ゼロの保管庫 別館

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だれでも歓迎! 編集

76 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:48:36 ID:7omlHF1N  そのときのわたしは賑やかな居酒屋を出て、数年ぶりに再会した友人たちと、再び長いお別れを交わしたところだった。  心配する友人たちに大丈夫だと笑って別れを告げ、女一人で夜の街を歩き出す。  酔っているために頭が朦朧としていて、今一体何時ごろなのかもよく分からない。  ぐらつく視界とふらつく足取り。せめて家までは自分一人で帰り着かなければと必死で念じながら、うるさい客引きを無視しつつ歩いていたのだ。  その内気分が悪くなって立ち止まり、道端の電柱に右手を突いて左手で口を押さえた。  嘔吐感が胸の奥からじわじわとせり上がってきたが、寸でのところで戻すのだけはこらえた。  そうして数十秒ほど。ほんの少しだけ気分が良くなってきたとき、わたしは何となく軽く頭を上げた。  特に、意味のある動作ではなかったと思う。まだもう少しだけその場に立ち止まって休んでいようと思っていたし、誰かに呼び止められた訳でもなかったから。  だから、そのとき彼を見つけられたのは本当に、それこそ奇跡的と言ってもいいぐらいの偶然なのだった。  わたしがここで立ち止まらなければ、立ち止まったとしても何となく顔を上げなければ、彼は夜の猥雑な雑踏に紛れ込んでいただろう。  目立つ人ではなかったのだ。髪は染めていないし、特別体が大きい訳でも、小さい訳でもない。  美形とも不細工とも言いかねる、どこにでもいそうな外見。  本当に、彼は普通の人だった。群衆の中で黙っていれば絶対に見つけられないような、普通の人。  だからこそ、かもしれない。  わたしは直感的に悟ったのだ。ここで呼び止めなければ、もう一生彼に会うことはできないだろう、と。 「平賀さん」  わたしが大声で呼ばわると、彼は驚いた様子で振り返った後、わたしを見つけて嬉しそうに微笑んだ。  数年前と全く変わらない表情だった。嬉しそうで楽しそうで、でもどこか寂しげな、あの微笑。  平賀さんはわたしの名前を呼びながら駆け寄ってきて、片手を上げて気楽な調子で声をかけてきた。 「よう、久しぶり」  何の躊躇いもなくそう言われたとき、わたしは自分の心臓が一つ高鳴ったのを聞いた気がした。

77 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:50:03 ID:7omlHF1N

 平賀さんは高校のときのわたしの同級生だった。でも、年齢はわたしより一つ上。つまりは留年生なのだった。  わたしより一年早く入学して、わたしが二年生だった年の夏ぐらいから同じクラスになった。  留年した理由については様々な噂が飛び交っていて、今でも正確には分からない。  確かなのは、成績が悪かったために留年した訳ではないということと、出席日数が足りなかったことが決定的な理由になったらしいということだった。  分からないのは、何故出席日数が足りなかったのかということ。  さすがに平賀さん本人に問いただす人はいなかったから、自然と様々な憶測が生まれることになった。  当時一番信じられていた噂は「一年ほど行方不明になっていた」だったが、それにしたって何故行方不明になっていたのかは誰にも分からなかったのだ。  そんな風にあれこれと噂の種になっていた平賀さんだったが、本人はこれと言って変わったところのない人だったように思う。  いや、むしろ普通の人よりも活動的で、楽しい人という印象が強い。  留年生のくせに躊躇もなくわたしたちの輪の中に入ってきて、持ち前の明るさでいつの間にやらすっかり馴染んでいるのだ。  文化祭などのイベント事では大抵騒ぎの中心にいたし、その癖雑用や裏方仕事の手伝いなども好んで引き受けていた。  そんな風に人当たがいい人だったが、女子に対しては格別優しかったように思う。  自分の前では重い荷物など絶対に持たせなかったし、具合が悪いのを我慢しているのも敏感に見抜いていた。  とは言え下心がある風でもなく、ただ体に馴染んだ動作を自然に行っているだけのように見えていた。  一度、わたしの友人に「平賀さんって何でそんなに優しいんですか」と単刀直入に聞かれて、  「多分犬の根性が体に染み付いてるんだろうなあ」と苦笑していたのを覚えている。その言葉の意味は未だに分からないが。  そんな風に飾らない人だったし顔も凄く悪いという訳ではなかったから、留年生のくせに女子の間でもなかなか人気が高かった。  何故だか「この人なら危ないことがあっても守ってくれるかも」という妙な期待を抱かせる人だったのも、人気の理由の一つだった。  考えてみれば変な話だ。平賀さんは格別体格がいい訳でも、強そうに見える訳でもなかったのに。  とにかくそういう事情があって、平賀さんにアプローチをかけて実際に告白までした人は幾人かいたようだったが、  彼の返事は決まってノーだった。理由を問いただすと、とても寂しそうに「他に好きな人がいるから」と答えていたという。  好きな人、というのが誰なのかも、女子の間でたびたび話題になることだった。やはり、誰なのかは分からなかったけど。  だが、それ以上に話題になったのは、その女子が誰なのかということよりも、何故その子のことを話すとき平賀さんが寂しそうにするのか、ということだった。  何か悲しいエピソードがあるに違いない。あのいつも明るい平賀さんが、あんなに寂しそうな顔をするんだから、と。  だが、私は知っている。彼が寂しそうにするのは、そのときだけではない。彼はいつだって、どことなく寂しそうだった。  男子の輪の中で騒いでいるときも、体育で走り回っているときも、それこそ女の子に言い寄られているときも。  そういうことをしているそのときこそ、本気で楽しそうだったりはしゃいでいたり困っていたりするのだが、  一度そこから意識を離した途端、彼は決まって寂しそうな雰囲気を身に纏ってしまうのだ。  そういうとき、彼は大抵微笑んでいた。ここにいるということがとても嬉しくて、だけど同時にとても寂しい。そんな微笑を浮かべていた。  彼の微笑をよく覚えている。数年経った今でも、心の中に思い描くことができる。  ずっと、彼のことを見つめていたから。

