ。  実質戦力に劣る以上、やつらがこちらの攻撃を耐え切る方法は、ほかにないのだから。

 こちらは壁さえ突破すれば、勝てるだろう。  ……いや、あるいは、それ以外でも決着がつくかもしれない。  〈山羊〉は目の前の傭兵隊長に指示をくだした。

「騎馬隊でわざわざ来てくれたのに悪いが、戦場は森になりそうでな。馬は向かん。あんたには、ほかにやってもらいたいことがある」

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 館。水精霊騎士隊・隊長および副隊長にあてられた一室。  今の状況は、作戦前の最後の猶予、ということになる。  気をきかせたのかギーシュが出て行ったため、才人は久々にルイズと二人きりだった。  しかし残念ながら、そう色っぽい状況とは言いがたい。才人は床に正座して弁明しているのである。

「始祖に誓います。今までの道中、誰が相手であろうと、他の女性に下心を抱き、やましいことをしたりはしませんでした。本当デスヨ?」

「語尾が震えてるわよ」

 勘弁してくれ、と才人はげっそりしたため息をついた。  ベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせている桃髪のご主人さまは、おだやかな表情だった。ただし、この見せかけの平穏にだまされてはならない。

 恋人関係になってから、ルイズは成長したと思う。心に余裕らしきものが出来たのだ。  少し人当たりがよくなった。  少しヤキモチゆえの使い魔への暴力を抑えられるようになった。  少し笑顔が多くなった。  少し素直になった。

321 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/22(土) 23:59:57 ID:6lYBvxQ2

 まあ、そこまではいい。カトレア方面への成長である。  しかし。  精神的な重圧をかけるのがうまくなった。  簡単に衝動的な暴力をふるわなくなった分、やると決めたら鬼も泣くまでやる。

(そのへんはどう考えても、こいつの母ちゃんに似てきてるんだよな……)

 烈風カリンことカリーヌから、「殿方の手綱の握り方」をあの冷厳かつ淡々とした語り口で伝授されているとかいないとか。気がつけばルイズは鎧までオーダーメイドしている。  あと暴力が減っただけで、ヤキモチ癖は変わってない。むしろ悪化していた。

(今日いきなり電撃訪問してきたのだって、ほんとに驚かせるためだけか? って思っちまうよ、ったく。  ……さて、問題は……俺が無実じゃねえってことで……)

 耳の後ろにつっと冷や汗が流れた。  先ほどルイズに「誰にも下心からやましいことはしていない」と言ったのは本心だ。いや、少なくとも自分の意識している範囲ではそうだ。

(そう、姫さまとちょっともやもやしたが、あの一連は下心でやったことじゃない! 今思い返したってそんなこと考えも……)

 軽くキス→落ち着いて安らかにお眠りなさい、的なもの。放っとけなくなっただけである。あれを見捨てたら人じゃねえ。

 手をにぎる→上におなじ。そうだこの感情、いわゆる父性愛というものではなかろうか。ほら姫さまときどき弱々しいし、庇護欲をそそるんだよね。

 抱き合う→弱々しいつーか姫さまほんとに可憐って感じだよなあ。腕の中でちょっと震えてて、銃士隊の鎖かたびらつけてても、不思議と抱き心地が柔らか……

「って違う! 最後がおかしい!」

 青ざめてつい口走った才人に対し、ルイズは「……なんだかよくわからないけど、あんた不気味よ」とちょっと引いていた。

「まあ、何もないならいいわ。……わ、わたしだって本当は、あんたを信頼してるわよ。でもね、あの、その、長く離れてると心配で……  だからつい、問い詰めるようなことになっちゃって悪かったわ。ほら、ここ来てベッドにすわんなさいよ」

 頬をちょっと染めたルイズに隣を示され、才人は罪悪感と感激に満ちた顔を上げた。やはりルイズに隠し事をするのは耐えられない。きっぱりしゃべってしまおう。

「実は姫さまが、」

「ヨシ、死刑ニ処ス」

「早いぞ!?」

 一瞬で下った判決に涙をこらえきれない。信頼はどこへ行った。

322 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:00:27 ID:6lYBvxQ2

「ふ、ふふ、姫さまが何かしら? 焼けぼっくいに火がついたとか言うのかしら? 笑える。あれだけ釘を刺したのにあんた本気で何かしたとかなら、それはもう最高の冗談ね。殺スワヨ」

「聞け! 聞いてくれ!」

 とりあえず、才人は大まかなところを話した。  ただしさすがに命の危険を感じ、具体的に何をしたかとかは省いてある。というか、「手を握った」くらいしか伝えていない。  ただ、「今の姫さまはちょっと放っておけない」と本心を伝えた。

 そして才人の心の動きとは別のところで、否応なしに重い話にならざるを得なかった。巡幸途中で起きた、青い目の少女に関わる二つの事件。十日前と今日の。  今日の事件についてはかなりの程度ルイズも当事者だが、十日前の話は初耳である。ルイズは沈黙して聞いていた。それが終わると、悲しそうにため息をついた。

「悲惨な話ではあるけれど、どうしようもないと思うわ。姫さまにはできることなら自力で乗り越えていただかないと」

「……意外だな。お前なら、姫さまをなぐさめにすっとんで行くかと思ったんだけど」

「ええ、昔ならそうしたわ。でも今は……サイト、この問題は微妙なところにあるの。  父さまが言ってらしたわ、誰もが満足する施政はおこなえない、ならばなるべく多くの者が納得する道を選ぶしかないと。  きっと、これから先も姫さまが何かを決断するたびに、あるいは大臣たちが決めたことを女王の名において裁可するたびに、だれかの運命が左右されるわ。  それが為政者なのよ。そして、形だけであれ王がまつりごとの頂上で決断を下すかぎり、愛も憎悪もそこに向かう。それを、姫さまは当然のことと受け止めなければならない」

 ルイズは一呼吸おいて、しんみりした声で続けた。

「女王の名において下された施政よ。それで起きた一部の民の不幸に傷ついたからといって、そのたびに誰かに許してもらわないと駄目なの? 女王としての権威は、ご自身にさえおとしめる権利はないわ。  ここで周りが下手になぐさめるばかりだと、姫さまは女王として自分で立てなくなるわ。なぐさめ役の臣下にべったりで、頼りっぱなしになってしまう。  わたしは侫臣にはなりたくないし、姫さまを君主として惰弱にしてしまいたくもない」

「……つまり、姫さまに頼り癖をつけさせるなってことか? 政治にかかわる心の問題は自分で吹っ切らせろと」

「そう。まったく他人の声を気にしないほうが困るけどね、憎まれないことだけを考えて政治をすることはできないわ。  姫さまにはちゃんと、為政者としてやっていける素養はあると信じてるし、ある程度までは、そばで見ておいたほうがいいと思う。冷たいようだけどね……」

 ほろ苦いルイズの口調に、才人は首をふった。心から言う。

「お前は、本当に成長したよ」

 王位継承権を与えられている以上、ラ・ヴァリエール家でそのために恥ずかしくない程度の教育もほどこされるようになったと聞く。  あの公爵と奥方ならば、人の上に立つ者としての心得もりっぱに教えられるだろう。それ以上に、臣下として一線を引かなければならない部分を叩き込まれたにちがいない。  ルイズは、何かを考える表情になっていた。ベッドの上で腕と足を組んで考えこむ。才人はその真剣な様子に何もいえなくなる。時間にして数分、ルイズは顔を上げた。

323 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:00:56 ID:6lYBvxQ2

「サイト、わたしは姫さまに忠誠を誓っているわ。臣下としての範囲なら、あの方のためになんでもする。  ところで、あんたも姫さまの臣下よね?」

「え? うーん……まあ、水精霊騎士団の幹部だし、形はそうだな」

「形ってなに? 形ってなに? それまさか『内実は臣下じゃないから自分はおなぐさめしても何の問題もないな』とか言いたいのかしら? あら曲解ですって? ほーお。  うやむやになるところだったけど、さっきの話は後でもう少しゆっくりと……いけない、激しく脱線してるわ。  とにかく、あんたは女王陛下の臣下。わたしと同じく。だから、これから言うとおりにしなさい」

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 アンリエッタは赤いじゅうたんの敷かれた廊下を、静寂を壊さぬようにして歩いた。燭台が等間隔ですえつけられ、暗い廊下に揺れる火の赤い光をもたらしている。  この先には、才人の部屋がある。  さきほど、ギーシュが水精霊騎士隊の隊員達と外に出て行くのを見た。ならば、才人は一人……いや、きっとルイズと一緒なのだろう。

 自分が、なんでそこに行こうとしているのか、実のところアンリエッタ本人にもわからないのだった。  ルイズと話したいのか。才人の顔を見たいのか。それとも、単に自分が不安になっていて、二人のもとに行きたいだけなのか。  全部当てはまるようにも思える。  襲撃が来るまでおそらく間もない。肌がひりつくような張りつめた空気が館の内外に満ちていて、多かれ少なかれ誰もが緊張し、心細さを覚えている。  アンリエッタも同様であった。

 大広間の会議のあと、マザリーニと館の主は二人してどこかに消えてしまい、アニエスと近衛メイジの指揮官、およびギーシュは、それぞれの部下たちを連れて外へ。  館の召使たちの中に一人取り残されたアンリエッタは、どうにも落ち着かなくなってこうして才人たちの部屋を目指しているのだった。

 ルイズと一緒にいるのに無粋かしら、と歩きながら悩むが、いつのまにか才人のほうを中心に考えていることに気づいて、ぱっと顔を赤くする。  先ほど炉の前で抱きしめられた感触は、まだ鮮烈に体に残っていた。

(いやだわ……はしたない)

 ルイズもいるのである。いくらなんでも親友の前で、つい先刻その恋人の腕の中にいたことを意識するのはどうかと思われた。  つとめて忘れようとする。昔に決着がついたことなのだ、と首をふる。  そうやって自分に言い聞かせなければならないほど危ないところに来ている、とアンリエッタ自身うすうす気づいていたが。

324 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:01:40 ID:DIjGLQvc

 決して、昼間の村での出来事を吹っ切れたわけではない。ともすればまた、終わりのない懊悩に入ってしまいそうになる。答えなど出ないと、自分でもわかっているのに。

 それを断って、沈鬱の沼から引き上げてくれたのが、あの抱擁だった。人肌の温かさは、本能的な安らぎを与えてくれた。  あの瞬間を思い返すだけで、救われる気がする。忘れなければならないにしても、本心ではもう少しくらいこの記憶を留めておきたい。  だから……どれだけ自戒しようとしても、ここしばらくのように、才人の顔を見ただけでまた鼓動が速くなってしまいそうだった。それでも、歩みは止まらなかった。  気がつくと扉が前にある。心の準備はできていないのに、手が勝手に動いてノックしようとしていた。

「……嫌だ、それなら言ってやる! やっぱり、俺は姫さまの臣下じゃねえよ! 俺はお前の使い魔で、お前ほうってまで王家に仕えたいわけじゃねえ!」

 手が止まった。ドアの向こうで、二人が争う声が聞こえる。  才人の声は完全に激しており、ルイズの声もまた大きいながら、彼女の言葉はどこか言い聞かせるような口調だった。

「子供みたいなこと言わないでよ! わたしは姫さまの臣下なのよ。あんたはわたしの使い魔で、それならわたしの言うことを聞くべきでしょ」

「ちがう、俺はお前の身を守るのが役目だよ! くそっ、賛成しねえからな、こんなの……!」

「サイト。あんた、ガンダールヴの力、使える? 左手のルーン、消えてないけど薄くなってるでしょ。  いつもの力が出せないなら、護衛としての能力的にはアニエスたち銃士隊と変わらないわね」

「関係ねーだろ! ……使えねーよ。お前らが魔法を使えなくなったのと同じあたりから。けどそれが何なんだ? 剣を使える俺は、お前ら杖以外を持ったこともないメイジよりずっと戦力になる。  ルイズ、俺はお前を守るからな。ふざけたことを言うんじゃない」

「サイト。あんたがわたしを守りたいと言ってくれるように、わたしは姫さまを守りたい。主君のために身を投げだすのは臣下の義務だわ。  そんな怒らないでよ、死ぬ気なんかないわよ。うまくやるつもりだから。  虚無が使えない今のわたしは、あんたの言うとおり本物の役立たずなのよ。戦いでは歯がゆい思いをしているしかない。でもこれなら、役に立てるわ」

「じゃ、俺はおまえと一緒にいくぞ。死ぬ気無いんだろ? 俺も死なないさ」

「サイト、冷静になって」

 ルイズの声が、樫の板でできたドアを通して、廊下に立ち尽くすアンリエッタの耳に入る。情愛がこもって、かすかに哀しい声だった。   「ラ・ヴァリエール家は名門だわ。賊徒だって、わたしにそう簡単に危害は加えないはずよ。身代金だってたっぷりとれるもの。でもあんたは違うのよ、ついてきたら危険なの」

「わかるかよ! 王家に手を出そうって連中だぞ、どれだけ名門でも安全ってこたねえよ!」

325 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:02:44 ID:DIjGLQvc

「……とにかく、敵の目標は姫さまで、わたしたちの第一に守るべきも姫さまだわ。  敵が姫さまに万が一にも触れるようなことがあってはならない。それは、みんなが了解してるわ。枢機卿さまも、アニエスも。  今言ったことを、これから彼らの誰かに話してみる。理解してよ……姫さまはわたしのたいせつな主君なのよ」

 そのルイズの言葉を最後に、ドアに伸ばしたまま固まっていた手を下ろす。  アンリエッタは、身を返して静かにその場を離れた。

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 館の外。壁にかこまれた異様に広い『庭』。  誰もがてんてこ舞いで防戦の準備に取り掛かっていた。  あきれるほど長い壁ぞいには、かがり火が数メイルおきに燃やされて夜を照らしている。  アニエスは壁ぞいを歩いて見てまわる。近衛隊すべてと館の男手を集めたところで、一通り説明はしていた。

「もっとも弱いのはやはり、壁がとぎれて門がある、村へと続く小道の部分だ。あの鉄格子の門が突破されれば、一気に敵がなだれこむ。  そこで、最大の戦力を保有する銃士隊は、まず一部が門の守りについておき、残りは攻撃の激しい箇所につねに移動して戦う。馬は離れた距離への移動用に使う。  長大な壁のほかの部分にそれ以外の近衛兵たちを貼りつけておく。武器は持ってもらうが、基本的には見張りと足止めだ。  敵は壁を乗り越えようとするだろう。それを叩き、同時に合図するんだ。合図のためのドラを持たせておく。手に余る数が一部分に殺到したら、銃士隊が駆けつけて攻撃に加わる」

(とは、言ったものの……うまくいくだろうか?)

