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ボルボX

202 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:35:28 ID:8Um2yxCF  夕日が山の端に最後の片鱗をのぞかせている。落日の瞬間だった。  早春の冷たい夜露がおりはじめた、アルビオンの緑豊かな森の中。数十メイル四方にわたってひらけた空き地。

 銃口から立ちのぼった硝煙の臭いと、いまも絶叫とともにまき散らされている血の臭いが、森の清冽な空気にまじっていく。

 空き地の中にそびえる白い塔の番人は、爪と歯をもって、みずからの守護地を侵そうとした人間の体を破壊していた。  空堀をわたり、塔へとつづく橋の上。そこで捕らえられて、腹を裂かれているメイジの断末魔の声。  それはおぞましいことにまだ続いている。

「アニエス……」

 怯えからくるおののきを隠せないルイズの声に、アニエスは短く答えた。

「けっして他の者から離れるなよ。あいつは速いし、飛ぶぞ」

 それはルイズとおなじく戦慄している、自分と他全員の近衛隊士にも向けた言葉だった。  ルイズを背にかばったまま、アニエスは後ずさりした。眼前で近衛兵の一人を引き裂いている怪物に剣を向けながら。  その魔法人形(ガーゴイル)の姿は、人の頭に双の乳房、ライオンの体にワシの羽。

「幻獣スフィンクスの人形か、人食いの魔獣を模した人形が番人とは悪趣味きわまる……  何をしている、次弾装填!」

 マンティコア隊などのメイジ近衛兵とともに、蒼白になって酸鼻な光景を見ているだけの銃士隊員にむけ、アニエスが怒声を飛ばした。  その腕をルイズがつかむ。

「一度もどって、態勢を立て直したほうがいいわよ!  さっきの一斉射撃でもほとんど外れたし、当たっても効かなかったじゃない!」

 魔法もかわされた。何発かは命中したはずだが、銃弾のときと同じで動きが鈍りもしなかった。

「わかっている、だがあれが夢中になっている今なら――」

 唐突に悲鳴が絶えた。  絶息した犠牲者の腹から、血まみれの顔をそのスフィンクスが上げる。  アニエスはわれ知らず固唾を呑んだ。その獣の鋭い爪は、もともと古い血で茶色く染まっていたが、いまは新鮮な血で赤く塗されている。  髪がなくのっぺりとした頭部。血でよごれてわかりにくいが、おそらく女の顔。その目に瞳はなく、魚の腹のような白目があるだけ。

 ちくしょうと呻き、アニエスはルイズに背中を向けたまま言った。

「……逃げてすぐに館に戻るぞ、陛下が危ないかもしれん」

 その言葉に衝撃を受けたのか、ルイズの声が高くなる。

「どういうこと!?」

203 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:36:03 ID:8Um2yxCF

「あの森林監督官、『王の森』にこんな怪物がいることを黙っていた時点で、底意があるとしか思えない。  その意味にかぎり、サイトを館に残してきたのは正解だった。あいつの本領は護衛だからな」

 背後でルイズがあいまいな表情でうなずく。  それを見てはいないが、アニエスは続けて激した言葉を吐いた。

「ウォルター・クリザリングを締めあげてやる! 隠していたことを今度こそすべて吐かせてやるぞ」

 スフィンクスの四肢が動いた。  静かに悠然と、犠牲者をまたいで橋の上を歩いてくる。威嚇するようにその翼が大きく広げられた。

 夕闇は青から藍にかわりつつある。それが黒に塗りつぶされても、おそらくこの魔法人形は人間たちとちがって意に介するまい、とアニエスは再度舌打ちした。  こいつは死なない。銃弾を命中させても魔法で焼いても平然と動きつづけた。ルイズの『ディスペル』を浴びれば倒れるはずだが、素早すぎて命中させられないのだ。

 聞いた伝説のとおりなら、こいつを動かす『永久薬(エリクシル)』はまさに塔のなかにある。

 その塔のなかに入れないのだ。扉は、何かの力でかたく閉ざされていた。ルイズのディスペルをかけたところ力は薄れるのだが、不思議と盛り返すのだ。

 ……が、このとき異変が起きた。

 ルイズがあっと声を上げ、歩み寄るスフィンクスのことも忘れたか、アニエスの隣にならんで怪物の後ろを指さした。アニエスももちろん見えている。  あれだけ押し引きしてもびくともしなかった塔の鉄の扉が、おそらくは落日の瞬間に合わせ、きしみながら開きはじめていた。ルイズが手をたたいた。

「あれなら入れ――」

 その声が途中で止まったのは、開く扉の向こうで蠢くものたちを見たからだろう。アニエスの顔もひきつった。

 ミノタウロス、首のない巨人、大サソリ、大きな毒牙のある蜘蛛、目のない大蛇、亜人や幻獣や神代の昔の奇怪な動物たち。おそらくすべて魔法人形ではあろうが。  塔の番人たちは、開いた扉の向こうから、なだれ落ちるようにこぼれ出でて、スフィンクスの後を追うように橋をわたってやってきた。  わずかでも食い止められるとは思えない。

「射撃用意やめ、総員退却。みんな走れ」

 アニエスはどうにかそれだけつぶやき、身をひるがえすとルイズの手をつかみ、その小柄な体を引きずるようにして逃げはじめた。

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204 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:36:45 ID:8Um2yxCF

 話はさかのぼる。  その日の午前のうちに。

 アンリエッタは船室の窓から、眼下の森を見おろした。  宝石をはめこんだ王冠。冬から春先用のラムズウールの白ドレスに、紫のマントを身につけている。いつもの女王の衣装だった。

 早春の正午前、浮遊大陸アルビオンの澄んだ冷たい空気。  晴れた空の中、森の上をゆく中型のフネ、その最上級の船室。  背後のマザリーニの話を聞きながら、ガラスのはめられた窓に椅子を寄せて、物憂げなまなざしを下界にそそぐ。

 下の広大な森にはシラカバ、ブナやオークの木々がうっそうとどこまでも茂っている。  ここはかつてのアルビオン王家の猟場であり、直轄領であった「王の森」の一つだった。

 広大な森の一画に、ぽつんと小さな尖塔が立っている。アンリエッタはつい、それが何であるのか目をこらして見極めようとした。  が、緋毛氈の敷かれた船室の中央に立っているマザリーニが、女王の背後から言葉を続けたので、注意を引き戻されざるをえなかった。

「この規模のフネは商船には最適ですな。このようなフネを十数隻所有しているそうです、ウォルター・クリザリング卿は。  やはり彼の力を借りようというラ・トゥール卿の申し出は、吟味にたるものです。王家の財政にとっても良き話のようですし。  今回のアルビオン行の出費にせよ、ラ・トゥールの懐に負うものが大きいのですからな。話を真剣に聞くくらいの礼儀は必要でしょう」

「最近は、お金の話ばかりですわね」

 アンリエッタに嫌味のつもりはなかったが、不用意につぶやいたのがまずかった。  黒衣の痩せた宰相は表情を変えもしなかったが、気分をいたく害したのがはっきり伝わってきた。

「陛下、王家の台所は、先年のレコン・キスタとの戦争のこともあってまだまだ火の車なのですぞ。  本来トリステインは小国なれど豊かな国です。が、国土の収入と王政府の収入は同じではありません。  ましてやこの冬、あなたが強引に着手した平民軍の創設は、多くの貴族どもの反感を買ったわりに金がひどくかかっているのですよ」

 さすがに先ほどの発言は不注意だったので、くどくどと続くお説教を黙って聞くしかできない。  アンリエッタはこっそり円形の窓に向かってため息をついた。  言われることはいちいちもっともなのだった。

 問題になっているのは、彼女が新設した志願兵による平民の常備軍である。  数ヶ月前の秋の事件では、敵も味方もメイジではなく平民が中心になって戦闘を行ったのだ。  そこで王都にもどったアンリエッタは、ながらくメイジ中心であった王軍の改革に着手したのだった。  財源が問題だったが、それは一つの策でどうにかなった。しかし、その策もまた責められるもとになっている。

 マザリーニが咳払いした。

205 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:37:37 ID:8Um2yxCF

「それと陛下、貴族たちをこれ以上怒らせることは避けなければなりません。平民にあまり肩入れしすぎ、貴族に厳しすぎると、陛下は思われはじめているのです。  ……『武器税』は、さすがにやりすぎでしたな」

「枢機卿、あなたも巡幸の直後、言ったでしょうに。  いつか諸侯たちの力をそぐ必要があると。いまのトリステインは、諸侯の力が強まりすぎていると。  武器税によって王軍は、諸侯の力の一部を自分のものと出来たではありませんか」