78 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:51:17 ID:7omlHF1N

 夜の雑踏を遠く離れて、静まり返った小道を二人で並んで歩く。この道をずっと行けば、わたしの家が見えてくる。  同窓会も終わって、一人で帰るところだと言ったら、平賀さんが心配してついてきてくれたのだ。 「俺もそっちの方に用事があるんだ。最後は別方向になるから、家までは送っていけないけど」  そんな風に言って、平賀さんは酔っ払っているわたしを時折心配げに見ながら、こちらのペースに合わせてゆっくり歩いてくれている。  そういう訳で、隣に平賀さんがいる。そのことが信じられず、酔っ払って深く眠り込んだわたしが  見ている夢なのではないかと疑ってみたりもするけれど、やはりこれは現実なのだった。 「同窓会、行けなくて悪かったな。どうしても外せない用事があってさ」  申し訳なさそうな平賀さんの言葉に、わたしは頭が痛むのを我慢して首を振った。別にわたしが許すことではないのだけれど。  すると、平賀さんは心配そうにわたしの顔を覗き込みながら言うのだ。 「具合悪そうだな。ちょっと休んでいこうか」  これにもわたしは首を振った。少しでも長く話をしたいから、本当は立ち止まりたいところなのだが、  座ると気が抜けて寝込んでしまいそうな気がして怖い。そういうみっともないところは、出来れば見せたくなかった。  平賀さんはやはり心配そうな表情で少しの間考えていたが、やがて気遣うような微笑を浮かべてみせた。 「じゃあ、休みたくなったら言ってくれな。別に急いでる訳じゃないからさ」  わたしは素直に頷くことしか出来ない。彼の微笑は、数年前と全く変わっていなかった。  楽しそうだったり、優しそうだったり。でも、その中には必ず隠し切れない寂しさが漂っているのだ。  ということは、やはりまだ「好きな子」のことは解決していないのだろうか。  そのことを訊ねてみたい気はしたが、後一歩というところで質問が口から出てこない。  代わりに出てきたのは、「今は、なにを」という、ありきたりで当たり障りのない質問だった。  平賀さんは何気ない口調で、 「ニート」  と一言だけ答えた。  予想もしなかった返答に、頭が真っ白になる。何も言えずにいるわたしを見て、平賀さんは大きく吹き出した。 「おいおい、そんなに固まんないでよ。会社辞めたの一ヶ月ぐらい前なんだからさ」 「あ、そうなんですか」  わたしは話が気まずい方向に進まなかったことにほっとすると同時に、強い疑問を覚えた。  わたしの記憶では、平賀さんはかなり成績がよかったはずである。  騒がしい印象や留年生という立場とは裏腹に、一人でいるときはかなり勉強していた様子で、大学もレベルの高いところに進んだはずだ。  進路に悩む様子は微塵もなく、他の生徒と比べて目的意識がはっきりしているように見えたのだが、そんな彼でも望んだ道は進めなかったということなのか。  憑かれたように見えるぐらい何にでも一生懸命な人だったから、いわゆる「最近の若者」のように転々と職を変えるというのはどうもイメージに合わないのだが。

