176 :ひゅうが@恢復中:2014/07/04(金) 02:11:02

戦後夢幻会ネタ――その0.9「戦後のはじまり 1945占守島」


――1945年5月11日、日本帝国は同年5月1日に発せられた「ワシントン宣言」において要求された「日本軍の無条件降伏」とそれを実効的にするための「連合軍による日本への進駐」の諸条件を受諾した上での降伏を発表。
「耐え難きを耐え」で知られる玉音放送が流れると、日本陸海軍は全軍に対し即時戦闘停止を命じた。
これを受けて幾度かのやりとりと混乱の末、6月1日、東京沖へ来訪したアメリカ太平洋艦隊旗艦 戦艦「ミズーリ」艦上において日本陸海軍のトップであった海軍総司令長官 古賀峯一大将と陸軍参謀総長 梅津美次郎大将、そして重光葵外務大臣が降伏文書に署名を行うに至って大日本帝国は連合軍に対して「条件付き降伏」。
全土は連合軍による占領下に置かれることとなった。
これに伴い、待機していたアメリカ軍は湘南を皮切りとして日本本土への進駐を開始。
本土全土では速やかに占領が完了していった。

対照的なのはいわゆる「外地」に展開する部隊だった。
関東軍は、本土からの厳命に従って臨時に「中華民国満州自治区域軍」と名乗った満州国軍と、1個連隊程度が緊急輸送(日本側が大陸打通作戦によって占領していた縦貫鉄道を通じて)された重慶政府軍に対して武装解除を行ったものの、そこへしゃしゃり出てきたものがいたのである。
6月9日、武装解除中の関東軍部隊による越境攻撃を理由にしてソ連軍は「連合国の一員としての日本への進駐」を宣言し満州へとなだれ込んだのである。
ヤルタ協定による分割を主張するソ連軍に対しアメリカ側の対応も後手に回り、結局ヤルタ協定に基づき暫定的に北緯38度以北をソ連軍の進駐領域として認めるもこれを日本本土における進駐と解釈したソ連側と「外地」におけるそれと解釈したアメリカ側という齟齬から樺太進駐部隊や朝鮮半島進駐部隊との間で混乱が発生。
日本国民の保護命令が連合軍間の対立から出せなかったこともあって大小の悲劇が生じるに至った。
これを脅威としたアメリカ統合参謀半部は、北海道および樺太・千島における兵力の大幅増強を決定。
日本国民の保護と脱出支援に限定するという条件をつけて未だに接収措置を取られていなかった日本海軍部隊に対し「連合軍最高司令官命令」での北方ならびに満州北朝鮮からの国民輸送を命じたのである。

千島列島北端には北海道に展開したばかりのアメリカ陸軍第58師団より兵力5000を千島列島へ展開。
うち2500名は北端の占守島に配置され、北海道に展開した第77師団本隊や第11空挺師団とともにソ連軍へ睨みをきかせた。
この間、樺太にはあらかじめ展開された第1海兵師団バーカー支隊が展開しておりソ連軍が日本人にどのような行動をとっていたかについて克明な記録を残している。
一部部隊が真岡市においてソ連軍との間に住民保護をめぐって戦闘行為を行っていることは有名な話である。

この間、舞鶴から米軍巡洋艦の監視付きで大泊に入った空母「信濃」「隼鷹」に加え客船「浅間丸」を中心とした緊急輸送船団は既存の連絡船とあわせて在留邦人の緊急輸送を開始。
ソ連軍の「捕虜」となった2万余名を除けばほぼすべての住民を北海道へと移送することに成功する。
なお、この過程で緑十字マークと赤十字旗を掲げて航行する船団に対し行われた潜水艦による魚雷攻撃は9回を数え、いずれも「信濃」搭載機によって撃沈あるいは撃退されている。
こうした状況を経て7月23日には米ソ首脳が占領下ドイツのポツダムにおいて会談。
満州および北朝鮮への進駐は認められたものの樺太と千島、そして日本列島北部への進駐を要求するソ連側と米国側の溝はついに埋まらず唯一樺太への「共同進駐」のみが追認されたのみだった。
が、事態はそれだけではおさまらなかった。
横須賀や呉、大湊へと展開した米海軍部隊といえども、長駆しての遠征は継続されるものではない。
日本の降伏時には空母20 戦艦3を数えた極東の米艦隊は、横須賀のドックに入って簡易整備を受けているものを除けば7月末には空母6、戦艦1にまで減少しており、大半が朝鮮半島方面での警戒活動にあたっていたのである。