 女王は顔をあげて、枢機卿に強い視線を向ける。  そこには彼女なりの正義感と、政治的な思慮が介在している。  先の巡幸で、みずからの領民を虐げていた貴族を彼女は見たのである。一部の暴悪な貴族から、民を守る必要があると少女は思ったのだった。

 王権を強化すること、諸侯の過ぎた力をそぐこと、平民の権利を拡大すること。  それは同一の線上にあるのではないか。そうアンリエッタは漠然と思いはじめていた。

「私が申しあげたのは、気づかれないようにじわじわと、ということでしたぞ。  あなたが発案し、強引な手続きをへてとつぜんに施行した武器税によって、武器を一定以上保持していた中規模以上の貴族は、王家に対しあらたな税を納めなければならなくなりました」

 いまの枢機卿は政治家の顔をしていたが、内実は弟子にたいして辛抱づよく指導する教師なのだった。

「税を払いたくない貴族は、あせって武器を売る。すると世に流通する武器が多くなり、値段が大きく下がる。  それを王家が安く買いあげ、新設軍の軍備にまわす……はは、どちらに転んでも王家にはうまい手でしたな。  ――あなたはときに利口な手を思いつきますが、他者を出し抜く道はかならずしも賢明な道ではありませんよ」

 諸侯から買った恨みは、この先どう不利に働くかわかりません。  マザリーニの陰気な表情は、アンリエッタをそう叱咤していた。  女王はごく薄くルージュをひいてある唇をかみしめた。

(大貴族たちは多くの免税特権を持っているわ。度をこした贅沢をしたり、投資に失敗さえしなければ平民よりはるかに豊かなのに、国庫にむくいる比率はより少ないのよ)

 もともと、潔癖なところのあるアンリエッタである【9巻】。  思いさだめた後は、行動が拙速といえるほど果敢になることがしばしばあった。

「マザリーニ。わたくしはトリステインの女王ではないの? 諸侯の主君ではないの?  それなのにいちいち彼らの機嫌をうかがわねば、民のために何事もしてはならないのですか?」

「……あなたの祖父、偉大なるフィリップ三世が玉座にゆるぎなく君臨した古き良き時代には、王は名実ともに諸侯の『主』でした【2巻】。  ですがいまの世では、貴族たちの『長』の地位と思ったほうがよいでしょうな。このことをよく考えてください」

 マザリーニは最後にそれをのみ言うと、口をつぐんだ。

206 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:38:10 ID:8Um2yxCF ………………………… ……………… ……

 ほどなくフネは『桟橋』の木【2巻】に停泊した。  まず部下たちが降り、アンリエッタとマザリーニは最後にタラップを降りた。

 彼女を待つ数十名の中、並んだ桃色の髪と黒い髪が視界にはいった。  どきりとして、女王はルイズと才人から目をそらした。彼らとも久方ぶりに顔をあわせることになる。

 降り立ったそこは、すぐ館の庭である。  煉瓦のように切石を積みあげてつくった外壁が立派な、館というより城というべきそれの前に、衆に取り巻かれてひときわ目をひく二人の貴族が立っていた。  その二人の男が片ひざをついて、女王の来臨を丁重にむかえた。

 トリステインの河川都市トライェクトゥムの領主にして市の参事会員、アルマン・ド・ラ・トゥール伯爵は四十七歳。  尖った口ひげ、たくましい体にぴったりしたダブレットおよびズボン。マントは藍色。  野心家とのうわさに外見も合わせているかのようなこのトリステイン貴族が、今回の女王のアルビオン来訪を希求し、費用の多くを負担したのである。

 その横。

 この館の主、アルビオンの『王の森』の森林監督官、ウォルター・クリザリング卿のほうは、ゆるやかなあずき色の服と狐の毛皮のコートを身に着けている。  年齢は三十代前半とのこと。やや繊弱ながら美男といっていい顔立ちだが、どこか暗鬱な雰囲気をただよわせている。アルビオンの王立アカデミーに論文を寄稿し、学士号をとった秀才でもある。

 二人とアンリエッタが形どおりの挨拶をかわした後、ラ・トゥール伯が発言の許しを得て言上した。

「陛下、このようなあわただしい日程になって申しわけありませぬ」

「まさか。マルシヤック公爵に引き止められるまま、ロンディニウムに予定より一日多く滞在してしまったのはこちらの都合です。わたくしが謝らなければなりません」

 今回は、形としてはトリステイン出身の代王マルシヤック公爵【8巻】と会い、彼によるアルビオンの統治の詳細な現況について、直接の報告を受けるのが主目的ということになっていた。  クリザリングの館に寄るのは、そのついでということになる。しかし、ある意味ではこちらが旅の目的だったのだ。

「では陛下、昼食会をかねて本題に入ってもよろしゅうございますか。中庭に用意はととのっております。  旅の疲れも癒えぬうちに急な話、お許しください」

 ラ・トゥールは礼儀正しくはあったが、まるで自分の館のように傲然として悪びれない態度。良くも悪くも、貴族的な尊大さがにおう男であった。  館の主、クリザリング卿はそれを気にするふうもなく、アンリエッタ一人を見ていた。

207 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:39:11 ID:8Um2yxCF ………………………… ……………… ……

 サクラソウの咲きほこる中庭には樫のテーブルがしつらえられ、料理の大皿が運び込まれていた。  アンリエッタはそれを一瞥した。  白ワインで蒸したらしきヒラメ。シャッドという魚を胡椒をつけて焼いたもの。ムール貝のバター焼き……鮭にマスにシタビラメ、カレイやボラや、珍しいものでは鯨まで。

(魚介類?)

 クリザリング卿が召使たちに指示を飛ばしている間、ラ・トゥール伯爵が少しのあいだ消えていたが、その姿がふたたび見えたとき彼はワイン瓶の大樽をひとつ、同行した秘書官に抱えさせていた。  あっけにとられているうちに、横向きにした樽の栓がぬかれ、グラスに注がれたワインが女王の一行それぞれに配られていく。

 飲んでみるようにすすめられ、わけがわからないながらもアンリエッタは飲み干した。  フルーティーな味。甘いさわやかな、新物の白ワインだった。

「……なるほど」

 ふいに横で、マザリーニがつぶやいた。理解の光がその目にある。

「空路の交易拡大、というわけか。  王家にもとめるのは、投資ですかな?」

 ラ・トゥール伯爵が、満面の笑みを浮かべた。

「さすがに明晰でいらっしゃる。そのとおり。  ここにそろえた新鮮な海の魚介類、質がよい新しいワイン――いずれもトリステインではありふれたもの、しかしアルビオンでは安く手に入るものではありませぬ。  この空の国に海はなく、塩漬けのニシンやタラを下界と交易して手に入れるのが関の山ですからな。  またアルビオン人はワインを飲む習慣があまりなく【7巻】、市場開拓の余地はじゅうぶんすぎるほどにあると思われます。  これもまた、原産地であるガリアやロマリアと通じる大規模な流通経路が確保されていないため国内のワインの量が少なく、高価になって庶民が手をだしにくいためでしょう」

 よって、とラ・トゥールは続けた。列席者の大半は、何を言わんとするかすでに理解していた。

「空路交易により、これらの新鮮な商品を安くアルビオンの民に提供するのです。ごらんください、この領地にはフネが停泊できる立派な港があります。また、商船に転用できる立派な船団がすでにあります。  この私、トライェクトゥムのアルマン・ド・ラ・トゥールは、河川都市連合商会の代表者として、空路開拓の道すじをつけるためにここに来ました。  クリザリング卿の船団と港を借り、株式会社という形で空路の交易事業を起こします。  その株主として王家も参画しませんか。数年で、元手の数倍に達する利益をあげてみせましょう」

 王家に対し、対等の呼びかけという形。アンリエッタは媚びへつらわぬその態度にかえってすがすがしい印象をいだき、微笑未満の表情をうかべて質問した。

208 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:39:59 ID:8Um2yxCF

「王家が援助しない場合には?」

「やむをえませぬ。大貴族やほかの都市におもな株主となっていただくでしょう」

 ここでマザリーニが受けた。

「資金のことだけではない。いまのアルビオンのような各国の利害がからみあう地において、そのうち一国の政府の後ろだてすらない民間事業がうまくいくと?  現アルビオン当局の認可が下りるかどうかさえ疑わしい」