79 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:52:35 ID:7omlHF1N

 そんなことを考えてみるものの、実際にどうなのかは本人に聞いてみなければ分からなさそうだった。  だが、聞けない。そういう問いをするのは怖い。  平賀さんの寂しげな微笑を覚えているからこそ、そういう問いが彼を傷つけるのではないかと思ってしまう。  そうしてわたしは黙り込み、平賀さんもわたしの迷いを察したように何も言わなくなってしまったので、  わたしたちはかなり長い間、お互いに無言のままで歩き続けることとなった。  その内に平賀さんに呼ばれたわたしが慌てて顔を上げると、平賀さんが二つに分かれた道の一方を手で指し示していた。 「家、あっちなんだろ」  そう説明したし、実際にその通りだった。平賀さんはもう一方の道を示して、 「俺はこっちだから、ここで」 「はい。ここまで、ありがとうございました」  何かを言わなければと思いながらも何も頭に浮かばず、わたしは機械的に頭を下げる。  平賀さんはそれを見て、穏やかに微笑んだ。穏やかで、それでいて寂しそうな、あの微笑だった。 「悪いね。気をつけて帰ってくれな。変な人についてっちゃダメだぜ」 「何歳だと思ってるんですか」 「実際の年よりゃ若く見えるからさ。じゃ、元気で、な」  冗談交じりに別れを告げて、平賀さんは踵を返した。  思わずその背中に手を伸ばしかけて、引っ込める。わたしは何をしようとしているのだろう。  転々と住宅街を照らす、頼りない街灯の下。平賀さんの背中は、その足取りに何の迷いもなく小さくなっていく。  わたしの胸に、今日平賀さんを見つけたときのあの奇妙な直感が蘇ってきた。  ここで呼び止めなければ、平賀さんとはもう二度と話すことが出来なくなってしまう。  わたしは消えかける平賀さんの背中に向かって、大声で叫んでいた。 「待って」  遠く、去りかけていた平賀さんは、何故か必要以上に驚いた様子で、勢いよくこちらに振り返った。  暗くてもよく分かる。平賀さんは、呼び止められることなど予想だにしなかったと言いたげな驚愕の表情で、こちらを見ている。  わたしはもはや迷いなく駆け出した。どうせ今日で最後なら、疑問に思ったことを全部聞き出してやろうと決意しながら。  暗い住宅街を歩きながら、わたしは今まで溜め込んできた疑問のほとんどを平賀さんにぶつけていた。  平賀さんは急に饒舌になったわたしに驚いている様子だったが、問いの全てに実にあっさりと答えてくれた。  その答えというのは、わたしにとっては全く予想外のものばかりだったのだけれど。

80 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:53:14 ID:7omlHF1N

「ええと、まずは何から話せばいいんだっけ。質問いっぱいするもんだからさ、頭がこんがらがっちまったよ。  ああそうそう、俺が高校生のときに行方不明になってたことだっけ。  あれなあ、実は異世界に行ってたんだよ、異世界。  そう。異世界。地球とは別の世界。あの頃流行してた、ファンタジー映画みたいな世界だったんだけどさ。  ファンタジーだよ。分かるだろ。なんか魔法とかあってモンスターとかいて剣で切りあったり、そういうの。  おいおい、この段階でそんな顔されても困るよ。俺はこっからもっと信じられないような話すんだからさ。  俺はその世界で英雄になったんだよ。妙な力を偶然手に入れて、孤軍奮闘の大活躍をしてな。  周りの人にもかなり持ち上げてもらって、いろいろ褒美ももらっちゃったりしてさ。  でも大体一年ぐらい経ったごろにようやく帰れる目途が立ったんで、帰って来た訳さ」

