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71 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:18:33 ID:IGcxM+4w

 塔の内部は、黄泉のように暗かった。空気がよどみ、窓もない通路。  陰鬱な暗影が空間をしめ、水滴の落ちるような音がどこかから聞こえる。

 どうやら螺旋をまいているらしき石の階段。終わりなく続くかと思われるほど長い。  才人とアンリエッタはその急な階段をのぼる。  どんな仕かけか、のぼってゆくと壁のともし火が順繰りに灯っていく。通り過ぎると消えてゆく。  おぼろな明かりの下で歩いていると、階段の横にある材質不明ののっぺりした壁に、ときおり扉がある。入る気はしない。

 立ち止まり壁に手をつきながら、アンリエッタは額に汗をにじませて、切らした息をととのえた。  その壁がいやに温かい。まるで人肌のように。  見ると、壁の色は紫と赤紫のまだらだった。アンリエッタはぞっとして手を離した。

(さっきは赤に見えたのに)

「大丈夫ですか?」

 才人の声に、アンリエッタはやや硬い表情でうなずいた。  それから、たぶん才人も懸念しているだろうことを、問いの形にして気の重い口調で指摘する。

「サイト殿。この階段は、最上階に着くのでしょうか……?」

 沈黙した才人も、顔がこわばっているのは同じである。  上りはじめて、それなりの時が経つのだ。  にもかかわらず今もなお、連綿と続く階段をひたすら上っているだけ。  塔の外貌から判断しても、こんなにも長く上りつづけて最上階についていないはずがないのだ。

「……やっぱり扉を開けてみますか」

 才人の提案に、アンリエッタは顔をしかめる。

 階段の横にときおり存在している、木や鉄や石でできた無装飾の種々のドア。そのひとつを、二人は塔の階段を上りはじめた直後に開けてみようとしたのである。  そこで手が止まったのは、コンコンと向こう側からノックがされていたためだった。「誰かいるのか?」と才人が訊いたが返事はなかった。  代わりにドアによりかかっているらしき何かの笑い声と、それががりり、がりりとドアをかきむしる音がしてきた。  本来は好奇心旺盛な才人が、そのドアを開けるのは即座に断念した。

 ……そんなこともあり、ドアには近寄りたくもない二人だったが、この階段を延々とのぼっていても埒があきそうにない。

「わかりました、どこかを開けましょう」

72 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:18:59 ID:IGcxM+4w

 注意して様子をうかがってから、とは言う必要もない。  また上りだしてほどなく現われた木のドアに、意を決して二人はそろそろ手をのばした。

 開けて唖然とする。  横に階段と似たような陰々たる通路が続いていた。数メイル先で曲がり角があり、二人が慎重にそこを進むと、今度は反対側にくねっている。  少し行ったところで通路の右手横側に、真鍮製のドアがある。その先はS字状にくねり、どこまでも続いているようだった。階段とおなじく闇のなか、近づけばともし火が薄く点いていく。

 知らず才人の服の袖をにぎりながら、アンリエッタは震えた。尖塔に、このような奥行きがあるはずがない。

(空間がおかしいわ……)

 背後のほうで大音響がした。叩きつけられるようにドアの閉まる音。  飛び上がらんばかりにおどろき、背後を見る。  開け放していた階段への扉、と認識したとき、恐怖がこみあげて思わず才人の袖をかたく握りしめた。  誰かが閉めたとしか思えない音だったのだ。

 すぐに幽寂がもどってきた。才人が固唾をのむ音が、通路にやけに大きく響いた。  戻る気にならない。気配はないが、今曲がったばかりの角に何かがひそんでいる気がする。  デルフリンガーを抜いている才人が、不断の緊張で空気を張りつめさせていた。

 アンリエッタは真鍮製のドアに目をあてた。  才人がそれを見てとって、即座に反応する。

「……いっそ、そっちに入りますか」

 ちょっと待ってください、とアンリエッタは額をおさえた。  自分は一刻も早く最上階に着いて、盛られた薬の効果を断ち切らなくてはならないのである。べつの扉に次々入っていれば、それだけ迷いやすくなる。  しかし、この通路をこのまま進むのはひどくためらわれた。  けっきょく、通路に入って間もおかず、二つ目のドアを開けることになる。

 狭い通路の冥府じみた昏暗から一転して、そこはそれなりに広い間取りの、明るい部屋だった。  埃のつもった大理石の白い床には雑然と書類や、フラスコや蒸留器やほかにも何に使うのかわからない道具が散乱している。  部屋の反対側にまた扉がある。  机のうえに置かれたランプの白い光が周囲を照らし、そして――床に直径一メイルの大きな楕円形をしている、黄金の液体の水たまりがあった。

「こりゃなんだよ?」

 どうやら安全と見てとって、才人が後ろ手にドアをしめながら首をひねった。  水銀のように張力が高そうなその黄金の液は、塵埃が上にかなり載っている。  アンリエッタと才人が近寄ると、その表面がさざなみだった。

73 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:19:27 ID:IGcxM+4w

 才人がためつすがめつそれを見ている横で、アンリエッタはふと気づいた。  ランプの置いてある机に乱雑にちらばった書類。  床の書類はふるび、変色してくずれかかっているものまであったが、机の上のものは比較的あたらしいようだった。  その一枚、女物の銀の櫛が重しとして載せられている紙に意識がすいつけられた。

『侍従によると、食事は角羊のスープを好むという』

 それはアンリエッタの好物である。【公式設定】  それを拾いあげ、少女は几帳面な文体の字に目をはしらせた。

『土壇場であのいまいましい侍従が値をつりあげた。王女の髪をとかした櫛を手に入れるのに、二十エキュも要求される。  腹立たしいが、数週間続いた園遊会もまもなく終わる。それを思うと買わずにはいられなかった』

 背筋をなにかの予感がはしり、アンリエッタは紙面の年号を確認した。  ブリミル暦六二三九年。  その後につづく日付を、息をのんで食いいるように見る。彼女が十四歳のとき、ラグドリアン湖のほとりで大園遊会が開かれていた夏の日付である。

 あわてて次の紙面を手に取るが、日付はすでに数ヶ月とんでいた。

『私には、詩吟の才も絵心もないようだ。狂おしの情をあらわすすべさえない。  まして異国の姫君に会うような機会は、この先この領地にとらわれているかぎり無いだろう。  管理などマークに任せて、さっさと出て行ってしまおうか。トリステインの宮廷に仕官できないものだろうか。そうすればあの清華な姿を毎日目にすることができる。  この忌々しい森を受け継がねばならなかったためにアカデミーを離れただけでも五臓が絶たれる思いであるというのに、このうえこんな苦痛まで強いられなくてはならないのか?  クリザリング家の家督を要求するものがいるなら、この森とあの不気味な塔を喜んでくれてやるのに』

『耐え難い。幾度あきらめようとしたことか。寝てもさめても頭から離れない、という状況だ。かつてなら自分がそうなると言われれば一笑に付しただろうに。  この想いが叶う見込みがないことなどよく分かっている。いっそ、別のことに没頭できればよい。あの塔に入ってみるつもりだ。  この領地で、わずかなりと興味を引きそうなものなど他に無いのだ。鹿の若仔の数が増えようが減ろうが、ブナの実が豚に食わせる前に猪に奪われようがどうでもいい』

『塔の中は宝の山だ。これほどの知の結集はアカデミー以外に見たことが無い、しかもここの知識の多くはここ以外にないのだ。  さまざまな計画が頭に浮かぶ。決心できたことがある。  やってみるだけやってみよう。どうせ誰にも迷惑をかけないし、この塔の外に知らせるつもりもない』

『塔に入って半年になる。塔のメイジが遺した記述をすべて解読し、〈永久薬(エリクシール)〉が作れる見とおしがたった。基礎となる血、すなわち[人体の設計図]への理解も進んだ。  塔の出入り口で選別されるからくりも、クリザリング家の血に……(黄金の染みがあって読めない)……  だが望みどおりの魔法人形(ガーゴイル)を作るために必要な血の条件は、もっと細かいようだ』

 そこまで読んでなぜか不吉を覚え、心音が大きくはねた。

74 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:19:59 ID:IGcxM+4w

『[人体の設計図]は家系によって構造が大きく決まるが、それぞれの個々人でさらに細かく分かれているという。  血というのは言葉の上のことで、設計図は血のみならず皮膚や髪など人体のすべてに含まれるとも。  あのとき櫛を買っておいてよかった。  櫛にわずか数本のこっていた愛しき栗色の髪を使い、以下に述べる物質とともに溶解せしめ、蒸留器によって第一質料に回帰させ……(染み)……宇宙卵のうちにホムンクルスの胚芽を見……』

「姫さま!」

 切迫した才人の呼び声がひびき、アンリエッタは紙を手にしたままはっと顔をあげた。  同時に、机のうえに小さな緑色の影がまいおりている。  剣をふりあげかけていた才人が、それを凝視したまま当惑の声をだした。

「鳥? なんでこんなところに」

 アンリエッタもあぜんとそれを見つめる。見覚えのある鳥だった。  とうに内容が理解不能になっていた紙が、力のぬけた指から床に落ちる。  その緑色の小鳥は、小さな足でとびはねて机のはしに近寄り、アンリエッタに向けて「rot」と鳴いて首をかしげてみせた。

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 闇はまだ紫色にわだかまっているが、朝が近くなってきたころあいである。  森の一味に先導された防護拠点は、谷だった。涸れた渓谷。  はるか昔の水蝕によって地層にうがたれた谷間。

 橋はかかっておらず、断崖の一方から一方にわたるには、一度下におりなければならない。  断崖から谷底におり、反対側の断崖にのぼれるよう岩肌に彫られた道が、谷底をふくめてZ字になっている。

「『王の森』中にはいくつかこのような場所がある。過去にアルビオン王軍の魔法部隊や飛び道具の部隊が軍事訓練をおこなったんだ。  ここでは敵がいったん谷底におりて登ってこようとすれば、防護側の陣どる断崖の上から、攻撃の雨を降らすことができるようになっている。  高所からの攻撃の効果は見てのとおりだ」

 王軍が誘導されて逃走してきたこの渓谷で待っていたマーク・レンデルという男は、ややずんぐりした頑健な体型の、農夫のような風貌の男だった。  アニエスはその説明を聞きながら、眼下にくすぶる破壊の余燼をぶぜんと見つめた。  かがり火を背に、マーク・レンデルは感心しきりという口調で言った。

「しかしまあ、一瞬でかたがついたな」

 ……王軍兵士らが谷底におり、命からがらこちら側の岸に駆けあがってきた時点で、断崖に上がれる狭い道は、ラ・トゥール伯爵ら土系統メイジの出現させたアース・ハンドやゴーレムを利用した岩の壁でふさがれた。  あとは狙いをつける必要もなく、密集した敵に断崖の上から攻撃がふりそそいだ。  王軍をおって谷底に下り、ひしめく魔法人形たちに向けて銃弾、火魔法やら氷の矢やらが豪雨のごとく落ちかかったのである。

75 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:21:19 ID:IGcxM+4w

 とはいえ、物理的に行動不能になるほどその体を破壊されないかぎり動きつづける、〈永久薬〉搭載の魔法人形たちだった。  火で焼かれ、穴をうがたれて金色の液体をこぼしながらも、形をとどめるかぎり彼らは平然として動いていた。

 崖にとりついてわらわらと這いあがりだした異形たちに、王軍側が一度とりもどした顔色をまた失いはじめたとき、呼吸をととのえていたルイズが崖ぎわに進み出てけりをつけた。  まさしく一瞬であった。  ディスペルではもしかしたらまた動き出すかもしれないので、ルイズが炸裂させたのはエクスプロージョンである。  光球とともに谷底は完膚なきまでに、動くものがすべて灰燼に帰し、あとには瓦礫がのこるだけとなった。

「……なんだかな……虚無とは便利なものだな。  ラ・ヴァリエール殿が息をついて攻撃でき、敵がそれをまとめて浴びるような状況にもちこんだら、あっさり片付いたというのは……  近衛隊は逃げるばかりだったな」