「ええ、その場合は、トリステイン王家以外でどうにかしてくれるところを探すでしょうな」

 援助してくれなければ他国にこの話を持ちこむ。そう言ったも同然で、危険なせりふだった。それを、ラ・トゥール卿はさらっと吐いた。あるいは平然をよそおっている。  アンリエッタはマザリーニと顔を見合わせてわずかに首をかしげ、考えこむそぶりを見せた。

 実のところ、これは試してみる価値のある話に聞こえた。すでに王家が提案を受けることは七割がた決まり、互いの利権のラインをさだめる駆け引きに移っていることを双方が承知している。  ラ・トゥールが強気に出ているのも、最初から弱気に出ると王家に利益をむさぼられかねないと警戒しているのだろう。

 クリザリング卿が、話がどうでもよいかのような表情を浮かべ、奇妙な沈黙を保っていることに気づき、アンリエッタは彼に水を向けてみた。

「クリザリング卿はどうなのでしょうか? この話において、船団と港を提供する彼の同意は得られているのですか。  たしか、わたくしたちがトリステインを出る前には、クリザリング卿のところにこの話は持ちこまれていなかったと聞きますが」

 答えたのはラ・トゥールだった。

「むろんです。急な話ではありましたが、数日前に合意はすでに得ています。彼は彼ですでに空輸事業を手がけていたそうですが、革命騒ぎの間はそれもままならず、戦争が終わってからはなにかと……  ええと、アルビオン人ということで肩身が狭くてですな。彼は静けさを好む人間でして、アルビオン現当局とこれまでうまく人脈をつくれなかったようです。  われわれと組めば事業を拡大さえもできるというわけです。トリステインでの買い付けとなれば、河川都市がそれに協力できますからな、ほかより得な条件で」

 クリザリング卿が不遇という話に、アンリエッタは気まずいものを覚えた。  女王はじめトリステイン政府がアルビオン人を差別し、抑圧しようとしたわけではない。だが、やはり占領は占領で、さらにガリアやゲルマニアの役人、兵士たちも代王政府にはいるのだ。  生粋のアルビオン人が階級を問わず、さまざまなところで忍従を強いられているのは想像に難くない。

 結構です、とアンリエッタはうなずいた。

「では、王政府としてはこの話を真剣に考えさせていただき――」

「お待ちいただきたい、商談とは別に、手前には申しあぐるべきことがあります」

 女王をさえぎったのは、クリザリング卿だった。本来はそれだけでも無礼であったが、くわえてその男は驚くべき行動に出た。  大きな眼球でアンリエッタに粘つくような視線を送っていたその男は、薄く笑うと、先ほどのように片ひざをついて女王の足元にひざまずき、次の言葉で場に雷電をはしらせた。

209 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:40:44 ID:8Um2yxCF

「天地も人も照覧あれかし。火と水と土と風と虚無にかけて、始祖ブリミルの御名にかけて。  手前ウォルター・クリザリングは、あなたに求婚します、トリステインの女王アンリエッタ陛下」

 中庭の誰もが絶句した。

 アンリエッタは呆然と、目の前にひざまずいたその『王の森』の森林監督官、かつてのアルビオン王の代官を見る。  ひざまずく彼の背後ではラ・トゥールが目をむき、殴りつけられたような表情をしていた。  この男にとっても明らかに、これは想定外だったようである。

 ところ狭しと食卓に並べられた魚料理は、誰にも手をつけられないまま湯気を立ちのぼらせていた。

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「ただいま戻りました、陛下」

 波乱の昼食会の後、数刻ばかり。  石の鈍色の壁、館の一室。  集っているのはアンリエッタとアニエス、それにルイズと才人の主従。木の机をはさみ、アニエス以外はそろって机とおなじ桜材の椅子に腰を下ろしている。

 アニエスは革の手袋を脱ぎ、アンリエッタの机の横に直立して、開口一番にそう言った。

 彼女はアンリエッタの船が到着する一足先、早朝にこの領地にやって来て周辺を調べていたのだった。  アンリエッタは調査から帰ってきた部下に、ほっとした顔を見せたものの、すぐ謹厳な表情に戻ってうなずいた。

「ご苦労さまでした。やはり、なにか変わったことがありましたか?」

「はい。周辺地域でのうわさ話のとおり、ここはおかしなところのある土地です。  われわれ銃士隊は朝から数時間『王の森』を歩きました。地形や途中の小屋の位置は、クリザリング卿の説明とほぼ合致しました」

 その名が出たとき、女王がやや動揺した様子を見せた。ルイズと才人も似たような表情で沈黙している。  アニエスが「陛下?」と不審そうに眉をよせる。

「いえ……気にしないで。報告を続けてください」

「では陛下、申し上げます。ラ・ヴァリエール殿の『虚無』の協力をあおぐ必要があるかと。  われわれは空の上から見た塔をさぐりました。  塔の扉は堅固に閉ざされていますが、錠らしきものが見当たらず、またどれだけゆすぶってもきしみさえしないのです。まるで一枚の壁です」

210 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:41:30 ID:8Um2yxCF

 あの塔だわ、とアンリエッタは一人ごちた。空の上から見た、森の中の奇妙な尖塔。  ルイズと才人も見ていたようで、のみこめた顔である。  その二人のうち主人のほうが、発言した。

「わたしの虚無で、その塔の扉をどうにかしようというわけ?」

「しかり。貴殿ならどうにかできるかもしれん」

「待って、アニエス。その前に、なぜそんなことをする必要があるのか、聞かせてもらえないかしら?  姫さ……陛下の思し召しであれば、むろん従うけれども」

 アンリエッタとアニエスは顔を見合わせた。

「話していなかったの、アニエス?」

「……失念していました。忙しくて顔を合わせる機会がそうはなく、たまに会ったらアホなことばかりで……サイトが」

 アニエスにぎろりとにらまれ、横からのルイズの視線もちょっと冷ややかなものになり、才人は居心地わるそうにそわそわした。  前回の事件の余波で、傭兵隊長相手に彼とギーシュの作った借金は王家が立てかえた。  大手柄を立てておきながら大ひんしゅくを買った彼らは、この数月フルに活動してどうにか借金を十分の一ほど返したところである。  その冒険譚については……思い出したくもない。

(数ヶ月であれを一割返せたって、かなり奇跡的な話だと思うんだけどな……自分のために使ってたら一生食える額だぞ)

 才人の内心のぼやきをよそに、女性陣は目を見交わしあって何やらうなずいている。

「秋の事件にかかわる話なのです。あなたたちも当事者ですから、すべての情報を知る権利がありますわね。  アニエス、彼らにあらためて説明してください」

 御意、と女王に頭を下げ、銃士隊長は二人に向きなおった。

「これまで事後経過を明かさなかったことは詫びよう。  先日、陛下を襲撃した者たちは死んでいるのだ。首謀格の八人。〈山羊〉と呼ばれていた首領および〈ねずみ〉ほか七人の、雇われたメイジ共が。  王都に護送する途中で、囚人用の竜車の中で奇怪な死をとげている」

 淡々と語るアニエスに、わずかに息を呑んだルイズがまた質問した。

「奇怪な死、とは?」

211 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:41:59 ID:8Um2yxCF

「互いに首を絞めて殺しあった。または自死した。  最後に死んだらしき〈山羊〉だが、こいつは舌を噛み切り、それを半ば呑みこんでのどにつまらせ窒息死している。  ちなみに竜車には、頭も通らない明かり窓、それも鉄格子のはまったものしかなかった。自死に見せかけた他殺の線はない、と報告された」

 この異様な話をはじめて聞かされた二人の表情はこわばった。  すでに報告は受けていたアンリエッタも、うそ寒い様子で机の上に置いていた手をにぎりこんでいる。  内輪の四人のみ集ったこの部屋の内部が、急に薄暗さを増したようでさえある。

「だが、私は納得できん。あの襲撃に関する多くの情報が、やつらと共に失われたのは間違いない。口封じだと思う、どのような手段かは知らないが。  あれから数ヶ月だが、銃士隊は今なお調査にかかっている。しかし少々行き詰まり気味でな。  武器の出所や敵兵の陳述内容、資金の流れを調べても、決定的な手がかりは見つけられなかった。ゲルマニア当局とも渡りをつけて調べてもらっているが、そちらも望み薄だ。  この際、関係がありそうなところを片端から探ることにした」

 ルイズが話にうなずく。  上質の黒テン毛皮のマフを巻いた以外、いつもの魔法学院の制服であったが、今回のアルビオン行きでは、継承権を持つ王家の重要人物として同行している。