 平賀さんがそこまで話し終えたとき、わたしたちはとある一軒家の前に到着した。  広くて大きな家だ。大分古くて所々が傷んでいる様子だったが、洋風の石塀に囲まれた空間はそこらの家など比較にならないほど広く、  庭だって走り回れるほどの広さだ。ただ、手入れされていない様子で雑草が茂り放題、池の水も枯れている様子だったが。  こんなところに住んでいるくせに、庭の惨状には全く興味を示さない人物が主人らしい。  だが、平賀さんはこんな屋敷に何の用があるのだろう。  わたしが疑問に思ったのと、平賀さんがインターホンに向かって喋り出したのとはほぼ同時だった。 「あ、教授ッスか。才人です。時間よりちょっと遅れたけど、来ましたよ」  鉄の門が勝手に開き始めた。どうやら、これが返事代わりらしい。躊躇いなく中に入っていく平賀さんを、わたしは黙って追いかけた。

「帰ってくるのに抵抗はなかったかって? そりゃあったさ。  でもそれはあっちの世界での地位が惜しかったからでもないし、あっちの世界が凄く面白いところだったからって訳でもない。  いたんだよ、好きな人がさ」

 わたしは立ち止まった。平賀さんもそれに気付いて立ち止まる。「どうした」と平賀さんが目を丸くしているが、  わたしは何も答えられなかった。  好きな人。平賀さんがあんな風に寂しそうに微笑む、その原因ともなっている人。  異世界にいるのでは、会いたくても会えるはずがない。だからこそ、平賀さんはあんなに寂しそうだったのだ。  わたしは「なんでもないです」と答えた。平賀さんも首を傾げながら、また歩き始めた。

81 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:54:47 ID:7omlHF1N

「だから、本当は迷ったんだ。多分こっちに帰ってきたら二度とあっちには帰れない。  正直、ほとんど直前まで考えてたんだよ。『いっそこっちに定住しちまおうかな』とかさ。  そうしなかったのは、こだわりがあったせいだろうな。こだわりってのは、もちろん好きな人に関することさ。  その人は、凄い人でさ。貴族のくせに魔法が使えなかったんだけど。ああ、その世界では貴族って皆魔法使えるんだ。  で、そのせいでたくさんひどいこと言われたりしたんだけど、それでもくじけずに頑張り続けてた人なんだ。  そういうの、全部横で見てたからさ。俺がその人に惚れるのもそんなに時間はかかんなかったな。  だから俺は頑張ったよ。今まで生きてきた中で一番頑張ったと思うよあのころは。  それで、さっき言った妙な力のおかげもあって、それなりにその人の役に立てたんだよ俺。  その内、まあほんのちょっとだけどその人も優しくしてくれるようになってさ。  気持ちも通じ合って、多分、あっちも俺のことを大切に思ってくれてたと思う。  自惚れやすい性格だけど、これだけは確かだって断言できるよ。  だからこそ、このままこっちの世界にいついてしまおうか、なんて考えた訳だしな」

 平賀さんは、廊下の途中にあった階段を下り始めた。どうやら地下に続いているらしい。  階下の暗闇からは、何やら機械が動いているような音が響いてきており、今の平賀さんの話の内容も相まって、  わたしはなんとなくゲームか漫画の世界に入り込んでしまったかのような錯覚まで覚えていた。

「でも、本当にそれでいいのかとも思ったよ。  俺がその人の役に立ててたのは、偶然妙な力を手に入れたおかげだった。  そうでなけりゃ、俺なんざほとんど何の役にも立たなかっただろうって思うよ。  もちろんその力がなくてもその人のために頑張ろうって気はあったけどな。  そういうこだわりがあったから、本当に自分とその人で釣り合いが取れてるのかなんて、散々悩んだりしたもんさ。  その人は、妙な力や恵まれた才能なんかなしに、逆境に立ち向かってきた人だったからさ。  それと比べれば、俺は恵まれすぎてたんだ。  それに、こっちの世界にいたって大して面白い人生遅れそうもないからって理由で、  いろいろ自分に都合のいいあっちの世界に留まるってのはさ、何ていうか、逃げみたいに思えたんだな。  だって、そうだろ。逆境とか大変な目に遭うこととか、うまくいきそうにないこととか。  そういうのを恐れて都合のいい方に逃げるってのは、その人がやってきたこととは正反対の生き方だ。その人の生き方を侮辱することだ。  だから、俺は帰って来た。自分はあれこれと窮屈なこっちの世界でも頑張れる人間だって、自分に証明するために。  ちっぽけなこだわりかもしれないけどさ、そうでもしなけりゃ、とても自分に自信が持てなかったんだな。  だからこそ、俺は帰ってきてから必死に努力したよ。  学校の行事やら勉強やら、あっちの世界に行く前の数倍も数十倍も頑張ってさ。  そのおかげで、いい大学やらいい会社やらにも入れたし、友達も前よりたくさん出来た。  自分が、何にもない状態からそこまで出来たってのはやっぱり嬉しかったし、これできっと大丈夫だとも思えるようになった。  またあいつに会いにいけるって。そう思えたから、俺は今日ここに来たんだ」