 微妙に複雑な気分のアニエスなのだった。  周囲を見ると、魔法衛士隊も銃士隊もトライェクトゥムの兵もなくほぼ全員が歓喜のなかにあるのだが、ちらほらアニエスと同じような表情をうかべているものがいる。  森の無法者の一味が罠を提供し、ルイズが掃討した。王軍およびトライェクトゥムの兵たちは、土魔法で崖道を封鎖したもの以外はただ逃げまどっただけと言っていい。

 ふんとラ・トゥール伯爵が鼻をならした横で、マザリーニが飄々とうそぶいた。

「一度背を向けて走りだしたら、その間はどうしようもあるまい。  隊列をそろえて行う効果的な斉射が望めないのだから、反撃するだけ無駄だった」

「アニエス、虚無が撃てないあいだ手をひいてくれたあなたと、周りを包んで走ってくれた人たちには感謝してもしきれないわよ。  ……ところで、そろそろ犬コロ共のところに行かないかしら?」

 枢機卿に続きさりげなくアニエスに気をつかう声をだしたあと、一転してルイズの表情が消えている。  今のはもしかすると陛下まで含めていないか? と首をひねりながらも、異存なくアニエスはうなずいた。

「しかし気をつけなくてはなるまい。たった今掃滅した魔法人形どもの中に、あのスフィンクスはなかったように思うぞ」

 ルイズは小さなあごをつまんでむー、とうなり、それから顔をあげた。

「あいつは厄介だけど、サイトの馬鹿がいればなんとかなるかも。  とにかく合流しましょう」

 案内をうながす目をマーク・レンデルにあてると、森の無法者たちの領袖は簡潔に言った。

「陛下なら塔だ」

76 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:21:53 ID:IGcxM+4w

 うなずきかけて絶句し、ルイズはまじまじと彼を見る。  アニエスが自分の耳をうたがう表情で狼狽の声をあげた。

「おい、どういうことだ!」

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 暗い足元を、なにか長いものがのたくって這っていった。  ひっとアンリエッタはのどの奥で悲鳴をもらし、才人の袖を固くにぎった。  ともし火の下、才人の顔色もよく見ればいいとは言えない。

「……離れないでくださいよ」

 押し殺した声は、剣をぬいた少年がそれだけ神経を張りつめさせている証である。  先を飛んでいるらしき小鳥のrot! rot! という声がかれらを急かすように届いた。

 あの部屋でアンリエッタが見知っている小鳥と出会った後、ふたりはその行動に瞠目した。  先を飛び、扉をくちばしで叩いて、まるで先導するかのようなふるまいを見せるのである。  ものは試しについて行ってみよう――ためらいはしたものの結局二人がそう決めたのは、小鳥がやたらアンリエッタに懐いているだけでなく、どのみち上階にたどりつくあてがないためである。

 歩くと申しわけ程度の明かりがともる暗い通路は、よくよく耳をすませれば音に満ちていた。  水滴がしたたるような音。壁の向こうでからくり仕掛けが回るような音。何者かのたてる走るような音、息づかい、笑い声、すすり泣き。

 通路から扉をあけて部屋に入り、通りぬけてまた通路に、その先の階段に……

(最上階に行くのに、階段を下りることまでするなんて)

 アンリエッタは肌着の上に羽織った才人のマントを前でしっかり合わせながら、気温のみではない寒気にぶるりと震えた。  異様な光景を何度も見た。

 途中のひとつの部屋では最初からドアが開いており、その中で椅子に座った男たちが杯をあげて乾杯を繰りかえしていた。  その男たちはよく見ると上半身だけで、断ち切られた胴体が椅子のうえに乗っていた。断面ののった椅子から床に、金色の液体がゆるかにこぼれ落ちていた。

 また別の部屋には、「……四十日間水銀と狼の牙と馬の胎盤を煮溶かして……」とぶつぶつつぶやきながら、二人に目もくれず部屋の中央で円をかくように歩き続けている異様に青白い顔のメイジがいた。

 とくに黒々とした通路のひとつでは、ひざの関節が逆向きについた裸の子供のようなものが、這いながらトカゲのような走り方で横を駆けぬけていった。  壁のくぼみから首のない七面鳥がよたよた出て来もしたし、薄暗がりでしゃがみこんで背を向けている黄色い服の女らしきものがいた。

 それらの全てが手をくわえられた魔法人形か、あるいはこの世ならざる何かが混じっていたにしろ、いちいち立ち止まっておびえている時間はなかった。  先をとぶ小鳥に置いていかれてはならない、とばかりに二人は必死にその後を追ったのである。

77 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:22:28 ID:IGcxM+4w

 解毒薬の効果はその間にも刻一刻とうすれていき、アンリエッタの意識はすでにだいぶ混濁している。  才人の腕にしがみつくようにして、ともすればもつれる足を動かしていく。  よどんだ闇の中、お互いの体温だけが恐怖を追いはらう存在だった。

 黄金色の液溜りが、通路や階段のそこかしこに多く見うけられるようになってきた。  これがなんであるのか、二人には見当もつかないが、〈永久薬〉と関係あるのだろうことは予想がついた。  すれちがう塔の不気味な住人たちのなかには、体の欠けた部分からそれをにじませているものも多かったから。

 ……小鳥の羽音をたどり、四つ目の階段を上りはじめたとき。  闇がたむろする踊り場に、おぼろに新たなともし火がついた。  ひびの入った大きな鏡が壁にすえつけられていた。

 才人が慎重に踊り場に足をのせて、剣先を鏡にむけつつ通りすぎようとする。  腕を引かれるままそれに従いつつ、ちらと鏡に目を送って――アンリエッタの足が止まった。  彼女は目を大きくあけ、「うそ」とつぶやいた。

 凍ったように、体が動かない。  古い大きな鏡の中に、よく知った姿があった。

 金の髪。青い瞳。  頭をかきそうな照れくさげな微笑。  ウェールズ様、とアンリエッタはその姿を見つめて蒼白になる。  それはゆっくりと手をあげて、出てこようとするかのように手のひらを向こう側から鏡面に置いた。  水の波紋のように鏡が波打った。

 意識せずアンリエッタの体がよろめいた。  声に出して名を呼びそうになり――彼女はすんでのところでその口をとじた。  唇をかむ。涙があふれた。

(死んだわ、あの人はもう死んだのよ)

 あのラグドリアン湖のほとり。アンリエッタの腕の中で、完全に。  幼い日の盲目の恋が、しがみついていた夢がくだけた日のことは、雨が降るたび体が震えだすほどに、彼女の記憶に焼きついている。【5巻】  皮肉にもその痛みの記憶が、目の前の光景を、危険な幻と認識させる力をあたえた。  ぐいと強く、乱暴なほどに才人があせった様子で腕をひいた。

「早く!」

78 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:22:56 ID:IGcxM+4w

 アンリエッタは顔をどうにか鏡からそむけ、踊り場をはなれてふらふらと階段をのぼる。  いやに焦る様子の才人はひきずるほどに力をこめていたが、強引にひっぱられることは今の少女にはちょうど良かった。  幻影とわかってはいても心が千々にみだれていて、ともすれば足が鈍りがちになっただろうから。  陰鬱な静けさのみが後に残された。

 踊り場が闇の底にきえたころ、アンリエッタはかすかにもれかけていた嗚咽をこらえて才人に謝した。

「ありがとう、サイト殿……あの鏡の幻を拒めても、あそこからすぐに歩きだせたかは……」

 振りかえった才人の顔は、アンリエッタの予想していた外にあった。  おののいた表情。

「姫さま……鏡なんてあそこになかった。俺が見たのは……」

 いや、と少年は言葉を切る。  彼がけっきょく何を見たのか語られずじまいだったが、アンリエッタも慄然として総身の毛が逆だった。  見るものさえ食い違いだしている。

「……はやく上がりましょう。このいかれた塔はもうたくさんだ。  気づいてますか? 空気が違う。この階段の上から風がおりてきてるんだ、あの小鳥はほんとうに最上階近くまで連れてきてくれたらしい」

 ますます強くアンリエッタの腕を引っぱって、才人は階段をのぼりつづけた。  引かれる少女は、二種類の薬のせめぎ合いに息を切らせて一歩一歩をふみしめている。

 急速に解毒薬の効果が薄れはじめている。  理性がなくなるのもそう遠くないだろう。  だが幸いに、幻惑と暗闇にみちたこの狂気の塔をさまようことも、まもなく終わりそうだった。

 確かに階段の上からは、どことなくにおいの違う空気がただよってくる。  森の樹脂のにおい混じる澄んだ外気が。

 上る。  まっすぐ、ときに螺旋をかいて上へとつづく階段を。

 途中から意識がぐらぐらしはじめたが、才人に肩をささえられ、どうにか自分の足で立って歩き続ける。  茫洋と儚げな視線を階段に落としながら、アンリエッタの五感の認識能力はどんどん横の少年に向いていく。

 黒い髪。黒い瞳。  つねはルイズを支える腕。服の上からはわかりにくいが、意外にたくましいことが支えられているとわかる。剣をふっているからだろうか。  薄れた思考にさきほど見た金色の髪と青い瞳がちらつき、それがほどなく黒髪黒目に変じる。  心にある冷えた暗黒が、満たしてほしいと切なく疼く。

79 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:23:22 ID:IGcxM+4w

 熱にあえぎながら、首をふる。  二人を混同しているわけではない。死んだウェールズとの絆と、才人への想いとはそれぞれ別である【Perfectbook成分表より】。

 とはいえ外見は似てさえいないが、彼らの内面に誇り高さや勇気などの点で、重なる部分はやはりある。  かれらへの自分の、恋のあり方も。  心弱くも人を恋い、甘い夢を捨てきれない。本来、自由が許される身ではないのに。

 その弱さがもたらす狂気にも似た衝動で、駄目だと頭でわかってはいたのに、あの雨の夜に彼女はすべてを捨てかけたのだった。  今のこの想いももしかしたら将来、そのような狂気につながるかもしれない。  それでもやはり同じ夢を、未練がましく抱く。

 ――形となって添えずとも、  ――せめては影と添えたなら。

(馬鹿なことを、薬のせいだわ……)

 肩を支えられていなければ倒れこみそうなほど、ぐったりとおぼつかなげに歩きながら、アンリエッタは熱にただれゆく理性を必死でつなぎとめた。  今夜どんどん強まっていく、横の少年への恋慕の情は、盛られた薬のためである。  ……その全部が本当に薬のせいなのかは、いま考えるべきではなかった。  にもかかわらず、つづいて危険な疑問がうかんだ。

(でも……もしこれが解毒できたその後、心が変わっていなければ?  自分の心を、やはり制御できなくなれば?)