 アニエスは自信があるように振舞いはしたが、たぶん誰よりも冷や汗をかいていた。  石を積みあげて粘土でかため、固定しただけの『壁』は老朽化しており、少し時間をかければ体当たりでさえ壊せそうだった。  それに、あまりに低すぎた。二メイル足らず、人の上背程度しかない。壁というより正確には塀である。かぎ縄やはしごがなくとも、乗り越えるのは体ひとつあれば出来てしまう。  不安をふり払うように、彼女は声をはりあげた。

「敵の総数は、われわれと同じ程度だ。こちらは防げばよい、奴らを壁の内側に入れないだけでよいのだ。明日には援軍がきっと来る、それまで持ちこたえればよいのだ」

 大声で、自分自身さえごまかす。  たしかに通常、城壁に拠って守るほうは、攻めるほうより数が少なくても目的を達することが容易である、と言われる。

 ……それは守る必要のある箇所が広すぎず、また敵の接近を即座に知ることが出来る状況での話だった。

 壁の外をにらみつける。壁から五メイルほど距離をあけて、うっそうと針葉樹の森が茂っていた。  間伐がされているようで、木々の間隔は二〜四メイルほどだが、闇夜となるとさすがに森の中は暗い、外から見えないほどに。

326 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:03:19 ID:DIjGLQvc

(森だ。この森が忌々しい、これのせいでどこから敵が来るかわからない!)

 それでもまだ壁の内側、庭の中の木が大幅に間引かれているのは救いだった。  おかげで馬を使い、庭を突っ切って反対側の壁に移動することができる。合図も容易なはずだ。

(敵はどうやって攻めてくる? 通常なら、兵力を分散させるのは愚の骨頂だが、われわれは敵陣の具体的な様子を知ることができない。かといって壁を離れるわけにはいかない。  となるとおそらく、敵は大胆に兵力をさいて壁を多方面から攻めるだろう。まず一方を叩いてわれわれの兵を集中させ、その隙にほかの場所で乗り越えようとする……厄介だな)

 アニエスの思考を才人が読めれば、「モグラ叩きのようだな」と表現したかもしれない。

(どちらにしても一度数名での突破を許せば、そいつらを片付けるのに手間がかかる。その隙にもっと多くの敵が乗り越えてくる。そうなれば終わりだ)

 そのときにはこの庭で、決死の白兵戦をするしかない。  その混乱のうちに、どうにか陛下に脱出していただき、馬で彼女が逃げる間、最後の一兵まで死兵となって足止めする。  あるいは今日で死ぬかな、と自然に覚悟を決めてから、アニエスは怒鳴るように指示を飛ばした。  見張りについたメイジ達に向けてである。彼らの一部は館の剣や槍を持たされていたが、多くはスコップや薪割りの鉈や木の太枝の棍棒で武装していた。

「レンガや石を集めて足元に積んでおけ! 銃は訓練していないお前らではまともに扱えん、だから持たさん。物を投げて攻撃するんだ。  壁と森の間は5メイル、この間にいる相手にはじゅうぶん有効だ」

 壁の内側ぞいのほうが、外側よりも若干地面が高い。つまり、こちら側は壁に立てば首から上が出て、見るにも攻撃するにも敵より容易だ。  土一段の差だが、これは存外に有利な部分だった。

 暗い森。狼の遠吠え。杉のこずえが白い月をさし、冷たい長い壁を燃えるかがり火が照らす。

 アニエスの身が総毛だった――周囲の者たちが反応しているのと同じ方向に、彼女は向き直った。

 ある場所で、ドラが連続して鳴らされている。興奮気味に、狂ったように。  もう一つの音がそれに続いた。陰惨に長く引き伸ばされて。それは角笛の音だった。敵の鳴らす音だった。  アニエスの前に飛んできた伝令役の銃士隊員が、馬に乗ったまま叫んだ。

「門です、門に来ました! 大挙して隊列を組んで、小道をのぼってきます!」

 なるほど。序盤は正攻法か。壁の最も弱い部分に、人数をぶつける気らしい。  アニエスは舌打ちして、ひかれてきた馬に自らもとびのった。

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 館の古い物置部屋。館の主である老貴族が、苦労して床の一部の板を持ち上げると、階段があった。湿った土臭い空気がのぼってくる。  抜け道だった。

327 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:03:50 ID:DIjGLQvc

「この秘密の道は、街道近くの森の中に通じております。  いざというときの脱出のために先祖が作ったものですが、いつからあるのか、わたしも知らないのですよ」

 老貴族の説明をうけて、ルイズはうなずいた。

(これなら、姫様の脱出も本当にできるわ)

 ぐっと手をにぎる。館の主がさらに説明した。

「地下道は、気をつければ馬でさえ通れます。馬をひいていき、すみやかに陛下をお逃がしするのが良いでしょう」

「ありがとう! あとは馬車ね。わたしが乗ってきたラ・ヴァリエール家の馬車を用意していただけませんか?」

「ば、馬車? 馬車はさすがに通れません」

「地下道じゃないわ。馬車のほうは正面から出て行くのよ」

 館の主は首をひねりながら物置部屋から出て行った。  それを見送りながら、マザリーニがぼそりと言う。

「陛下への忠誠、まことに礼をいくら述べても足りない」

「いいえ、当然ですもの」

「なるほど、忠実な臣下としては当然かもしれません」

 ルイズに向けられたマザリーニの声と目には、単なる感謝ではなく、どこか皮肉なものがあった。

「ですが、『友人』としてならどうでしょうな? これは陛下の許しをえて進めていることですか。それとも、話してさえおられないのですかな?」

 一瞬、言葉を失う。ルイズは眉根をよせた。

「……友人としても、陛下には逃げのびてほしいですわ。  なんだか、うちの使い魔と同じようなことを言うんですね」

「いや、失敬。たわごとと思って聞き流されよ。  では、すみやかに陛下を……」

328 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:04:51 ID:DIjGLQvc

 そこまで話したとき、出て行ったばかりの老貴族があわただしく戻ってきた。  悲鳴のように告げる。

「門が攻撃されております! だめです、正面からはもう出られません」

 ルイズと枢機卿は顔を見合わせた。  遅かった、と互いの目に書いてあるのを読み取る。枢機卿がため息をついた。

「いきなり策が狂いましたな」

 自分が囮となって正面から馬車を走らせ、敵の目をひきつける間、アンリエッタを逃がす。どこまで行けば安全なのかわからないが、ラ・ヴァリエール領まで行けばまず確実に助かる。  それが、ルイズの提案した計画だった。  考える。たしかに序盤からつまずいたが、取り返しがつかないわけではない。

「いえ、それなら、わたしも馬をひいてこの道から抜け出ます。そこから囮になって、街道を反対に走ればいいんだわ。捕らわれるとしてもなるべく長く逃げてみせる」

「結構。では、急いだほうがよいでしょうな。さっそく陛下を呼んでまいりましょう」

 マザリーニが物置部屋から出かけたとき、三人もの人間が入ってきた。  先頭にいるギーシュの後ろに才人を見つける。どうにかこうにか言い聞かせ、ギーシュかアニエスに伝えるよう言っておいたのだった。  「サイト」と言いかけて、最後に入ってきたアンリエッタに気づいて口をつぐむ。

 そのアンリエッタが、淡々と言った。

「サイト殿から、すべて聞きました。わたくしを逃がすと」

 ルイズは才人をにらみつけた。いや、どのみち言わなければならなかったのだが。才人はそっぽを向いている。

 マザリーニがこほんと咳払いした。『午後の予定は要人との謁見となっております』と言うのと変わらない調子で、宰相は言った。

「陛下、話が早そうですな。ではルイズ殿に従い、すみやかにお逃げください。  玉体に万が一のことがあってはなりません。あなたの無事のために、外のすべての者が戦っているのですよ。陛下が危地を脱することこそ、みなの望みなのです」

 アンリエッタは無言だった。水面のような静かな瞳で枢機卿を見、ルイズを見、床に暗い入り口をさらした抜け道を見た。  彼女のこぶしが白くなるまで握りしめられるのをルイズは見た――固唾をのんだが、決して引くわけにはいかなかった。  ややあってアンリエッタは顔を上げた。その瞳に、悲しそうな色がたゆたっていた。  苦渋の念がこもった声で、彼女はつぶやいた。

「ルイズ、ごめんなさい。わたくしのために、こんなことまでさせて」

329 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:05:24 ID:DIjGLQvc

「姫さま」  ルイズは声を出して女王の前に歩み寄り、その手を押し包むようににぎった。 「勝手なことをして申し訳ありません。臣としての立場で僭越のきわみ、後からどのようなお叱りも受けます。でも、これだけは譲れません。国には姫さまが必要なのです。  ですからどうか、ここから離れてください」

 臣としての立場。そう言いながら、「姫さま」と呼んでいることに、ルイズは自分で気づいていなかった。気づいたのは、アンリエッタの方だったろう。  彼女はルイズの手をにぎり返して、ためらいはしたがうなずいた。  マザリーニがふたたび咳払いして、館の主にうながした。

「馬を連れてきてくれないでしょうかね」

 館の主が再度出て行った。召使たちに指図する声が聞こえる。  姫さま、とルイズはささやいた。

「申し訳ありません。これだけは我がままですが、サイトを護衛として連れて行ってもらえないでしょうか。ギーシュだけでは不安です。  こんな馬鹿ですけど、剣の腕はいいから、役に立たせてやってください」

 使い魔が怒りに満ちた形相で、ぐるんとこちらに顔を向けるのが視界の端に映った。

「ルイズ、おまえ……!」

「サイト、落ち着けよ! 陛下の御前だぞ」

 ギーシュがうろたえて彼を引き止めている。  そちらを向きたいという思いをこらえて、ルイズはできるだけ茶化すようにアンリエッタにささやいた。

「すぐ自分で引き取りにいくつもりですから。あずかっててくださいね?」

 女王は、やわらかく微笑んだ。やはり、どこか悲しげに。

「わかっているわ、ルイズ。彼はあなたの騎士だもの、すぐあなたのところに戻ります」

 才人がまた、何か言おうとしていた――それをギーシュも察したらしく、慌てて割りこんだ。

「ま、まあまあ。こんなときまで喧嘩することはないと思うが。再会の約束でもしておいたらどうだね、ルイズ?」

「……そんなの、必要ないわよ。どうせすぐその顔見るもん」

「ルイズ、意地をはってはなりませんよ」  アンリエッタが首をふった。 「彼と誓っておいたほうがいいわ。こういうことは、おろそかにしては駄目。ギーシュ殿?」

330 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:05:56 ID:DIjGLQvc

 女王に呼びかけられたギーシュが、「あ、はい」とあわてて飛び出していき、すぐ戻ってきた。手にワインボトルとグラスを人数分抱えている。  受け取り、そばの小さな卓に置いて、アンリエッタは手ずからそそいだ。四杯注いだあとでふと、マザリーニに目を向ける。

「あなたはどうなさるの、枢機卿? とどまるのですか?」

「そうですな。見てのとおり老体ですからな、街道をひた走るのは疲れそうです。足手まといになるのは恥ですので、ゆっくりこの館で休ませてもらいましょう」

 飄々とうそぶく宰相に、「……そう。では、あなたとも杯を乾して誓いましょう」とアンリエッタは目を伏せて五杯目を注いだ。

 ルイズはちらりと才人を見た。  才人が自分を心配してくれるのは、わかっていた。この計画を聞いて激怒することも。始末におえないことに自分は、拗ねながらもそれを嬉しく感じている。  ワインをそそぐ音が、ほこりっぽい物置に響く。

 彼女の脳裏に、なぜか幼い日に父公爵のもとを訪れた吟遊詩人の声がひびいた。  愛のために王を裏切った騎士が、王の追っ手と戦って傷つき、主君を裏切ってまで手に入れた王女と杯を交わして愛を誓い、死んでゆきながら詠んだ詩だった。

(『今宵、別れの杯に、こぼるるものはわが血潮……かくてぞわれは呑みほしき、君がなさけを汲みし酒……裏切りは赤、死は来たり、杯に満ちわれを呼ぶ……』  やだ、これ、死別の詩よ。  そんなつもりはないわ。彼らはきっとわたしを人質にするはずよ、戦でも大貴族の捕虜はめったに殺されないって話だもの。絶対また会えるもの)    「誓いましょう。再会に」

 アンリエッタがグラスをルイズとマザリーニに手渡してくる。残りをギーシュと、渋々の様子ながら才人が手に取り、アンリエッタ自身が最後の一個を持ち上げて、くっとかたむけた。  ルイズも、目をつぶってそれを飲みほした。下戸に近いため、一杯だけでくらりとくる。

「ルイズ?」

 アンリエッタが心配そうにのぞきこんできていた。

「大丈夫ですわ……姫さま。わたしお酒だって、少しは強くなっれ、て、あれ、れ?」

 いきなり、ろれつが回らない。  心配をかけまいと、心を落ち着けてからもう一度ちゃんとしゃべろうとした。

331 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:06:31 ID:DIjGLQvc

「ルイズ。本当に……ごめんなさいね」

 姫さま、なんでそんなことを言うんですか。そう言おうとして、おかしいと気がついた。舌が痺れている。  視界がぐにゃりと歪んだ。その歪みの中で、枢機卿がよろめいて倒れふしていった。  気がつくと自分も床に倒れている。最後の意識で、『ワインに薬』と認識した。  あとは暗転。

