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ja
2011-12-10T22:12:21+09:00
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『日本人の他界観を探る―三途の川―』
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『日本人の他界観を探る―三途の川―』さいたま川の博物館、1999年
&bold(){(1)境界としての川}
日本人は、いつ頃からこの世とあの世を分ける境界としての川を、意識するようになったのでしょうか。
新潟県岩船郡朝日村には、県営奥三面ダム建設にともない昭和63年から平成10年の11年間、調査が行われた奥三面遺跡があります。この遺跡は、縄文時代後期から晩期(約3500年前~2400年前)まで栄えたムラの跡です。
このムラに住んでいた縄文人達は、計画的に土木工事を行い、自分たちにとって住みやすいムラを作り上げていきました。なかでも、竪穴住居などがあり日常の生活をしている場所(この世)と墓などがある神聖は場所(あの世)を意識的に分けるように、川の付け替え工事をしたと思われる遺構が発見されました。この事実から、縄文時代には、この世とあの世を分ける境界としての川を意識していたのではないかと考えられ、今後の研究が注目されます。
また、『日本書紀』には、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国(あの世)から帰ったときに川で禊ぎをしたとあります。この世とあの世の境界として意識された川の存在は、むかしからあったようです。
(2)仏教のあの世
古今東西、世界にあるさまざま宗教には、人が死んでからの世界(あの世)や地獄に関することが語り伝えられています。私たち日本人になじみの深い宗教である仏教でも、5世紀にインドで著され、仏教の世界観について述べている『倶舎論』の中に、人が死んでからの地獄の世界について書かれています。
『倶舎論』によると、私たちが現在生きている場所である「贍部洲」の下に八熱地獄があるとしています。八熱地獄とは、等活、黒縄、衆合、号叫、大叫、炎熱、大熱、無間の各地獄のことですが、死んでから八熱地獄に行くまでの行程については、書かれていません。
2011-12-10T22:12:21+09:00
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『フェルメール 窓からの光』
https://w.atwiki.jp/mogamirvr/pages/26.html
喜多尾道冬『フェルメール 窓からの光』講談社、1985年
-(《士官と笑う女》について)しかし女の顔にはそのような暗い予感や厭戦気分は微塵もない。むしろこの絵には光へのあふれるような讃歌がみなぎっている。射しこむ光は窓外の壁に、窓ガラスに、開かれた窓枠に白く反射し、部屋いっぱいに明るくこだまして、女の顔、その白いフード、白い襟を白磁のようにまばゆく照らし出している(フェルメールは光は白いという光学上の真理を直感していたことがこれによって知られよう)。この目に痛いほどのまばゆい光が画面そのものから発しているという事実に思い及ぶことができなくて、フェルメールの発見者トレ・ビュルガーによれば、「この絵が画架にかけられていたとき、あるひとが、この画面のすばらしい光はどこから射しこんでくるかを確かめようとして、絵の後ろにまわった」ほどだった。ここでは光は単に《もの》の材質感を浮き彫りにするだけではなく、《もの》のいのちに触れ、照応しているといいうるであろう。(P.64)
-もとより光は非人格的な物理学上の光学的現象である。しかし明るい、輝く光は人の心を晴れ晴れとさせる。そして娘の笑顔は光の明るさ、輝きと完全にアイデンティファイしている。
-この絵では光が主役である。士官と笑う娘のいる部屋に晴れやかな外光が射しこんでいるように、おそらくオランダ全土にもあまねく同じ光は燦々と降りそそいでいるのであろう。およそ人工的な建築物ばかりを密集させ、風雨を遮断したような都市の《室内》に、それでも直接触れてくる自然があるとすれば、それは光である。あらゆる自然を排除しようとする室内でも、光だけはつねに降りそそぐ。
2011-11-24T22:09:26+09:00
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『美と光』
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熊田陽一郎『美と光 西洋思想史における光の考察』国文社、1986年
-「光の形而上学」(Lichtmetaphysik)という言葉を創り出したのは、中世思想史の草分けともいうべきクレメンス・ボイムカー(Clemens Baeumker)であった。(P.9)