 こちらもいつものパーカーの上に、防寒のため冬用の騎士のマントをしっかりはおってきた才人が手をあげた。

「怪しげなところって、ここアルビオンだけど。なにか目星がついたんですか」

「目星といえるほどはっきりしたものではない。正直に言うと勘だ。  各国の利害がからみあう地とはいえ、アルビオンはトリステイン政府の権力がおよぶ範囲なので、なにか怪しいことがあれば伝えるよう指示することができた。  いくつか明らかになったことがある。まずここ『王の森』の治安は、はなはだ悪い。マーク・レンデルという男に統率されたならず者集団が、王の森で跋扈しているという」

「アニエス、それが? 盗賊みたいなあぶれ者って、わりとどこにでもいるわよ」

「いや、話としてはここからが本命だ。  ――〈永久薬(エリクシール)〉があるという、この森には。荒唐無稽なうわさ話としか思えんのだがな。  その薬は『永遠』と『富』を生むという。周辺地域でまことしやかに語られていた伝説を、大体まとめた調書があるから読んでみろ」

 耳慣れない〈永久薬〉という単語に、とまどう様子のルイズのひざにアニエスが一冊の冊子をぽんと投げた。  才人が横からのぞきこむ。読んであげるから顔をひっこめなさい、とルイズは手をふって朗読しはじめた。

「王の森の〈永久薬〉。千年前に、有能な錬金術師ゆえアルビオン王家の賓客となり、森に住むことを許されていた『塔のメイジ』が作り出した」

「〈永久薬〉の効果は、これを投与された物質を変質させ、効果や力をなかば永続させる」

「最後に〈永久薬〉をみずからに使った『塔のメイジ』は、今もなお魔の塔の頂上で生きているという」

 ここまで読みあげて、ルイズはなにか言いたげに顔を上げた。が、アニエスに無言でその先をうながされ、朗読を続行する。

212 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:42:41 ID:8Um2yxCF

「〈永久薬〉の作り方は塔の秘奥であり、千年間、さまざまな者が塔に入ってそれを作ろうとした。数人は成功したが、始祖に呪われたこの術は、ついに幸福をもたらさなかった。  ある者は無限に金をうみだそうと考え、杖に錬金の魔法をかけて、それに完成した〈永久薬〉を使った。  その杖は触れるものを際限なく金に変え、持ち主をまず金塊にした。部屋一つが金になったところで、弟子たちが魔法を飛ばして杖を壊した……  ……アニエス。これらのヨタ話が、先の事件と関係あるの?」

「怪しいことは何でも調べておきたい。  とにかく、先年の事件では大量の資金が動いたのだ。武器をあつめ、傭兵をやとい、国境を越えさせ、証拠をもみ消しているのだぞ。  それにもかかわらず、トリステインやゲルマニア内部で資金の流れを大きくつかめないのは、金の直接の出所がさらに他国からだからではあるまいか。  潜在敵国であるガリアの陰謀と考えられなくもないが、もっとも怪しいのは占領下にあるアルビオンだ。さまざまな勢力や思惑が入り乱れ、いまは水面下での金の動きも大きい土地なのだ」

 半眼になったルイズに、至極まじめに答えるアニエスだった。

「この領地に、ほかに妙なことがないではないのだ。  現アルビオン政府によると、この館の主は『王の森の警備』のために、政府に風石(フネの動力)を大量に要求しつづけている」

「それはさっき話に出たマーク・レンデルというならず者のためじゃないの?  船団をつかって盗賊を追いつめるなら、監督官としての公務ともいえなくはないもの」

「平民の盗賊団だ。それにフネまでを使い、長い期間をへても根絶できないというのは妙だな。よほど相手が巧妙か、本気で根絶する気がないかだと思うが。  ……クリザリング卿はフネの一部を交易に使っている。  政府から支給された風石を横領して動力費を浮かせているのではないか、とも思ったのだが、徴税請負人の調査によると、その分の風石はちゃんと買い入れているらしい。  それでも、どこか妙な気がする」

「……わかったわよ。とにかく一緒に行きましょう」

 そうアニエスに告げたルイズは、ふとアンリエッタを見た。  ルイズとアニエスが話していた間、女王と才人はほとんど発言していない。  久しぶりに会った二人はたがいに軽く横を向き、卓をはさんで向かいあっていながら不自然に目をそらしあっている。  ルイズの目がすっと細まった。

 そういえばこちらの問題もあったのである。再戦うんぬん。  まあこの二人なに意識しちゃってんのかしらふふふ、と全く表情を変えずにのどの奥で怖い笑いをもらし、すみやかに退室せねばと思いさだめる。  とりあえず気晴らしに卓の下で才人の足をぐりっと踏み、小さな悲鳴をあげさせてからアニエスに確認をもとめる。

「アニエス、それでいつ行くの?」

「今から」

「ちょ、ちょっと待って! 急すぎない!? 夜になっちゃうわよ!」

213 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:43:13 ID:8Um2yxCF

「陛下を筆頭に、王宮の者はだれもかれも忙しいんだ。時間を無駄にしたくない。日が暮れたら途中の小屋で寝泊りする。  銃士隊が同行するから安心しろ」

 ここで、アンリエッタが反応した。

「メイジも付けましょう。近衛隊を割いて連れて行きなさい、森の盗賊たちが寄り付けないように。こちらにはラ・トゥール伯爵が同行した警備兵たちがいますから。  それと少し席をはずしてくれないかしら。ルイズと少し話したいの。……サイト殿、あなたもできれば」

 メイジがあまり好きではないアニエスは嬉しそうではなかったが、淡々と「御意」と述べた。同じ近衛隊なら「陛下の命令」ということで一応は団結できる。  才人もこれまた軽くうなずいて席を立つ。  アンリエッタに二人だけの話をもちかけられ、淡々どころではないのはルイズだったが、緊張をおさえて彼女は腰をおちつけた。

………………………… ……………… ……

「クリザリング卿の求婚をどう思いますか、ルイズ?」

 二人が去った後、アンリエッタは開口一番、謹厳な声でそう問うた。  アホ使い魔の話が飛び出すかもしれない、とルイズは戦々恐々としていたが、存外に真剣な意見をもとめられて少々恥ずかしさを覚えた。  それを隠すように自分自身も姿勢をただし、誠実な臣下の顔にきりかわって主君に答える。

「問題外ですわ。たかが一代官の身分で、あのような場での求婚。無礼のきわみとさえいえましょう」

 アンリエッタはうなずいた。こちらも政治家をこころがけようとする顔になっている。  二人は、なにもクリザリング卿が、女王にくらべて低い身分であるため蔑視しているわけではない。  ただ、求婚という時点で、ことは「公」に属するものに切り替わっているのである。

 身分。公式的に相手を選ぶとすれば、アンリエッタの身分には釣りあう者などほとんどいない。  王族の結婚とは、相手の身分と家格が高いことを最低限の基準におき、なにより政略にそった熟慮の末になされるべきものであって、それは要するに究極の政治的結合なのだった。

「実はさきに枢機卿やラ・トゥール卿とも話したのよ。クリザリング卿の申し出は断る以外にないわ。  あの船団や港が手に入ること、さらにアカデミーの英才であったクリザリング卿本人の頭脳までを考慮に入れても、結婚という貴重なカードを切るには王家にとってあまりに利益が少なすぎます」

 はっきりした声でアンリエッタはそう言った。  椅子から立ち上がり、窓辺によって山の稜線を見つめる。その後姿をルイズは注視した。  政治的な思考にほとほと疲れているのか、アンリエッタの背には愁いがただよっている。それでも、彼女は悩まざるをえないようだった。

「それがクリザリング卿にわかっていないはずはないのに……  なぜ彼は、あのような行動をとったのかしら」

214 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:44:01 ID:8Um2yxCF

 なにを目的とするか。どんな利益があるのか。  むろん彼女と結婚した場合、相手にはいくらでも利益がある。第一に、即座に国王とならずともトリステインの共同統治者となるのはほぼ間違いがない。  である以上、アンリエッタと結婚できるものならば、国内国外を問わずたいていの貴族は一も二もなく飛びつくだろう。

 ……が、この場合はそこが焦点ではない。  ルイズに言ったとおり、即答せず返事を保留しているといっても、最初から断ることは決まっているし、クリザリング卿とてそれはわかっているはずなのだ。  この話がもれれば、彼は世人から常識知らずとして失笑を買わずにはすまないだろう。