 幸いにも、それを深く考えることはなかった。  前を急かすようにとびまわっていた案内役の小鳥が「rot!」と一声鋭く鳴いた。  階段が終わり、屋根裏部屋のような狭い空間があった。  いや、正確には、向かいがわの壁にわずか数段をのこしている。それは壁にはめこまれた扉に通じていた。  声がひびいた。第三の人間の。

「ほんとうに来れたのだな」

 森林管理官ウォルター・クリザリング卿の声だった。  手首に包帯をまいているその男の目が、飛びまわる緑色の小鳥をとらえ、意外そうに見開かれた。  二人を案内した小鳥は、いままで上ってきた階段にまた飛びこんで下の闇に消えていった。  クリザリングはややあっけにとられた様子だったが、すぐに二人にむきなおった。

「少々話すか」

80 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:23:54 ID:IGcxM+4w \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 明け方ともなれば東の空が白みはじめ、星の光が追われていく。  塔のふもとに、王軍を主とする一行はあつまった。

「まるでガリアの画家の書いた『勝利せるスフィンクス』ね」

 渋面のルイズが、塔の頂を見あげてそう評した。  天をさす尖塔の頂上にとまって、彫像のように微動だにしない獣がいる。  人面獅子身の魔法人形は、塔にせまった一行の何本ものたいまつに照らされても、悠揚せまらぬ様子であった。

「へたに刺激せず様子をみるか、それとも戦うか」

「戦うといっても、さっき大きなエクスプロージョンを撃ったから、すばやいあれを一発でとらえられるほど範囲の広いやつはもう撃てないわよ」

 アニエスとルイズがそう言葉を交わしたとき、スフィンクスが身じろぎした。  転瞬、翼が広げられて、その姿が暁闇の中でぶれた。

 「気をつけろ」とマーク・レンデルが叫んだときには、獣はハヤブサのように落ちてきて兵士たちの中に踊りこんでいる。起こる悲鳴。  反応がとっさにおくれたルイズやアニエスがあわてて杖や銃をかまえたときに、獣は地を蹴って浮かびあがり、塔の上に戻っていった。  その途中で空からどさりと投げ落とされたのは、延髄をかみ砕かれた兵士の屍である。  それを見て顔面をひきつらせながら、ルイズが言った。

「……やっぱり迅いわ」

「……密集しろ。武器を上空に向け、いつでも対応できるようにしろ」

 いまのを見たあとでは、油断するなという必要さえない。  アニエスの号令にしたがい、銃士隊と、暫時ながら彼女の指揮下にある他の近衛兵が、マザリーニやルイズを守るようにしてきっちり固まる。  トライェクトゥムの兵たちも、指図するラ・トゥール伯爵を中心に堅陣を組みだしていた。  マーク・レンデルが見上げて舌打ちする。

「あの呪われるべき魔法人形は、俺の仲間を何人も殺した。  他の〈永久薬〉の効果を受けた人形どもと同じで、止めたければ破壊しつくすしかない……しかし、あれは動きの緩慢なほかの人形と違う。  囲むことさえ難しいんだ」

 ルイズが元森番に向き直った。

「地面に落として動きを止めたらどうにかできるわけよね?」

81 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:24:22 ID:IGcxM+4w

「ああ。もしそんなことが出来るなら直接、斧で壊してやるさ。  メイジの方々もいるし、足さえどうにか止めればいいのだ」

「ディスペルを命中させたらいいわけね。塔の扉とおなじですぐ回復するとしても、少しは止まるはずだし。  けっこうよ、次にあれが降りてきたらそうするわ。エクスプロージョンだと味方も巻きこんでしまうけど、ディスペルなら」

 「この距離でも銃の一斉射撃なら何発かは当たるかもしれないが」とアニエスが言ったが、すぐさまマーク・レンデルが首をふった。

「銃弾など当たっても無駄だとわかっているだろう。  それでどうにかなるようなら、俺たちがこの場で矢を何本でも命中させているぞ」

 アニエスが突き立てるようなまなざしを送った。

「どのみちあの魔法人形は危険だし、この塔のなかに陛下がいるんだ。黙って待てというのか?  塔の中では人形に襲われることはないというが、おまえも実際に入ったわけではなく聞き知ったことだろうが。  先走らずわれわれを待てばよかったものを」

 マーク・レンデルはアンリエッタと才人を塔に送ったことについて、女王の側近兼護衛の不興を買ったのだった。  元森番が、肩をすくめて答える。

「そうは言っても最初は逃げていたあんたらが、あの魔法人形の群れをあっさり片付けられるとは思わなかったからな。  この塔の頂上にいる『塔のメイジ』さえ陛下に解放していただければ、あの魔法人形どもだって〈永久薬〉の効果を失って、俺たちの矢でも倒せるようになるはずだったんだ。  どのみち、塔の扉を開けられるのは陛下だけで、陛下の様子からしてあれ以上時間はなかったと思う」

 さらになにか言いつのろうとしたアニエスを、ルイズがとどめた。

「アニエス、もういいわ……どうせサイトの馬鹿が積極策に賛同したに決まってるんだから。けっこう慎重なくせに、こういうときは無茶する奴なのよ。  お、お、女の子がからむときは特にね。……考えてみれば、いままであいつが頑張ったときって(わたし含めて)女の子関係してるの多くないかしら?」

 「私は知らん」とアニエスがやや気おされている。  ルイズの怒りと諦念のこもった論評は、多分に曲解しているが一面の真実をついていなくもない。  もっともルイズは、無茶という意味では自分も同様のケがあることを棚に上げているが。

「とにかくあと少し、朝日が昇るまで待ってみるのがいいわ。  それでも出てこなかったら、今度はエクスプロージョンを塔の扉にぶちかましてやるんだから。  開かないなら壊して入ればいいのよ」

82 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:24:52 ID:IGcxM+4w

 言葉をかわす人間たちを一顧だにせず、塔の上でスフィンクスは羽をやすめている。  その瞳のない目は悠遠なる森のかなた、天と地の境界線を見つめている。  刻一刻明るさを増してゆく東の空には、暁の雲が紫にたなびいている。

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「まだ階段はあるが実質、ここが最上階だ。  そこの半階分の階段をのぼり、扉一枚をへだてた向こうに、塔のメイジが幽閉されていると伝わる」

 ウォルター・クリザリングの声が、角ドーム状のレンガの天井にあたって室内にふりそそいだ。  いままで塔のなかで見なかったもの、飾り窓がここにはあった。  ゆらぐ火焔のような形や六芒星の形の窓には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれて、そこからくる光が室内を薄く照らしていた。

 それでも、外には朝が来ているのか定かではない。飾り窓もまた何かの魔法がかかっているのか、それ自体が妖しく絢爛たる光芒をはなっているかのようだった。  部屋の片すみにあるネズミが通れる程度の小さな穴からは、外の新鮮な空気がただよってくるが、そこはわざわざ採光できない構造にしてあるらしかった。

「陛下……いや、どうせだからアンリエッタ姫と呼ばせてもらおう。『ウォルター・クリザリング』という男にはそっちの呼び方のほうが感慨深い。  あなたはここに来た。おそらくマーク・レンデルにでも吹きこまれてか。塔のメイジを解放し、彼の〈黄金の心臓〉を破壊するつもりなのだろうな。  たしかにそうすれば手前が王軍にけしかけた魔法人形たちは破壊されるだろう。あれらの大部分は塔のメイジの〈黄金の血〉をそそがれている。  じつのところ塔に入れるなら、あなた自身が魔法人形たちに命じることもできるはずなのだがね」

 このとき、ルイズによってすでにそれらの魔法人形たちは壊滅させられているが、そこまではこの場のだれも知らない。  声もとどかない態で、息荒くぐったりと頭をうつむけているアンリエッタにかわり、才人が揶揄するような声を投げた。ただし忘れていない警戒がこもっている。

「〈永久薬〉って厄介なしろものも万能じゃないようだな」

「ああ、万能どころか。永久薬は要するに『無尽の動力、または無限の制約』であるのみで、物理的な破壊に抗するすべはない(それでも、使い方しだいで大きな力を生みだすが)。  魔法人形となったこの身にしても不死など夢、せいぜい不老に少し近づくのが関の山だ。〈黄金の血〉は〈黄金の心臓〉に従属し、心臓の持ち主の意向にしたがい、心臓が破壊されればもろともに効力を失うのだよ。  だから塔のメイジの心臓を破壊すれば多くの魔法人形が止まり、手前の心臓を破壊すればそれ以外の魔法人形、たとえばあのスフィンクスが止まる」

 マーク・レンデルのもとに来た斥候からクリザリングの正体を聞いていたため、才人は驚きはしなかったが、それでも顔をしかめた。  彼の行なった業そのものに、いわく言いがたい反発をおぼえたのである。  が、才人の面にでている気色などに注目せず、クリザリングの話は続いた。

「千年前、ゲルマニアからアルビオンに流れてきた『塔のメイジ』は、土豪クリザリング家の娘と婚姻した。  しかし塔のメイジは〈永久薬〉をつかってアルビオン王家に反乱を起こそうとした。それを察して王家にいち早く密告したのが、『塔のメイジ』の実の息子であり、クリザリング家初代の森林監督官だ」

 韻々と床天井や壁にはねかえり、荘厳ささえおびた声が歴史を語る。

83 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:25:41 ID:IGcxM+4w

「反乱はふせがれ、塔のメイジは本来禁じられた技であった『制約(ギアス)』を王にかけられて塔の最上階に放りこまれ、最上階へ通じるこの扉はとざされた。  以来、その子孫であるクリザリング家は代々、特別に世襲の『王の森』代官となってこの森と塔を守っている。王の罰は、王家が許すまでメイジを『永劫に幽閉する』ことだったのだ。  ここに入れるのはわが一族のみだった。この塔で錬金術を探求した古人はみな、クリザリング家の当主に許可を得、手をひかれるようにしてその内部に入ったのだ。  『制約』をかけた当のアルビオン王家のみがこの上位に立って、塔への出入りを許されていた……もっとも、王家のほうでは塔のことをはやばやと忘れていたようだが」

 才人はアンリエッタを気にかけながら、いらだたしげに応対する。

「よくしゃべるな。いろいろと守秘義務があるんじゃないのかよ?」

「アンリエッタ姫が今ここに来ている以上、どうやらその歴史もこれで終わりだろうからな。  この機会にいろいろ吐き出しておかずば、わが一族が代々なしてきたことが、知られないまま世の記憶から消えるだろう。  まだ重要なことはほかにもある。この塔自体が、『塔のメイジ』の〈永久薬〉研究の成果である、巨大なる魔法人形だ。  だから、塔を統括していた塔のメイジが十重二十重に『制約』をかけられて以来、塔のすべてはクリザリング家と王家の直系にひれふすことになっているのだよ」

 時間がたつほど弱っていく女王のほうが気になっていた才人でも、さすがにその話には瞠目した。

「そこの扉はクリザリング家のものですら入れない。千年前より、アルビオン王のみが入れ、塔のメイジに許しをあたえて解放できると伝わってきた。  だが塔の入り口がすでにアンリエッタ姫をアルビオン王家のものと誤認した以上、おそらくそこの扉も彼女の前に開くだろう。  ところでたった今、疑問がわいた。  塔が強引に、他者の手によってあばかれることに対しては手前に防衛義務があったが、王によって『解放』されるならばクリザリング家が邪魔立てできることではない。  だがアンリエッタ姫はたまたま塔の『血』を基準にした判定にひっかかっただけであって、アルビオン王とはいえない……このような場合、どうしたものだろうか?」

 他人事のようにあごを撫でてつぶやいているクリザリングに対し、ふらつくアンリエッタから注意深く腕をはなした才人が、デルフリンガーをにぎりしめて一歩前にすすみでた。

「話は終わったんだな。  いいからそこを通せよ」

 声に気迫をふくんでいる。  才人に肩を支えられてやっとのことでここまで来たアンリエッタには、すでに問答している余裕はない。  ここにいたっては、彼は実力で押しとおるつもりだった。  森林管理官の目が才人を素どおりし、アンリエッタの様子にとまった。

「おや、アンリエッタ姫は調子が悪いのか? それはよろしくない」

 クリザリングの声に対し、才人は「薬を盛っておいて白々しいことを言うんじゃねえ」と言いかけて、ふと疑問をいだいた。  最初は空とぼけていると思ったが……違う気がする。  どことは言えないが、妙だった。

84 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:26:12 ID:IGcxM+4w

 だが、才人が問いただすより先に、汗をしたたらせながらアンリエッタが前に歩みでた。  才人は止めようとして思いとどまり、ただいつでも前に飛びだせるようにして横に付き従った。  アンリエッタはにじり寄るように扉にむかっていく。正面にいたクリザリングが少し戸惑ったように見えた。

