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君へ向かう光

――昔、こんな会話をした記憶がある。  確か、愛しい主がいつものように木陰で本を読んでいるときに、話しかけたのだった。 「ねえねえお姉さまお姉さま!」

 返事はなかった。本を読んでいるときに主が返事をすることは滅多にない。だから、気にせず問いかけた。 「死んじゃった人間の魂って、どうなると思います?」

 どうしてそんなことを聞いたのかは、よく覚えていない。多分、タバサの友人達の内の誰かと話していて話題になったとか、そんなところだろう。  その質問に対する答えも、やはり期待していなかった。だから自分なりの見解を捲し立てようと思っていたのだが、驚いたことに主は本から目を離してこちらを向いた。  物凄く珍しいことだったので声を出すのも忘れて唖然としてしまった彼女の前で、主は穏やかな微笑を浮かべて――これもかなり珍しいことだ――そっと、口を開いた。

 最初に聞こえてきたのは、唸りを上げる風の音だった。

 苦労して重い目蓋を開く。寝床にしている狭苦しい洞窟の中だ。ずっと向こうに、入り口がぽっかりと口を開けていて、白い空が見えた。外は猛吹雪らしく、轟音を孕む風に混じって、氷雪が岩肌を叩く音が絶え間なく聞こえてくる。 (あのとき)  先程の夢を思い出しながら、ぼんやりと考える。 (お姉さまは、なんと仰ったんだっけ)

 遠い記憶を呼び起こそうとしても、思い浮かぶのはあのとき主の口元に浮かんでいた穏やかな微笑だけだ。彼女がなんと言ったのかは、霞の中に隠されている。  仕方のないことだと思う。いかに韻竜が人間に比べて遥かに高い知能を誇るとは言え、あれから既に数百年の月日が流れている。  今思い出そうとした記憶は、夢で見たから「そんなこともあったな」と思えるだけで、本来ならば埋もれたまま二度と思い出されることのない、ごくごく些細な思い出だろう。  だが、脳裏に鮮明に焼きつけられて、今でもはっきりと思い出せる記憶もある。

 彼女――この世界に残された最後の韻竜であるシルフィードは、ゆっくりと目を閉じ、疲れきった意識の中で記憶を辿った。

(これで、使い魔としてのあなたの役目もおしまい)  今わの際に、主は静かに呟いた。

(自分では使い魔を選ぶことができないとは言え、あなたがたくさん危険な目に遭わされたのはわたしのせい。そのことは、申し訳なく思ってる)  そんなことはない、自分は自分の意志であなたについてきたし、後悔なんて少しもしていない。そう反論すると、主は年老いた頬の皺を深くして微笑んだ。 (その愛情は、きっと大部分が使い魔のルーンによりもたらされたもの。わたしが死んでルーンが消えれば、愛情も執着も薄れていくはず。わたしのこなんてすぐに気にならなくなる)  主への想いをそんな風にして否定されるのはたまらなかったから、シルフィードは必死に反論した。

そんなことはない、使い魔の役目なんて関係ない。わたしはあなたを愛しているし、あなたが死んでルーンが消えても、絶対にあなたのことを忘れたりはしない。それを聞いて、主はただ嬉しそうに目を細めた。 (ありがとう、シルフィード。でももういいの。わたしのことは忘れて、あなたのお家へお帰りなさい)

 それが、主と言葉を交わした最後の記憶である。もっと伝えたいことがあったが、主はそれを聞くことなく逝ってしまった。 (違う。わたしは、使い魔だからお姉さまのそばにいたんじゃない。お姉さまを愛していたから、お姉さまの助けになりたかったから、ずっとそばにいたの)  シルフィードはそれを証明したかった。自分と愛する主の縁が、たかが死ごときによって断ち切られてしまうのは耐えられなかった。  だから、主の言葉に反して、彼女の死後もシルフィードは人間の世界を離れなかった。