82 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:55:44 ID:7omlHF1N

 地下は地上の建物以上に広かった。向こうの壁が遥か向こうに見える、鉄でできた巨大な長方形の部屋。  中央にはやたらと大きな装置があった。何かの機械というだけで、何に使うものなのかはさっぱり分からなかったけど。  その装置の中央辺りに首を突っ込んでいた人が、こちらに気付いて体を起こした。  平賀さんはその人物に向かって親しげに声をかけた。 「どうも教授。この子、俺の高校のときの同級生。作業の邪魔にはなりませんから、少しここにいさせてあげてもいいッスかね」  教授と呼ばれたその人物は、頭がすっかり禿げ上がった眼鏡の小男だった。  庭の惨状同様、自分の格好にも無頓着と見えて、着ている白衣はやたらと汚れていてもはや白衣とは言い難い。  顔が皺だらけで、明らかに老人という風体だったが、目だけが異様に鋭かった。  腰は曲がっていたが、こちらを睨みつけてくる視線にはやたらと力がこもっていて、わたしは思わずのけぞりそうになった。  教授は「好きにせい」と鼻を鳴らすと、また装置に取り付いて何やら弄り始めた。

「ここで何をするのかって? そりゃ、帰るのさ、あっちの世界に。  驚くこたないだろ。俺の話聞けば、俺がいよいよ自分の心に踏ん切りつけたってのは分かりそうなもんだ。  むしろ、必死こいて勉強なんかしてたのは、半分ほどそれが理由だからな。  つまり、こっちの世界であれこれと心の整理つけた後、自力であっちの世界に帰ろうと思ったんだな。  魔法の力で世界を飛び越えられるんだ、科学の力を使ったってきっと飛び越えられるはずだ。  そう思ってたんだけど、どうも現代科学じゃ無理っぽいなあって、大学のときに思い始めててさ。  ちょっと焦り始めた頃、この人の噂を聞いたのさ」

 この人、というのはもちろん教授のことだ。わたしも名前を耳にしたことのある、有名な大学の教授なのだそうだ。  とは言っても、年が年なだけにもう講義等はしていないらしい。  今は専ら、この装置の開発に没頭しているのだそうだ。 「俺は財産家の一人息子って奴でな。親父もお袋も結構早くにおっ死んじまったが、そのおかげで金だけはそれなりにあった。  だから、大学で情報収集しながらこの異世界間跳躍装置を開発してたのさ。  俺がこの装置を開発するきっかけになったのは、そう、忘れもしない太平洋戦争当時、俺の親友がゼロ戦に乗ったまま行方不明になって」  と、饒舌に語り始めた教授の声を、わたしは半ば無視していた。  この人自身もかなり変な人らしかったけど、今のわたしにとっては平賀さんの話の方がよほど重要だったから。

83 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:56:27 ID:7omlHF1N

「俺より頭のいい人が、俺より長い間そういう装置の研究をしてるって聞いてさ。  他の連中は『あの人は頭がおかしいんだ』なんつって相手にしてなかったけど、俺は飛びついたね。  だって、俺は知ってたからな。異世界が本当にあるってこと。  結果は大当たりさ。教授は助手なんか必要ないぐらい頭のいい人だったけど、実験体だけには恵まれなかった。  そりゃそうだ、異世界に行けるなんて言われたって、魅力に感じる人間なんかほとんどいねえからな。  でも、俺は違う。無償どころか金払えって言われても手伝いたかったさ。もっとも、このニ、三年ほど、ほとんど教授の話聞くだけだったけどな。  で、そろそろ装置の完成が間近だってんで、会社も辞めて身辺整理ってのも済ませて、今夜ここに来たって訳だ。  ま、俺の話はこんなところだな。俺が何しようとしてるのか、少しは理解してもらえたかな」