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 館の主とアンリエッタ自身が、鳴かぬよう板を噛ませた馬をひいた。才人とギーシュがルイズ、それにマザリーニのぐったりした体を背負って運んでいる。  手燭を手に、暗い地下道を無言で三十分も歩いただろうか。やがて出てきた物置部屋と同じような階段に行き当たった。館の主が階段を上がり、慎重に上をまさぐる。  土が上にのって重いのか、顔を真っ赤にして力んでも持ち上がらなかったが、才人とギーシュが代わって持ち上げると、土がぱらぱらと落ちてふたが開いた。

 夜の森の中に出る。  馬に階段をのぼらせながら、アンリエッタは思い返した。

(眠り薬が効いてよかったわ)

 魔法は出ないのだが、ポーションはまだ効くらしい。  あの口論をドアの外で聞いたとき、ルイズが何をする気か予想はついた。  それで、明らかに不満げな才人から話を聞きだし、ギーシュを丸めこんでこうすることにしたのだった。袖の中にすべらせた薬を、ワインを注ぐときに二人のグラスに入れるのはたやすかった。

 才人とギーシュが馬を受け取り、意識のないルイズとマザリーニをそれぞれ体にくくりつける。  アンリエッタは、馬に乗った才人を見上げた。  手燭の火は地下道の中に置いてきていたが、木立からもれる月の光で、かろうじて表情がわかる。  才人は黙りこくっている。むっつりと女王の顔を見るだけである。アンリエッタは、次にギーシュの馬のもとに歩み寄った。

「ギーシュ殿、枢機卿をよろしく頼みます。ルイズとこの人がいれば、トリステインは大丈夫」

 ギーシュも無言だった。何か言おうと口を開きかけて、彼はけっきょく黙った。  かわりに横で口を開いたのは、才人だった。

「これはやっぱり正しくない。あんたら二人は話し合うべきだった。姫さま、あんたもルイズも互いのことを考えて行動したんだと思う。でも、善意が独りよがりすぎる」

 その言葉にアンリエッタが答える前に、館のほうで角笛とドラの音、銃声とどよめきが起こった。  意識のない者以外、誰もがさっとそちらを見る。  ギーシュが震える声でつぶやいた。

332 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:07:05 ID:DIjGLQvc

「始まったみたいだ」

 アンリエッタは顔をもどして才人を見た。彼の腕の中にいるルイズを見た。うずく胸を我知らず押さえたが、そっと手を下ろす。  女王としての姿を、意識してよそおう。  わずかに微笑んで、彼に答えた。

「でも、やはりこうするしかないのです。望むと望まざるとにかかわらず、わたくしは女王です。  ルイズはわたくしの安全を考えてくれましたが、王家の義務と名誉をわたくしは選ばねばなりません。  あなたは王家の騎士ではありません。もともと、女王のために戦う義務はないのですから、わたくしもあなたの手は必要としません。  夜陰にまぎれ、ルイズを守って遠くへ逃げてください。ラ・ヴァリエール領まで駆けてしまえば、だれも手出しはできません。  これ以上言うことはありません。急いでください。  ルイズをよろしく頼みます。その子が、白百合の玉座の後継者ですから」

 それが、別れの言葉だった。「ルイズとお幸せに」と付け加えようかと一瞬考えたが、やめておく。涙声になっては、台無しである。  アンリエッタは優雅に一礼すると、彼の表情を見ないようにして、身を返して地下道への階段を下りる。  館の主が、出入り口のふたをかぶせて、後ろにつき従った。

 帰りは行きより早かった。館に戻ってすぐ、アンリエッタは館の侍女に命じて着替えを手伝わせた。

(玉座は一人で座るしかない、父祖たちがずっとそうしてきたように。戦いからも玉座からも、逃げられない)

 処女雪のような純白のドレス。  シルクの袖は手の甲までぴったり包む。胸元に大きな緑の石のブローチ。  宝石をあしらった王冠を栗色の髪に載せる。

 大広間に入り、肘掛け椅子に座す。  外からは銃声と叫びとドラの喧騒が届く。  しゃちほこばって直立していた館の主が、「陛下……よろしかったのですか? その、脱出せずに」とためらいがちに訊いてきた。

 アンリエッタは柔らかい椅子に身を沈めながら、彼に答えた。

「部下が戦っているときに、わたくしが真っ先に逃げれば、トリステイン王家の名誉はおおいに傷つくでしょう。  臣下らがわたくしの無事を優先していたとて、世人の口は残酷なものです」

(重要なのは王家であってわたくし個人ではない。そして王家はルイズが継いでくれる。  わたくしは愚かな女王だった、今度のこれも愚行かもしれない。そうだとしても、最後の愚行になるでしょう)

333 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:07:38 ID:DIjGLQvc

「わたくしが座るところがトリステインの玉座、今夜ここから逃げる気はありません。逃げるとしてもそれは、部下たちが敗れ、矢折れ力つきる前ではない。  戦いの序盤から逃げる王が、名誉を全うできますか?  敵がわたくしの膝元で舞踏会を開いています。わたくしは彼らと踊りましょう」

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 夜の森で馬を走らせるのは気ちがい沙汰である。ましてや山になど踏み込めない。  平原に出て、速やかに逃げる必要があった。街道は、どのみち通らざるを得ない。当たりまえのことだが、街道がもっとも馬が走りやすい。  才人はルイズを抱えて乗ったまま、慎重に馬を歩かせていた。後ろでは、背中に枢機卿をロープでくくりつけたギーシュが黙りこくってついてくる。同じく騎馬。

(馬が疲れるな……だけど、何かあってもすぐ走り出せるようにしないと。二人だと乗るのに手間がかかるし)

 逃避ぎみの思考で、そう判断する。  実のところ、この先の行動を、自分でも決めかねていた。

(姫さまはラ・ヴァリエール領まで逃げろと言った……けれど、そう簡単にはいかないはずだ。十中八九街道は見張られてるな。  ルイズが自分が囮になると言い出したのも、元はといえばそのためだった)

 アンリエッタはときどき詰めが甘い。とはいえ、まさか責められもしない。  彼女は残り、自分たちはこうして逃がしてもらったのだから。

(それで……いいのか? 俺?)

 最後に見た、木漏れたおぼろな月明かりに照らされるアンリエッタの表情が思い浮かぶ。  女王として凛と立とうとする顔。  けれど、うるんだ目がどこか切なげで、哀しい微笑をたたえていた。思い返すと胸が痛くなる、誰かに似たような表情。

(ああ、そうか……さっき『俺もついていく』と言ったとき、ルイズが俺に向けて浮かべた表情と似てるんだ)

「……サイト」

 押し殺した声で、後ろのギーシュがささやいてくる。彼はおさえかねるように才人の背中に激情のこもった声をぶつけてきた。

「ぼくは戻りたい。みんな、陛下を守るために戦ってる」

 才人は振り向かなかった。ギーシュがさらに言いつのる。

334 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:08:12 ID:DIjGLQvc

「陛下の言われたとおり、きみは王家に使える騎士ではないかもしれない。  でも、ぼくには陛下を守る義務があるんだ、わが先祖が王家に忠誠を誓い、貴族として取り立てられたときから。水精霊騎士隊の隊長なんてものを引き受けているし……」

「……マザリーニ様を逃がせという命令を、たった今女王陛下から受けただろ、お前。戦いが怖くて逃げるわけじゃねえんだから、」

「いや、怖いよ。怖いがね、ぼくにはこのまま去るほうが耐えられない。陛下の命令に背いてでも、別の義務を全うしたいんだ。  貴族としての、友人としての、隊長としての義務だ。  いや、きみだってどうなんだ? あえて義務を離れたところで訊くが、ほんとうに戻りたくないのかね? 後悔せずにいられるかね?」

 お前ってやつはときどき凄いよ、と才人は背を向けたままため息をついた。  その質問を受けたとき、悩む必要があったのかと思うほどあっさりと、方針が決まった。たぶん、本心ではとっくに決まっていたのだろうけれど。

「……ギーシュ、そろそろ街道に出るぞ。全速力で馬を走らせる」

「いいのか!? それで……!」

「聞けって。村へ行く。あんな頑丈な石壁だったんだ、たぶん門をぴっちり閉ざしていれば敵は入れねえ。宰相さまとルイズを預かってもらおう」

「ということは……戻るのだね!?」

 ギーシュの声が明るくなる。そういえば自分もすっきりしてるな、と才人は苦笑して断言した。

「ああ、放っておけるわけねえだろ。戻る」

 街道は月の下、ある程度見渡すことができた。  見る限り、誰もいなかった。後方からかすかに響く戦闘の音を別にして、静寂でさえある。  二人は必死に馬を飛ばす。一瞬でも早く、村に着いて中に入ってしまわなければならなかった。

 街道をたちまち横切り、村へと続く小道を駆けさせる。  ほどなく、村をかこむ石の壁が見えてきた。  まさに『城壁』といえるほどの堅牢なつくりで、館の壁よりはるかに立派である。  壁の内側からは赤々と光がもれており、村も夜通しで警戒していることがはっきりとわかった。

「あれなら、大丈夫そうだな……」

 そう洩らしたとき、ギーシュが恐怖に満ちた声で呼びかけた。

「おいサイト、き、来た!」

335 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:08:49 ID:DIjGLQvc

 何ぃ、とうめいて肩越しに振り向く。  背後から疾駆する者が二名。小道だけではなく、アザミやヒースの生い茂る野を突っ切って追いすがる騎影は、少なく見ても十名はいた。  反応が早い。騎馬隊を惜しみなく使って斥候に当てていたのだろう。

(大丈夫だ、まだ離れてる! 先に門の中に入ってしまえば……)

 そこで気づき、真っ青になった。  村の表門。昼間に壊された丸太づくりの裏門と違い、重厚で頑丈な石の門。  もちろん、がっちりと閉まっているはずだ。

「じょ――冗談じゃねえ!」

 門の前にたどりつき、村人に呼びかけて、自分たちが女王の臣下で追われている者だと説明し、納得させ、門を開けさせる。……いくらなんでも、手間がかかる。  敵が追いつくまでにそれらの全てが電光石火で終わるとはまったく思えない。

 表門が近づいてくるにつれ、その確信はますます強まっていった。  月とかがり火に照らされた石の門は、冷たく無慈悲にそびえたっている。  過酷な現実に、つねは底抜けに明るいギーシュでさえ言葉が出ないようだった。  才人は舌打ちして、馬からおりた。  デルフリンガーを抜いて、構える。馬の上から振り回すような器用な芸当は、ガンダールヴの力を失った才人が、両手持ちの大剣であるデルフリンガーでやれる技ではない。

(こうなれば、あがいてやらあ)

 続々と周囲に集まってくる騎馬の集団は、そんな才人を見て忍び笑いをもらした。彼らは簡易な甲冑をつけ、手に手に弩(いしゆみ。ボウガン)を持っていた。  中でも一人、ひときわ大きく、派手な服を着た男が馬からおりて前に出てきた。

「俺たちはロマリアの騎馬傭兵隊……で、今夜は斥候役なんだ。逃げる者がいたら捕らえろとも言われたが、まさかほんとにいるとはね。  小僧、構えを見たらそれなりに使えるようだが、平民同士なら数の差ってのは大きいぞ。やめとくんだな。  おれが一応、この傭兵隊の長さ。どうしても戦うつもりなら、おれを狙うんだな。もっとも、部下どもが矢を放たないとは約束できないがね。  で、そこの娘っこを引き渡してくれないかね? 見たところ平民には見えんのでね」

 なあに心配するな、おれたちロマリア人はレディには優しいから、とその傭兵隊長が笑う。  うなる才人の前に馬でたちふさがるようにして、ギーシュが「待った、待った!」と割り込む。

「おまえたち、大貴族に手をかけようっていうのか? 考えてもみろよ、今夜がすぎたらきっと恐ろしい目に合うぞ。ああ、きっとそうなるとも!  いっとくけど、この娘は女王陛下じゃないぞ。ぼくらのことなんて忘れてどっか行ったほうがいいと思うがね」

「あいにく、おれは共和主義者ではないが、王侯貴族のたぐいは大嫌いでね。  ちょうどいいことに、そこの娘っこと、ああ、お前もか。貴族は人質にすれば金がでてくる。それを受け取ったらさっさと逃げることにする。お前らは国境で解放してやるよ」

 身をかざる金銀の装飾具をヂャラヂャラ鳴らしながら、その傭兵隊長はせせら笑った。

336 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:09:22 ID:DIjGLQvc

「ま、待てよ、唐突に貴族嫌いとはこれいかに」

「なぜって? おれたち傭兵隊を見ろ。力量(Virtu)の世界、才覚だけでのし上がる世界だ。失敗すれば死に、成功してもいつ蹴落とされるかわからない。  飯の種が戦なので、まさに命を賭けて食いつなぎ、そのくせ敗戦でも生き延びたら『こすっからい傭兵め、命を惜しんで必死で戦わない』と言われる。  で、その一方、お前ら貴族は生まれたときから銀のさじで人にものを食べさせてもらい、教養とかのお遊びをつめこみ、名誉だの誇りだので戦をしやがる……それがたまらなく不愉快なんだよ」

 一息で言ってから、剣をかまえている才人を見やる。

「そこの小僧みたいに、貴族に尻尾を振る平民は、貴族以上に好きじゃない。  人質になる貴族でもなく、レディでもない。殺してもかまわんところだが、今すぐ剣を捨てるなら縛って放置するだけで許してやる」

「サイトは元平民だが、今じゃ貴族だぞ」

 ギーシュが、うっかり口をすべらせた。  才人はげ、と内心でうめく。シュヴァリエになったときから体験してきたことだが、マルトー親父がそうだったように「同じ平民が貴族になった」ことに拒否感を示される場合があった。  だから、平民相手になるべく身分を申告しないようにしていたのだが……