「クリザリング卿が明言したわけではないけれど、求婚を断っておいて彼の船団や港の提供を受けるのは期待できないわね。  でもラ・トゥール伯爵は、船団と港を簡単にあきらめたくはないようです。見ているこちらが気の毒になるほど恐縮しているけれども。  クリザリング卿との提携が失敗しても、王家としてはラ・トゥール伯爵を援助する方針でいこうと思うのだけれど、一からフネをそろえるとなると投資も大規模にならざるを得ないわ。  マザリーニの言うとおり、今は王家もまだ苦しいですし……」

 遠くを見ながらつぶやいているアンリエッタを、ルイズはどこか哀しそうな目で見ている。  どうしても、この人は政治的な呪縛から逃れられないだろう。大貴族に生まれた自分も、ある程度はそうだけれども。

「……あの、姫さま、わたしに話って、それだけなのですか?」

 ルイズの気遣うような声に、アンリエッタは穏やかにふりむいた。  幼なじみを見る目に、どう切り出したらいいものか悩む色がある。  ルイズは身を硬くした。まさか。

「ルイズ、サイト殿のことだけれど」

 来た。  ルイズの目に警戒が浮かぶのを見て、アンリエッタは落ち着きをやや失ったように手をふった。

「いえ、あの、誤解しないでね。  わたくし、あなたたちの間に今さら入ろうとは思っていないのよ」

「……え? でも、先の事件のときにおっしゃったことは」

「あれはあれで、本心だと思うの。たしかに……あの事件のときサイト殿を意識しました。  彼にあんなことまでしておいて今さらだけど、ごめんなさい。  けれど、その、『再戦』は、何といえばいいのか、わたくしは……」

 アンリエッタはもじもじと、前で組み合わせた手の指先を動かしながら、言葉を必死で探している。  なぜかルイズには、説明されずとも彼女の心情がわかった。  不意にこみあげたのは、同情の念だった。臣下が王に示すのは許されない感情に、あわてて顔を伏せ、ルイズは言葉を発した。

215 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:44:47 ID:8Um2yxCF

「姫さま、わかりました。申し訳ありません。軽々しくあのようなことを言ったわたしが粗忽でした」

 結婚さえ政治的に決めることを求められるアンリエッタが、恋愛において今さらまともな「勝負」など簡単にできるわけもないのだった。暇さえろくにない。  それでも才人が誰のものかはっきり定まっていなかったなら、情熱のおもむくまま行動できたかもしれないが、今ではルイズと才人は周囲も公認の恋人である。 

 土俵に上がることをしりごみしたアンリエッタと、これ以上この問題で自分が謝るのもなにかが違うと感じるため、言葉を続けられなくなったルイズ。  両者ともに悄然と肩を落として沈黙をつづけていた。

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「塔の探索隊はこんなものか。これだけ見える人数がいれば、盗賊というのは最初から襲うのを遠慮するものだ。  陛下の護衛はラ・トゥールの同行した警備兵に任せることになるが、問題はなかろう。野心的な貴族だが陛下にとって危険となる兆候はないし、河川都市の自衛兵はよく訓練されている。  だが念のため、陛下のおそばには護衛としてサイトを置いていこうと思う。あいつには屋敷内の見取り図を覚えさせておいた」

 アニエスに説明されながら、ルイズは館の廊下を歩く。  才人をアンリエッタの護衛に残すという点でやや眉をうごかしたものの、なにも言うことはなく押し黙った。

「出かける前に、クリザリング卿に念のため通告しておこう。森林監督官だからな」

 館の主の部屋の前でたちどまり、アニエスはノックして返事をもらい入室した。

 その青年は、昼時にみずからが起こした騒ぎなど忘れたように窓ぎわの肘掛け椅子に身をしずめ、さしこむ午後の物憂い陽光を浴びていた。  まぶたを閉じたまま、その唇のみが動いて言葉をつむぐ。

「用は」

「ああ、これから森中の塔に行く。あの塔を開くつもりだが、かまわないな?」

「好きにするがいいさ」

 どうでもよさそうな声。アニエスは眉をひそめて問いかけた。

「あの塔のなかに何があるのか、訊いてよいか?」

「狂気と、歳月そのものが」

「……思わせぶりなことを聞きたいのではない。具体的にはなにがあるのだ?」

「〈永久薬〉を作るための施設だから、そのための設備があるに決まっている。あとはガラクタが」

216 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:45:27 ID:8Um2yxCF

 恬淡とした態度でいきなり直球を投げられて、精神的にたたらを踏んだアニエスが言葉につまっている間に、クリザリング卿は投げやりな調子で先手を打った。

「言っておくが、〈永久薬〉のことを話してやる気にはまったくならん。自分で勝手に見ればよかろう」

「……ああ! そうさせてもらおう」

 わけのわからない対応をされ、アニエスが険悪な声を出す。ルイズはその腕をなだめるようにたたき、かわって前に出る。

「クリザリング卿、わたしもいいかしら。なんで陛下に求婚したの? あなたは陛下に……その、本気で?」

 彼女も直球を投げた。  森林監督官はかすかに目をあけてルイズを見、薄ぼんやりと口をあけて何かを思い出すような表情をした。  そのまま語りだす。

「ウォルター・クリザリングの父親が死に、アカデミーからこの館に戻り家督をついで間もないころ、まだ二十代の青年であった数年前。  アルビオン王家のプリンス・ウェールズに随従した多くの臣下の一人として、ラグドリアン湖畔でひらかれた大園遊会に出席した」

 クリザリングの独白を聞いてルイズは、違和感と驚きを感じている。

 違和感は、自分のことを第三者のように語ったこと。  驚きは、その園遊会は彼女らの主君にも深く関係があったからである。  トリステイン王家主催の大園遊会で、十四歳のアンリエッタはウェールズと出会ったのだった。

(姫さまはお綺麗だもの、ウェールズさまの他にもあの方に懸想した者が、いてもおかしくないとは思っていたけれど……)

「クリザリングはそこでトリステインの姫君を見た。  真昼の月かと思うほど、真珠のように白かった。歩みさえ踊るかと見える少女だった。  クリザリングはこの領地に戻ると、アカデミーに寄稿するつもりの論文を投げ捨て、筆をとって彼女の絵を描いた。彼女の美しさを称えようと下手な詩を作った」

 内容はまぎれもなく愛を語っているはずだったが、それは異様なほど淡白な口ぶり。なぜかルイズたちは寒気を覚えた。部屋のどこかから、かすかに鼻をつく臭気がある。  それきり口をつぐんだクリザリングに、ややあってアニエスが咳払いして背を向けた。  「行くぞ」とルイズにうながしながら、最後に一つとばかりに背後に質問をなげる。

「マーク・レンデルなる無法者を、なぜ長くのさばらせておくのだ? フネまで森の警備に使っておきながら片づけられないとは信じがたいな」

「あれは以前はわが配下で、森番の筆頭だった。よく森を知っている、追いつめるのは容易ではない」

 目をまたつぶったクリザリング卿は、今度はまぶたを持ち上げもせず答えた。それきり黙る。  もうしゃべる気はないと見て取った二人は、彼を静寂とともにのこして退室した。

217 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:46:20 ID:8Um2yxCF ………………………… ……………… ……

「おまえか」

 ウォルター・クリザリングと周囲に呼ばれている青年は、目をあけて窓に視線を投げた。  一羽の緑色の小鳥が、窓辺でrot! rot! と鳴いている。  辟易したように彼はつぶやいた。

「遊びまわるのも大概にするがいい。正直、アルビオンに腰を落ち着けてほしくもないが……金はじゅうぶんにくれてやっただろう?  おまえが下界で起こした、去年の愚かな騒ぎを許容する気はない」

 小鳥が沈黙して首をひねる。青年はその黒い目の奥を見る。  小鳥の目をとおしてこちらを見ているはずの者の、悪意と嘲笑をそこに見て、青年は肩をすくめた。

「あの求婚を見ていたのか? あれこそ狂気と笑うのか? あれにはそれなりの理由がつく。クリザリングが望んだことだからな。『自分』の願い、命より優先した願いは重要だろう。  おまえの言うとおり、〈永久薬〉の名など幻想だ。どのみち地獄の季節は来て、汚穢と腐肉が満ち満ちる。いかにも、正直を言えばこの身がそうなろうと、たいした感興が湧くでもない。  人生とやらには倦じ果てた。ラ・トゥール、あの商人貴族の貪欲さがここを嗅ぎつけ、女王がここに来た以上、いずれは全てが暴かれて、この身のもろもろは終わるだろうさ」

