269 :ワニの人:2013/02/12(火) 01:48:23
では投下。なお、以前投稿したものとは無関係です。
※この作品は完全なる【ネタ】として投稿するものです。

日ノ本ロケット(兵器)事始


1930年代のある日のこと。日本列島がなぜか広大な亜大陸と化している世界に転生してきた夢幻会「会合」メンバーは、
今日も今日とて息抜きの雑談に花を咲かせていた。

話の流れが先日のコミケ(この世界でも開催されている)での戦利品の話になったとき、「そういえば…」と
構成員の一人がごそごそと取り出したものが問題だった。

「…なんだ、これ?」「織○信奈たんだろjk」「いや、そりゃ見たらわかる。問題はこのみょーなアクセだ」

その同人誌の表紙に描かれていたのは、某「織田○奈の野望」風の美少女…なのだが、頭によくわからないものが
くっついていた。カチューシャ(アクセサリーの方)に、幾つもの平行棒が前後に向けてついているような代物である。

「いや、それがさ…」

持ってきたメンバー曰く、友人(非転生者)とこれを作っているとき、友人が面白そうな顔でこれを入れろと言ってきた
のだそうだ。「これはいったいなんなのか」と友人に尋ねると、逆に「知らんのか?」と変な顔をされ、周り(非転生者)
に聞いても、「“カチューシャ”と“カチューシャ”を掛けてるんだろ」というだけで、何のことやらさっぱりわからない。
誰に聞いてもさっぱりらちがあかないので、「カチューシャ」で辞典を当たったもののやっぱり出てこない。
しょうがないからダメモトで織田信長関連に当たってみたところ、「とんでもないもの」(当人談)を発見してしまい、
どうすべきかわからないのでとりあえず会合に持ってきたというのだ。

「…それが、その資料?」

そのメンバーがもうひとつ取り出した、今度はもう少しマジメそうな書類(※自作)を回し読みするうち、他の面々(の一部)は
なんだかとても疲れた顔になっていった。


  *   *


「『火中車(かちゅうしゃ)』に関する覚書」

「火中車」とは、戦国時代の武将・織田信長が用いたロケット兵器の一種の名称である。発明者は彼の食客だったという
獏羅智庵(ばくら・ちおん)なる人物(生没年未詳)(※1)だとされている。

端的に言えば、「黒色火薬を推進剤および炸薬としたロケット弾(火箭)多数を、竹を半割にしたレールを平行に並べた
発射台上に一発ずつ設置し、一斉に点火して発射するもの」といったところだろうか。発射台後部には竹を編んだ衝立状の
防護板が取り付けられており、射手を発射炎から守る構造になっていたという。発射台自体は大八車じみた荷車の上に
据え付けられ(※2)、上下の角度を変更することもできたとされる。ロケット弾本体は紙を張り合わせて作られており、
弾道安定のため後部にこれも紙製の矢羽をもっていた。射程はおよそ3km。弾頭としては火薬玉(推進剤が燃え尽きると
火縄に点火するようになっている)などが用いられた。安価簡便であるが、無誘導のロケット兵器であるため命中性には
難があった。ただ、多数を一斉運用することである程度は解決したともいう。
この兵器の呼称に関しては「敵を火の海に叩き込む」からとされるが、一方で異字も多く、「華紐車」「苛誅車」とも表記
される。一説には、考案者たる獏羅自身どのように表記するかたいして決めていなかったとも言われるほどである。

この兵器がはじめて戦場に登場するのは天正三年、世に言う「長篠の戦い」においてである。この戦いはまた、それまでの
常識からすれば桁違いの“火力”が戦場で用いられた戦いでもあった。
この時の武田軍は、彼らが誇る騎馬部隊(※3)1万騎および象兵部隊1500騎を含め総数およそ6万。対する織田・徳川連合は、
15万の兵に1万5000丁(異説あり)の鉄砲と2200両の「火中車」を配して迎え撃ったとされる。
絶対の自信を持って突撃した武田軍はしかし、織田・徳川連合がこの日までに入念に構築した馬防柵、逆茂木、土塁、空堀
といった障害物群の前に前進を阻まれ、そこへ「火中車」から一斉に発射されたロケット弾が轟音とともに襲い掛かった。
この一撃で馬、象ともに恐慌状態に陥って人の制止を受け付けなくなり、混乱状態に陥った武田軍はそこを織田軍の鉄砲で
散々に撃ちすくめられた。とどめとばかりに装填を済ませた「火中車」が再び攻撃を加えるに及んで、武田軍は完全に壊乱。
5万ともいわれる戦死者を残し、這々の体で戦場を離脱していった。
余談であるが、このとき織田軍の陣中にあったある西洋の宣教師は、この兵器をその外観と発射時の轟音から「魔王のオルガン
(※4)」と呼んで、その圧倒的な威力に戦慄している。