 傭兵隊長の目が、すっと細まった。  表情を消し、「いま何といったね?」とたずねる。  その男は銀の打ち出しがあるベルトから、差していたナイフを抜いた。

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 戦闘開始一時間後。

 敵の攻撃は分散しだしている。開始前の予想通り、壁にとりつこうとする敵を片端から落としていく戦いになっていた。

 最初に門に来た敵は撃退していた。今は門につながる小道をのぼってくる敵の姿は見えない。  あのときはマスケット銃の一斉射撃を急ぎすぎた、とアニエスはほぞを噛んだ。  有効射程を見誤るという痛恨のミスをした。十名ばかりの敵先鋒の、小道を駆け上ってくるあまりの勢いに驚いたのも事実だ。正気とも思えない勢いで彼らは門に突進してきた。  一斉射撃で打ち倒せたのはせいぜい二、三名、のこりは門わきの壁まで達することに成功し、乗り越えようとした。格子の間から手を突っこんで直接、錠をはずそうとした者もいる。  それらは、壁際で大勢待っていた銃士隊が剣で突き刺し、追い返した。

337 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:10:05 ID:DIjGLQvc

(おかしい。あの突撃は明らかにあちらの失策だ。常識なら、あんな無謀な突撃で銃の前に出てくるはずがない。 それだけじゃない、壁に無我夢中で取りつこうとする奴らは、あきらかにタイミングが読めていない。勇気……というか狂気じみたエネルギーはあるが。 奴ら、度をこした興奮状態にある) 

 おそらく、血気にはやりすぎて、指揮官の手に余る狂躁状態になっていたのだ。見てみれば、門の外に転がるいくつかの死体は全てが若者だ。

(戦闘慣れしていない新兵のような連中か? なら、逆に幸いかもしれん。敵の指揮官と兵の連結がうまくできていないのは喜ぶべきだ)

 マスケット銃に弾を押しこめつつ、敵の次の手と、こちらの対策を考える。  遊撃の銃士隊以外で、数人が先ほど攻撃された場所に集まりすぎていたのを、怒鳴って持ち場に追い返す。

(……こっちだって事実上の新兵だらけだな。水精霊騎士隊だけでなくほかの近衛メイジたちも、魔法を奪われて勝手が狂ってる)

 ドラが館の裏手のほうで鳴った。それはすぐに止む。壁ぎわで阻止したらしい。  横手で鳴る。これも止む。見たところ、石を投げて追い払っている。  反対側の横手――ドラが鳴り止まない。距離は直線で百五十メイルか。

 アニエスは立ち上がり、「馬に乗れ。行くぞ」と銃士隊員に声をかけた。  遊撃担当の銃士隊三十名が駆けつければ、もし壁を乗り越えられていても数名までなら即座に始末できる。門には銃士隊二十名と副官を残してある。

(まだ滑り出しだが、この対策は有効のようだな)

 そう思ってすばやく馬にまたがろうとした瞬間だった。  風を切る音とともに、アニエスの頭をかすめて矢が飛んでいった。勢いの鋭さからして弩の矢だ。恐怖の声をあげた銃士隊員たちにふりむき、ぼそりと言う。

「……壁にあまり騎馬で近寄らないほうがいいな。体が高い位置に来るため、壁の外から上体が見えて、飛び道具の格好の餌食だ」

 そうとだけ言ってあらためて馬に飛び乗る。  駆けだした後から、どっと冷たい汗が出た。

338 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/23(日) 00:10:46 ID:DIjGLQvc

 戦闘開始二時間後。

「……違う!」

 アニエスはぎりっと歯噛みして地面を蹴りつけた。  敵の戦術が変わった。  飛び道具の雨を降らせてくるようになった。こちらは壁にはりついてやり過ごすしかない。  それから突撃してくる。いっせいに壁に取りついて乗り越えようとしてくるが、抵抗が激しいと執着せず、銃士隊が駆けつける前に、波が引くように森に逃げ込んでいく。  これも正攻法だ。正攻法ゆえに、厄介きわまる。銃士隊が駆けつける前に、乗り越えた敵と乱闘になって深手を負う者もいた。  壁ぞいの内側は、地面が外側より高いぶん、乗り越えてきた敵が森めがけて脱出するのは容易なのだ。

 どんどん、敵の動きがスムーズになっている。

(練達した兵、おそらく傭兵が混じっている! とくに飛び道具を操る連中に。  若く慣れていない兵の狂熱が冷め、動かしやすくなってきたんだ)

 二種類の敵。老練な傭兵と、命知らずで狂信的な兵。  壁の内側で、剣に突き刺されて瀕死だった敵兵の上にかがみこんで、尋問していた銃士隊員が先ほど報告をもたらしていた。

「こいつら、共和主義者です! その……陛下を狙うのは、すべての邪悪なる王権を打倒するためだと寝言を言っております」

(共和主義者。ゲルマニア人。革新の国では、さまざまな思想がるつぼのように渦巻いていると聞くが、よりによってブラックリストの筆頭にあたる思想までか)

 さすがにゲルマニア帝室と関係はあるまい。  ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世はアルビオン遠征の後、ハヴィランド宮殿でアンリエッタとともに、共和主義の勃興をおさえる『王権同盟』を結んでいる。【8巻】  では、何者がこのような大掛かりな襲撃を画策したのか?

(今夜死なずにいたら、必ず調べあげてやる)

 剣を抜いたまま壁にはりつき、敵の雨あられと降らせる矢をやりすごしながらアニエスは誓った。  夜には音が満ちている。かがり火の燃えるパチパチという音。矢が風を切る音。もちろんドラや角笛の音も。

 弩や銃の攻撃を受けるたびに、壁は砕けそうなほど震えがはしる。いや、実際に当たった箇所は少しずつ砕けているはずだ。  この古くもろい壁が、アニエス達の命綱なのだった。  遠くの壁で、乗り越えようとしてくる敵に打ちかかるメイジたちに、怒号をとばす。

「でき得るかぎり一人に対して複数であたれ!  乗り越えられたら前後から襲いかかって速やかに決着をつけろ、一人片づけたら仲間の支援にまわれ、でなければたちまち貴様らのほうが数が少ない局面になるぞ!  貴族の誇りとかは全部忘れてしまえ!」

12 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:37:20 ID:zn1b7t+T

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 〈山羊〉は森の中から、壁の攻防を見やっていた。  敵陣は壁ぞいにいくつもの火が焚かれており、壁の上に上体を出して投石や銃撃をしている様子が、こちら側からよく見える。対して、あちらからは森の中が見えまい。  攻めよせるこちらは危なくなれば、森に逃げ込むだけでよいのだ。

(こちらにはこの森、故国ゲルマニアの黒い森に似たこの環境が味方している)

「それにしても、女王の手勢はよく戦う。銃士隊とやらの働きだな」

 冷静な評価を口にする。それを聞いて、そばの〈鉤犬〉が不安そうに甲高い声を出した。

「なにを落ち着いてるんだ。どう見ても、こっちの犠牲のほうが多いじゃないか。壁にとりついても全部撃退されてるぞ」

「心配するな、今のところきわめて予想通りの展開だ。  傷ついているのは若い共和主義者どもだ。傭兵どもはさすがに狡猾に、危険を避けて五体満足なものが多い。最後にはやつらが勝負を決しそうだな」

 傭兵たちとおなじく、〈山羊〉は慎重な性格だった。危険が及べばさっさと逃げる。この戦闘も、慎重な戦い方で進めていた。  味方の兵をなるべく失わない、という慎重さではない。敵をじっくり攻めて、確実に敗北に追いこんでいく戦い方なのだ。

 (それにしてもこいつ、白シャツ姿でそばに来ないで欲しいものだ)  〈鉤犬〉をじろりと見て〈山羊〉はそう思った。  自分のように黒衣ならともかく、夜でも目立つ白だ。万が一、敵陣から見えて狙い撃ちされてはことである。〈鉤犬〉が勝手に死ぬのはいいが、自分まで巻き添えにされてはたまらない。

「……敵の指揮官は最善を尽くしている。奮戦といっていい。だが、この戦いは真っ当な結末を迎えるだろうよ、数時間のうちにな。  策などいまさら必要ない。敵もこちらの意図に気づくだろうが、気づいたところで対策はないさ、奴らには抵抗し続けるしかないのだから」

 そうかい、と答える〈鉤犬〉があまり面白くなさそうな様子であるのに気づき、〈山羊〉は片頬に笑みを刻んだ。  こいつの同志である共和主義者どもが、捨て駒のように扱われているのが気に入らないのだろうか。〈山羊〉の立てた作戦において実のところ、彼らはまさに捨て駒だったが。

(残念だな、決着は俺がかき集めた傭兵どもがつけるだろうよ。最大の手柄は俺のものだ、恩賞もそれだけ大きくなるだろうさ)

 〈鉤犬〉が横顔を見つめてくるのがわかった。無視しているとやがて、その気配はどこかへ消えた。

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 肘掛け椅子に座り、アンリエッタは目を閉じて黙然としている。

13 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:37:57 ID:zn1b7t+T

 召使たちも外の戦いに駆りだされているが、全員ではない。老いた者や、アンリエッタ自身と変わらない年齢の侍女は大広間に集まり、おびえた声でささやきを交わしていた。  「さすがに女王様は落ち着いてらっしゃる」という類の言葉がもれてきて、アンリエッタは目を閉じたまま苦笑したくなった。

 いまは『動じない女王』を演じているだけである。  誰にも劣らず怖かった。待ち続けた後に何がくるのかわからない。それでも、アニエス達を信じ、ただ待つのが彼女の役割だった。  何時間たったのだろうか。  長い夜。本当に長く感じる。何度も爪を噛みたくなり、そのたびに衝動を押し殺していた。  この戦いは自分のために行われている。敵は自分を狙い、味方は自分を守る。ただそれだけを目的として多くの者がこの夜に傷つき、死んでいく。  彼らのためにせめて今夜だけは、自分はその価値がある『女王』であらねばならない。

 ふと、アンリエッタは薄く目を開けた。  館の主が、地図を卓の上に広げて見ていた。ときおり、外から聞こえてくる戦の音に青ざめた顔を上げ、危険をかぎわけようとする動物のように鼻をうごめかしてから、目を地図に戻す。

「なにをしているのですか? なぜ、地図を」

 声をかけると、その老貴族は顔を上げた。

「陛下……防備が突破されたおりには、乱戦となるでしょう。敗れたときには逃げる、と陛下はおっしゃられました。逃走経路を確認しております」

(わたくしは『少なくとも、部下たちが敗れる前に逃げることはない』と言ったのだけれど……いえ、この誠実な老人はわたくしのためを慮ってくれている。  でも、考えたくはない。逃げるわたくしの後ろで、アニエスはじめ忠実な部下たちが死んでいく状況などは)

「ありがとう、あなたには感謝します」

 感謝という形の、柔らかい拒絶だった。それを敏感に感じ取ったらしき館の主は、目をすえて「おそれながら」と直立し、述べた。

「わしも戦いに出てまいります。その許可をいただけませんか」

「……なぜ? あなたは老体です」

「わしはこの館の主です。自分の館に敵が攻めてきているとき、主として陛下の御身を守るために何もしないことには耐えられませぬ」

 気にやまなくてよいのです、と言いかけて、アンリエッタは口をつぐんだ。自分とて、誇りのために残ることを選んだのだった。

「では……直接戦うよりも、井戸でくんだ水などを持っていっておあげなさい。戦う者たちはきっと、のどが渇くでしょうから」

 「御意」と老貴族は頭をさげて、大広間にいた召使たちを呼び集めた。最後に、アンリエッタに近寄って腰を折り、手にした地図をささげもって出す。

「ここら一帯の地図でございます。一応でも目をお通しください。どうか、お逃げになる選択肢を捨てられませんよう」

14 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:38:28 ID:zn1b7t+T

 召使たちを引き連れて、館の主が出ていくと、アンリエッタの他には老若二名の侍女が残るのみとなった。  静かになった広間の中で、ぼんやりと、地図に目を落とす。  街道とその周囲の地形を見ながら、友人たちを案じる。

(ルイズたちは、無事に逃げられたかしら)

 壁にかかった燭台の火の下で、地図をひたすら眺めつづける。  どれだけ経ったのだろうか。呼びかけられたような気がして、アンリエッタは顔をあげた。

 衝撃を覚える。

「女王陛下、また会いましたなあ」

 暗い大広間の出入り口に、二人の人間が立っていた。  背の高い男と、低い男。低いほうは、昼間に見た顔である。

「『王は玉座に座してけり、もののふ周りに居ならびて』……といいたいところですが、あいにく、あなたと侍女どもしかいませんねえ?  外の攻防が抜き差しならないからといっても、ちょっとこっちが無防備すぎましたな」

 〈鉤犬〉は乱杭歯をむきだして、満面の笑みをうかべた。

「なぜここに、と言いたそうですなあ。お教えして進ぜましょう、あなたがたの通った地下道ですよ。  〈ねずみ〉が、そういうものがあるのではと言い出したので、わたしは手持ちぶさたに何時間もにおいを探して森を歩きました。  その苦労はむくわれ、森の中に通じていた秘密の通路を見つけ、そこから館に直接入ってきたしだいです。  解せませんね、あなたあそこを通ったでしょう? においがぷんぷんしましたよ。なぜ戻ったのかねえ……まあいい、これで終わりです」

 〈鉤犬〉の得意そうな声とともに、無表情の大男が前に出た。ごく普通の灰色の上着とズボンを着け、手に三日月のような反りの大きい刀を持っている。  アンリエッタ同様呆然としていた館の侍女二人のうち、老いた侍女がとっさに手をひろげてその前に立ちふさがろうとした。  展開は残酷だった。  大男はためらいもなく三日月刀をひらめかせ、老侍女の肩から胸までを斬りさげた。鮮血の臭いが大広間にたちこめ、声もあげず即死した侍女が床にころがった。

「な……なんということを……」

 アンリエッタは蒼白になり、思わず立ち上がっていた。

「紹介しましょう、〈ねずみ〉です。メイジですが、このとおり武器として三日月刀を使います。  彼はもともと、共和主義を信奉するわたしの同志の出でしてねえ。あの〈山羊〉なんぞよりよほど同胞なんですよ」