-もともと神話的表現であった「光」が、古代ギリシャにおいて形而上学的内容を獲得し、新プラトン派を経てキリスト教中世へと伝えられてゆく有様が記されている。
-光の思想は大まかにいって三つのタイプに分類されている。第一は一義的用法(univok)または神話的用法であり、われわれが自然界で体験した「光」をそのまま精神的領域に適用してゆくことである。もっとも原始的な形では、光は神として直接に宗教的礼拝の対象となる。世界各地方に伝わる太陽神話――このなかには日本神話の主神、天照大御神も含まれる――のおびただしさは、このような光の神話が人類にとってどれほど自然であり普遍的であるかを示している、そして理性的反省が進んで自然光そのものの礼拝が行われなくなっても、神と光とのあいだに本質的な相違を認めず、ある連続性を認めようとする傾向は根強く続いてゆく。ストア派の「原火」、マニ教の「巨大な光」としての神などがこれに当たることを思えば、このタイプの光もヨーロッパの思想に持続的影響を与え続けてきたことは否定できない。(P.10)
-光の来る瞬間が神である。この瞬間が救いを、解放をもたらす。それは瞬間の原体験であって、太陽は神だといってしまうと、その原体験は失われ、忘れられてしまう。《今や悪霊の徘徊する夜が終わったと、われわれは喜ぶのだ》と土人たちがいうとき、これはすでに合理化を意味している。実際には、大地をおおう自然の夜とは、まったく異質の暗黒が圧倒している。これは心的な根源的夜であって、数え切れないほどの幾百万年もの昔から、今日と変わることはない。光への憧憬、意識に対する憧憬なのである。
--『ユング自伝2』(みすず書房)94-98頁。
2011-11-24T22:07:45+09:00
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『スイス・ベネルクス史』
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森田安一編『スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
-こうしたなか、一五六六年八月、フランドル(フランデレン)州でカトリック教会や修道院をねらった聖画像破壊暴動が発生し、たちまちのうちにほかの州にも飛び火した。それまで改革派の浸透していなかった低地諸州北部の都市(アムステルダム、ユトレヒト、レイデンなど)にもそれは波及しているから、この暴動の動機は宗教だけではなかったことがわかる。この一五六六年は「飢餓の年」とも呼ばれるほど経済生活が混乱していた。北欧での戦争によりバルト海地方からの穀物輸入が減り、パンの価格ははね上がっていた。また一五六四年から六六年にかけての厳冬も暗い影を落としていた。人々のこうした窮迫した状況も暴動の一因になっていた。この暴動は結局政府により鎮圧され、異端審問を中止させるところまではいかなかったが、以後の低地諸州の反乱の導火線となったことから、この飢餓の年はまた「奇跡の年」としても語りつがれていくことになる。(P.245)
2011-11-24T22:05:12+09:00
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『宗教改革』
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オリヴィエ・クリスタン(木村恵一訳)『宗教改革』創元社、1998年
-この時代(引用注:中世末期)活版印刷の技術によって書物が安く手に入るようになり、発行部数も急増した。しかし、印刷術の発明はたんに量的な革命にとどまらず、人間の文字に対する関係を一変させた。正確な本文の確定が可能になったことも、そのひとつである。(P.28)
-一般に考えられているのとは違って、中世末期には聖書はかなり広く普及していた。ラテン語の完訳聖書は1520年以前に、すでに160種類ほどの版があった。この時期、各国語への翻訳も急速に進んでいる。イタリア語訳(1471年)、フランス語訳(1473~74年)、オランダ語訳デルフト聖書(1477年)、チェコ語訳(1488年)などである。
-人文主義者たちは新約聖書のなかに、いったい何を見出したのか。それはなによりもまず、初期の教会の驚くべき簡素さであった。それに比べて15世紀末のキリスト教は、何と多くの儀式や典礼、神と人との仲介者を、抱え込んでいることか。ルフェーヴル・デタープルも言うように、いまや新約聖書こそが「キリスト者の生命の書であり、唯一の掟」となるべきであると考えられた。人文主義者から見れば、当時の信徒が守っていた義務や慣行のなかには、何の意味もないものが多かったのである。(P.33)
--デタープル「神については、聖書に書かれていること以外、主張してはならない」とも(p.28)ルターに通ずるか?