270 :ワニの人:2013/02/12(火) 01:49:02

次にこの兵器が史書に記されるのは一年後の天正四年、石山本願寺攻囲戦でのことである。
この戦いではまず、将軍足利義昭に与して第三次挙兵を行った石山本願寺が、織田軍の完全包囲下に陥って毛利家に救援を
要請し、これに応えて七月、毛利水軍3000隻が大阪湾に来援した。織田家配下の九鬼水軍2000隻は木津川河口でこれを迎え撃ち、
ここに後世「第一次木津川口海戦」と通称される戦闘が勃発する。火矢や、「焙烙玉」と呼ばれる擲弾の一種を用いる毛利水軍
に九鬼水軍は苦戦するが、無理を承知で陸上の織田軍が援護のために発射した「火中車」が風の影響か半ば偶然に敵艦に命中
し、轟音を上げて飛翔する巨大な火矢に驚愕した毛利水軍が慌てて撤退したため引き分けている。
その一年後のあくる六月、窮乏する石山本願寺に今度こそ物資を搬入すべく毛利水軍は、今度は4000隻の大艦隊で再び現れる。
しかし守る九鬼水軍2500隻との間に起こった「第二次木津川口海戦」において、今度は毛利水軍が苦戦させられることと
なった。このとき九鬼水軍は、獏羅の発案で建造された「鉄甲船」と呼ばれる原始的な装甲艦(といっても、装甲は耐火用に
鉄の薄板を貼った程度)30隻に大砲、「火中車」を搭載(※5)して海戦に臨んでいたのだ。結果、毛利水軍は全軍の半数を
喪失して帰還した。当然ながら石山本願寺に援助物資が入ることもなく、その後まもなく法主・顕如は信長に降伏を申し入れて
いる。

この兵器はその後彼の配下や同盟者にも受け継がれ、朝鮮征伐でも攻城戦、野戦、海戦を問わず(※6)使用されて朝鮮・明軍
をその轟音と大火力で恐れおののかせている。関ヶ原の戦いでは、西軍でもっとも大規模な「火中車」部隊(6000両)を有して
松雄山に陣取っていた小早川軍が、西軍めがけての「火中車」の一斉発射とともに裏切ったことが戦闘の転機となった。
大阪冬の陣では、弾頭にナフサを用いたと推測される火炎弾を搭載した凶悪な代物が大阪城中に叩き込まれ、続く夏の陣でも
同じものが今度は露出した部隊に撃ち込まれて着弾点を阿鼻叫喚の地獄絵図に変えたと記録される。

その後幕末には薩英戦争、戊辰戦争などで使用されたという風説があるが、未詳である…


※1 彼はまた、火縄銃の銃床を肩当式に改良する、「茂呂徒負(もろとふ)徳利」なる火炎瓶の一種を発明するなど、戦国時代
の兵器発展に大きく寄与した人物である。なお謎の多い人物であり、よく「赤」がどうのとわけのわからないことを滔々と語って
は一人で頷いていたという。
※2 残された文献からは馬車に搭載する計画もあったことが読み取れるが、馬が轟音と閃光に怯えて暴れるので断念したらしい。
※3 日本大陸に生息する馬は重騎兵部隊を編成するのに十分な馬格を持ち、甲斐武田軍は精強な山岳騎兵で有名だった。
※4 「魔王」の語は、織田信長が第六天魔王と呼ばれるほどの苛烈な人物であったことから使われたとされるが、異説には
「生みの親たる獏羅が直接それに類することを語ったのが元」とするものもある。
※5 ただし元から命中率最悪の「火中車」であるから、揺れる船上から発射して果たして効果があったかは疑問である。
※6 前述の理由より、海戦での効果には疑問符をつけざるを得ない。ただし、陸戦で多大な戦果があったのは確実なようで、
明の武将が公式な記録に書き残している。


  *   *


「…絶対、この獏羅智庵ってアレだよな」「せやな」「なるほど、“カチューシャ”と“火中車”か…でも語源が同じって
駄洒落になるのか?」「オブイェークト!オブイェークト!」「共産趣味者は黙ってろ。てかこいつもうちょっと自重すべき」

楽しそう?に大騒ぎする面々を尻目に、無神経な先達の足跡を前にして嶋田たちは頭を抱えていた。

「…どうします、辻さん?これ、今はいいけど大戦後にソ連兵器の情報が広まったりしたら一発で疑われるんじゃあ…」
「…その手のものは隠蔽、したはずだったんですがね…どうやら見落としがあったようです」「…なあおい、今からこれ隠蔽して
間に合うと思うか?」「えーと、メン・イン・○ラックのピカッとするやつがあれば…」「こら、逃避すんな」

議論が途切れ、はぁ~と心底くたびれた風なため息が各員の口から漏れる。

彼らは今、心底憂鬱だった。


(終わり)

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最終更新:2013年03月05日 19:05