「ウォルター・クリザリング卿……」

 階段に足をかけながら、アンリエッタの熱にうかされた苦しげな声が、かぼそく洩れた。

「あなたの、求婚は……お断り、します」

 おもわずといった様子で少女に道を譲っていたクリザリングが、目をそらしてつぶやく。

「それは残念だ」

 階段の上で、風のルビーとアンリエッタの血統に反応した扉が、迎えるようにひとりでに開いた。

……………………………………… …………………… …………

 奥行きのある衣装だんす程度の、狭い空間。  まがりなりにも窓やたいまつがあった塔のほかの部分と違い、開いた先の小部屋ともいえない小空間には、戸口から入る以外の光がなかった。  千年間の完全な暗黒にようやく差しこんだ光は、今アンリエッタが開けた扉からのものが最初だったのだろう。

 開いた瞬間に異臭がふきつけ、朦朧としていながらもそれを吸いこまないように注意して、アンリエッタは中をのぞきこんだ。  人間の姿はなかった。より正確には、人体の完全な姿がなかった。

 戸口に立ったアンリエッタの足元を、中からあふれ出した金色の液体が流れる。  靴をぬらし、階段にこぼれ落ちていく。  それに嫌悪感をしめすことも忘れて、アンリエッタは中の光景に声をのんでいた。

 流れだしていく黄金溶液の中、リンゴほどの大きさの金色の肉塊がある。  心臓の形をしているそれは絶え間なく脈打ち、光り、そしてどろりと崩れ……  流れだしていた〈黄金の血〉ごと、しゅうしゅうと煙をあげて乾き、ひからびていった。

 同時にアンリエッタをさいなんでいた体の熱と重みが、淡雪のようにすうっと消えている。  慄然としながら階段を下りるように後ずさりつつ、アンリエッタは手をのばして扉を閉めた。

……………………………………… …………………… …………

85 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:26:42 ID:IGcxM+4w

「……やはり人体そのものはとうに崩壊していたようだな。  〈永久薬〉である血と心臓だけ残っていたか」

 薬の効果をはらった少女が階段をおりてくると、クリザリングがかすかに嘆息した。

「扉が開けられれば心臓を自壊させるよう、千年前のアルビオン王が『制約』をかけていたようだな。  塔自体におよぼされていた諸々の、〈永久薬〉の効果も切れたようだ」

 たしかに、すべてが一変していた。  あの重苦しくよどみ、呼吸器にへばりつく黒い霧と血漿の臭いに満たされたような空間は去り、ただ平凡な埃っぽい古塔の内部がそこにあった。

 ステンドグラスを通ってくるかすかな光は、今ならはっきり日の出前の朝の光だと言える。  まだ弱いが、妖気ただよわない好もしい光だった。  最前の光景を思いかえして眉をひそめ、クリザリングに向かいアンリエッタは口をひらいてはっきりと言った。

「この塔はもっと早く、こうなるべきだったと思います。  人は人としての死をむかえるべきだわ」

「ふむ……」

 まともに答えず、クリザリングは思案顔になる。  それから彼は天井を見た。  つられて、アンリエッタが顔を上げる。

 その刹那、ガラスの破砕音が影とともに室内にとびこんだ。  壁の一つの窓が外側から猛然と突きやぶられ、ステンドグラスが砕け散ったのである。  青や赤や紫の色のついた綺羅たるガラスの破片が、床に落ちてなお細かく砕けた。

 アンリエッタの反応より早く、才人がその前に飛びだしてデルフリンガーを横なぎに払っていた。  だがその一剣は、魔法人形の歯にがっちりとくわえられて止められている。  窓を破って飛びこんできたスフィンクスは黒い刀身をぎりぎりと噛みとどめながら、前肢をさっと伸ばして鋭い爪で才人の肩を掻こうとした。  剣をつかんだまま、あわてて半身になって才人が避ける。

 ぱっと両者は離れたが、才人がわずかに後退したのに対し、スフィンクスは再度とびかかる。  焦った才人がデルフリンガーで迅突を送ろうとした瞬間、その魔法人形は翼をひろげて急停止した。  両者ともに、おどろくべき反応速度だった。

 たがいに争う動きは止まらずまたも床を蹴り、壁や天井をはねる勢いでめまぐるしく刃と爪牙の応酬をかわす。  才人の剣がスフィンクスの体を浅くだが切り裂き、傷口からこぼれる金色の液体が宙にまきちらされた。  それでも魔法人形はまったく意に介さずガチガチ歯を鳴らして急迫し、才人のほうがたじたじと後退していく。

86 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:27:32 ID:IGcxM+4w

「隅にいろ、姫さま!」

 ガンダールヴの力を使っていながらスピードで拮抗され、さらに相手は破壊しつくされないかぎり戦闘能力を減じないとあって、明らかに余裕を失っている才人が叫んだ。  あまりの戦闘展開の速さに、余人が手出ししようにもかなわない。  アンリエッタは血相を変えて、泰然とたたずむクリザリングに顔を向ける。

「クリザリング卿!」

「あの魔法人形は手前から供給された〈黄金の血〉で動いているのでね。  塔のメイジの心臓が破壊されたからといって止まりはしない」

「あれを止めなさい! 今すぐです!」

「さて」

 自分の首に手をあててごきりと鳴らし、クリザリングは万事どうでもよさそうにつぶやいた。

「先祖伝来の役目を失い、加えてどうやら長年の懸想も破れた今となっては、とくに思い残すこともない。このあと自決しておくゆえ貴女たちの手をわずらわせはしないよ。  が、塔の力のほとんどは失せたとはいえ、始末するレポートや処方箋のたぐいが相当に残っている。  それを片付ける間、邪魔されてはなるまい。あれには足止めしてもらうことにする。貴女たちにはフライでも使って窓から出ていってもらおう」

「邪魔など……!」

 言いつのりかけて口をつぐみ、アンリエッタは破れた窓にかけよって室内をふりむき「サイト殿、サイト殿!」と呼ぶ。  体を旋転させ、渾身の斬撃でどうにか魔法人形をとびすさらせた才人が、後ろ向きの跳躍でアンリエッタのいる窓際までさがって来た。  その背中から腕をまわし、少年の驚きにかまわずアンリエッタは思いきり力をこめ、砕けた窓に自分の身ごと彼をひっぱりこんだ。  才人がうろたえ声を出す。

「待った、あのちょっと、落ち……!」

……………………………………… …………………… …………

 落ちた。  いまや山の陰から太陽が顔をだす寸前の、それなりに明るい朝の大気を裂くようにして。  下の地表には百名をこす人間があつまっていた。  多くが近衛隊であることも落下する前の一瞬に見てとれた。あぜんと見上げているルイズやアニエスの顔まで判別できた気がする。

87 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:28:28 ID:IGcxM+4w

 森の朝もやのなかを、尖塔の壁に沿うように落下し、数十メイルの地面までの距離を見る間につめる。  地面に激突する前に、フライが間に合った。  体勢をととのえてから、塔の前の地面にふわりと舞い降りる。――才人はへたへたとひざをその場についた。アンリエッタも心底ほっとした顔をしている。  冷や汗が一気に噴出し、心臓がばくばく猛抗議している。

「……姫さま……次やるときは前もって言って……」

「す、すみません、落ちる前から唱えていたのだけれど、あそこまで落下するのが速いとは思わなくて」

 この人けっこう考えが甘いんだよな、と寿命を縮められた才人が口の中でもごもご文句を言っている間に、わっと石橋をわたっておしよせた人々が二人の周囲をとりまいた。

 それらを押し分けて出てきたルイズが、ものも言わずいきなり才人の首に腕をまわしてかじりついた。少し震えている。  膝立ちの才人が目を丸くして、抱きついてきた恋人の背をなだめるように叩く。  アンリエッタが二人を少しのあいだ見て、それから黙って目をそらした。口元には苦笑があったが、目は伏せられている。  ルイズは人の目を思い出したように顔を赤くして才人から離れると「大事無いですか、姫さま!?」と首をまわしてアンリエッタに尋ねる。女王は「ええ、大丈夫」と目を伏せたまま答えた。

「上だ、来る!」

 とっさにマーク・レンデルの声が鞭のように人々の意識を叩かなければ、また誰かが殺されただろう。  才人が起きあがると、ワシの翼をもって急降下してきていたスフィンクスが、ひらりと舞い上がって塔の壁面に爪をたててはりついた。

 アニエスが舌打ちし、肩にかついでいたマスケット銃をかまえた。  「やはりゴーレムを呼び出してみるか」とは、ラ・トゥール伯爵のつぶやきである。  ほかにも「風の刃で翼を切ってやる」と意気ごむ者、「血を流しきるまで当ててやるだけだ」と同胞を殺されて恨み骨髄の者とさまざまであり、士気は低くなかった。

 またもスフィンクスが獰猛なうなりを発して壁面から飛び立ち、空中を旋回しながら隙あらば舞い降りてこようとする。  恨みをのせた悪罵をつぶやき、森の無法者一味の一人が長弓をかまえ、矢をはなった。  ひゅうと鳴って飛んだ矢が、魔法人形の後肢を見事につらぬいた。速い鳥にも劣らない相手を射たのは大した技量ではあったが、いかんせん相手はこたえた様子もない。  せいぜい鬱憤ばらし程度の効果しかなかったことはだれの目にもあきらかだった。

 才人が剣の平をたたいた。

「おいデルフ、なんかいい知恵ないか?」

『手こずってんね。そうさねえ』

 妙にのんびりとデルフリンガーがつぶやく。横で聞いていながらたちまち焦れたらしいルイズが乱暴に口をはさんだ。

88 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:28:53 ID:IGcxM+4w

「あるならさっさと言いなさい!」

『飛んでる相手なんだから飛び道具使えよ』

「だからいくら当たっても……あ」

 ルイズが何かに気づいたように目をみはる。  才人をひきよせて、何事かささやく。  少し考えた才人が、マーク・レンデルをよばわった。

 そうしている間に、スフィンクスはなおも降下をはかってきた。  その猛禽を思わせる動きには、しかし生物の狩猟にある荒々しくも生の輝きを見せるような躍動感がなく、かわりに無機的な残酷さが満ちている。

 不幸にして目をつけられた若い銃士隊員が、場違い感のぬぐえない高い声で悲鳴をあげてマスケット銃をとっさに突き出し、スフィンクスの爪をふせいだ。  隊員は無傷ですんだが銃身は前肢の一撃で折れまがり、魔法人形はしとめ損ねた獲物にこだわることなく速やかに空に舞いあがっている。  怒声と詠唱が地表の人間たちから聞こえ、続いて魔法と銃弾が人形の後を追って放たれ、いくつかは命中した――が、目立つほどの効果はやはりない。

 目の前を飛び回られながら決定的な手のないことに憤懣をおぼえ、人々は歯がみしつつ見あげる。  その頭上で悠々と向きをかえ、スフィンクスは何度目かの降下をはかろうとした。  このとき、飛んだ矢が今度はその翼をつらぬいた。  血も凍るようなおめき声が、その魔獣ののどから発せられ、あっけにとられた衆のうえに降りそそいだ。

 魔法人形は空中できりきり舞いしつつ落下し、大地に激しく叩きつけられた。  人々が感じた地面の震えがおさまる前に飛びおきたが、今の墜落で片翼がもげている。

 スフィンクスの瞳のない目が、自分を射抜いた黒髪の騎士を見つめた。

 才人はマーク・レンデルに借りた、自分の背丈より大きいイチイの長弓をかまえ、新たな矢をルイズから受け取るところだった。  杖をふっているルイズの手の中で、矢にふたたび虚無魔法がまとわりついていく。  デルフリンガーが得意げに言った。

『あの反射使いのエルフとやったときの応用だぁな。あんときは俺にディスペルをまぶしたろ』【10巻】

 原始的な構造ながら弩(ボウガン)より飛距離が長く、連射がきく長弓をマーク・レンデルから借りた少年は、さきの一射で熟練の射手も舌をまくほどの腕を見せつけた。  武器を使いこなすというガンダールヴの能力のたまものではあるが。  ルイズからディスペルをまぶした第二矢を受け取って、才人は起きあがったスフィンクスに向けてつがえる。