 その金壺眼の大男を示しながら、〈鉤犬〉が紹介した。

15 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:39:51 ID:zn1b7t+T

「こう見えても彼は繊細で、情報を集めることや仕かけに関すること、その他の工作に長けているんです。抜け道をさがす時、大体の場所をしぼったのも彼ですよ。  〈山羊〉なんかにこの手柄をゆずることもあるまい、と思いましたので、二人だけでまかりこした次第ですが……彼がいればたいていの兵は相手になりませんし、そこも問題なかったわけです。  さあ、あきらめはつきましたかね?」

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 戦闘開始から、どれだけ経っただろうか。

 波が、退いた。敵はいったん退却した。

 夜が白みだすまで、数刻だろう。  散乱した屍の数を見る限り、敵の損害のほうが、間違いなく多いはずだ。少なくとも三十人は片付けた。重軽傷者はもっと多いだろう。特に傭兵以外は、ほとんど傷ついているはずだ。  それなのに、アニエスは重い疲労と危険な焦慮を感じている。

(消えていない、森にいる……われわれの損害だって、死者が多くないだけでけっして馬鹿にならない)

 傷だけではない。疲労が味方をむしばんでいる。精神と肉体双方の疲労だ。  戦う意志を捨てず、目に光はあるのに、棍棒をにぎることもできないほど四肢がぶるぶる震えている者。  壁に寄りかかって、繰り返し胃液を吐き続けている者。  銃士隊員の中からも、戦闘不能者が出た。となりに立って銃を撃とうとした僚友の目に矢が突き立つのを見た隊員が、壁の上に顔を出せなくなった。今は壁ぎわにうずくまって泣いている。

 この『消耗』という魔物に、全員が取りつかれていた。

(ちくしょう、敵は攻めたいところを攻め、休みたいときに休めるんだ……慣れない武器を握って戦うメイジも、動きっぱなしの銃士隊も肉体がついていかない。  それに、主導権を握られているという状況は、われわれの精神をすり減らす。  敵のほうが損害が多くても、このままだとわれわれは一気に崩壊する。  とどめに、弾が尽きかけてやがる)

 アニエスは壁に背をあずけたまま、銃に弾をこめる作業をはじめた。あと何回もこの作業をすることはないだろう。  巡幸に出るとき用意した、マスケット銃につめるありったけの火薬と弾をこの夜に消費した。今や底を尽きかけている。

 近衛メイジの指揮官が、座ったまま黙々と手を動かしているアニエスのそばにやってきた。  彼は手にしていたくわを投げ出し、あえいでアニエスの横に座りこんだ。  しばらくして、放心したような声が横から聞こえた。

「平民の戦が、こうまで惨烈なものだとはな」

16 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:40:20 ID:zn1b7t+T

 アニエスは顔も上げず応じた。

「泥臭く、血生臭いだろ」

「見てまわってきたが、うちの連中の半ばは、やっとのことで動いている。もう半分はみな傷を負っており、さらにその半分はすでに戦闘不能だ」

「こんな戦いだとメイジは使えん。わかっていたことだ」

 メイジの指揮官は、精悍な顔を不愉快そうにゆがませてアニエスをにらんだ。だが、視線をそらしてつぶやく。

「……敵を殺すことにためらいのある連中ではないはずだ。それなのに、武器を敵に振り下ろせないと喚いたあと、ずっと放心している者がいる」

「杖を振って離れた敵を殺すことと、手ずから持った剣や棍棒で敵を殺すことは別だ。銃士隊員にもいた、射撃の腕は抜群でも剣を持つと震えだす者が」

「おい、銃士隊長、ひとつ聞きたい。なんで奴らは意気阻喪しないのだ? お前たちの……認めてやる、お前たち銃士隊の働きで、敵は何割かを失ってるはずだ。  この数は、通常の戦ならとっくに敗走してるぞ」

「なぜなら、奴らはわれわれが弱りつつあるのを感じてるからさ!」

 アニエスは奥歯が砕けるかと思うほど歯を食いしばった。  敵は、一兵一兵にいたるまで士気が高い。  主導権を握っていることを知っており、着実にこちらの力がそがれているのも感じ取っている。そして、壁を突破すれば、もう自分たちが間違いなく勝つことも。

「加えて、少なくとも一部は命を惜しんでないからさ。立派な敵だな、思想のために他国の女王を殺そうとして死ぬことを厭っていない。  せいぜい一人でも多く殺してやる。命知らずの敵には通常、敬意を払うが、こいつらは別だ」

 ああ、陛下に手をかけさせるものか、と隣でメイジの指揮官がつぶやいた。  アニエスは弾をこめおわり、よろめいて立ち上がろうとした。かがり火に薪を補充するなど、細かい指示を下しておかねばならない。  それを、指揮官が手でとめた。

「細かいことは俺がしてくる。貴様はもう少し休め。水でも飲んでろ」

 水筒を放られる。きょとんとしてアニエスは受け取った。気がつけば、のどがひどくかわいていた。  立ち上がって歩み去ろうとする指揮官に、「れ……礼を言う」と戸惑ったまま声をかける。  今夜昇格したばかりの若い指揮官は、むっつりと顔をそらした。

「この際言っておくが、平民出の女を働かせすぎた今夜は、貴族として俺の恥辱の時だ」

 水筒に口をつけかけていたアニエスはむせて吹きだした。こらえきれず、壁にもたれたまま腹をかかえて笑う。  「なにがおかしい!」とむきになって指揮官が顔を赤くし、乱暴な歩き方で壁を離れていった。

 その首を、壁の後ろから飛んできた矢がつらぬいた。横転して、二度と動かなかった。  アニエスの笑いが凍りついた。  水筒をぐっとあおる。銃を手に立ち上がって壁の向こうを見る。

17 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:41:27 ID:zn1b7t+T

 少年といっていいほどの若い敵兵が、木の切り株を転がして作った足場の上に立ち、弩を構えていた。  やった、とばかりに誇らしげな笑みを浮かべていた。アニエスが壁から銃を向けると、慌てて切り株から飛び降り、森に逃げこもうとする。  ゆっくりとその背を狙い、石のような心で引き金をひいた。少年兵が倒れる。

 ……その直後だった。森から角笛が鳴らされたのは。

 戦闘再開の合図。近くから激しく打ち鳴らされるドラの音とともに、どずん、と壁が激震した。

 目を向けて、アニエスは痛烈に舌打ちする。  考える間もなく、壁を乗りこえて外側に降りたつ。銃士隊の面々が叫び声をあげて制止しているのを後ろに聞きながら、剣を手に突進した。

 丸太に二本の縄を巻きつけ、縄の両端を屈強な男四人がつかんで壁にたたきつけていた。  縄を手放してアニエスに応戦しようとした一人の首筋を斬り、血管を断って血を噴出させる。返す刀で、丸太の縄を一本切った。  逃げる男たちに目もくれず、自らも背をむけて壁にとりつく。  「なんて無茶を!」と口々に言いながら、銃士隊員や近衛の兵たちが引っぱりあげてくれる。

 体裁をつくろう余裕もなく、無様に壁の内側に滑り落ちる。直後に、弩の矢や銃弾が飛んできていた。

(ついに簡易な破城槌まで、作ってきた)

 ずん、ずん、と壁にさらに振動が伝わる。遠くのほうでも、丸太がぶつけられているようだった。  壁の内側にあお向けに倒れこみ、夜空を見あげたままアニエスは絶望を感じた。

(消耗を狙っていたんだ、最初から。  多方面から長時間、波状に攻めよせることで、ただでさえ不足している壁の防員を奔走させて、疲労と弾が尽きるのを待っていた……だが、それがわかったところでどうしようもなかっただろう。  飛び道具はもうない、壁は遠からず穴を開けられ、敵がなだれこんでくる)

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 アンリエッタは立ち尽くして、歩み寄ってくる〈ねずみ〉を見た。  その手の三日月刀は老侍女の血でぬらぬらし、蝋燭の火とあいまって赤く輝いている。  ひっ、と隣でおびえた声があがる。若い侍女が怯えきってへたりこんでいた。

 固唾をのみながら、アンリエッタは問うた。恐怖に麻痺しそうな舌を無理やり動かす。

「……殺すのですか、わたくしを」

18 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:42:39 ID:zn1b7t+T

 〈ねずみ〉の足が止まった。その巨体の中で、ただひとつ呼び名にふさわしい小さな目が光り、「いいや、できるかぎり殺しはせんさ」と低い声で否定する。

「あくまで手こずらせられたら別だが、おそらくそうはなるまいよ。  邪魔されぬよう、玄関はとうに鍵をかけて閉めてきたぜ。叫び声が万が一、外に届いたとて、外のやつらが扉を壊して入ってくるまでに、あんたをどうにでもできるさ」

 〈ねずみ〉に続き、〈鉤犬〉が後方で手をひろげ、大仰に話し出す。

「すぐ殺すには陛下は貴重すぎますよ。  あなたの父は王、祖父も王、さかのぼったあまたの先祖たちと同じように。あなた自身もまた女王であり、あなたの産む子は王位継承権を持ちます。  このような血を利用したいと思う者は多いのですよ。  わたし自身は共和主義者でして、王家の血など、反吐の出るような濁った古い血としか思えませんが、世の中一般で価値あるものとみなされていることは否定できません」

(王位継承者はルイズよ。わたくしに何かあれば彼女が次の女王だわ)

 そう思いながらも、アンリエッタは次の質問をした。

「共和主義者? ではあなたがたは、レコン・キスタのような……? わたくしに手をかけようとするのは、その復讐ですか」

「いや、違いますね。あれは有名ですが、われわれとは関わりさえない別々の組織でしたよ。  とりあえず、あなたには会ってもらいたい人がいます。あちらも、なるべくなら生きたまま顔を合わせたいそうで。  生きてさえいればいいし、手に余るようなら殺してもいいと言われてますが。  質問は、もう受け付けませんよ。そろそろ……」

「離れろ!」

 この瞬間に、怒声が響いた。  大広間の入り口に、またしても人影があった。  アンリエッタの衝撃は、〈鉤犬〉と〈ねずみ〉が現れたときより大きかったかもしれない。

 黒い髪と瞳。手には抜きつれた大剣。  ビロードの黒いマントは自分が与えたもの。騎士の証。  走り続けてきたらしく、その少年は呼吸を荒げ、額に汗を光らせている。  手は怪我したのか、血のにじむ白い布を巻いていた。

19 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:43:12 ID:zn1b7t+T

 信じられない思いでその少年を見ながら、アンリエッタは唇を震わせた。

「サイト殿……?」

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 才人は呼吸をととのえながら、もう一度同じことを言った。

「その人から、離れろ」

 広間内の人間は、一様に驚きの目で彼を見ていた。昼間の〈鉤犬〉と呼ばれていた小男が、呆れたように首を振った。

「〈ねずみ〉、この小僧、俺たちとおなじ地下道を通ってここに来たみたいだ。見たところ、お前と遊ぶ気があるらしいぜ」

 呼びかけられた大男が、才人の全身と剣をじろじろ見ていた。それから才人に体ごと向き直る。  ものも言わないまま、無造作にこちらに歩いてくる。  才人はその男の血に濡れた三日月刀と、庶民の服をまとった筋肉質な上体を見た。  ガンダールヴの力なしで、このような大男を相手するのは、普段ならごめんこうむる。

 が、自信がまったくないわけではなかった。  これまでたびたび、アニエスに稽古をつけてもらっていた。わざわざ「武器」から遠い木の枝を使い、ガンダールヴの力をなるべく使わずに。

(成長したのは、ルイズだけってわけじゃねえぞ)

「踊るか、小僧」

 〈ねずみ〉の声と、斬撃が同時だった。とっさにデルフリンガーで受け止めた瞬間、手が痺れかけた。  分厚い刀が引かれ、横殴りの猛烈な斬撃がもう一度来る。  あわてて才人は飛びすさった。

(こんなの下手に続けて受けたら、デルフを弾かれる!)

 それを追いかけるように、〈ねずみ〉が進んでくる。力にまかせて、斬るというより殴りつけるように振り回してくる。  速度がどんどん上がっていく。縦に、横に、袈裟がけに三日月刀がひらめき、〈ねずみ〉の巨体が少年にのしかかるように前へ出ていく。

20 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:43:46 ID:zn1b7t+T

 技もへったくれもない。にもかかわらず、才人はよろよろと後退した。  単純な膂力はそれだけで厄介だった。必死に受けながら舌打ちする。

(この野郎、一撃がやたら重いぞ)

 その一撃が、風を巻いて連続している。  耐えかねて、床に転がって逃げる。アンリエッタの悲鳴が聞こえたような気がした。  幸いなことに敵の追撃をうまくかわし、床を蹴って立ち上がることができた……が、間をおかず斬撃の嵐が突進してくる。

『背と体重がある相手に、正面からぶつかるんじゃねえよ。攻撃はなるべく受けるな、流すかかわせ』

 デルフリンガーが口を利いた。  そういうことはもっと早く言え、と内心で毒づく。口を開く余裕が全くなかった。  手首をひるがえしてどうにか右からの一撃を食い止め、弾き返す。できた隙を利用してとびすさり、敵の作りだす無敵圏から離れた。

 才人は無我夢中で、アニエスに叩きこまれたとおり足を動かした。 

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 ゆれる蝋燭の火に照らされた大広間。アンリエッタの面前で、鋼のダンスが続いている。

 蒼白になってそれを見守ることしか出来なかった。それは自分だけではなく、意外なことに〈鉤犬〉も動けないようだった。  〈ねずみ〉の猛烈に回転する刀の勢いに、近寄ることもかなわない。  三日月刀に付着していた血が飛びちり、アンリエッタの顔までわずかに飛んできた。

 拭きとることさえ忘れて、アンリエッタは見ていた。

 三日月刀の苛烈さに対し、一方の才人は決して足をとめない。大剣を持つわりに敏捷に、ステップして横へ、横へ、横へと動き、常に巨体の側面にまわりこみ、剣先をむける。  二人はぐるぐると位置をかえ、ときおり火花がちる勢いで鋼を噛みあわせていた。