-ルターの「提題」はたちまち大きな反響を呼び起こした。ブランデンブルクから「提題」を手に入れた教皇庁とテッツェルが反論の準備をする間に、ルターの友人や弟子たちも「提題」を書き写し、印刷し、頒布させた。(P.44)
-ネーデルラントでは、スペインのフェリペ2世(直接の統治者ではなかった)が、自国と同じく徹底した異端撲滅政策をとり、執政パルマ公妃マルガレータに指示して、プロテスタント禁止の布告を厳格に適用させた。(P.108)
-神聖ローマ帝国内のスペイン領だったネーデルラントでは、フランスとは逆に、16世紀後半の内戦後に再び政治的統一が回復することはなかった。状況悪化のきっかけは、1558年に、執政パルマ公妃マルガレータの顧問グランヴェルラ枢機卿が、これまで高位貴族らによって握られていた
2011-11-24T21:57:22+09:00
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『中世・キリスト教絵画』
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新規矩男編『世界名画全集 第3巻』平凡社、1960年
-つまり、中世画家の見る世界には夜と昼の区別がないのだ。かれらには太陽の光に照らされる昼、その光の欠けた夜は問題にならないのだ。(P.25)
-かれらは現実界の光線、その微妙な効果などには興味をもたないのだ。かれらの扱う光は超現実的な光、永遠の光なのだ。そこには夜明けはない。日暮はない。太陽光線のうむ明暗はない。&u(){物理学的な光の法則は作用しない。}
-ゴシック建築ではヴォールトの全重量が柱と外部のフライング・バットレス(飛控え)と支壁にかかる。したがってヴォールトをささえるための壁は無用となり、窓がこれに代わる。ロマネスク建築の壁面に展開されていた色彩芸術がガラス窓にその位置を移すのは当然の理である。(P.78)
-しかし、ガラス窓に絵が描かれるのではない。ガラス窓そのものが色彩であり絵であるのだ。窓ガラスは外部の自然光線を通すのではない。それそのものが発光体なのだ。自然光線は外方から窓に突き当たると完全に変質する。&u(){窓から内部にはいる光は、いわば超自然光線であり聖なる光なのである。}実際に中世のステンドグラスを見るものはだれでも、この事実を直観的に理解する。
-中世の神学者たちは、これにさまざまの説明を与えた。たとえばシャルトルの神学者ピエール・ド・ロクッシーはいう。「教会にあるガラス窓、太陽の光線を伝えるあのガラス窓は、聖なる書を意味する。それはわれわれの心の中を聖なる光で満たし、悪を払いのけてくれるものだ。」ガラス窓に表現される聖像はそのまま聖なる光に包まれ、聖書の場面は神の言葉として現実の輝きを放つものであった。
-すぐれた作品を前にするとき、ステンドグラスの窓をとおしてさしこむ光は、太陽の光ではなく&u(){神の光}だといった中世の神学者たちの言葉が瞬時に理解される。(P.103)
2011-11-24T21:52:47+09:00
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『近代世界システム:1600~1750』
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I.ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム 1600~1750』名古屋大学出版会、1993年
-一七世紀という時代は、人間存在の全面にわたってひとつの危機が訪れた時代であった。人びとは、経済、社会、政治、宗教、科学、芸術などその活動のあらゆる側面で、この影響をうけたし、その実在のあらゆる側面――すなわち、生命や感情や意志の深奥――において、この影響を被ったのだ。この危機は一貫してあったということもできるが、そこには、激しい上下変動が含まれていたことも事実である。(P.2)
--1967年、ローラン・ムーニエの著書より。
-なによりもまず工業発展がみられたのは、伝統的な主導部門である繊維産業においてであった。北部ネーデルラントは、ネーデルラント独立革命のあおりで北部に亡命してくる人の流れによって、一五六〇年代から利益を得はじめた。……(ともあれ、オランダでは)一〇〇年以上にわたって工業生産は上昇を続け、一六六〇年代にピークに達した。(一五四八年を一〇〇として指数をとってみると、一六六四年のそれは五四五、一七九五年のそれは一〇八となる)。(P.48)