 放つ。

89 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:29:22 ID:IGcxM+4w

 なにげないが手際がなめらかでこれ以上なく速く、しかも狙いが正確だった。  今しも走りだしかけていたスフィンクスの、わき腹の皮膚と筋肉をつきやぶって深々と食いこんだその矢は、ルイズのディスペルをまとっている。  致死毒を流しこまれたように魔法人形は一瞬で転倒した。

 時をおかずマーク・レンデル以下森の無法者たちが斧や鉈を持って殺到し、スフィンクスを囲んでそれを振りおろしはじめている。金の血が飛び散った。  なかなかに酸鼻な光景を見て、アンリエッタとルイズがやや顔をしかめる。  彼女らとて、〈永久薬〉の効果で復活する可能性があるため切り刻むしかない、とわかってはいるが。  弓を下ろした才人の横で、アニエスがいろいろと疲れのあるやるせなさに満ちた声をだした。

「おまえらが揃うと、片づくのが本当に早かったな……ここまで自信喪失した半日はなかった気がする。  いっそ最初から組ませておけばよかったのか」

 微妙にやさぐれているアニエスに対し、アンリエッタがフォローに入った。

「えー……ええと、あなたがサイト殿を残す判断をしてくれたおかげで、わたくしは助かりましたわ」

 それを背後で聞いていたルイズの表情に、複雑そうな色が浮かんだ。  彼女はだまって才人に向き、じっと見つめる。  才人も沈黙して見返す。  ややあってルイズが手をのばし、才人のパーカーのチャックを引きおろした。

 口づけの痕が、少年の鎖骨から首筋にかけて余すところなく付いている。  振りかえって気づいたアンリエッタが頬に朱を散らしてうつむいた。  キスマークを目にして、ルイズの無表情の沈黙が鬼のごとき威圧をたたえていく。周囲に気づかれる前にチャックはすぐ上げて、女王のスキャンダルの蔓延は防いだが。  先ほど抱きついてきたときよりも震えているルイズに、才人が春先の早朝なのに汗をひたいににじませつつ言った。

「……言っとくが完全に事故だからな? ――ぅぐぐぐ!?」

 ルイズが才人の首に手をかけてぎりぎりと絞めはじめた。  その場に押したおして馬乗りになり、衆人環視のなか使い魔を扼殺しようとしているルイズは、女王の醜聞は防いでも自分の醜聞はどうでもいいらしかった。

 以前は「ルイズ、レディのすることではないわ」とルイズの折檻を制止したことのある【11巻】アンリエッタも、今回は自分の行いがからんでいるだけにどう止めたものかわからずおろおろしている。  金色の返り血にべっとり濡れて戻ってきたマーク・レンデルがこれを見て、「いつもこうか?」と呆れ顔で訊き、「だいたいは」とアニエスが答える。  要するに、平和な朝が戻ってきていた。

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 しばし後。  塔の内部。

90 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:29:47 ID:IGcxM+4w

 ……「ウォルター・クリザリング」は歩く。  塔のメイジの千年前の秘術により無限の広がりを持っていた空間は、塔のメイジの〈黄金の心臓〉とともに壊れ、いくつかの部屋は永久に入ることはかなわなくなった。  だが入れなくなったなら、それはそれでいい。問題は、残った部屋に置いてある貴重な書物や処方箋である。

 すべて火にくべてしまうつもりだった。  手燭を持って、暗い階段を降りゆく。  扉をあけてあちこちに入り、油をまいて炎を放ってゆく。  上階から下階へ、火と煙を満たしながら歩みを止めない。

 その歩みが止まったのは、最後近くの一つの部屋、その開け放たれた扉の前でだった。  室内に動くものがいた。  紫のローブをはおったその者は、立ったまま書類の束をめくって見ていたが……クリザリングに気づいてそれらを無造作にふところにしまった。  クリザリングは挨拶もなく乾いた声で「なんだ、その姿は」と問うた。

「ああ、この格好と声か?」

 歌うような、男とも女ともつかない声が返る。オペラにたとえればテノールよりは高い、コントラルトといったところか。

「私が女性型であることを見てとると、舐めてかかってくるやつが世の中に多いのでな……  いちいち肋骨の間に刃を通してやるのも面倒なので、ローブを目深にかぶることにしたんだ。小柄なのはいかんともしがたいが。  声は自分でいじらせてもらったよ。薬でのどを少し変えた」

 女王と対したときよりずっと警戒した声が、クリザリングののどから出た。

「この塔に帰ってくることを許した覚えはない」

「覚えはなくとも、今となっては強制できまい。  私はお前の許しを得たから入るのではなく、塔の入り口が解放されたから入っているのだよ。女王のおかげだな」

 クリザリングは思いかえす。先ほどの小鳥はこの者の使い魔のようなものだ。  あれはおそらく空気を取り入れる穴から入ってきたのだろう。  その小鳥に女王を先導させ、最上階に連れてきたのはこの、塔出身のこいつだ。  非難めく言葉を発する。

「おまえ、塔を解放するのは反対だと昨日言っていたくせに」

「嘘だよ、悪いな」

「その紙を出せ。燃やさねばならない」

91 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:30:14 ID:IGcxM+4w

「嫌だよ。持っていく」

 ことごとく人を食ったにべもない返答に、情動の薄い森林管理官でさえも渋面をつくって尖った声をだした。

「おまえをたたき出したとき、余分な金をすべてくれてやったのに、おまえはこの塔からいくつかの薬を盗んでいった。それでまだ不満なのか?」

「ああ、不満だ。なにもかも。  持ち出していた薬のおかげで、この半日はなかなか楽しい喜劇が見られたが、あんなものではまだまだ足りない」

「……女王の様子がおかしかったのは、おまえの仕業か?」

「なに、指示してほれ薬をね。女王の危機感をあおるだけなら他の薬でもよかったが、おまえの求婚という要素が入ったので、そちらのほうが面白くなるだろうと思った。  女王の護衛は優秀だなあ、私の思惑どおり塔を解放するのに尽力してくれた。  なんだ、そんな顔をして? 破滅願望をかかえていたおまえの、望みをもかなえてやっただけじゃないか」

 クリザリングはじっと相手を見つめ、うんざりしたようにつぶやく。

「確かにそうだが、造ったホムンクルスふぜいに運命を左右されるのは、やはり不快なものだ。  ましてや、陥れられて喜ぶはずがあろうか?」

 失笑が紫ローブの者のフードの陰からもれた。  「いかにもおまえに造られたホムンクルスではあるが、おまえに見下されたくはないな」とあざける。

「おまえの抱いた計画など要するに、『懸想した相手を造りだし、その人造の恋人と永久に生きる』というものではないか。  熱意をかたむけてこの塔の錬金術の蘊奥をきわめた一代の秀才、ウォルター・クリザリング……しかしその内実の動機はそんなもの。  悪くはないが、どうにもいじましく笑える話じゃないか」

 立ちつくすクリザリングは否定しない。  かつての人間であったころの彼が塔に入った動機は、まさにそれだった。  フードの陰で、その者の優美な唇が嘲笑まじりに言葉をつむぐ。

「おまえは人を捨てて以降も卑小だ。破滅を望む心を内側に、消極的に向けただけのお粗末なやつだ。  どうせ破滅を望むなら、それは外に向け積極的におこない、あまたの他者を炉の火にくべて赤々と燃えあがらせるものでなければならない。  毒にも薬にもならないよりは、強烈な毒であるべきだ。あたうかぎり世界に苦痛を押しつけ、踏みにじりつつ嗤うべきだ。汚辱と乱脈と流血、けた違いの規模でそれを世界に対しておこなうべきだ。  人の快楽は主として『消費』にともなう。富を例にあげると、人はその『生産』に幸福を見いだすが、それは消費による快楽と富がむすびついているからだ。  そして古来、王侯らがしめした富の究極の消費とは、最終的に富の享受ではなく富の破壊に行きつくのだよ」

 歌うような。  コントラルトの音域の。

92 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:31:01 ID:IGcxM+4w

「だから、金銀を持つならそれを溶かして庭園の泉を満たす。子を持つならば子をくびり殺して食卓にのぼせる。国を持つなら国を壊す。  その破壊の楽しみの果てにこそわれわれの人造の心にも、想像を絶した大なる快が降りくるだろう。それでなくてはこの虚妄の生は本当に、夢よりおぼろなものとなるだろう。  認識できる他者など要するに『自己以外のすべて』にすぎない。だからそれらを、手の届くかぎりのこの世界を、おのが一個の快楽に奉仕する装置に、力のかぎり貪る対象にすればよい。  私はそれを実践するつもりだ」

「怪物め」

 クリザリングの短く硬い声に、紫ローブの者はくすりと笑いをもらした。

「ひどい言い様だ。お前が私を造ったのだろうに。  それに私のほうが、身体においてお前より人間に近いではないか。知ってのとおりこの肉の器は、オリジナルとほぼ同じなのだぞ。たしかに感覚は色々足りないらしいが……  人間の体にともなう種々の快楽をこの身に備えておいて欲しかったと、いい機会だから文句を言っておく。そういうわけで、精神における快くらいは追求してもいいだろう?」

「スフィンクス」

 紫のローブをまとったホムンクルスに答えず、クリザリングは呼んだ。  ずるずると体をひきずって、彼の手がけた魔法人形が入ってきた。  翼は折れ、四肢は三本までが途中から絶たれ、胴体は大きく破れ、首はもげかけていたが……その魔法人形は、〈黄金の血〉をおびただしく流しながらまだ動いていた。  クリザリングは命令した。

「そいつを殺せ。ここで禍根を断て。  これについてはアンリエッタ姫のいったとおり、ずっと前にこうするべきだった」

 その命令にしたがい、体をひきずって這いよってくる魔獣を一瞥したのみで、ホムンクルスは同じく呼ばわった。

「コカトリス、止めさせろ」

 どこかにいた緑色の小鳥がクリザリングの眼前に唐突に舞いおりた。  避けるひまもなくその目にのぞきこまれ、クリザリングは凍りついた。それから、口が勝手に動いた。「動くなスフィンクス」と。  その後は石化したように動けなくなった。魔法人形の体の、人間に似せた構造の舌が動かせず、空気を人造肺から押しだすこともできない。体のほかの部位と同じように。  紫ローブのホムンクルスは、なんでもないことのように言う。

「コカトリスの眼の力は、二種類あるとお前知っているだろう?」

 塔で造られた魔法人形であるこの緑色の小鳥にそなわる異能は、クリザリングも知っていた……が、彼はいま答えられない。

「おまえの〈黄金の血〉をコカトリスには飲ませておいた。赤い血はともかく金の血でも能力が通用するかだけが懸念だったが、どうやら変わらないらしい」

 ひとつは、その視認した映像を他者に伝えること。  通常の使い魔にも備わった能力を、さらに高めたようなもの。主だけでなくその眼を見るものすべてに映像を見せられる。  また見た記憶をつぎ合わせて映像を「編集」することもできる。

93 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:32:33 ID:IGcxM+4w

 もうひとつ、今使っている能力は、古来から邪眼と呼ばれたものの強力な一種。  目を合わせた相手の意思をねじふせ、随意筋の動きを支配し、短い時間にかぎり『制約(ギアス)』の一種をかけて意のままに操ることができる。  ただしこちらの力は、コカトリスが血を飲んだことのある相手にしか使えない。

「私が造ったこいつは便利だろう、〈山羊〉を始末するときにも役立ってくれた。あとは〈黄金の血〉さえ注いでやれば完璧になるだろう。  ところでじつは私は、おまえに用があったんだ。しかし本題に入るまえにもう少し説明しておく。  私はもともとあの女王にそれほど興味はなかった。オリジナルとはいえ」

 コカトリスにクリザリングを拘束させたまま、壊れかけのスフィンクスを小さく足でつついて、その者は語る。  紫ローブをまとったその者。  錬金術的肉体編成の一つの完成形、肉の器でできた命ある魔法人形、ウォルター・クリザリングの最後の業。  千年間熟成された塔の狂気を、存分に宿したホムンクルス。