 壁際に座り込んで話を聞いていたわたしは、平賀さんの問いかけにすぐには答えられなかった。  もちろん、話があまりに荒唐無稽なせいもある。異世界がどうのだなんて、この人たちは確かにどうかしてるとしか思えない。  こんな装置を作っている暇があったら精神病院にでも行った方がいいのではないかと勧めたいぐらいだ。  でも、平賀さんの言うことに嘘はないとも思う。  異世界の存在を信じる訳ではないが、この人の中ではそれは確かに存在するものらしいのだ。  その、好きで好きでたまらない人、というのも、また。 「一つだけ、聞いてもいいですか」  気付くと、わたしはそう言っていた。 「こっちの世界に、未練は何もないんですか。一度帰って来たってことは、少なくとも帰って来たいとは思ってたんでしょう」  平賀さんは困ったように頬をかきながら、懐かしむようにどこか遠くの方に視線をやった。 「そりゃ、ね。あっちの世界はすげえ不便だったし、何より化け物がうろついてたりしてて危ないんだ。  貴族ってのは大抵いけ好かない連中だったし、悪い王様がひどいことをしてたりもした。  何よりやばかったのは戦争だ。こっちの世界じゃ、まず体験できない経験だったな。もう二度と体験したくないとも思うけど。  正直、住もうって思ったらこっちの世界の方が百倍マシさ。安全だし便利だし、死ぬような目に遭うことも滅多にない。  身分制度なんてのもないから、頑張ればそこそこ幸せになれるってのが、ある程度とは言え保証されてる」

84 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:58:09 ID:7omlHF1N

「それでも」 「ああ、俺は行く」  平賀さんの答えには、微塵も迷いがなかった。わたしはなおも問いかけた。 「それは、やっぱり好きな人がいるからですか」 「ああ、もちろん。それ以外の理由なんて、ないよ」  正直言って、わたしには理解できなかった。  平賀さんは、こっちの世界(という言い方をすると、なんだか異世界というものの存在を認めているようで嫌だが)でも、  かなりいい人生を歩んでいるように思う。さっきついでに聞いたところだと、  勤めていた会社というのも安定した大企業のようだったし。  それに、家族のことはどうするのだろう。そういうものを放り捨ててまで好きな人のところに行くだなんて、  映画なら感動を呼ぶお話なのかもしれないが、現実に実行するというのはかなり身勝手だ。  その行動が多くの人を悲しませ、また迷惑をかけると分かっていてなお、この人は行こうというのか。 「ああ。ってよりな、無理なんだなきっと」  平賀さんは、またあの寂しそうな微笑を浮かべてそう言った。 「俺も一度は考えたんだ。こっちの世界でうまくやれるなら、それが一番なんじゃないかってな。  だからこそ、何だって一生懸命やった。勉強も遊びも、それこそ舐め尽すみたいに全身込めて打ち込んだよ。  でも、ダメだった。どんなところで何をやってようと、どんなに楽しんだり悩んだりしてても、ふと気付くと心の中で誰かが囁いてるんだ。  ここはお前の場所じゃないぞ、お前が本当にしたいことはそんなことじゃないだろうってな。  多分俺は、もうあっちの世界の住人になっちまってるんだなあ。それこそ、体も、心もさ」  その言葉を聞いたとき、わたしの心の隅にわだかまっていた疑問がいくつか氷解した。  ずっと、疑問に思っていた。平賀さんは、何故平賀さんと呼ばれるのだろうと。  留年生で、年の差などにこだわらずにわたしたちのクラスに馴染んでいた平賀さん。  でも、わたしたちは何故か自然と彼に敬語を使っていたし、  誰もが平賀さん平賀さんと呼んで、呼び捨てにする者は一人もいなかった。  平賀さん自身、そういうのを好く人ではないはずなのに、何故かそのことについては一言も言及したことがない。  きっと、わたしたちも平賀さんも、どこかで分かっていたのだ。  平賀才人というのが、ここに馴染める人間ではないのだということを。 「心の底からそう思い知ったのは、本当につい最近なんだ。でも、自覚したら今度こそ歯止めが利かなくなった。  こっちの世界での安定した安全な生活のことも、積み上げてきたいろんなもののこと、仲のいい友達のこと。  それに、俺がいなくなったら親父たちが悲しむだろうなってことも。  全部分かってても、そういうことで迷いがあってもなお、俺は間違いなくあっちの世界に行くって、そういう確信があったんだな」  そこまで喋り終えて、平賀さんは長い長いため息を吐いた。ずっと背負っていた重い荷物を、今になって下ろしたように。 「親父たちには、もう話してあるんだ。最初は信じてくれなかったし、異世界に帰るって言ったときは殴られもした。  今も喧嘩別れみたいな形で出てきてさ。最後がそんな形になっちまったのは残念だけど、それでも」 「あっちの世界に行くんですね、あなたは」  平賀さんは深く頷いた。わたしは何も言えなくなって黙り込む。