(1000年……そう、1000年の間、人間の世界に留まって、お姉さまの子孫を見守っていこう。それが出来たら、きっとお姉さまも、わたしの愛情が偽りのものでなかったと、分かってくださるはず)  そう決意したシルフィードは、主の娘や孫たちを守護し始めた。その血族の守護竜として、ときに力を振るい、ときに知恵を貸し、主の血が絶えることのないよう必死に努力してきたのである。  主同様、その子孫達も生きていく途上で様々な脅威と対峙せねばならない運命にあった。脅威は様々な形を取っていた。天災などのように自然的なもののこともあれば、他者の悪意によってもたらされたこともある。だが、大抵は子孫達が、彼らの持つ勇気と気高さによって、自ら悪と対決しようとする過程で遭遇したものだった。 (お姉さまのご子孫は、やはりお姉さまの血と意志を受け継いでいる)

 シルフィードは喜んで彼らに力を貸した。ときには彼女の助力を以ってしても切り抜けられない場面も多々あったが、そういったときにも、子孫達は大抵充足した表情でその死を迎えていった。 (ありがとう、シルフィード)

 幾度その言葉を聞き、幾度自分の無力に涙を流したことだろう。それでも、彼女の助けもあって、主の子孫は着々とこの大地に広がっていった。

 しかし、そんな日々にも終わりは訪れた。魔法に加えて科学という名の力も手にした人類は、過去以上の欲望を原動力として、瞬く間に世界中にその勢力を広げていった。宿敵であるエルフを始めとして、オーク鬼やトロールなどの外敵をことごとく打ち滅ぼし、火竜山脈のサラマンダーを捕えてその皮を剥ぎ、翼人の翼をもぎ取りその羽で衣服を作った。  そうした人間の欲望は、彼らに近いところにいたシルフィードにも向けられた。

 シルフィード自身はそうした人間達などに遅れを取るつもりはなかったが、彼らは非常に数が多かった。それに加えて、彼女を狙う人間達が、その傍らにいる主の子孫達に危害を加える危険もあった。 (わたしがいることで、お姉さまの子供達を傷つけてしまうかもしれない)

 シルフィードはやむなく人間の世界を離れ、彼らの技術を以ってしても未だ容易には入り込めない雪山の奥深くに寝床を構えた。成熟期を迎えてますます高まりつつあった魔力を最大限に活用して人間の世界の様子を見守り、主の子孫達が危機を迎えるたびに翼を広げ、彼らの助けとなったのである。

 そうした生活の中で、シルフィードの力は急激に衰えていった。いかに強大な韻竜といえども、その力は無限ではない。さらに悪いことに、世界中に広がった人類は、森を切り崩し海を埋め立て空を汚していた。それがために精霊の力が衰えていたこともあって、その加護を受ける韻竜もまた、力を失っていたのである。彼女同様雪山にねぐらを移していた他の韻竜たちも、次々に力を失って、本来の寿命を半分も全うしない内に息絶えていった。  まだ死ぬわけにはいかないという思いがなければ、シルフィードもまた彼らと同じ運命を辿っていたことだろう。だが彼女は死ななかった。もはや魔法を使うどころか羽ばたくことすら困難になった今となってもなお、命の灯火は完全には消えていない。 (1000年。1000年経つまでは)

 もはや、その思いだけがシルフィードの命を繋ぎとめていたのである。

 長い記憶の旅から帰ってきたシルフィードは、不意にあることを確信した。 (今日が、お姉さまが亡くなってからちょうど1000年目なんだわ)

 正確に数えていたわけではない。そもそも、数えることなど不可能だった。最近のシルフィードは起きていることすら億劫になっていて、夢と現実の間を絶え間なくたゆたう状態だったのである。もはや、最後に人間の世界を垣間見てからどれだけ経ったのかも覚えていない。  それでも、確信できた。 (1000年目。今日が1000年目だわ)

 狭苦しく冷え切った洞窟の中、重い首をもたげて、ゆっくりと四肢に力を込める。長い間じっとしていたせいか、体の動きはぎこちなく、節々がずきずきと痛んだ。それでも、シルフィードはなんとか自分の足で立ち上がることが出来た。もしかしたら、この日が近いことを悟って、無意識の内に最後の力を溜め込んでいたのかもしれない。そんな風にも思う。 (飛べる、かしら)

 シルフィードは洞窟の入り口まで這うようにして歩いた。視界を真っ白に覆う吹雪の向こう側で、永遠の雪に閉ざされた山々が霞んでいる。 (飛べる、飛べる。わたしはまだ飛べる。最後の力を使えば、なんとか、飛ぶことができる)  違う。 (飛べなくても、飛ぶんだ!)