-よく知られているとおり、南部ネーデルラントから北部ネーデルラントへの大きな人口移動、とくに職人とブルジョワのそれがあった。一六世紀末には、とくにアントウェルペンからアムステルダムやレイデンへのそれが激しかった。また、一六二二年には、ネーデルラント連邦の人口の六〇パーセントは、都市住民であった。しかも、この都市民のうち四分の三までは、人口一万以上の都市に住んでいた。アムステルダムの人口は、一六〇〇年にわずか五万であったが、一六五〇年には二〇万に達し、フランドル(フランデルン)人、ワローン人、ドイツ人、ポルトガル人、ドイツ系ユダヤ人およびフランス系ユグノーを溶かし合わせて、「真のオランダ人」にする「るつぼ」として機能していたのである。(P.51)
-オランダは「哲学者にとっての天国であった」。デカルト、スピノザ、ロックという一七世紀の三つの巨星を含めて、そういうことができる。……もちろん、弾圧を逃れてこの地に亡命した知識人は、コメニウス、ジュリュウ、ベールなど、ほかにも大勢おり、彼らはこぞって、アムステルダムやロッテルダムの存在を神に感謝したものである。オランダは間違いもな
2011-11-24T21:48:50+09:00
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『近代ヨーロッパの誕生』
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玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社、2009年
-オランダの経済発展は、スペインからの独立戦争の過程で成しとげられたということに注意しておくべきだろう。オランダの経済発展が、戦争があったにもかかわらず(あるいはあったからこそ)生じたという点は非常に重要である。(P.51)
-分裂国家のオランダの船舶数は、ヨーロッパ全体の半分から三分の二を占めていたとされる。ライデンでは毛織物産業が発達した。&u(){穀物はバルト海地方から輸入されることが多かったものの、安定した輸入ができたので、他国と違い、ほとんど飢饉はなかった。}国内では、より利益率の高い園芸作物に特化した。オランダでは、さまざまな先進的金融制度が導入されたといわれる。さらに、オランダのニシン漁の利益率はすこぶる高かった。一七世紀の生活水準は、ヨーロッパでもっとも高かったと思われる。また、レンブラントの絵画に代表されるように、オランダでは芸術作品も市場での取引のために製作された。すなわち、市場経済が他のどの国よりも発展していたのである。ようするに、かなり多くの分野で、一七世紀のオランダは経済的先進地帯であった。(P.52、L.2)
-オランダ共和国はカルヴァン派の国家であり、同派の改革派教会はカトリックに敵対的であったが、それでもこの国は、宗教的には他国よりもはるかに寛容であった。一五七九年のユトレヒト同盟結成時に、&u(){「何人も宗教的理由で迫害されることも、審問されることもない」}と決められていたからである。アムステルダムは、北方ヨーロッパにおけるユダヤ人ネットワークの中核都市となった。(P.84、L.12)
-アムステルダムが宗教的寛容を推進した理由を経済史の面から解釈するなら、一六世紀中ごろに急速に発展したため、拡大する需要に追いつくためには、宗派にこだわっていては取引ができなかったという点を指摘しておく必要があろう。(P.86、L.3)
2011-11-24T21:45:38+09:00
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『バロックの光と闇』
https://w.atwiki.jp/mogamirvr/pages/19.html
高階秀爾『バロックの光と闇』小学館、2001年
-十七世紀は、科学的合理主義の世紀であり、実験や自然観察に基づく自然科学が大きな発展を見せた時代である。バロック芸術に見られる自然の研究、真実追求の精神は、時代の共通の精神的風土を形成していた。事実カラヴァッジオやベラスケスは、ガリレオ、ケプラー、ハーヴェイ、デカルトなどと同時代人であり、天文学、光学、医学、解剖学の新しい成果は、芸術表現の世界にもただちに取り入れられた。レンブラントが「トゥルプ博士の解剖学講義」を描き、フェルメールが「天文学者」の姿を描き出したのは、まさしくそのような時代の雰囲気を反映したものと言ってよいであろう。(P.100)