 視界の端で〈鉤犬〉が動いた。はっと我にかえってアンリエッタは肘掛け椅子の後ろにまわった。手を出せなくても最低限、人質になるわけにはいかない。  〈鉤犬〉の顔からは笑みが消えていた。この男は〈ねずみ〉の勝ちを確信できなくなっている、とアンリエッタは気づいた。

(敵の男は強いけれど、サイト殿はぜんぶ防いでいるもの)

21 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:44:40 ID:zn1b7t+T

 広間の闘いは、まだ一見して〈ねずみ〉が猛烈な攻勢で押しているように見えた。  しかし、その男からは最初の勢いが薄れてきたように見えた。少しずつ汗が流れ、呼吸が多くなり、三日月刀が遅くなっていく。  くらべて、才人のほうはまだ衰えが来ていなかった。  彼は最初から汗みずくだったし、呼吸も〈ねずみ〉同様速かった……だがその速さは一定だった。彼は〈ねずみ〉より若く、より敏捷で、武器がより長かった。

(あの男は疲れてきた、そしてサイト殿はどんどん迅くなっているわ)

 〈ねずみ〉はおそらく、これまでそうだったように、数合で相手を殺せるつもりだったのだろう。序盤からあまりに激しく動きすぎた。ついに彼は手をとめ、荒い呼吸をととのえようとてか、一歩ひいた。  その瞬間に才人が踏みこみ、叫びながら打ちかかりだした。脚を狙い、腕を狙い、三日月刀を持つ手首を狙って。  一瞬で攻守が逆転したのは、誰の目にも明らかだった。

 弧をかいて払われたデルフリンガーが〈ねずみ〉の腕を浅く傷つけ、血を流させていた……大男は後ろにさがり、広間の椅子につまずいて体勢をくずし、よろめいてさらに後退した。  転がる椅子をとびこえて打ちかかった才人の剣を、どうにかという形で三日月刀が防ぐ。一瞬、少年の肩越しにアンリエッタと〈ねずみ〉の視線が交錯した。  その小さな目にいまや浮かんでいる、恐怖の色をアンリエッタは見てとった……が、女王を見たとき、かわって瞬時にその目に、狡猾な光が宿った。

「アンリエッタアア!」

 〈ねずみ〉は大喝し、三日月刀をふりかぶり、肘掛け椅子の後ろにいるアンリエッタめがけて投擲した。  才人はよく反応したといえたろう。腕をとっさに伸ばし、デルフリンガーの剣先で、刀を宙で叩きおとした。  それと同時に、武器を捨てた〈ねずみ〉の巨体が才人にぶつかり、二人は音をたてて床に転倒した。  体重でまさる〈ねずみ〉が才人にのしかかり、剣を持つ手をおさえ、柄をかたくにぎる左手の指を一本一本ひきはがそうとする。ポキッと乾いたいやな音が響き、苦痛の声を才人があげた。

 息を呑み、〈鉤犬〉のことも忘れて駆け寄ろうとしたアンリエッタの面前で、意外な形で決着がついた。

「ヴェルダンデ、かかれ!」

 大広間の戸口から、茶色い獣が飛びこんでくると、才人をおさえこんでいた〈ねずみ〉の脚に思いきり長い前歯をつきたてた。今度の苦痛の叫びは、〈ねずみ〉のものだった。  その後から走りこんできた少年が、手にしていたワイン瓶を、巨大モグラを引き離そうとしている大男の頭にぶつけた。  瓶が砕け、〈ねずみ〉が昏倒する。ほうほうの態でその下からはいだした才人が、痛みに顔をゆがめながら文句をつけた。

「ギーシュ……お前、おせえよ」   「きみが敵の目を考えず突っぱしるからだろうがね! わき目もふらず地下道にまっすぐとびこむから、こっちは気づいて集まってきた数人の敵兵と乱闘に……!」

22 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:45:19 ID:zn1b7t+T

「サイト殿、ギーシュ殿!」

 ぎゃあぎゃあと騒いでいる二人のもとに、アンリエッタは今度こそ駆け寄った。何かをたずねなければならないのに、胸がつまってうまく言葉がでてこない。

 ギーシュがさっと膝をついた。彼の手にも、才人と同じように血のにじんだ包帯が巻かれている。

「へ、陛下! 命令に背いたこと、それに遅参しましたことは万死に……」

「あとにしろって。まだ敵はいる」

 左手の折られた指をおさえて立ち上がりながら、才人がさえぎる。そう言われてアンリエッタは気づき、波うっていた心をしずめて周囲を見た。

「〈鉤犬〉という男がいなくなっています……あなた、見ましたか?」

 広間の隅で震えていた侍女に質問する。「た、たった今出て行きました」とその侍女が答えた。

「逃げたか。抜け道を使ってかな? ギーシュ、あの抜け道は今こっちにとって安全か?」

「わからん。正直、ぼくも森の地下道出入り口での乱闘を最後まで見届けず、地下道にとびこんだんだ。ヴェルダンデは途中にいたので連れてきた」

「出てみたら敵に囲まれてましたって寒い事態は避けたいな。では、まずアニエスさんのところに行こう。状況が変わったと伝えなきゃ」

 そう才人が締める。その腕をアンリエッタがつかんだ。  「状況とはいったいどういうことなのですか?」と訊くつもりだった。  そのはずだったのに、別の言葉が自然とすべり出た。

「なんで……なんで、来てくれたの?」

 才人はおもいきりうろたえた顔をした。  指の痛みも忘れたようにきょときょとと視線をさまよわせ、それから「い、いまは時間がないからあとで」とか言って逃げた。

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 壁の一箇所が、ついに粉砕された。  どうにか一人がくぐりぬけられる程度の狭いはざまだが、たちまち敵が集中してくる。壁の傷口をふさごうと周囲の防備兵たちが集まり、押し合うような混戦となる。  時をさほど置かず、壁の数箇所がさらに丸太で突きくずされる。

 銃士隊がかけつける余裕はなかった。怒涛の勢いで壁のあちこちから敵が乗り越えようとしており、すでに何人かが庭におりたって武器をふりまわし、近衛兵士たちと戦闘に入っていた。

23 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:45:51 ID:zn1b7t+T

(もう対応が追いつかない。一定以上の数に侵入されて、壁にまで人員を振り向ける余裕がない。いまや壁はないも同然だ)

 アニエスはほぞを噛んだ。  彼女がけっしておちいるまいとしてきた最悪の状況が、目の前にあった。  駄目押しのように、門が――必死で支えてきた鉄格子の門が、丸太の破城槌で錠ごと壊され、ついに倒された。  敵兵が銃士隊と剣戟を交わしながらどっと乱入し、庭中に弩の矢が飛びはじめた。  それだけでなく、門の向こうの小道から、三十名ほどの騎馬の一団まで駆けてくる。

(敗れた。あとは、この庭で徹底して抵抗し、混乱の中で陛下を逃がすことに望みをかけるしかない)

 最期の時だな、と覚悟を決める。  この場にいない才人やギーシュが恨めしくなる。特に才人がいれば、あいつの剣が多少は戦力の足しになったのに。いや、彼らがおびえて戦わなかったなどとは思っていない。  途中から来た館の主から、簡単に聞いてもいた。彼らはラ・ヴァリエール殿と枢機卿を逃がすという命を陛下から受けたらしい。  それでも、やはり「陛下を置いていったのか」と愚痴を言いたくなる。

 アンリエッタに、逃げなければなりませんと告げるために馬に飛び乗り、館の玄関まではしらせる。扉に手をかけて――開かないことに愕然とした。

(な、なぜ鍵がかかっているのだ!?)

 あわてたとき、鍵をはずす音がして内側から扉が開かれた。  予想外の顔が現れる。

「あ、アニエスさん」

「サイト!? ギーシュ殿まで、脱出したのではなかったか!?」

 彼らの後ろからアンリエッタが顔を出し、感極まった様子で何かを言おうとした。  その前に、今夜新たに聞く種類の音がひびいた。  アニエスはぽかんとして振りかえる。

(この音は……ラッパ? そうだ、ラッパが鳴っている)

 角笛でもなく、ドラでもない。突撃ラッパが鳴っていた。  彼女の目前の庭で、信じがたい展開が起こっていた。  小道を駆け上って門から入ってきた騎馬隊が、壁を突破したばかりの敵兵に襲いかかっていた。弩の矢を放ち、馬で突っこんでふみにじる。

24 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:46:27 ID:zn1b7t+T

「……援軍?」

 呆然としながらアニエスは、確認するようにおそるおそる口に出す。  才人の苦笑気味な声が、「ちょっと違いますけどね……」と後ろから答えた。  状況はすぐに明らかになった。背後から突っこまれた敵の悲鳴まじりの叫びが、ラッパの音に混じって響きわたった。

「裏切り、裏切りだ! ロマリアの騎馬傭兵隊が裏切った!」

 しばし無言の後、アニエスは才人とギーシュの顔を見た。なぜかさっと視線をそらす二人に問いかける。

「お前たちがやったのか?」

「ああ……うん……どちらかといえばサイトが」 「いやギーシュが」

「どっちでもいい。とにかく大した手柄だ」

 らしくなく譲り合う二人を、手放しで褒めた瞬間、背後から飛んできた流れ矢が玄関から数メイル横に突き立った。それをちらと見て、アニエスはアンリエッタに声をかけた。

「陛下、ここは危険です。混乱の中でもあなたは格好の標的です。どうか脱出を。  おいサイト、街道は安全なんだな?」

「ええ、街道を張ってた傭兵隊が丸ごと寝返りましたし」

「結構だ。馬三頭持っていけ、陛下を無事にここから離せ。わたしは近衛隊をひきいて逃げ道を開き、その後はここで敵を食い止め、片づける」

「アニエス!」

「心配はいりません、陛下。背後からの攻撃によって敵は混乱しています。この機をのがさず近衛隊が、寝返った連中と挟撃すれば、さらに動揺するでしょう。  寝返ったのは三十名ほどの少数らしいですが、これで勝算が相当に高まりました。  勝って陛下のお褒めをいただくつもりなのですから、死にはしませんよ」

 にやりとアニエスは笑ってみせた。

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 アンリエッタの馬を、騎馬の銃士隊が押しつつむようにして混乱を突破した。門を出るとアニエスが即座に反転し、女王の姿をみて追いすがってくる敵にぶつかる。

25 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:47:09 ID:zn1b7t+T

「村へ行きましょう」

 小道をくだり、三人で馬を走らせつつ、ギーシュが提案した。後ろ髪を引かれる思いで戦場となった庭を振り返りながら、アンリエッタは首肯する。  折れた左手の小指をかばってなんとか手綱をあやつりながら、才人がアンリエッタの頭ごしにギーシュに口を出す。

「おい、ヴェルダンデを背負って騎馬は変じゃないか」

「離れたがらないんだ。置いていけというのかね!?」

「いや、まあそりゃ、俺にとっても恩人だけどよ……」

 両脇を並んで駆ける二人の、微妙に緊張感に欠ける会話を聞きながら、アンリエッタは考えをめぐらせた。  ポーションは効いたし、ギーシュの使い魔は使役できた。ただ、それはいずれも魔法の発動はすでに終わり、そこに内在するものだった。才人のルーンだって消えてはいない。  一方で、使えなくなったガンダールヴの能力にしろメイジの魔法にしろ、その場において〈発現〉するものなのだ。

(この身の内側にちゃんと、魔力は高まる。放てないのではなく、それが放った瞬間に打ち消されているような)

 これから調べなければならないことが、山ほどできた。誰がこのようなことを画策したのかも。なぜ自分を狙ったのかも。  いかに共和主義者でも、王権が憎いという理由だけでこのような暴挙に出るとは思えなかった。  〈ねずみ〉に斬り殺された老侍女を思いだして歯噛みする。

(今夜のこと、けっして捨ててはおけないわ)

 トリステインの王権に対する挑戦を受けとった。今度こそはためらわない。

 そう決意したとき街道に出た。  気のゆるみがあった――戦場はすでに後方、ここで待ち伏せがあるとは予想外だったのだ。  街道と交錯する小道、その両脇の森の中から、いきなり馬群が飛び出してきた。  闇に融けているような黒衣の七人組。昼間の一団。火のメイジたち。

 〈山羊〉という首領が、アンリエッタにもっとも近い位置にいた。目の前に飛びだされ。思わず手綱をしぼって馬を急停止させたアンリエッタの前で、剣光が月明かりを反射した。  女王が串刺しにされる前に、並走していた才人が乗っていた馬をとっさに〈山羊〉にぶつけた。  叫び声とともに馬が横だおしになり、〈山羊〉と才人が地面に投げだされた。

 ぶつけた側の才人のほうが、落馬の衝撃を前もって覚悟できたのだろう。擦り傷を顔に作りながら、彼はすぐさまはねおきた。  アンリエッタはとっさにあぶみを踏みしめ、地面の才人に手をのべた。

「乗って――早く!」

 ぐずぐずすると包囲される。才人の判断も早かった。指が折れていない右手でアンリエッタの手をつかみ、引き上げられる力を利用して身軽に後ろに飛び乗る。

26 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:48:17 ID:zn1b7t+T

「村のほうは駄目です! 街道のあちらへ」

 ギーシュがさけぶ。黒衣たちは周囲を半包囲し、逃げ道をふさいでいた。アンリエッタはうなずき、馬首を九十度めぐらせて敵のいないほうを通りぬけ、街道を疾駆しはじめた。  才人に「しっかりつかまってくださいまし」と言っておく。腕がぎゅっと体の前にまわされ、汗の混じった少年のにおいが鼻腔にとどいたが、さすがに赤面する余裕はない。  背後で起き上がったらしき〈山羊〉の怒鳴り声が聞こえた。駆けながら後ろを見ると、距離があいてはいたが追ってきている。

 二つの月の下、モグラを背負ったギーシュの馬と並び、飛ぶように駆けさせる。二頭の馬の後ろから、七つの騎影が追ってくる。  ひたすらに走り続ける。気がつけば、東の空がかすかに白みはじめていた。朝が近い。

(今は北に向かっているのね、ラ・ヴァリエール領方面に)

「あいつら、飛び道具を持っていないようだ」

 それだけは助かった、と才人が密着したままつぶやいた。アンリエッタは硬い声でこたえた。

「けれどたぶん、このままでは追いつかれます」

 一人が一頭に乗っている七人組と比べ、こちらは馬の負担が大きい。追いつかれたら、まともな勝負になりそうもない。メイジでありながら、彼らは剣を使うのだ。   「サイト殿、もし止まって戦うとなれば、どうなるでしょう?」

「みんな死にます」

 即答だった。彼はアニエスの薫陶を受けてか、戦力差についてはかなり冷静に見られるようになったらしい。

「三対七という時点で望み薄ですが、加えて姫さまとギーシュはいわゆるまっとうなメイジで、武器をまともに扱えません。そもそも丸腰ですし。  まともに打ち合える俺は左の小指を折られてます。ガンダールヴの力が出てるときなら、右手一本でもなんとか扱えるんですが、本来デルフって両手で持つ剣なので……」

「ではやはり、このまま逃げるしかありませんわね」

「……魔法が使える状況にさえなれば、姫さまの水魔法で怪我を治してもらえるし、俺のガンダールヴとしての力も発揮できるのに」

 ギーシュがニメイルほどあけた横に馬をならばせて、駆けながら叫ぶように口をさしはさむ。

「サイト、昼間見たと思うが連中は火系統のメイジだ。それも、かなり強力な。魔法が使えたところで、われわれは勝てるのか!?」

「正直、危ないと思う、でも今よりは格段にましさ!」

 彼らの大声での会話を聞きながら、アンリエッタは思考をめぐらせた。

(この魔法を使えないという現象は、永続するとは思えない。あの男たちも魔法は使えなくなってるようだもの……つまり、この状態は解けるはずだわ。  でも、どんな要素で? 時間がたてば解けるのか、範囲が決まっていてそこから出れば解けるのか。どちらにしても、このまま駆け続けるしか……)

27 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:48:49 ID:zn1b7t+T

「陛下!」

 ギーシュの絶叫が届いた。直後、後ろから火球が連続して飛んできた。

(魔法!?)