 シルフィードは渾身の力を込めて翼を開いた。後足で地を蹴り、吹雪の中へと身を躍らせる。長い間閉じられていた翼は思うように動いてくれず、シルフィードの体はまっ逆さまに落下した。だが氷の山肌に激突する直前、巨大な体が軽やかに風に乗った。昔に比べると哀れなほど懸命に翼をばたつかせるシルフィードの胸を、温かい何かが通り抜けていく。 (ああ、今もこの地に残る大いなる意志が、わたしの最後に力を貸してくださっているんだわ!)  心の中で感謝の祈りを捧げながら、シルフィードは無我夢中で翼を動かした。  次に地に下りたら、もう二度と空に舞い上がることは出来ないだろう。確信めいた予感がある。

 落ちる瞬間が来る前に、なすべきことをなさなければならない。凍りついた空を突き抜け、山々の向こう、懐かしい人間の世界へ。

 吹雪が遠く後方に去る頃、下界にちらほらと人家が見え始めていた。その辺りも通り越して、もっと遠く、たくさんの人の気配がする方向を目指す。その内、大気に鉄の香りが混じり始めた。苦手な臭いだったが、シルフィードは躊躇うことなく空を駆ける。  目指す場所にたどり着いたとき、シルフィードは呆然としてしまった。そこは過去にガリアと呼ばれた王国があった場所で、今彼女がいるのは、主の墓のちょうど真上のはずである。だが眼下あるのは何やら鉄で出来た建物だけで、墓所などどこにも見当たらない。 (ああ、お姉さま。お姉さまの痕跡が消えてしまった!)  シルフィードは高く鳴いた。しかし、すぐにまた気力を振り絞る。 (いえ、まだ。まだ、お姉さまが生きた証が全て消えてしまったと決まったわけじゃない)

 滞空したまま瞳を閉じ、意識を四方へと広げ、分厚い鉄の向こう側、かすかに残る大いなる意思に問いかける。 (どうかわたしの最後の願いをお聞き届けください。この大地の上に息吹く、シャルロット・エレーヌ・オルレアンの命の残滓をお見せください)  声は届いたはずだった。だが、いつまで経っても何も起こらない。鉄で埋め尽くされた大地に、主の命の残滓は欠片も感じられなかった。 (まさか)  シルフィードの全身に悪寒が走った。 (わたしが眠っている間に、お姉さまの血は全て絶えてしまったのでは)

 あり得ない話ではない。シルフィード自身、もうどのぐらい人間の世界に介入していないか覚えていないほどなのだ。それ程長い時間の中では、一人の人間の血などあっという間に渇いてしまうかもしれない。  絶望が、シルフィードの翼から力を奪う。  墜落が始まる直前、鉄で埋め尽くされた地平線に光が生まれた。 (あれは……?)  シルフィードはなんとか翼に力を入れなおし、その光をじっと見詰める。

 最初は小さな光点が一つ見えただけだったが、その近くにまた一つ灯り、また一つ、と増えていく内に、光は夜空の星のごとく鉄の大地を輝かせた。  圧倒的な光景を、シルフィードは呆然と見下ろした。 (これは……お姉さまの、命……!)