「アンリエッタ・ド・トリステイン……白百合の玉座の女王、トリステインの領主。  タルブの戦勝をもたらして即位し、平民を抜擢して新たな手駒を手にいれ、即位直後の孤立状態を、批判急先鋒の高等法院長を蹴おとすことで打破した……  権力ゲームに勝って政権掌握し、侵略されることで始まったアルビオン戦役を積極戦法で攻めかえして勝利に導き、戦勝後の列王会議では貪欲に国益をむさぼり、しかし自らは清貧をつらぬき、種々の改革をすすめ……  栄光に満ちたこれまでの結果をみて最初は、面白みのない名君かと思った。だが、先の秋からこの春にいたるまでにいろいろ見えてきた」

 ローブのすそをひるがえし、ホムンクルスは腰にさしていた鋭利なナイフを抜いて、クリザリングに歩み寄る。

「おそらくあの女王の内面を満たすのは、暗愚と過誤と、無知と罪……善良ゆえの柔弱さ、純粋ゆえの突進力。  行動を読ませない要素を持った、きわめて人間らしい女王。そんな面白い、魅力に満ちたやつだったなら、遊び相手の資格はじゅうぶんじゃないか?  最初は邪魔者の女王を消してからトリステインを引っかきまわすつもりだったが、今となってはあの女自身と遊びたくてたまらない」

 それはクリザリングにナイフの柄を差しだす。   コカトリスの邪眼の力が、そのナイフを受け取ることをクリザリングに強制した。

「だがおまえ、『アンリエッタ姫』がからむと、私が遊ぼうとするのを邪魔しただろう? この塔からしめだされたのは、正直言うと口惜しかった……ここには役に立つものがいくらでもあったのに。  まあいいさ、こちらはこちらでこの冬の間、新しい遊び仲間を見つけた。だからここは、〈永久薬〉の処方箋をもらっただけで我慢するとしよう。  さて、私は地獄の季節を見るつもりだ。そのために、おまえの胸の奥で鼓動をきざむ〈永久薬〉が必要なのだ。だからもらうことにする。  さあコカトリス、彼を見ろ。  胸をみずから切りひらかせ、その黄金の心臓をつかみださせろ」

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 朝日のさす港。主のいないクリザリング邸の前。  桟橋の木につながれたフネの出港準備は終わり、タラップが伸びていた。あとは乗りこむ者たちを待つばかりである。  その前で、アンリエッタはラ・トゥール伯爵と向かいあっていた。

94 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:35:12 ID:IGcxM+4w

 女王は近衛兵のほとんどを遠巻きに控えさせているとはいえ、マザリーニやアニエス、ルイズや才人を周囲に置いている。  それに対しトライェクトゥムの領主は一人きりである。その伴った兵たちがフネに乗りこんだところで、アンリエッタが彼を呼びおろしたのだった。  彼の一見して落ち着きはらっているが裏側に緊張の透けてみえる表情を、アンリエッタはよくよく見つめる。

(わたくしに薬を盛ったのは、ほんとうにクリザリング卿だったのかしら?)

 今回の事件にはさまざまに不可解な部分が残っている。  あの森林管理官が、少なくともかつてアンリエッタに懸想していたことは間違いないようであり、それを考えれば彼が薬を盛ったとしてもおかしくないのかもしれないが。  だが心のどこかが納得していなかった。

 結果としてクリザリング卿には何も残らなかった。  一方のラ・トゥール伯爵は、アンリエッタが何も言わなければ、このまま当初の予定通りの全てを得るはずである。  この港や、〈永久薬〉を使った風石はもうないがそれ自体でもかなりの資産である船団は代王政府に接収され、トリステイン王政府の口利きをえてラ・トゥール伯爵の事業に融資されるだろう。

 看過するには、彼一人が得をしすぎている。  だから、彼女はラ・トゥールを呼んで、その反応を見ているのだった。  彼女はまがりなりにもこの男の主君であり、反逆行為の存在は原則として許すわけにはいかないのである。

(でも……印象だけで言えば、彼が犯人であるとも思えないわ)

 今、泰然をよそおいながらこちらの様子をうかがうラ・トゥールの表情には、アンリエッタに対するわずかな警戒はある。不安もある。  だが、自分自身にいだくやましさの色は見当たらないのだ。  むろん直感で決めるのは間違っているにしても……そもそも事件にいだく釈然としない思い自体が、現時点で根拠のないものである。

 アンリエッタは判断に困り、横のマザリーニを助けを求めるように見た。  ほれ薬の一件を聞いた宰相もまた、考えこむそぶりを見せていたが、年若い弟子が視線をむけてきたとき、ふいに強い眼光をもって見返した。  マザリーニがそっと、アンリエッタの手に紙片をすべりこませてきた。女王はそれを一瞥する。

“商談を受けたとだけいいなさい”

「陛下……?」

 ややためらいがちにラ・トゥールが声をかけてきた。  すこし考えたあと、アンリエッタはごまかすように笑みをつくった。

「いえ、このたびはご苦労さまでした。事業についての提携は予定通りお受けします」

 ラ・トゥール伯爵がぱっと喜色満面になる。

「陛下! それでは昨夜の晩餐の席で語ったことをも、お聞きいれくださるのですな」

95 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:35:41 ID:IGcxM+4w

(ええと、なにを要求されていたかしら?)

 晩餐のときはぼんやりしていた女王はやや慌てたが、心得たものでマザリーニがすぐ口をだした。

「ああ、事業を潤滑にすすめていただくため、貴君にトライェクトゥムの大権をゆだねよう。  武装権、市場の開催権、下級裁判権などの権利の多くを、王政府の保証書により市参事会から正式にラ・トゥール家に戻そう。  ただし、市政の決定のすべてには市参事会の同意が必要であることは言っておきますぞ」

 恐縮しながらも、隠しきれない喜びをたたえてラ・トゥール伯爵がタラップを上がった後、アンリエッタはマザリーニに向き直った。

「……枢機卿、説明していただいてもよろしいかしら」

「なんなりと」

「あなたの言うとおりに、ラ・トゥール伯爵を問いつめることは避けました。  けれど、それでよかったの?」

 ラ・トゥールに好感をもてなかったらしいアニエスが、同意するような目をした。   マザリーニはうなずく。

「いまさらあの男を問いつめて、われわれが何を得るでしょうか?  すくなくともこの先、あの男はわれわれに忠実だと言えますよ。  じつのところ、ラ・トゥール伯爵のトライェクトゥムにおける支持は微妙な地盤の上にあります。市参事会のなかには彼に対立する者もおおいのです。  彼はみずからの地歩をかためるため、王政府との結びつきを強めようとするでしょう。われわれに忠実に仕え、商売であがる利をもたらすでしょう」

「そのために、彼が王権に侮辱を加えたのかもしれないことを見過ごすのですか?」

「世にあらわにならない侮辱は、王が守るべき名誉にとって存在しなかったと見なしてもかまわないのですよ。そして彼が犯人だったにせよ、この先決してそれを口にすることは無いでしょう。  陛下、悔しいかもしれませんが、あなたの災難についてはこのまま無かったことにするのが賢明です。むろん調査は続けるにしても。  それに、私個人の印象ですが、彼があなたに薬を盛ったとは思えません。ラ・トゥール伯爵は自分を勇敢かつ鷹揚な人物によそおっていますが、根っこのところでは王威にひれ伏す型の貴族です」

「それは、わたくしも感じたけれど……では、彼に都市の大権を許したことはどうなのです?  数代前に実権をうばわれたラ・トゥール家が、王家のお墨つきをえて復権したことは、あの誇り高い自治都市の市民感情をそこなうかもしれないわ。  商提携するだけならともかく、王家がそこまで認める必要があったのかしら……トライェクトゥムの市民よりなる参事会は長く王家の味方だったのに」

「いえ陛下、いまのラ・トゥール伯爵はすでに市参事会の筆頭役人、つまり市長ですぞ。  これまで王政府の名において参事会に認めていた特権を、その代表であるあの男個人にゆだねる行為は、今となっては単なる事実追認にすぎません。  毒食らわば皿まで、ですよ。われわれがトライェクトゥムの実力者である彼をはっきり支持すれば、彼は都市を完全に掌握できます。王政府は忠実かつ強力な臣下を手にいれます。  彼は平民を愛するような人間ではなさそうですが、得にならぬことはしますまい。以降は虐政をしかぬよう、王家がつねに見ていることを知らせておけばよろしい」

96 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:36:25 ID:IGcxM+4w

 いちおうの納得はしたものの、不満げな表情にアンリエッタはなっていたようだった。  マザリーニが懇々と言いきかせてくる。

「またラ・トゥールは、改革を行おうとしている一点では、あなたの行おうとしている政治に合致する人物ともいえます。  トライェクトゥムで改革を拒み、既得権にしがみついている層には平民がおおいのですよ。意外でしたかな? 彼はそれらの平民には敵かもしれませんが、新しい風をもたらそうとしていることに違いはありません。  めぐりめぐって改革の成果を世に印象づけ、われわれの手駒として王権の強化に役だってもくれるなら、それは結果としてこの国のためになるでしょう。  最後にこれが重要ですが、ここ最近あなたの施政において、平民に傾きすぎていた天秤をこの件でやや貴族のほうに戻したと見てとって、貴族たちは安心するでしょう」

「……わかりました」

 いまだすっきりしない感はあるものの、アンリエッタはひとまず引き下がった。  ここしばらくの国政では、自分の意向を通しすぎたという負い目もあった。

 彼女はマーク・レンデルに向きなおる。

「森番殿、今回のことでは大いに助けられました。あなたの助力に王政府は報いるつもりです。  トリステインではいま、指揮官も平民からなる軍隊を育てています。聞くとあなたはアルビオン王軍で訓練を受けことがあるとか。本来は火器をあつかうそうですね。  トリステインに来てみませんか? 新設軍の軍事顧問として席を用意しますわ」

「陛下……もったいないお言葉ですが、私は粗野な野人でして。森のほうが性に合っているのです」

 苦笑気味にことわられ、アンリエッタは「そうですか、無理にとはいいませんが」とやや気落ちした。  マーク・レンデルがひざまずいた。

「陛下、感謝を申しあげねばならないのはわれわれのほうです。  本来なら陛下の言葉に逆らうべきではありませんが、いま少しこの森で惨害の後始末をせねばなりません。  塔の残骸を完全に焼きこぼちます。それがウォルターの望みでもあるでしょうから。あいつを許せなくとも最後にそのくらいはしてやりたい。その後は領民を呼びもどして村を復興させなければ。  ですが、陛下になにか苦難あれば馳せ参じて微力をつくすことを約束します」

 ありがとう、と答え、アンリエッタは次にアニエスに向きなおった。

「隊長殿も、ほんとうにご苦労さまでした。  なにか報告があるかしら」

「はい。クリザリング卿の富についてです。その財を成したやり方は奇妙なものですが、それより気になるのは、それがどこへ行ったのかです。  先年の秋の事件とかかわりあるかもしれません。  ですが、いまは陛下もお疲れではありませんか?」

97 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:37:09 ID:IGcxM+4w

「気にしないで……いえ、そうね、いったん帰国してから詳しく聞きましょう。  サイト殿。ルイズ」

 最後に彼女は、才人とルイズに向きなおった。  屈託なく、とはいかないらしい。声が硬い。

「ルイズ、ありがとう。あなたの活躍は聞きました、あなたはやはり頼りになるわ。  サイト殿には本当に、あの、ご迷惑を……」

「いえ、大したことでは……」

 昨日の昼とおなじく、妙にぎこちなく視線をそらしあう才人とアンリエッタの様子に、ルイズがじーーーっと注視している。  ルイズは深呼吸の後、声をかけた。

「あの、姫さま」

「あ、な、なにかしらルイズ」

「ちょっとお話しても?」

「も、もちろん……いえ、待って、それも帰国してからゆっくり聞くわね。  いまはその、みんな疲れていることですし。あなたたちにも一度戻ってからきちんとお礼をするわ」

