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「大陸版神戸事件或いはある少佐の戦死」

1868年2月4日
「どうしてこうなった」
アルフレッド・セイヤー・マハン少佐は思わずそう呟かずにはいられなかった。
彼がここに何故いるのか、といえば米国艦イロコイの副長として[艦長をサポートをするだけの簡単なお仕事]するためだったのだが、数日前に起こったサムライたちとの小競り合いの結果、そうも言ってられ無くなった。最初は列強艦隊による砲艦外交で、形が付くと思われたが、ビゼンの兵は我々に対して、発砲を加えたのだ。「馬鹿な奴等め」その時は本気でそう思っていた。だが、その傲慢を彼は、今本気で後悔している。
何故なら、彼の目の前に広がるのは、紛れもない殺戮の光景だったからだ。剣の様に鋭い牙をした虎が、海兵隊員を引き裂いたと思えば、1藩王国の数というには余りにも多すぎる火砲が火を吹き、我々の誇った艦船群を粉砕していった。「そうだ、これは夢だ、そうに違いない」そう思い、立ち上がった瞬間彼の思考は止まり永久に動き出すことは、なかった。
この事件に大層驚いた明治政府は、賠償金の支払いと詳細な報告書の作成、内容の通知を列強各国に対して行なうが、1藩王国の暴走で艦隊を壊滅為せられた列強各国は、改めて日本に対する恐怖心とミカドに対する畏敬の念を強めて行くこととなる。なお、数ヶ月後に行なわれた捕虜交換時にはアルフレッド・セイヤー・マハン少佐の姿はなかった。と言う事を付け加えておく
それから、三十年ほど後に日本海軍大佐平山藤次郎の名で、「海上権力史論」と言う画期的な著書が発表され、独自主義を貫くアメリカ海軍を除くあらゆる海軍のバイブルとなった、と言う史実も併記しておく。

余談だが、平山大佐の「海上権力史論」の発表を受けて最も混乱したのは、日本の某秘密結社だったという。

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平山大佐は、史実では公海上で英国船の臨検を行ったため、
英国大使館からの抗議により予備役に編入された人物です。
 

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最終更新:2014年01月15日 22:57