 息をついで、彼は言う。

「だから思い残しのないように、すべてのことを片づけようとしただけだ……クリザリング家がこれで絶えようと、あの塔は誰も入れぬまま、高く揺らがず存在する。  さきほど向かったあの女たちにしろ、無駄骨に終わるのみだ。おまえが心配するような問題はない。  知ってのとおりアルビオン王が消えた今、クリザリング家の血を引く者か、それに同行した者しか塔には絶対に入れないのだから……おい、やめろ」

 その小鳥が、首をかしげていた。その目が小さなブドウほどに大きく見開かれている。

 舌打ちをして、青年は目をあわせてやった。  吐き気をともなう感覚の衝撃が来る。ガラスの微細な破片が網膜につきささって、脳の奥でステンドガラスの絵になるかのような。

 直接脳に投影される映像を、見る。  さきほども見た桃色の髪があった。  そのまま、相手の見せたいものを見せられ続ける。

218 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:48:10 ID:8Um2yxCF

 青年は、いつのまにか椅子から立ち上がっていた。  血相が変わっている。

「……虚無の魔法だというのか? ああ、そんなものもこの世にあったな……かびの生えた文献にしか出ないと思っていたよ。  その映像、たしかに本物だろうな? おまえがよくやるように、つぎはぎの視認記憶を見せられたのではあるまいな。  本物だとしたら、たしかに不安だな。万が一にも塔が暴かれるのはごめんだな、アルビオン王家との盟約によって、クリザリング家は最後まで『塔のメイジ』を幽閉し続けるのだから。  では、狂いの境地を楽しむのも終わりにしよう。念に念を入れて、今生で最後の仕事を行おう」

 飛び立つ小鳥に目もくれず、青年は部屋の隅に歩き、巨大な衣装だんすを開け放った。  なかからうなり声と腐った血の臭いとともに出てきたそれは、人面獅子身にワシの羽。  「ウォルター・クリザリング」は無造作に命令した。

「塔に行く者たちを襲え。館からじゅうぶんに離れてから仕留めていけ。  この部屋に先ほど来た少女、この部屋に満ちるにおいの持ち主は、かならず殺すのだぞ」

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 数刻後。冒頭のルイズたちの苦難と同時刻、館。  晩餐。

 アンリエッタは食卓の上座で、ラ・トゥールの秘書官に注がれるワインを傾けた。甘ったるいが後をひかない味、確かに値のわりには逸品である。  料理には合っていないが。

 クリザリング卿はテーブルの向かい側でつつましやかに、マッシュルームのピュレを添えた赤やまうずらの翼肉を切りわけている。  昼時の、彼の常識を超えた求婚によって、このアルビオン貴族は館の主人でありながら独特の孤立を得ていた。  つまり周囲は、この何を考えているかわからない男を、とりあえずそっとしておくことにしたのである。  アンリエッタにしてもラ・トゥールにしても、いずれ彼とはこみいった話をせねばならないだろうが。

 ラ・トゥールはアンリエッタの右手側の席に座り、ワイングラスを手に一席ぶっていた。彼と相対している左手側のマザリーニが、ときおり相づちをうって意見を返している。  ワインの給仕役をつとめる秘書官は、アンリエッタが小さめのグラスを空けるとすぐに満たしてくる。

 あまり食欲はなかった。

 いささかワインのまわった頭で、アンリエッタは広間の隅で警護の任についている少年を見やる。  才人は赤茶けた煉瓦の壁の前で、手を後ろにくんで佇立していた。一応じっとしてはいるが、何かに思いをはせているのか、心なしか表情が落ちつきなく見える。  アンリエッタはグラスを手に、その姿をぼうっと見つめた。ルイズが彼を残してアニエスに同行し、館を出ていってから時が経過している。

(ルイズのことを心配しているのかしら)

219 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:48:45 ID:8Um2yxCF

 たぶんそうだろう。多くの近衛兵がついており問題はないはずだが、それでも彼は気になるようだった。  ワインをあおりながらなんとなく少年を見るアンリエッタの両横で、向かい合った枢機卿とラ・トゥールが熱心に話している。

「……いまとなっては河川都市のいずれも、私がみずからの裁量で事を決することを支持してくれています。  数月前、わが都市トライェクトゥムの参事会が、正当な都市領主でもある私に実権をゆだねることを決意したのは、私こそが新しい発展の道をしめせると認めたからなのです。  トライェクトゥムは河川都市の盟主のようなものですから、必然的に私は彼ら全体に暗に責任を負うわけです。彼らを富ませてやらねばなりません」

「ほう、トライェクトゥムにとっても河川都市全体にとっても、貴君のような聡明な方を上にいただいたのは幸運でしょうな。  しかし並々ならぬご苦労もされておいでと思いますが。交易を空路重視に転換するという斬新な案をすすめようとされるならとくに」

「ええ、もちろん中には、少数ですが不満な者がおります。かれらは旧来の特権にしがみつこうとしているのですよ。水路を利用した、川と海の貿易にこだわっているのです。  ですが、それを打破して新たな貿易路線を開拓することは、結果としてかれらをも潤すことになるはずです。  ……いや、失礼、熱が入ってしまいました。晩餐でなんとも野暮な話でしたな」

「いやいや、実に興味ぶかい。陛下にとっても多くを学べるいい機会……陛下?」

「ええ、はい、興味ぶかいお話でした」

 うわの空で返事するアンリエッタを、マザリーニが呆れた目で見た。  それにも反応せず、少女はグラスをちびりとかたむけてから、卓の上に酒でやや濁った視線を落とす。

(心配ないわよ、ルイズ。  サイト殿は、あなたのことだけが大事なのだから。  少し離れても心配するほど、本当にあなたが大事なのだから)

………………………… ……………… ……

 晩餐のあと。アンリエッタにあてがわれた寝室。  まだ日没からそう間もなく、早い時刻だったが、故国を離れた遠出でここ数日間仕事づくめだったため、疲労を覚えている。  彼女はすぐに休むつもりだった。

 召使の女が入ってきて、寝室の暖炉の火をかき消した。  残った熾火のみが、暗い室内に赤い光をもたらしている。退出間際の侍女にドレスを脱ぐのを手伝ってもらう。  腰帯がついた、裾がレースになった薄絹の肌着のみの姿で、柔らかいベッドに横たわる。  アルコールの余韻にたゆたいながら、アンリエッタはもう一度考えた。

(クリザリング卿はどうして、わたくしに求婚したのかしら。  そもそも、あれは本気なのかしら)

220 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:49:17 ID:8Um2yxCF

 クリザリング卿が自分を見たときの顔を思い浮かべる。  わからない。ただ勘ながら、あれはまるきりの冗談ではないと思う。  かといって、身分違いも気にしないという真摯な想いを寄せられているのかというと、そこが微妙なのだった。

 布のうえでしどけなく寝返りをうつ。

 人目を考えず自由に恋愛する権利など、王族に生まれたときからない。それは、彼女も身にしみていた。  互いに想い、身分と家格がつりあってさえ結ばれなかった。  彼女がはじめて想いを寄せた相手は、このアルビオンの皇太子で、従姉妹の自分とおなじく王家の出だった。それでさえ、秘めた恋にするしかなかったのだ。

 夜の影のなか、熾火がくすぶる暖炉。寝台のうえで、少女は体を丸めて想いに沈む。  指にはめた風のルビーは、今夜はいまだ外していない。  この空の上の白の国、彼女のかつての想い人がいたアルビオンで、寝台に横たわったアンリエッタは彼の形見のルビーをそっと撫でる。

(あなたはここの王になるはずでした、そしてわたくしはゲルマニアに嫁ぐはずだったわ)

 運命は烈風となって、その未来は羽毛のように吹き散らされ、ウェールズ・テューダーは皇太子のまま死に、そして自分はトリステインの女王になった。

 「国のために嫁ぐ」ことを当然と育てられ、実際にゲルマニアに嫁げと言われて諾々と従ったあとでも、アンリエッタは想いが叶うことをどこかで夢見ていた。  子供の盲目的な恋だったかもしれない。それでも子供なりに純粋に、三年間想いつづけたのだった。

 自由を奪われていく姫としての暮らしの中、それだけを夢見て生きていたほどに。【四巻】  つくろっていた愚かさをさらけ出すほどに。  ウェールズの亡霊が現れたとき、彼が死者だとわかっていながら何もかも捨てかけたほどに。殺した彼の死体さえも利用した敵を、深く憎悪して戦火を燃えあがらせたほどに。

 夢は砕けた。当たり前のように叶わず、無残な形で終わった。  アンリエッタはぼんやりと爪を噛む。

(焦がれて狂って、残ったものは……みじめさと悔恨と、罪だけだった)