 妙にあわてつつアンリエッタはスカートをつまんで、そそくさとタラップを上がっていった。

「に……逃げたのかしら」

 後ろ姿を見送りながら、呆然とルイズがつぶやいた。  なんとも口をだしかねている才人は、かたくなに沈黙を保っている。

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 数日後。  トリステイン北東部の低湿地帯。  堤防、灌漑、堰などによって水が人工的に制御されてきた地方。  陽光が水にきらめく大河のほとりを、馬に乗ったラ・トゥール伯爵の一行は進んでいる。

 ゲルマニアの奥から端を発し、とうとうたる流れとなってトリステインを通り、大海にそそぎこむ大河。  河畔には国境をまたいでいくつもの都市が点在し、物流きわめて盛んであり、商業は殷賑をきわめている。  なかでも最大の都市トライェクトゥムをかこむ五重の堅牢なる城壁が、ラ・トゥール伯爵の目前にせまっていた。

98 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:37:51 ID:IGcxM+4w

 トライェクトゥムの市の紋章は、「ハンマーと鉄床」である。  遠い昔にラ・トゥール家が、王家に都市領主としての実権を剥奪され、市政が市民参画の参事会による自治に代わったとき、王にうったえた市民をまとめたのが鍛冶職人組合だったのだ。

 むろん平民が公職につくことがおもてむき禁じられているトリステインでは、参事会の上層部はほとんどが貴族か聖職者である。  しかし、独特の選挙方式でこれまでは、平民が陰ながらの選挙によって役人を選んできたのだった。  それも現参事会筆頭役人、かれアルマン・ド・ラ・トゥールがすでに終わらせた制度となっていたが。

 水のたたえられた堀の大きな石橋を歩く。  市の入り口、ハンマーと鉄床の紋章がきざまれた、幾重にも連なるアーチ門の下に達する。  ラ・トゥールはちらと横目で、馬をならばせている秘書を見て鼻を鳴らした。

「下りろ」

 ぞんざいに言い捨て、率先してみずから機敏にひらりと馬から身をおどらせた。  秘書はおどおどしていたが、素直にしたがって下りた。  下馬した瞬間、体をひるがえしたラ・トゥールの拳がとび、その鼻をつぶしていた。

 鼻血をこぼして殴打によろめく暇もなく、都市領主の太い腕が、若い秘書の胸ぐらをつかみ、レンガの城壁におしつけた。  血走った目が、顔の下半分にだらだらと血をながす秘書の顔をにらみつける。

「ふざけているのか、貴様? 森を逃げているとき、あの平民どもは陛下に薬が盛られている云々と会話していた。その後、陛下は私をうたがったんだぞ。  おまえだろ? なにをした、あの晩餐の席で? ワインを注いでいたのは貴様だったんだ。  私が秘書の責任をとらされたらどうするつもりだったんだ、ええ? なめた真似をしやがって。この私を裏切りやがって。  誰の差し金だかわかっているんだぞ、あの狐野郎だ、ベルナール・ギィだ。違うか?」

「違わんな」

 春の陽ざしのなか、木枯らしより冷たい声がラ・トゥールの横手から届いた。  ゆっくりとラ・トゥール伯爵はそちらに目をむける。

「ベルナール」

 彼の長年の政敵がそこにいた。  僧服をまとった、少壮の年齢の男。ひげはなく頭もそっており、冷厳たる面持ち。  周囲が冬に戻ったかと錯覚させるような声。その雰囲気はタバサに少し似ている。  トライェクトゥムでもっともラ・トゥールを警戒させ、その知識の量と冷えた思考において衆に冠絶している者。

「離してやれ、アルマン。おまえの言うとおり、責任はわたしにある」

99 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:38:55 ID:IGcxM+4w

 秘書は、血をふきこぼす鼻を押さえて、憎しみに満ちた目でラ・トゥールを見ていた。  ラ・トゥール伯爵はその視線にこたえることもなく現れた男、市参事会に顧問として席をえているベルナール・ギィに向かってせせら笑った。

「ウォルター・クリザリング自身が陛下に薬を盛ったにしては妙だったからな。何者かがあいつと私に罪を着せようとしているかと思ったんだよ。  となると、ワインの給仕をまかせていたこいつが怪しいに決まってる。脅して訊きだすつもりだったが、ご丁寧に糸をひいた本人が出てきてあっさり自白するとは予想外だった。  ベルナール、これでお前は破滅だ。トリステイン国王に毒を盛ったのだからな」

「女王に毒を盛ったうんぬんは知らんな。  まあ、『万事、協力者にしたがえ』と指示したのはわたしだが」

 ベルナール・ギィはそっけなくそう言い、手をあげた。  杖を取りだしたラ・トゥールがなにか言うより先に、その背後から秘書がひろいあげた石で後頭部を強打した。  絶叫して割れた頭を片手でおさえ、うずくまったラ・トゥールにベルナール・ギィは歩みより、にぎったままの杖を蹴とばして離した。

 頭部を血まみれにしたラ・トゥールは、見おろす者の一片の温かみもない瞳を呆然と見あげた。  さらに気づく。  アーチ門の向こう、市内部のほうから、いくつもの人影が現れていた。  平民の商人、職人組合の親方たち。靴職人も毛皮職人も、ろうそく作り職人も油商人も、肉屋も仕立て屋も理髪師も。  かれらに影の投票で選ばれた、古くからいた参事会員たちも。  だれもが、冷酷な目で彼を見ていた。

「おい、貴様ら……私は参事会内での正式な投票で選ばれた、貴様らの正当な代表なのだぞ」

 クーデターを起こされたと知り、ラ・トゥールは信じられないというようにうめいた。幾筋もの血を顔につたわらせながら、激語する。

「しかも女王陛下の許しを得て、名実ともにそろった都市領主として帰ってきたのだぞ!  その決定に逆らう気か! これは私に対するのみならず、国家に対する反逆だぞ」

「正式な投票とやらを行ったおまえの子飼い、または賄賂をうけとった参事会員たちなら、まとめて今朝方吊るしたよ。今は市庁舎の壁にぶらさがって、子供たちに石をなげつけられている。  『組合親方連による参事会員選出』などの、長年の平民重視の慣習を無視して、金のばらまきと陰の暴力で権力の座にのぼりつめたのが、正当だろうか?  まあ暗殺や脅迫については証拠はおまえにもみ消されてしまったし、慣習をやぶったのは法を犯したとはいえないが、ここに至っては、みなそこは問題にしていない。おまえは許せぬと意見が一致しているのだ。  反逆でいいとも」

 あっさり認められ、かえってラ・トゥール伯爵の面に恐怖の色が浮かんだ。  ベルナール・ギィの後ろでは、いっせいに都市の有力者たちが怒りの身振りをまじえて互いにしゃべりだしている。

「このラ・トゥールの野郎が示した『空路交易』の案に、王家が賛同したんだぞ!  平民主体の船の水路交易から、風石と風魔法でうごく空のフネに重点がおかれるようになれば、おれたち都市民は長年にわたってつみあげてきた権益の枢要を奪われるってことじゃないか!  王政府はそれを無視しやがった」

100 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:39:38 ID:IGcxM+4w

「ああ、だれもかれも恃むにたらん。ラ・トゥールを掣肘してくれることをお上に期待していたのに、王家にまでついに裏切られたとあってはな」

「我らを見放しただけではない、王政府はラ・トゥールの味方についたそうだ。きっと後日、罪を問うてくるだろう。  トライェクトゥムは王家に深く干渉され、ほしいままに利権をむさぼられ、戦のときには真っ先に負担を課せられるようになる」

「こうなれば傭兵を雇おう。うちの息子も市民兵に志願すると言ってる。みずから戦ってこそ自治都市は尊厳を保てるんだ」

「まてよ、相手は襲撃してくる群盗とはわけが違うんだぞ。トリステイン王政府そのものだ。うかつに戦うわけにはいかんだろう」

 彼らの蜂の巣をつついたような議論のなかで、最後のせりふを聞きつけてラ・トゥール伯爵はとびついた。

「そ、そうだ、反逆の結果を考えていないのか! 王家を敵に回してどうなると思ってる、  どれだけトライェクトゥムが富裕でも、一都市対一国で勝てるはずもないだろうが!」

 直後に、ベルナール・ギィの凍てつくような声が一同の上をながれる。

「いい機会だからみな聞け、するなら一都市対一国にはしない。  『武器税』で、いま貴族たちは王家に反感をいだいている。最終的に、『国境をこえてまたがる河川都市連合、対、貴族の支持なき一王家』にもちこめばよい。  女王の施行した武器税のため、王軍のみならずわれわれも出回った武器を安く買えた。在庫を処理してやるというだけで、ときにはただ同然で譲ってもらえた。武装も充実しているのだ。  さて、だれか棺おけ職人を呼んでこい。作っておいた棺を届けさせろ」

「ああ、それならここに持ってきましたぜ」

 朗らかな声とともに、鉄の棺が縄でくくられてずるずると引きずられてきた。  縄の端は牛にくくりつけられており、その牛の鼻面をさらにひいて歩かせている男は、片手の手首から先がなく代わりに鉤がついていた。  その横で、竜にまたがってやってきた紫のローブの者が、「ここでは楽しいことをやっているようだなあ、〈鉤犬〉」とつぶやいた。  緑色の小鳥が周りをとびまわっている。

 ベルナール・ギィ、都市トライェクトゥムでもっとも冷えていると言われる男は、恐怖の汗をうかべだした都市領主をあらためて見おろす。

「数百年前、ラ・トゥール家の当主たちは、反抗の色を見せた都市民を棺おけにつめこんで、生きたまま大河に沈めた。  子孫の身で試してみるがいい、アルマン」

 引導を言いわたされたとき、絶句していたラ・トゥールの表情が変わった。  恐怖と焦慮と憎悪を激情にかえて、ラ・トゥール伯爵は絶叫した。

「……この、分不相応に欲をだす平民ども! 平民にすりよる誇りをどぶに捨てた貴族どもに、くそ坊主!  おまえら全部呪われろ、五体を裂かれて地獄に落ちろ……!」

 破れかぶれの悪罵を聞いて、顔色を変えたのは市民たちではなく〈鉤犬〉だった。  かれは前に出ると、ラ・トゥールの腹を蹴りあげた。  うめいて横転した彼の胃の上あたりを執拗に蹴りつづける。

101 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:40:20 ID:IGcxM+4w

「分不相応といったか? 俺たち平民だって儲けてなにが悪い? 働いてきずいた富のなにが悪い?  六千年だ、六千年だぞ、貴族の圧政に呻吟し、富と力を奪われつづけて六千年だ!  てめえらは生まれもった立場にものをいわせて、商売で成功した平民がいればなんやかやと理由をつけて臨時税を課し、借金して平然と踏みたおし、あげくのはてに根こそぎ利権を奪っていく!  てめえらこそが地獄に落ちろ! 共和主義の勝利をそこから見ていろ」

 〈鉤犬〉のわめき声に対し、場の幾人かが顔をしかめた。  ラ・トゥール反対派の古い参事会員たちである。かれらも一応貴族であり、平民と融和路線にあるとはいえ共和主義を受け入れていたわけではない。  この一幕が目に入らないかのように、ベルナール・ギィがアーチ門から離れ、人々を無言で市外に呼ぶ。  紫ローブの者をふくめ、数人が集まると彼は話しはじめた。

「政府の決定、アルマンを支持するというのはおそらく女王ではなく枢機卿マザリーニの判断だろうが、王政府の利のみを考えるならこれは本来間違ったものではない――  これまでのように平民主体の都市自衛軍が、メイジ主体の貴族らの軍に実力で抗しても力及ばぬ、という条件下なら。  その場合わたしとて、決起するのは危険と判断したろう」

 不安まじりの視線が、市の有力者たちからそそがれる。  彼は「しかし」とふところから、小さな石を取りだした。

「ここに高い金をはらって買いあつめた希少な〈解呪石(ディスペルストーン)〉がある。  なかんずく、この協力してくれる御仁の話では〈永久薬〉という存在と組み合わせることにより、魔法の発動を抑える効果は永続するという」