-この点において特に興味深いのは、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあるアダム・エルスハイマーの「エジプト逃避途上の月明かり」であろう。……この主題は、イエスの生涯の重要なエピソードのひとつとして、中世以来しばしば取り上げられて来たものだが、十六世紀以降は、その表現が、人物中心からむしろ背景の方に次第に視点が移るようになって来た。……エルスハイマーの場合も同様で、物語表現は画面のほんの一部を占めるに過ぎない。しかもきわめて珍しいことに、場面は夜の情景で、自然の風景と言っても、森の樹々は暗い闇に覆われている。画家の関心は、……何よりも大きく拡がる夜空にある。興味深いのは、その夜空の表現が、単に適当に星を散りばめただけではなく、まるえプラネタリウムのように正確に再現されていることである。……つまりこれは、正確な夜の天文図なのである。おそらくエルスハイマーは、ガリレオがそうしたように、望遠鏡で夜空を観察していたのであろう。
-光学研究の成果であるカメラ・オブスクーラ(暗箱カメラ)も、画家たちに大きな影響を与えた。ケプラーは、暗箱のなかに映し出された光景を写生しているが、それは、彼自身語っている通り、「画家としてではなく、数学者として」そうしたのだという。
2011-11-24T21:42:07+09:00
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『描写の芸術』
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スヴェトラーナ・アルパース(幸福輝訳)『描写の芸術』1995年、みすず書房
-すでに数世紀もまえから異なる形態で知られていたこの装置(引用注:カメラ・オブスキュラを指す)は、一六、一七世紀にはヨーロッパ中の好奇の対象となっていた。ほかの人々は、例えば天文学の立場から、あるいは演劇的関心からカメラ・オブスクーラに注目したのであるが、ハイヘンスの興味はもっぱら絵画的なものであった。そして、それはオランダの人々に共通するものであった。(P.48、L.3)
-ハイヘンスはドレッベルの装置によって映しだされた驚くべき美しさをもつイメージを讃える手紙をロンドンからオランダの両親へ送っているが、この手紙は、オランダ人によるカメラ・オブスクーラの利用に関する近代的研究のうちでもっとも重要な文献のひとつとしてみなされている。(以下引用)私は自宅にドレッベルのほかの装置ももっている。それは暗い部屋にすばらしい絵を確実に映しだす道具で、その美しさを言葉で言い表わすことはとてもできない。これと比べるなら、絵画など死んだも同然である。というのも、ここにあるのは現実そのものであり、言葉が欠けていることを別にすれば現実よりもっと高貴なものである。形象と輪郭と動勢はまったく自然に、しかも心地よくひとつに溶け合っている。(引用終わり)このようにして生まれるイメージは、画家に対する直接の挑戦であり、また彼の芸術の手本となるものでもある。ハイヘンスはほかの箇所でイメージをたやすく生みだす手段としてカメラ・オブスクーラの有用性に触れているが、ここでハイヘンスを魅了しているのはその絵画的性格である。
--カメラ・オブスキュラを絵画的に用いたのはオランダ人だけ?→現実に即した絵を描くから?
--Huygens,"De briefwisseling"1:94
-オランダ人が&u(){自分たちの絵画によく似たものをつくりだすもの}としてカメラ・オブスクーラに強く興味を抱いていたことはよく知られた事実であり、そのことはわれわれにさまざまなことを教示する。(P.49、L.9)
-一六世紀から一七世紀初めにかけて、芸術が絵画的記録、絵画的描写として機能していたことを伝える多くの証拠がある。……。植物図、地図、地勢図、服飾図案、こうしたすべての仕事は、当時いわば挿絵画家としての
2011-11-24T21:40:13+09:00
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