 まもなく嫁ぐはずだったアンリエッタが、危険をおかして亡命をすすめてもウェールズは断った。  そして最後の瞬間に、彼は愛を誓ってくれなかった。彼女に、他の者を愛することを誓わせて死んでいった。  それらはたぶん、彼の優しさというべきなのだろうけれども。

 それでも、アンリエッタの抱いた愁傷は、その瞬間を思い返すたびに虚しさをつのらせる。  せめて心が添えていたなら、夜毎に自分はこうも寂しさを覚えなかったのだろうか。  わからない。ただ、冷えて乾いた暗黒が胸にあるのは確かだった。

221 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:49:48 ID:8Um2yxCF

 後になって、それを埋めてくれる相手がいるかもしれない、と思えたことがあった。  自分を叱咤して止めてくれた『使い魔さん』のことを考えて、少しだけ胸の暗黒を忘れることができた時に。

 一度あきらめたはずだったけれど、先の秋にまた心を燃えたたせてしまったのだった。

(サイト殿のことはもう考えてはだめ、忘れなくては)

 どのみち、それも叶うことはないのだから。これが恋であるか完全な自信はないが、たぶんそうだとしても、幸福に終わることなど決してないだろう。

 彼女なりに、この冬のあいだ考えていたことだった。  どうせ終わるのなら、傷が浅いうちに、いま自分の意思ではっきり終わらせるべきだと。  だから今日ルイズにちゃんと言ったのだった、張り合うつもりはないと。

 ただ救いとしては、しばらく続いたルイズとの気まずさもこれで解決するはずだ。クリザリング卿の唐突な求婚は、自分の立場を思い出させてくれるという意味で役に立った。

 それなのに、ゆっくり冷えていく部屋の夜気の中、少しずつ想いはつのるばかりだった。  彼は今夜、すぐ近くにいるのだ。

 思い浮かべてしまう。黒い髪の毛、黒い瞳。

 ぶっきらぼうな優しさ。

 時折ルイズに向ける深い愛情のまなざし。

 彼はいま、この部屋と廊下をはさんで反対側の部屋に寝ている。護衛の慣例として、何が起こっても即座に駆けつけられるように。  彼はどんな夢を見るのだろう。それともルイズのことを気にかけて、自分がこうしているようにまだ起きて、ひっそりと想いに沈んでいるのだろうか。

 想像するぶんだけ、独り寝の寂しさがますますつのり、まどろんで半ば夢のなかにたゆたいながら、瞳がうるんで艶をおびていく。

(……なにか、おかしくないかしら?)

 妙だった。アンリエッタはベッドから身を起こした。  どこかに違和感がある。あの少年のことが、頭からまったく離れなくなっている。それどころか、少しずつその存在がふくらんでいく。  首をふってまぶたを押さえようとしたとき、どくりと胸が強く脈打った。

 気がつくとふらふらと立ち上がり、部屋を出て心の命じるところに行こうとドアノブに手をかけていた。  われに返り、女王ははっと顔色をかえてその手をはなす。  まさか、と思った瞬間に、胸の中で予兆のあったなにかがはっきりと首をもたげた。

 呼吸が荒くせわしなくなり、体温が熱くなっていく。

 よろめいて心臓をおさえるように胸元をつかんでから、アンリエッタは飛びつくように部屋の隅の手荷物をさぐった。  大して多くもなく、侍従が念のために携帯させるそれには、応急用のさまざまな医薬品、調合した薬類が入っていた。

222 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:50:23 ID:8Um2yxCF \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 夢うつつに、起きてサイト殿、と呼びかけられたような気がした。

「……んにゃ?」

 体をゆすぶられ、寝ぼけまなこで才人はベッドから上体を起こした。  暗い部屋の中。ベッドの上、起き上がった彼の目の前に、やや荒い息づかいをもらす何者かがいた。  おもわず声をあげようとして、才人は口を温かい手のひらでふさがれた。  どこか重苦しい声で、その人影はささやいた。

「わたくしです、静かに」

「ひ、姫さま?」

 何だってまた。才人はそう問おうとして気づいた。アンリエッタの呼吸は苦しげなものだった。  彼女はベッドから離れ、ベランダに出るガラス窓のそばに立って、リンネルのカーテンを開けた。  月光の中で振り向きながら、肌着にガウンをまとったのみの格好で、声を震わせて才人に告げる。

「毒の類を盛られました。おそらく晩餐のときに」

 一瞬で目が覚め、才人ははね起きた。血相を変えた彼の様子を見て、あわてたようにアンリエッタが補足する。

「だいじょうぶ、解毒薬は服用しました。さいわいにも即効性ではなかったのです。  いまはまだ正直、気分がすぐれませんが、じきに良くなるでしょう。のんだ万能解毒薬は、多くの毒に対応できる分、すこし効き目が遅いともいいますから。  それに、正確には毒というわけではなかったので……いえ、とにかく命に別状があるようなものではありません」

 よくわからず、才人はとまどった声でたずねた。

「毒ではない?」

「ええ、ですが善意の産物とはとても言えません。  聞いてください、サイト殿。ルイズやアニエスたちを即刻呼び戻します。マザリーニと他の護衛たちもすぐこの部屋に集めて――」

 アンリエッタの言葉が終わらぬうちに、突然の轟音が夜を裂いて響きわたり、露のおりた窓ガラスを震わせた。  息をのんだ二人が一呼吸置く間もなく、窓の外から銃声と、大勢がぶつかり合うときの吶喊がつづく。魔法の攻撃もさかんに発されているらしく、雷閃のような光がガラスから次々にさしこむ。  アンリエッタがよろめくように後じさって窓から離れた。

223 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:51:33 ID:8Um2yxCF

 廊下のほうからも何者かの叫びが聞こえた。  才人はとっさにベッドから降り、靴をはくのもそこそこにドアに走り、ちょうつがいをかけた。  何故そうしたのか、自分でも明確な説明はできなかったが、ただわけもわからぬ不安に突き動かされたのだった。

 才人がドアから離れないうちに、廊下を走ってくる音が聞こえた。  すぐに音をたててノブが回され、つづいてドアが外から激しく乱打された。

 才人はドアから距離をとる。入ってこようとしている外の誰かに「だれだ? 何があった?」と呼びかけた。  返事はなく、唐突にドアが体当たりをされたように激しく揺れて軋んだ。  堅い樫のドアが内側にややゆがんだのを見て、(魔法をぶつけたな)と才人は判断した。

 愕然と立ち尽くしているアンリエッタを振り向き、才人は「逃げましょう!」と意見を述べた。  アンリエッタが信じられないとばかりに首をふる。

「このような……こんな大胆な真似をするなんて。以前とは違う、軍はすぐ近くにいるのに」

 領主は平民の共和主義者と違い、多くは領地から離れられないという点では、反乱を起こせば根絶するのはより容易だ。

「これがラ・トゥール伯爵、クリザリング卿のいずれが起こしたものにしろ、こんな軽々しく反乱のような真似をして、三日と無事ですむはずがないのに」

 今この館では、アンリエッタ以外ではその二人しか、まともに動かせる兵力を持っていないはずなのだ。  女王の護衛の多くが出はらっている今、外の戦闘はおそらく、彼らが戦っているものだった。一方が女王に毒を盛り、こうして牙を剥いてもう一方に攻めかかっているのだろうか。  才人は深く考えることは避け、早口でせっついた。

「そこは俺にだってわかりませんよ。相手が誰でもいまはとにかく逃げなきゃ」

 館を出て、速やかにアニエスたちのあとを追い、合流する。それしか今は思いつかない。

 才人は身をひるがえしてベッド枕元のデルフリンガーをつかみ、それを抜く。  ガラス窓をあけベランダに出て、アンリエッタに「魔法で飛んで庭に下りて」とうながしかけた時だった。

 ベランダの白木の桟、すこし離れた箇所に飛来した炎の玉がぶつかって、その箇所を瞬時に消し炭に変えた。  同時に背後で、くりかえし魔法をぶつけられていた部屋のドアがついに金具がこわれて吹っ飛んでいる。

 やべえ猶予がねえ、と青くなった才人は、とっさにアンリエッタの腕をつかんで引き寄せ、抱きあげた。

 ほっそりした柔らかい体が腕のなかで驚きにこわばるのも、考慮している暇はない。  ガンダールヴの身体能力を発揮して、さっさと下に飛び降りる。花壇のゼラニウムを踏みつぶし、少女を横抱きにしたまま走り出した。