85 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 03:59:33 ID:7omlHF1N

 いや、本当は言いたいことが一つだけあった。だが、それを言うのには躊躇いがある。  そうしてわたしが迷っている内に、装置の準備はすっかり完了したらしかった。  教授がこちらに歩いてきて、興奮した面持ちで言ったのだ。 「乗り込め。いよいよ世紀の瞬間だぞ、才人」  平賀さんは「分かりました」と呟くように言って、ゆっくりと立ち上がった。  そして、迷いのない足取りで真っ直ぐに装置の中央に向かう。わたしも黙ってそれに続いた。  装置の中央、先程まで教授が弄っていた部分には、人一人座れる小さな座席のようなものがあった。  周りの機械からケーブルやらチューブやらが所狭しと差し込まれており、SF映画のセットのような雰囲気を漂わせている。  教授の言によると、この部屋を埋め尽くすほどの巨大な機械は、そのほとんどが動力源に過ぎないらしい。  この座席に座った人を転移するためのエネルギーは、そこまでしないと作れないのだとか。 「本当に成功するんですか」  わたしが問いかけると、教授は難しそうな顔つきで唸った。 「分からん。何せ人類史上初の試みだからな。だが安心しろ」  と、大笑した。 「なんせこのエネルギーだ。失敗したとしても人間の体なんか欠片も残らん。完全犯罪だ」  この人は精神病院よりむしろ警察に出頭するべきなのかもしれない、と思いながら、わたしは平賀さんの方を見る。  平賀さんは、やはりどことなく寂しそうな表情で、自分が数分後には座っているであろう座席を見下ろしている。  声をかけたい、問いかけたい、と思う。しかし、やはり出来ない。  そのとき教授が「じゃ、準備しろ」と言ったので、平賀さんは座席に腰を下ろした。  そうしてから、ベルトやらハーネスやらで体を何重にも固定する。  たくさんのケーブルが装着された、顔が半ば隠れる型のヘルメットも装着する。  その姿が何故だか電気椅子で処刑される直前の囚人のように見えて、わたしは気がつくと顔をしかめていた。 「よし、じゃ、いってらっしゃいだな、才人」 「いや、この場合はさよならッスよ博士」 「お約束とは逆って訳だな」  そう言って笑いながら、教授は座席の上で開きっぱなしになっていた、大きなカバーを下ろし始めた。  やたらと厚くて重たげなそのカバーで、平賀さんの姿が隠れようとする直前、 「待って」  と、気付くとわたしは叫んでいた。教授が顔をしかめて振り返る。平賀さんは「どうした」と不思議そうに返してきた。 「最後に、あと一つだけ言わせてください」  わたしは大きく息を吸い込み、言った。 「わたし、ずっとあなたのことが好きでした。この数年間は会えなかったけど、それでもあなたのことだけが好きでした。  わたしがこう言っても、あなたは異世界に行くことを少しも躊躇いませんか」  意地の悪い問いかけだったとは思う。だが、わたしがこの問いを口にするのを躊躇っていたのは、  それが平賀さんを困らせたり、傷つけたりするからではなかった。  ただ単に、分かりきっていたからだ。 「ああ」  と、一言だけ言って、平賀さんがあの寂しそうな微笑を浮かべるのが。  わたしは引き下がった。引き下がるしかなかった。無性に悔しく、また、悲しかった。  平賀さんの心の天秤は、もう片方が地面につくぐらいに傾いてしまっているのだ。  好きな人がいる異世界、という重りの前には、わたしの好意など埃ほどの重さもない。  分かっていて、それを現実に確認しただけなのだ、わたしは。  確認したかっただけだ。  わたしが好きになった人は、ただ好きな人のそばにいたいという理由だけで、  今の生活も友人も家族も、自分を慕う女のことも放り捨てて、  遠いところへ飛んでいけるパワーと身勝手さを持った人なのだということを。  そのとき、不意に平賀さんがわたしの名前を呼んだ。  わたしが顔を上げると、平賀さんはあの寂しそうな微笑を浮かべたままで、言った。