 主の血は絶えてなどいなかった。むしろ、主の墓すら形を留めていないこの時代にあってもなお、力強く大地に根を下ろしている。  やがて、光は少しずつ姿を消していった。 (大いなる意志よ、感謝いたします)

 かすかに答える声が聞こえた。シルフィードは緩やかに翼をはためかせ、かつてガリアと呼ばれた地を離れた。  青く晴れ渡った空に抱かれて、今なら、昔のように軽やかに飛べるような気がした。

 穏やかな幸福感に包まれたまま、シルフィードは当てもなく飛び続けた。体の末端から、少しずつ力が失われていくのが分かる。あとわずかで、この肉体は全ての力を失い、地に堕ちるだろう。恐怖はない。ただ、やり遂げた、生き抜いたという思いが満ちている。 (お姉さま。これで、わたしの愛情を信じてくださいますわね)  そのとき、シルフィードの視界に何か大きなものが現れた。

 それは、塔のような形をした、巨大な鉄の塊だった。ずっと向こうまで広がっている大平原の真ん中、太陽の光を浴びながら、赤々と力強く、真っ直ぐ天を指して佇んでいる。  命の終わりに突如として現れたその物体に、シルフィードは何故か強く惹きつけられた。 (あれは何かしら。あれは、どこに行くのかしら)

 突然、轟音と共に、塔のような物体が底から火を吹きだした。凄まじい勢いで大地を焦がしながら、焔が鉄の塊を持ち上げる。目を見張って見守るシルフィードの前で、重々しい鉄の物体が、信じ難いほどの力強さで、天に向かって上っていく。  そのとき、シルフィードは気がついた。 (ああ、あの中にも、お姉さまの命の欠片がある!)  シルフィードは翼に力を込めた。何も考えず、ただ上昇する鉄の塊を追って、高く高く上っていく。

千切れ雲が後方に流れ去り、空の青が視界を染める。そのとき、青さを増した空に、見えていなかった星が急に現れた。 (ああ、そうだ、そうだったわ)  嬉しくなった。思い出したのだ。あのとき、主が何と言ったのか。

(お姉さま。お懐かしいお姉さま。シルフィは、今お姉さまに会いに行きます。どうか、昔のようにうるさがらず、温かくお迎えくださいね。1000年に渡るわたしの愛情を、お姉さまが認め、受け入れてくださるのなら)  全身に満ちる幸福感を糧として、最後の竜の体が光を放ちながら天へと上る。

 近くなる星の海を微笑と共に見つめながら、シルフィードは己の体がゆっくりと砕けていくのを感じた。

 ――昔、こんな会話をした記憶がある。  確か、愛しい主がいつものように木陰で本を読んでいるときに、話しかけたのだった。 「ねえねえお姉さまお姉さま!」

 返事はなかった。本を読んでいるときに主が返事をすることは滅多にない。だから、気にせず問いかけた。 「死んじゃった人間の魂って、どうなると思います?」

 どうしてそんなことを聞いたのかは、よく覚えていない。多分、タバサの友人達の内の誰かと話していて話題になったとか、そんなところだろう。  その質問に対する答えも、やはり期待していなかった。だから自分なりの見解を捲し立てようと思っていたのだが、驚いたことに主は本から目を離してこちらを向いた。  物凄く珍しいことだったので声を出すのも忘れて唖然としてしまった彼女の前で、主は穏やかな微笑を浮かべて――これもかなり珍しいことだ――そっと、口を開いた。 「星になる」 「お星様?」 「そう」  頷き、主は空に目を向ける。 「きっと、お星様になって、わたしたちを見守っていてくださる。お母様が、そうお話してくれた」

 まるでそこに星があるかのように、主は目を細めている。しかしそのときは昼の空で、彼女には星など見えなかった。 「きゅいきゅい。お姉さまったら、そんなこと言ったって、昼間は星は消えていますわ」 「消えてない。見えないだけ」  再び彼女の方を向いた主は、ただただ優しい微笑で語りかけてきた。 「きっといつか、あなたにも分かる日が来る」 「いつかって、いつ?」 「わたしにとっては遠い、あなたにとっては近い未来。わたしもみんなと同じようにするつもりだから」

 言葉の意味は分からなかったが、彼女は何故かとても寂しい気分になった。急に主に甘えたくなったが、主はまた読書に没頭していて、もう声をかけても答えてくれなかった。  それでも、彼女は何故か嬉しかった。こうして聞いていない風でいて、主が自分の言葉を聞いていてくれることはよく分かっていたから。 「ねえねえお姉さまお姉さま!」  愛しい主のそばで、彼女はいつまでもいつまでも、一人でたくさん喋り続けた。  ただそれだけの、ささやかな思い出である。