177 :ひゅうが@恢復中:2014/07/04(金) 02:11:52

8月1日、ソ連は「南樺太をはじめとした日露戦争で失われた領土」の奪還と領土編入を一方的に宣言。
同時に、ソ連太平洋艦隊は北千島方面へと移動を開始したのである。
8月3日には占守島沖合へと達した巡洋艦2、駆逐艦3を有するソ連艦隊は米軍の守備隊に対して退去を要求するに至る。
カムチャッカ半島に集結していた1個師団と北樺太へ展開する陸上部隊3個師団を背景にした恫喝であった。

これに対して米海軍は当時米本土への帰途へあった重巡インディアナポリスを中核とした1個任務群を現地に派遣し、睨みあいが発生した。
さらには、稚内・大泊間で残る邦人輸送の任についていた「信濃」に対し現地へと急行するように命令が下る。
横須賀軍港や呉軍港で接収を待っていた海軍艦艇と違い、当時の「信濃」は舞鶴から彼女につき従っていたアーレイ・バーク少将の個人的な好意(国籍不明艦の魚雷攻撃から信濃は体を張って米艦を守っていた)によって行動の自由を得ていた信濃は、この地域に米軍の空母が存在しない間隙を縫って行われたソ連軍の行動を掣肘する役割を期待されて現地へと急行することになったのだった。

そして、8月6日午前5時30分、占守島沖合8カイリにおいて重巡インディアナポリスは国籍不明の潜水艦による魚雷攻撃を受ける。
このとき4発の魚雷が命中したものの、宗谷海峡同様に「不明艦」の魚雷の信管は不良でありうち2発は不発となった。
だが2発の左舷命中はインディアナポリスの回復力を超えるのに十分であり30分を待たずに同艦は沈没の時を迎える。
これをみたソ連太平洋艦隊と後方の上陸舟艇部隊が動き始め、占守島へと上陸が開始されようとしたまさにその時だった。

空母「信濃」艦載機が現場海域上空に姿を現したのは。

8月6日午前6時、軽巡「デイトン」を旗艦とする「ニュー・リトルビーバーズ」こと第23駆逐部隊(アーレイ・バーク大佐指揮)をお供につれた空母「信濃」が現地に展開。
飛行甲板から航空機20機あまりを発艦させ、しかもその中に米軍マークのついた機体が多数存在していたことからソ連太平洋艦隊は戦闘行為を避けるしぐさをみせる。
その間に、今度は日の丸がついたままであった対潜哨戒機部隊は「国籍不明潜水艦」2隻を撃沈。
そのままインディアナポリス乗員の救助を開始する。
その頃には、千島南部から飛来した米海軍の単発航空隊があろうことか「信濃」に着艦するという出来事がソ連艦隊の眼前で生じており、海域には異様な空気が漂っていたという。
結局、大湊軍港から出港した重巡「コロンバス」と「セントポール」が多数の駆逐艦と上陸用船団を伴って出現する8月10日にはソ連太平洋艦隊は撤退を開始した。


――こうして、空母「信濃」は初の日米共同作戦をこなした軍艦となった。
さらに彼女にはこの様子を見ていた人々の要望による特別な任務が待っていた。
占守島に展開していた陸軍部隊2500名は、彼女に乗り組み第23駆逐部隊の護衛のもとで横須賀へと向かったのである。
誇らしげに軍艦旗と合衆国旗を掲げた「信濃」は、救助された兵員と「監視」要員と日本側の人々がそろって登舷礼をとる中で戦艦「ミズーリ」に迎えられた。
このとき、日本海軍の「戦後」ははじまったのである・・・

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最終更新:2014年07月09日 21:29