86 名前:平賀さん[sage] 投稿日:2007/01/28(日) 04:01:23 ID:7omlHF1N

「本当は知ってたよ。俺のこと、どう思ってくれてるかってこと。  今日君をここに連れてきたのはさ、話しておきたかったからなんだ。  俺が何をしようとしてるのか。そして、多分もう会えないってことも。  俺をずっと見つめててくれた人だからこそ、話しておきたかった」  そう言い終えた平賀さんの顔には、やはり寂しそうな微笑が。  なんて身勝手で傲慢な男だろう。  そこまで分かっていて、こちらの気持ちなんか微塵も考えずに異世界なんかに行ってしまうなんて。  だが、そんな男にずっと恋焦がれていた女が、ここに一人いるのだった。 「予言してあげる」  わたしは腹の底から突き上げるような衝動に任せて叫んでいた。 「あなたは絶対不幸になる。こっちのことを全部無視して飛んでっちゃう極悪人だもの、きっと天罰が下るわ。  都合のいい妙な力なんか手に入らないし、あなたを持ち上げてた人もあなたのことなんかすっかり忘れてるし、  それに好きな人だってもうとっくに他の男と一緒になってるに決まってるわ。  あなたは誰にも受け入れてもらえずに、こちらの世界やわたしを捨てたことを後悔しながら死んでいくのよ。  生まれた場所でもない冷たい異世界で、それこそ野良犬のように惨めになってね」  それでも、と続けると、平賀さんは全てを吹っ切るような微笑を口元に浮かべて、叫び返してきた。 「行くさ。だって、俺はあいつのことが大好きなんだからな」  言葉に迷いはない。平賀さんは表情を変えないまま、実にあっさりと言った。 「じゃ、さよならな」  わたしは何も言い返さなかった。  カバーが閉まって彼の姿が見えなくなり、装置全体が眩い光に包まれ出す。  振動と光と耳障りな音。わたしは唇を噛み締めて、そういう不快なもの全てを見守っていた。  やがて全てが過ぎ去り周囲が再び静寂に包まれたとき、教授は装置の中央に駆け寄ってカバーを開いた。  中にあったのは座席だけだった。平賀さんの姿はどこにも見当たらない。  飛んでいってしまったのだ、あっちの世界に。  空っぽの座席を眺めていると、わたしの心も空っぽになってしまったようで、何をどう考えたものかも分からなくなってしまう。 「ああ、しまった」  と、不意に背後で教授が叫んだ。 「これじゃ、果たして実験が成功したかどうか分からんじゃないか」  この人はやっぱり精神病院に行くべきかもしれない、とわたしが思っていると、不意に教授がこちらに身を乗り出してきて、手を合わせた。 「頼む、あんたも行ってくれ。大丈夫、今度はあっちからでもなんか連絡つけられる手段確保しとくから」  それはつまり、やっぱり片道切符になるということだろうか。  わたしは再び、空っぽの座席に目を戻す。  平賀さんの最後の微笑が、いくつもの寂しげな微笑を全て塗りつぶすほどの濃密さで、わたしの心を満たしていた。  あの表情以外、何も思い出せなくなっている。  わたしはこれから、寂しげな微笑ではなくてあの吹っ切れた微笑だけを思い出して生きていくのだろう。  だが、それも当然かもしれない。わたしはさっき初めて、平賀才人という人間の本来の姿を見ることが出来たのだろうから。  あの人の存在が、わたしの心にいつまで残り続けるのかは分からない。  もしも消えるどころか強くなっていくようなら、わたしがこの座席に座る日もそう遠くはないかもしれない。  未練も迷いも全て吹っ切って飛んでいく力というのは、そういう気持ちから生まれてくるのだろうから。

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