 馬首をわずかに横に向け、進路変更する。一弾目と二弾目の火球は外れ、三弾めはそれより近くを通った。  四弾目はかわせない、と思ったとき、後ろからしがみついていた才人が「手綱! 放して!」と叫んだ。  考える余裕もなく言われるまま手綱を手放す。

 アンリエッタの体にまわされていた才人の手にぐっと力がこもり、次の瞬間には体をかかえられたまま、走る馬から飛び降りていた。四弾目の火球が馬に命中し、哀れな獣が横倒しになる。  さらに五弾目が飛んできたが、左手でアンリエッタをかかえたまま才人がデルフリンガーを右手で抜き、それを吸収する。

 あらためてアンリエッタの体を軽々と抱き上げ、ギーシュの馬を追って才人は走り出した。馬に並ぶほど速い。ガンダールヴの能力だった。

「サイト、そりゃきみのいつもの……お、こっちも魔法使えるぞ!」

 ギーシュが歓喜の声をあげ、取り出した杖をふって石つぶてを背後に飛ばした。

「……ギーシュ、街道をはずれよう、とにかく足をとめるな、囲まれて魔法ぶっ放されるのはごめんこうむる! ……痛ぇ……」

 指が痛いのか、走りながら才人は涙目になっている。  その腕の中で、アンリエッタの思考に何かがよぎった。  重要なことのように思われ、必死にそれを捕まえようとする。

 火のメイジたち。彼らに追われる自分。  この国。地形。地図、館で見た地図。  ここは街道、あの領地からやや北上し、ラ・ヴァリエール領へ近づく道。  平原から山地に入り、谷間を縫うように……

 あっと声をあげ、「サイト殿!」と呼んだ。街道から横とびに野原に入っていた才人が「え、なんすか」と風のように走りながら訊いてくる。その耳にささやいた。  才人はろくに考えなかったのか、即座に「それでいきましょう」と太鼓判を押す。提案したアンリエッタのほうが心配になる。

「よ、よろしいのですか?」

「試さないよりましです、後がない。ギーシュ、東に馬をまわせ!」

28 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:50:07 ID:zn1b7t+T

「東だと!? あっちは山地になってる! 追い詰められるぞ!」

「そこを目指すんだよ! どのみち平原よりはましだ、背中を守れる!」

 アザミ野を突っ切って並走しながら彼らは怒鳴りあう。アンリエッタは山地を見る。彼女が指示して、そこに行くよう頼んだのだった。うまくいけば、見つかるはずだった。

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 馬を飛ばして追いながら、〈山羊〉は怒りに満ち、呪っていた。勝利の寸前で裏切ったロマリアの傭兵隊長を、彼を雇った自分自身を、いつのまにか消えていた〈鉤犬〉と〈ねずみ〉を。  とりわけ、ここまで手こずらせた女王とその臣下たちを。

 あの傭兵隊が裏切ったと知ったとき、〈山羊〉たちは即座に逃げた――決断の早さは、これまでも自分の命を救ってきた。  女王が先に逃がされるはずだと読んで街道で待ちぶせし、それ以来夜が明けるまで追跡しつづけた。

(それももう終わりだ、もう追いつくぞ)

 彼らは山地に逃げこんだ。少し時間はかかるだろうが、七匹の猟犬は確実に獲物を噛み裂けるだろう。木々の中での追跡は心得がある。  その時は、わりあい早くに来た。

 〈山羊〉たち七名が馬から降り、そこに踏みこんだとき、女王は黒髪の少年騎士の治療をしているところだった。  追っ手が来たことに気づき、少年は剣を構えて女王の前にたちふさがった。  〈山羊〉はせせら笑った。

(なにも、こんな自ら袋のねずみになるような場所に迷いこまなくてもよかろうに。  狭い場所なら、多少は数の不利が消えるという腹づもりか?)

 その場所は木々がひらけ、地面が陥没して十メイル四方ほどのくぼ地になっていた。乾いた泥が地面を覆い、よどんだ小さな水たまりがあった。  高さ数メイルの崖が彼らの後ろにそびえており、その下部には穴が開いている。  剣をかまえているのとは別の、金髪の少年が、はらはらした顔で穴をのぞきこんでいる。  昨日の昼のように慇懃に頭をさげ、〈山羊〉は女王に話しかけた。

「チェックメイトとまいりましょうか。結局われわれの勝ちですよ、アンリエッタ陛下」

 黒髪の少年があせった顔で背後に向き、おいギーシュ、ヴェルダンデはまだか! などと呼びかけている。  少年の肩越しに女王がまっすぐ面を向けてきて、凛然とした声を発した。

「そうですか? あなたがたの兵は壊滅したと思いますわ、おそらく。あなたは部下たちを平然と捨てるのですね」

29 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:50:44 ID:zn1b7t+T

「今夜のこれはチェスだったのですよ、陛下。わたしにとってあいつらは、用意した駒にすぎません――あなたというキング、この場合はクイーンですが、それを取るための駒です。  何人死のうと、何人捕らわれようと、何人が裏切って何人が逃げようと、そこは問題ではないのです、目的さえ達することができればね。  陛下という貴重な駒を奪いあうゲームで、あなたを手にすればこのゲームは一撃でかたがつくものでした。それでは、幕を引かせていただきましょう」

 〈山羊〉は杖を抜き、前に歩き出した。  その歩きが、ふと止まる。

(何だ……?)

 地面が、かすかに震えた。ヴェルダンデ! とはしゃいだ調子で、金髪の少年が穴をのぞいて歓声をあげている。

 それから――水が来た。

 泥水が、穴からすさまじい量と勢いで噴きだした。茶色い獣が最初の水に乗って吐き出される。水は穴の前に立っていた黒髪の少年と女王の脚をすくって転倒させ、押し流した。  たちまち穴の口が、噴きだす水で広がりだす。穴の周囲の土や石がぼろぼろと欠け、なおも広がっていく。  金髪の少年がいまや引きつった笑みでそれを見ていた。どれだけの水圧がかかっているのか、圧倒的な勢いの水が、文字通りの狂乱怒濤となってくぼ地に流れこんでくる。  固まっている〈山羊〉たちの前で、崖そのものが崩れ、土と水とが渾然となっていっせいに落ちてきた。

 ……時間にして十数秒後。  〈山羊〉は表情をゆがめ、ずぶ濡れになった黒衣をふって水を飛ばした。ほかの六人もうんざりしたように顔をしかめている。  冷たい水がくぼ地に、膝の下くらいまで貯まっていた。

 離れたところで水音がした。  少女が左手で肩を抱くようにして水から起き上がってくる。白のドレスは、水にぬれて優美な肢体にぴったりとはりついていた。水が髪からしたたる。  朝の曙光を受けながら、女王は水面のように静かな目で、〈山羊〉を見すえた。

「このような小規模なダムが、この一帯には数多いのです。平野にそそぎこむ水の量を管理するための」

 アンリエッタの言葉を聞いても、〈山羊〉はなぜかうまく頭が働かなかった。まるで、思考が気づくことを忌避するように。ぼんやりと認識する。

(この崖の上はため池だ、その底近くに穴を開けたのか……)

「トリステインは水の国【11巻】。この国の女王であるわたくしの系統もまた『水』です」

 〈山羊〉は足元を見た。膝までの水。突然、おぞ気が走った。

(ここはため池の水があふれたときの『受け皿』のような場所だ。誘いこまれた)

 自分たち火系統を得意とするメイジにとって、大量の水の中で水系統メイジと戦うことほど悪夢に近いものはなかった。

 そして、悪夢に取り巻かれていた。

30 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:52:11 ID:zn1b7t+T

 水から上がれ、と仲間に向けて絶叫しようとした〈山羊〉の近くで、ゆっくりと黒髪の少年が水底から身を起こした。  女王が右手の杖をふると、その少年は水の鎧で覆われていく。  手に大剣をもち、無造作に少年は〈山羊〉たちに向けて歩いてきた。  〈山羊〉ほか数名があがくように杖をふり、火球を少年に飛ばす――が、水の壁がその前に盛りあがってさまたげ、奇跡的にそれを避けた火球はあっさりと少年の剣に吸いこまれた。

 〈山羊〉の目の前で、少年騎士が腰をねじって大剣を横にかまえ、「チェックメイト」とつぶやいてから、体ごと剣を回転させた。

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 〈山羊〉をはじめ四人がデルフリンガーの剣の平で頭を強打され、昏倒した。  残りの三人は逃げようとして、動く水に足をとられて倒れ、けっきょく武装解除に応じた。  男たちをその場で縛り、浅い池と化したくぼ地から押しあげておく。  ヴェルダンデを背負ったギーシュがくぼ地からあがり、「馬にくくりつけて参ります」と青銅のゴーレム(ワルキューレ)を呼び出して男たちを抱えさせ、運んでいった。

 アンリエッタはそれを見送る。  そばでは才人がへたへたと水の中に座りこみ、「つっかれたぁ……」と情けない声を漏らしていた。くすっと笑い、それから真顔になってアンリエッタはつぶやいた。

「ええ、疲れる夜でした。誰にとっても。  この呪わしい夜に死んだものも傷ついたものも、わたくしのためにそうなったのですね。  あの黒衣の首領が言ったように、彼らはわたくしを狙ってこのような『チェス』を演出したのですから」

「……姫さま。あのさ」

「わかっています、サイト殿……罪悪感にとらわれすぎて判断を狂わせるのも、君主としては不適格だと気づいてはいるのです」

「それだけじゃないですよ」

 才人は冷たい水に尻をついて座りこんだままで、アンリエッタをたしなめるように首をふった。

「姫さま、自分が死んでもいいと思ってたでしょうが。王家の誇りとやらのために、ルイズたちを振り切ってでも。そりゃ俺だって今じゃ、貴族の誇りなんてわかんねとは言えないですが。  でも、ルイズや枢機卿さまやアニエスさんが姫さまを守ろうとしたのは、主君だからってだけじゃないんです。女王だから大事ってのが全部じゃなかった。  今回、自分が女王だから狙われたって? そりゃどう考えても連中が悪いだけです。死んだり傷ついた人たちに、何も感じるなとは言いませんが」

 アンリエッタは才人を見下ろした。そっとしゃがみこみ、彼の前に両膝をつく。  服が肌にはりつき、あらわになった体のラインにどぎまぎしたらしき才人が、「あ、その、マント」と黒いマントを差し出してきた。  礼を言ってそれを受けとり、まといながらアンリエッタは館での質問を繰り返した。

31 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:53:07 ID:zn1b7t+T

「今度は答えてくださいまし。なぜ、来てくれたのですか?」

 才人の目が露骨に泳いだ。冷たい水の中に座り込んでいるのに、額に汗がふきだしている。アンリエッタはたたみかけるように尋ねる。

「あなたは王家の騎士ではない、だから王家に尽くす義務はありません……そう、わたくしは言いました。あなたもルイズにそう言ったのではないですか? 自分は女王の臣下ではないと」

「あー……まあ、いやね……さっきも言っただろほら、ほかの人が姫さまのために戦ったのは、姫さまが女王だからってだけじゃない、ってさ。俺だってそりゃ同じわけで」

「つまり、どういうことでしょうか?」

 顔を寄せて真剣に問い詰める。才人は目の前でなにやら必死に、言ってもまずくない言葉を考えているようだったが、ようやく言葉を選べたらしく言った。

「ほら、王家の騎士じゃなくても一応騎士の誓いをしましたし。騎士ってのは、レディを守らなきゃならないもんでしょ?  あの、姫さま、ちょっと近いんでは……」

「つまり、『女王』ではなく『レディ』を助けに来てくれた、ということでしょうか……?」

 彼の顔をのぞきこむような体勢。互いの息がかかる。  信じられないくらい熱く、どこか暗くて秘めやかな火が胸に燃える。  この夜の最後くらいは、女王でなくてもいいと思う。ルイズのことが頭をよぎったが、胸の高鳴りにもうどうしようもなく思考が塗りつぶされていく。  アンリエッタの持つ、一種の狂気のような衝動。何もかも忘れさせてしまう衝動がこのとき体を走りぬけ、気がつくと彼の唇に軽く口づけていた。