224 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:52:53 ID:8Um2yxCF

 昼のようにあかるい月光に照らされた館の庭では、どちらがどちらとも知れぬ二陣営の戦闘が行われている。  開始から数分もたたないというのに、炎と矢と叫喚が溢れはじめていた。  それをまわりこんで避け、ひたすら離れるように、才人は森めがけて走った。  ガンダールヴの力を出すため、アンリエッタを両腕でかかえながらも逆手持ちで器用に剣を持ったままではあるが、むろん戦えるはずもない。

 館をとりまくブナの森に逃げこむことには成功した。  ほんの少しでも怒号ひびく戦場から遠ざかるべく、暗い森のなかを枯れ枝と落ち葉を踏みながら走り続ける。  「お、おろしてくださいまし」と腕の中から妙にかぼそい声が聞こえたが、才人は「もう少し離れてから!」と無我夢中のまま突っぱねた。

 居心地悪そうに才人の胸でちぢまっているアンリエッタが、自らの異変に気づいたようなうろたえた表情になった。  それが少しずつ熱っぽく朦朧とした顔になっていくが、闇の森中で転ぶまいと注意をはらって走っている才人に気づく余裕はない。

………………………… ……………… ……

 長くガンダールヴの力を使うわけにもいかず、けっきょく才人は途中からアンリエッタの手をひいて走っていた。  うなだれたブナの枝がときおり顔に当たり、夜露でぬれる。  青寂びた月光が木の葉のあいだから洩れている。それが夜風とともに揺れている中を、二人は小走りで走りつづけた。

「サイト殿、待って、待って、わたくし……!」

 アンリエッタがその声とともに、よろめくように極端に遅くなってきたのを感じ、才人はやむをえず足をゆるめた。  少々ばてるのが早いなと思うが、疲れるのは無理もない。とりあえずここまでくれば大丈夫か、と思いもした。  足を止めたのは、木々のひらけた森中の空き地だった。月と星の光が冷たくふりそそぐその場所で、才人ははじめてアンリエッタを振り向いた。

「姫さま、失礼しました。でも、やっぱり今は急がなきゃ。  それで、ルイズたちの向かった場所ですけど」

 デルフリンガーをおさめ、葉の露と汗でぬれた額を服の袖でぬぐいつつ言おうとして、才人はその手をとめた。  アンリエッタの様子が妙である。  走っていたときからであろうが、寒さとは別の種類の震えが女王におとずれていた。

「……姫さま?」

 大きく胸を上下させ、白い呼気が荒いのは走ったためとしても、それだけでは説明できないほど妙に足元からふらついている。  月明のなか、わずかに伏せられた少女の瞳がうるんでいるのも見てとれた。  そのあえぐように薄く開いている唇が震え、「もうだめ」と幽かな音をつむいだ。

「姫さま? どうし――」

225 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:54:04 ID:8Um2yxCF

 才人の声は途中で封じられた。問いを発しかけた口ごとふさがれた。  倒れこむように少年の胸にすがりついたアンリエッタが、のびあがって首に手をまわし、歯がぶつかりそうな勢いで唇を重ねたのだった。  才人が目を白黒させている間に、唇が一度離される。

「ちょ、何、」

 才人がテンパった声を出せたのはつかの間、すぐまた湿った唇を重ねられる。  アンリエッタの体、唇と吐息。すべてが熱く柔らかく激しい。  露にしめった栗色の髪からただよう良い匂い。

 華奢な身体でもぐいぐいと押しつけられると、才人までよろめいて後ろに下がってしまう。  ななめにかしいだ大きな倒木にぶつかり、背をあずける。そのまま二人してその場にずるずるへたりこむ。  冷たい地面に尻をつけて座りこんだ才人に、抱きついたままのアンリエッタが降らせる口づけの雨が止まない。

「ちょっと――ちょっと待った! なんなんです一体……むぐ」

 パニックになりかけたところでひときわ深く唇を重ねられる。  かえって閃くものがあった。唐突な錯乱、盛られたという毒に近い何か。以前にも、才人は似たような状況を見たことがある。  ま、まさか、とアンリエッタの肩をつかんで離しながら問いかける。

「盛られたのって……『惚れ薬』のたぐい?」

 その問いに、アンリエッタはうるんだ目を伏せて荒い息をつきながら、こくりとうなずいた。  マジかよおい、と才人はうめいた。  たいがいろくでもない結果しか生まないあの薬の仲間に、またもお目にかかるとは思わなかった。しかも、こんな状況下で。

「待ってください、解毒薬をのんだのでは?」

「のみました! のんだ、のに……おかしいのです、どんどんぶりかえして」

 ほとんど唇がふれあう距離で、ささやきを交わす。  苦しげな熱っぽい声。月光でさえわかるほど、アンリエッタの顔は赤らみ、目尻の下がったまなざしは甘く濡れていた。

 原因がわかっても、対処法がわからない。  才人がアンリエッタの肩をつかんだまま固まっているうちに、彼女は「薬、薬……」とうめいて、せわしなく自分の肌着の胸元に手をかけ、前あわせの紐をほどきはじめた。

「ちょっ、待て姫さま待ったストップ、しっかり気を持って!」

「ち、違います、服の下に解毒薬が!  ああもう、背中側にまわって……!」

226 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:54:52 ID:8Um2yxCF

 万が一のために、とっさに万能解毒薬をアンリエッタは懐に入れてきたのだった。が、横抱きにされたり走ったりで、気がつくと自分では手を入れられない背中のほうに薬の瓶がある。  その肌着はサッシュベルトで腰のあたりを締める様式なので、下のほうから取り出すこともできないのだった。  どのみち胸元の紐か腰の帯かをほどかねばならないのである。

「サ、サイト殿、取り出してください」

 至近距離でそう言われ、才人は絶句した。  つまりなにか。えり元から背中に手を突っこんで解毒薬を取りだせということか。  あ、う、とうめいて逡巡する才人に、とうとうアンリエッタがせっぱつまった声で叫んだ。

「はやくして、わたくしに意思があるうちに早くして!」

 やむをえず、才人はアンリエッタの暗紫色の絹ガウンを取りのけ、背中側に手をまわして、うなじの方から肌着の中に手を差しいれた。  すがるように才人のマントの前をつかみ、かぼそく震えていたアンリエッタが、背中に手を入れられてかすれた声をもらした。  その声と、汗で蒸れた素肌の温かくすべやかな感触に、才人まで顔が赤くなる。

「え、えっと、あれ? あ、腰帯のあたりまで落ちてるのか……」

 肌着に腕までを突っこむと、少女の身体がびくんとはねた。

「あっ、くっ、くすぐらないで!」

 くすぐってねえよ妙な声を出すなよ、と才人はますます動揺した。  頭をうつむけて、もぞもぞと背中で動く才人の手に耐えているアンリエッタが、恥じらいと熱のこもった呼吸の歌をつむいでいる。

「……あ……ぁ…………」

227 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:55:22 ID:8Um2yxCF

 聞くな俺聞くな、と少年は腕を深くまで進めてまさぐりながら意志を総動員している。

「……やっぱり、……だめ……」

 ふと、アンリエッタの顔が上げられた。  才人はぞくりとした。自分を見つめる少女の目の奥、異様な光がある。理性が先ほどよりあきらかに磨耗した様子。  何を言うひまもなく、また首に腕をまわされて唇を奪われる。今度は、熱い小さな舌が入ってきた。

 待ておい何だこの状況、と才人はその舌を自分の舌で必死で拒みながら、思考をつなぎとめる。  湿った微風と木漏れる月光が混ざった森の中。冷たい泥の上にへたりこみ、自分は女王の肌着(背中側だが)の下に手をつっこんで、アンリエッタからは熱烈な口づけを受けている。

 この状況下で混乱しかけていた才人が気づかなかったのは、無理もないかもしれない。

 夜風を切って矢が飛んだ。それは二人の近くの木に突き立ち、矢羽を震わせた。  はっとして顔を起こした才人に、「動くなよ」と今度は上方の木のこずえから声がかかった。

「獣の待ち伏せに、妙なものがかかったな。数人がおまえたちに狙いをつけている、樹上と木々の間から。  といっても、どうやらおまえたちは我々の敵ではないと思えるがね」

「誰だよ、あんたら?」

 才人は剣を抜きかけた手をそのままに、そうたずねた。  頭上から身をおどらせた人影が、地面に降り立った。  中肉中背の、小太りの農夫のような風貌をしたその男は、あっさりと名乗った。

「どうも。マーク・レンデルだ」