 紫ローブの者を、ベルナール・ギィは振りかえった。  その者は微笑の波動をたゆたわせて、肩にかついだ革袋をしめしてみせた。その革袋は、かすかに内部からもれる鼓動を表面に伝えている。  肩にとまった緑色の小鳥がrotと鳴く横で、フードの奥から声がつたわる。

「まあ、私にしても〈永久薬〉と〈解呪石〉を組み合わせる試みははじめてだが、じゅうぶんに成功するだろう。塔から持ち出すことがかなった種々のレポート、研究書のおかげで要点はかなり把握できた。  基本は風石その他に効果を及ぼすときとかわらないようだ。手間は魔法人形に比べて非常に簡単でさえある」

 それを聞いてベルナール・ギィはうなずき、聴衆に向きなおった。

「この効果がおよぼされる範囲内で、王家と諸侯の主戦力であるメイジ兵についてはその脅威がほぼ取り去られるわけだ。これでわれわれは最低でも大河周辺において、対等の条件で戦うことができる。  最終的に政治的妥協を目指すとしても、われわれはまず戦う必要がある。この先二度とあなどられぬよう、力を見せつける必要がある。  そのための手段と好機がそろっているのだから、ためらう法はない」

 一度言葉を切る。  それから、ラ・トゥール伯爵を蹴りつづけている〈鉤犬〉のほうに目をやる。

「さしあたり〈王権同盟〉に注意する必要がある。他国に援軍を頼まれてはならない。  一両日中にゲルマニアでは東部で『たまたま』大貴族が皇帝に反乱を起こすだろう。トリステイン方面に兵を割く余裕はあるまい。  ロマリアとはいくつもの都市国家と、商取引や銀行の融資を通じた関係があり、教皇庁以外はむしろわれわれの側に近い。ガリアのみが警戒すべきだが、これもうまくすれば組むことができる。  もちろんわれわれ内部でも、王権同盟の敵視する共和主義者や新教徒に関することは注意して遠ざける、せめて隠しておく必要がある。まして、王家に顔を知られたおたずね者などはなおさらに」

102 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:41:22 ID:IGcxM+4w

 ちらと再度、紫ローブの者に目を走らせる。  視線をうけた側は、「わかった」とうなずいた。

「けっこう。ではアルマンをそろそろ棺に入れよう」

 肉屋の親方が手を上げた。  「河に放りこむ前に、棺を市中で引きまわすことを市民は望んでいる」との言に、ベルナール・ギィは霜がおりるような眼光を投げた。

「棺おけが壊れないとも限らんから引きずるのはすすめない。  それでもやりたいなら好きにしたらよかろう」

……………………………………… …………………… …………

 ……トライェクトゥム伯アルマン・ド・ラ・トゥールが入れられた棺おけが、市内をねり歩くためにアーチ門内部に担ぎこまれるのを見送りながら、紫ローブがふと言った。  並んで立っているのはベルナール・ギィのみである。  後方には〈鉤犬〉と、ほか数人の下男が控えている。

「あの女王は、反乱が起きるとすれば諸侯からだと思っていて、自分が守ろうとしている平民の権力が強い都市からとは予想してないだろうなあ」

「なぜわれわれが、多大な損をこうむってまで彼女の理想につきあわねばならぬのだ?  都市民以外の平民、たとえば農民などと一緒にされねばならぬのだ? ああいった読み書きもまともにできない愚かな者たちと、帳簿をつけている者らとを一緒にするのか?  彼らを救うために改革が必要と。けっこうな話だ、ただし都市民の権益に手を出さないでやってくれということだ」

 ベルナール・ギィの言葉は、凍った刃のようだった。  彼は続ける。

「王家と話し合う余地がないのはそこだ。女王陛下の考える『守ってやらねばならない民』は弱く被害者であり、羊のようにおとなしく素朴で、お互いに平等で仲むつまじくやっている民であろう。  われわれ都市民は、われわれの利益を優先する。他者を押しのけてでも儲けたい。先祖からの権益を独占することを望む。現在の状態を保持することを望む。そのためには戦う。そして無教養な農民と同じだと思われたくない。  われわれの利益のためには他の平民は犠牲になってもいいという、このような率直な心情に、彼女ははたして共感するのだろうか?」

 都市民の権益をそこなう改革も、改革の過程で王権が都市へ干渉してくることも、迷惑だ。  そう言いきる男に対し、にやっと紫ローブのフードの陰で、期待通りといわんばかりの笑みがこぼれている。

「要は女王の政治がむかう先が気にいらないのだな。だから私と組んだわけだな、ベルナール・ギィ。  女王がラ・トゥールと提携する方向に進んだことによって、都市民はおまえの思い通り暴発の方向に誘導された。  おまえは内乱を起こし、この機会を利用して、都市の力を伸ばすことだけを考えているのだな」

 ベルナール・ギィはそれに対し鼻を鳴らした。

103 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:42:12 ID:IGcxM+4w

「貴君には貴君のもくろみがあったろう。それでも双方に利益があるなら手を組むことは自然な流れといえる。  だがこの先のことについてはわたし及び参事会の決定にしたがってもらうぞ。  さて、きちんと始末はつけていただこう」

 言い残して歩きだし、アーチ門をくぐって消えていく。  紫ローブの者は、ひかえていた〈鉤犬〉に向きなおって言った。

「牛をここへ」

「牛、ですか?」

 首をひねりながら、〈鉤犬〉は牛を連れてきた。  牛に先ほど棺おけを引かせて持ってきたのだが、今その棺は市の有力者たちがみずから担いで市内に戻っている。牛は用済みだった。

「牛などなにに使うんですかね?」

 その問いを無視して、残っていた二名の下男に「竜を」と声をかける。  先ほどまで乗っていた竜がひかれてくる。  わけがわからず見守る〈鉤犬〉の前で、二頭の獣に縄をむすびつけるよう下男に命じた紫ローブの者は、「コカトリス」と肩にとまっている小鳥を呼んだ。

「死ぬまで動かぬよう直立させよ」

 ぐりんと小鳥の首がフクロウのように回転し、その黒目がブドウのように大きく開かれた。  小鳥の目に見すえられ、〈鉤犬〉はその場に固まった。直立不動の体勢。足が地面に固着されたように離れない。  かつて忠誠の証として、この鳥に〈山羊〉たちともども自分の血をすすらせるよう言われて、首をひねりつつ従ったことがあった。  かろうじて声は出た。だから〈鉤犬〉は顔をゆがめて叫んだ。

「待った! 待ってくれ、何をする気だ!」

 その首に、二本の輪縄がかけられた。  一本は牛に。一本は竜につながり、それらの獣はたがいに反対方向を向いておとなしくたたずんでいる。  下男が一名ずつその鼻面のあたりについていた。  〈鉤犬〉の顔をのぞきこみ、紫ローブはくすりと笑った。

「残念だな、ベルナール・ギィは、あからさまな共和主義者はいるだけで迷惑だと言っている。とくに顔が割れているやつは危険だと。  そういえば、おまえには先の秋の責任をとらせていなかった。〈山羊〉のやつは死んでいるのに不公平だろう?  死んでみるのもきっと楽しいぞ、自分でやったことはないが」

 愕然としている〈鉤犬〉に、優しげな声を出す。

104 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:42:44 ID:IGcxM+4w

「もちろん、おまえがゲルマニアからかきあつめてきて待機させている共和主義者たちは使ってやるとも。  〈カラカル〉に彼らの指揮をまかせることにする。情念だけが先行する役立たず共を、あいつなら獣に叩きなおせるだろうよ。いや、『戻す』かな」

 その言葉に、〈鉤犬〉は目をむいて悲鳴をあげた。

「あのような奴に、わが同志をゆだねると!?」

「あいつだって退屈しているんだ。  先の秋は、おまえと〈山羊〉が口をそろえて反対したから同行させなかったが、本来、あいつほど私に近いやつはいないぞ。  その戦闘理念が遺憾なく発揮されるのを見たい、だから今度こそ駒の役を与えてやるつもりでいる。  今よりはじまるこの王侯のゲームで」

 〈鉤犬〉の首にかけられた二本の輪縄に手をのべて、ほっそりした指でいじりながら、紫ローブの者はおごそかなほどにもったいぶって宣告した。

「わたしはこのゲームに最善をつくすと約束するよ、〈鉤犬〉。  この先に共和国が誕生するかどうかはどうでもいいが、王政の国土を壊乱することだけは引き受けてやるから。  安心したろう? だから死ね。先の秋の失敗を、一足先にまっている〈山羊〉と嘆け」

 わたしは駒の失敗を、許しておいてやる気はないんだ。  そうささやかれて、〈鉤犬〉は遅まきながら理解した。自分にその非情がむけられてから、ようやく。  この人物は、彼が信じてきたような存在ではない。その非情さは、自分たち理想を追い求める者のそれと共通すると彼は思い、共感さえ覚えていたのだったが、違う。  どこか似ていながらも決定的に違う。

 これは、理想をいだく革命家の苛烈さなどではない。  これは――退屈を埋めるものを求める暴君の、愉悦まじりの残忍さだ。

「とはいえ、顔も見ずに従ってきてくれたことを思うと、少しは哀れをもよおすな。  いい機会だから、見てみろ。どうせなら驚いてくれると嬉しい」

 彼の目の前で、紫のローブに手がかけられ、それがばさりと脱ぎ捨てられた。  柔らかい栗色の髪が、さらりと風にほどける。

105 :黄金溶液〈下〉:2008/01/06(日) 22:43:12 ID:IGcxM+4w

〈鉤犬〉はその者にとって、最後に理想的な反応を示したといっていい。  彼はぽかんと口をあけ、首にかかっている二つの縄さえ忘れたように、呆然とその顔を見てつぶやいた。

「アンリエッタ女王?」

 脱いだ紫のローブの下には黒いドレス。  黒は陛下に似合わない、と枢機卿マザリーニが評したことがある。  だが、同じ顔を持ちながら、この魔法人形の一種、肉の器でできたホムンクルスには不思議と合った。  外観は「オリジナル」と同じ、けれどその魂はまるで違う。  白と黒ほどに違う。

 白昼の幽霊を見たような表情の〈鉤犬〉に答えず、彼女は市のアーチ門の上にあるトライェクトゥムの紋章を振りかえって言う。

「百合とハンマーの激突の下で、聖俗貴賎の区別なく、狼のように殺し疫病のように殺そう。  水晶のゴブレットにたたえた紅の酒を乾し、ブロンズの水盤に血を満たそう。  わたしはオリジナルと遊ぶことにする。これと同じ形をしたあいつの唇から――」

 細指でなぞる花弁のような唇が、三日月の形にゆがむ笑みをたたえた。

「滅亡哀歌を歌わせてやる。  ダンス・マカブルを踊らせてやる」

 顔を前にもどし、言葉もない様子の〈鉤犬〉を見て、そのホムンクルスは失笑し、獣の手綱をにぎった者たちに合図した。  ひかれる竜と牛が鈍重に、相反する方向に歩きだす。  〈鉤犬〉が思いだしたようにわめき声をあげようとした矢先、ぴんと張った二本の縄がぎりぎりと強烈に首にくいこみはじめた。

 数歩下がって黒いドレスの彼女はそれを楽しげに見ていたが、やがて興味を失ったように目をついとそらし、細身を返してアーチ門へ向かいはじめた。  紫のローブをばさりと羽織りながら、髪をなびかせ、喜色を玲瓏の面にはりつけて。緑色の小鳥がそのまわりを舞う。  吟唱するように口ずさみ、どす黒く麗々と歩をはこぶ。

「さあ開幕といこうじゃないか。  王侯のゲーム、殺戮、火炎と鋼のダンス。人の世が飽きず繰りかえす喜劇。  戦、戦だ、乱痴気さわぎの血の宴だ。  『かくて始原の昔より、かくて無数の星霜を、   慈悲悔恨のゆるみ無く、修羅の戦いたけなわに――』」