 重ねただけの唇を離して、アンリエッタは自分のものと思えないほど熱っぽい、湿った声で至近からささやく。

「レディとしての、お礼ですから……」

 困惑とやっちまったよ感と、わずかにアンリエッタと同じ熱情を見せている才人の顔を、両側から手でそっとはさみ、目を閉じてもう一度確認するように口づけた。  一回目より多少長いキスの後、唇を離した。  「……あーもう、ちくしょう」と才人が、何かに負けたように絶望に満ちた声をもらし、アンリエッタの腰に手をまわして抱き寄せ、三度目のキスを自分からした。  アンリエッタは待っていたように、力をぬいて彼の腕の中におさまり、口づけに応える。熱をはらんで胸が高鳴る。

 けっきょく二人は、ギーシュが戻ってくる寸前まで、朝日を浴びながら水の中に座りこんでキスに夢中になっていた。

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 その、ちょっと前。

 朝の光をあびる館。治療士たちがとびまわるように負傷者を癒している。

 戦闘が終了した庭で、戦闘の事後処理をしながら、アニエスはロマリアの傭兵隊長という輩と会話していた。  夜の戦いは、近衛兵側が勝利した。それにはこの騎馬傭兵隊の寝返りが大きい。  彼らは壁が突破されるまで戦闘に参加せず、斥候役だったのだが、いきなり王軍側にたって参戦したのである。  メイジたちの魔法が戻ってからは、一瞬で決着がついたが、それまでに敵はすでに半ば蹴散らされていた。  事態を知って急きょ援軍に駆けつけた近隣の領主の兵までいるが、もう戦では用なしと知って落胆したらしく、逃げた残党狩りに精力をそそぎこんでいる。

32 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:54:32 ID:zn1b7t+T

「つまり、貴様は〈山羊〉と呼ばれる者に雇われただけで、その〈山羊〉もまた誰かに雇われただけだと言うんだな?」

「そんなところだ。おれについては、実際には雇われたかというと微妙だね。前金貰ったのは前に隊長だった男で、おれは金貰う前に女王陛下に味方したからな」

「……傭兵隊の悪評はよく聞くが、とりあえずこれからも貴様らの同類は避けることにする」

「おい、ひでえなあ。誠意は見せたはずだぜ。うちの隊の者は終始、もっとも戦闘の激しいところで戦って、五人も死んだんだぞ」

「わかってる。正直、貴様らがいなければもたなかった」

「礼はいいから、女王陛下から恩賞がほしい」

 にっこりと笑って人差し指と親指をこすり合わせるひげ面の傭兵隊長。  アニエスは呆れ気味に苦笑をもらした。あけすけすぎて怒る気になれない。

「最初は敵対するため集まったくせに。大逆罪は本来、共謀段階で死刑なんだが……ふざけた奴だ、まったく。  お前のようなやつは逆に憎みきれん。いいだろう、昨夜の連中がお前らにいくら約束したかしらんが、それ以上の額をはらってやる」

 その保証に、傭兵隊長は待っていたとばかりに「いやあ、じゃこのくらいの請求で」と紙を差し出してきた。アニエスは受けとってそれを見る。  いかん疲れすぎている、と空を一度あおいでから見直す。  見直す。  ぶるぶると手が震えだした。目がコインでもはめられそうなほどまん丸に開いている。

「き……き……貴様、この額はなんだ……?」

 常識外の数字が並んでいた。冗談抜きでトリステインの国家予算に食いこむ額が。

「いやあ、多かったかね? 〈山羊〉ってやつに保証された数字に、0を二つ付けたんだが」

 もとの額でも、傭兵隊に払うには常軌を逸した額である。それが百倍。アニエスが傭兵隊長に、先ほど感じた好意が瞬時に跡形もなく吹き飛んだ。

「ふざけるな! 限度ってものがあるだろうが!」

「しかし、おたくの別の近衛隊長からは保証書をもらっている。  払わないなら別にいいぞ、『トリステイン王家は命を救われたのに値切りました、保証手形を反故にしました』って国内外に触れ回るだけだから。信用がた落ちだろうねえ」

33 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:55:47 ID:zn1b7t+T

 傭兵隊長がふところから、ぺらりと二枚の紙を出した。金額の後に人名、そして手形。  『ギーシュ・ド・グラモンこれを確約す』  『ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールこれを確約す』  きっちり手形は血印であり、おそらく本物。  このまま地面にぶったおれて眠ることができればどれだけ楽かと思いつつ、アニエスはその水精霊騎士隊長と名門ラ・ヴァリエール家三女の手形が入った紙を穴が開くほど見つめた。

 そのとき背後から、「アニエス! アニエス!」と聞き覚えのある声がした。  村から馬車を走らせてたった今駆けつけたらしきルイズが、アニエスの背中にとびついて涙声でがくがくとゆさぶる。

「姫さまは!? サイトは無事なの!? 朝起きたら村の民家で寝かされていて、わたしの手のひらが血まみれだったの、でも傷はついてないの! 何があったのかわかんないわよもう!」

 半狂乱のルイズに、アニエスは振り返りもせず無言。かわりに傭兵隊長が再度にっこりして説明した。

「ああ、あの黒髪小僧が自分の手の皮をちょっと切って、あんたの手に血をなすりつけて代わりに押印しただけだから。ナイフはおれが貸した。  そうそう、おれだってただの守銭奴じゃない。条件次第で、金額から0を一個減らしてもいい」

「その……条件を言ってみろ……」

 地獄の底からわきあがってくるようなアニエスの声にも動じず、傭兵隊長は満面の笑みである。

「トリステインの貴族の位をくれ。伝統と格式あるトリステイン貴族、素晴らしいね。  貴族に生まれただけでふんぞりかえる輩が大嫌いだったが、自分がなれるなら話は別だ。あの小僧も、おまえさんも平民から貴族コースなんだろ?  それを聞いた瞬間思ったんだよ。『話のわかる女王陛下じゃねえか。そういう物分かりいい人は死なせるわけにゃいかねえな』って」

「き……貴様な、調子に乗ってると……  いや待て、頼むから待ってくれ、こういうことはわたしの一存ではなんとも……ふ、ふはは、あの小僧ども早く戻って来ないかなあ……ん?」

 怒りに引きつっていたアニエスの顔がさっと青ざめた。振り向いてルイズに問う。

「陛下やサイト達は村にいないのか?」

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 男たちを縛って二人ずつなどで乗せた馬が四頭。

「……しまった。縛ったはいいが、どのみち人手がないと馬をひけないなあ」

 ギーシュがうなっている。結局さるぐつわを噛まして森中に放置しておき、戻ってから誰かをすみやかに派遣しようということに話が決まりかけたとき。

34 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:56:17 ID:zn1b7t+T

「あら、竜が」

 才人のマントを濡れた服の上にまとったアンリエッタが、空を指さした。なんだか見覚えのある白い竜が空に舞っている。  才人は目をほそめた。いやな予感がする。それはいきなり的中した。その竜の背に、桃色の髪が見える。ついでに青い髪。  やがて、近隣を捜索していたのが合図をうけたのか、数匹が次々と集まりだした。

 その場で待つ三人の前に、風とともに彼らは降り立ち、その背から人間が降りてきた。不気味な笑みを浮かべたアニエスの姿まで見つけ、才人は心底からブルった。  なぜ来ているのか、タバサのシルフィード。その背に乗っていたルイズが降り立つ。  彼女の姿を見ると、先ほどのアンリエッタとのキスを思い返して、どうにもいたたまれなくなる。アンリエッタも同様なのか、もじもじとマントを閉じあわせたりしていた。

 アニエスはすたすたと歩いてきてさっとアンリエッタの前にひざまずいた。  心のこもった「陛下、無事でようございました」「それは、あなたこそ」という短いやり取りの後、戦勝の報告がつづいた。アンリエッタからも、〈山羊〉たちを捕縛してある旨が伝えられる。  馬にくくりつけられた男たちをみて、アニエスがうなずいた。

「即座に銃士隊を連れてきてこいつらを引っ立て……と言いたいところですが、今回ばかりは隊員も疲労の極みに達しているため、ほかの領地から派遣された兵にまかせることをお許しください。  この竜も、大貴族の領地からつかわされたものでございます。陛下の無事をこの目で見んがため、竜騎士の背につかまらせてもらいました」

 アンリエッタにそれだけ言うと、戦の後で疲労困憊しているはずの銃士隊長は、ずかずかと歩いてギーシュの首をひっつかんだ。人食い鮫をほうふつとさせる笑みを浮かべる。

「ギーシュ殿、ちょっとお話があるのだが、よろしいか?」

「な、なにかな? うわちょっと、ぼくをどこへ連れて行っ……! 待ってくれ、サイトは!? 彼だって同罪だ!」

「なにを不思議なことをおっしゃる。あの大手柄がなくば、われわれは死んでいたのですからな。罪に問えるわけもないでしょう……しかしおさまらないのでちょっと顔を貸せ。  サイトは……とりあえずラ・ヴァリエール殿に任せるとする」

 ちらりと才人に目をむけて、アニエスはギーシュを草むらに引っ立てていった。  才人は思う。たぶん今これからが、自分の正念場。〈ねずみ〉や七人のメイジを相手にしたときより、よほど怖い。  目の前では、ルイズがアンリエッタの前にひざまずき、アニエスと同じように無事をことほいでいた。事務的な淡々とした言葉。  臣下としての言葉を一通り述べると、ルイズは立ってアンリエッタを見つめた。その硬い表情に、アンリエッタも緊張しているようだった。

 それから――いきなりルイズは、アンリエッタの頬を打った。

 才人はぎょっとする。叩かれたアンリエッタのほうも、目を白黒させて頬をおさえた。驚いている女王に、次の瞬間ルイズは抱きついた。切れ切れに泣くような声。

「薬なんか……ひどい……よかった、姫さま、サイトも……無事でほんとうによかった……」

 徐々にアンリエッタの目もうるんでいった。ルイズを抱きしめながら、「ごめんなさい」とささやく。

35 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:58:11 ID:zn1b7t+T

 ひしと抱き合っている二人をほっとした目で見ながら、才人は横にならんできた青い髪の少女に話しかけた。

「タバサ、お前までいつのまに来たんだ。驚いたよ」

「……今朝駆けつけたばかり。巡幸している女王陛下に伝えようと思ったことがあって、近いところまで来ていた。  戦闘の知らせを朝一番に受け取った」

「伝えること?」

「『危険があるかもしれない』と。遅かったけど……魔法を使えなくなったのは本当?」

「ああ。ガンダールヴの力まで使えなくなった。ありゃ何なんだ?」

「〈解呪石(ディスペルストーン)〉。古い書物で見たことがある。砕けば微細な塵となり大気中に飛散して、大気中で発される魔法の力を片端から打ち消す」

「なんでそんなものを……タバサ、誰だ? そんなことをしたのは。お前はそれをどこで聞いた?」

「……だれが画策したのかは、わたしにも謎。  わたしはゲルマニアのキュルケの家に行っていた。そこで国境からトリステインに怪しい集団が流れこんでいる、そういう噂を耳にしただけ。でも、共和主義者かもしれないと聞いたから」

 才人は考えようとして、やめた。怒りはつのるが、敵が何者かもわからず、外国から来ているのではすぐに動きようがない。どうせこれから調べ上げることになるだろう。  かたく抱き合っているアンリエッタとルイズを見る。  誰か知らないが、たいせつな人たちに手を出した報いはきっちり受けさせてやる。

 その彼の目の前で、アンリエッタが涙をふきながら、抱き合ったままのルイズに笑いかけた。

「あなたにひっぱたかれたのは、幼いころを別にすればこれで二度目ね【9巻】」

「理由も一部は同じですわね」

 さらっと返ってきたルイズの言葉に、石化したようにアンリエッタが固まった。

36 名前: 裏切りは赤〈下〉 [sage] 投稿日: 2007/09/25(火) 15:59:30 ID:zn1b7t+T

 才人はなんのことかわからなかったが、先ほどのいやな予感が猛烈に膨れあがって帰ってきたのを感じ、われ知らず冷や汗を流した。  横でタバサが、なんでもないことのようにつぶやいた。

「……じつは、あなたたちが気づく前からシルフィードで見つけていた」

 え? いつから? ……そういえばルイズはシルフィードに乗せてもらっていたような。

「具体的には、あなたと女王陛下が池でしたことを見ていた」

 なるほど。たしかにあの時は夢中になっていて、他が見えていなかった。  才人はそろそろとこの場から遠ざかろうとする。と、固まったままのアンリエッタの首に抱きついているルイズから、ドスのきいた声が発せられた。

「ねえ犬。どこへ行く気かしら」

 ルイズが深呼吸すると、アンリエッタの肩をつかんで、女王の顔を真剣な表情でのぞきこんだ。

「姫さま、率直に答えてください。わたしを友人と思ってくれるなら、本心をおっしゃってください。以前にもした質問です。  ――本気に、なったのですか?」

 大いにアンリエッタはうろたえていた。目を閉じ、開き、おろおろと視線をさまよわせる。その視線が才人の顔の上にとまる。しばし見つめた後ややあって、彼女は目を伏せた。  その頬が赤らんでいる。  彼女はためらいを見せた後、ごめんなさい、とつぶやいてからルイズに答えた。

「――だと、思います……」

 その答えを聞いて、才人の顔まで熱くなった。もっとも、すーはーと怒気のこもった息を吸い吐きしながら、ルイズが視線で『あとで殺すわ』と語ってきたため、すぐに顔は青ざめたが。  ルイズは「ふふ、いいですわ」と震えながらかろうじて笑みを作った。  自信がなく、うろたえるばかりだった昔のルイズではないのである。精神的な成長は小さくはない。

「姫さま、わたしもいまさらお譲りする気はありませんから。あのときとは逆に、こちらから言わせてもらいます」

 笑みの構成は六割の怒り、三割の礼儀、一割の寛容である。

「再戦、ですわね?」