383 :ひゅうが@風邪薬補充完了:2014/07/11(金) 21:10:57


戦後夢幻会ネタSS――その0.95 「チリ(あるいはホリ)咆哮す」



――西暦1950年11月…
極東に展開していた国連軍は震撼した。
朝鮮戦争の第二段階、極東ソ連軍が名前を変えた「ソ連人民義勇軍」総勢20万余の本格参戦が発生したのである。
独ソ戦で鍛え抜かれたソ連軍の錬度と、JS-2やJS-3などといった強力極まりない戦車たち、それに傑作といわれたT34戦車の大軍は冬という季節を味方に付けたかのように怒涛の進撃を開始。
無理な進軍で兵站線がのびきっていた韓国軍と、つき合わされた国連軍の連結部を押し破ったのである。
まさに、スターリングラード包囲戦や東部戦線が極東で再現されたといってもいい。

「それみろ。コミーを甘く見たからこうなるのだ!」

一報を受けたジョージ・パットン元帥はそう叫んだといわれる。
もともとは北京やモスクワへ行く気満々のパットンであったが、さすがに手持ちの戦力のみでソ連を打倒せるなどとは思っていない。
その程度であったのならもっと早く、それこそチュニジアかシチリアの土となっていたはずなのだから。
だからこそパットンは手持ちのすべてを投入して仁川上陸作戦を成功させ、北進した韓国軍には本格的に付き合わなかった。
なぜなら――


「すまないが、行ってきてくれ。国連軍には諸君の助けが必要なのだ。」






1950年12月…
全面壊走した韓国軍が立てこもる、開城市。
戦争勃発時にまっさきに陥落した38度線のすぐそばの都市は、再び陥落しようとしていた。
38度線上で待機を続けていた国連軍――その主力であったアメリカ陸軍第8軍は、ポポフ元帥率いるソ連人民義勇軍との間に死闘を展開している。
太平洋戦争における戦訓から無理を押してまで量産されたM45(105ミリ榴弾砲搭載型)やM26パーシング戦車がいなければここまで効果的な対応はできなかっただろう。
だが、数は偉大なり。
この一点において国連軍は明らかに朝ソ連合軍に劣っていた。
再びの首都陥落を防ぐために必死の防衛戦を展開する中部戦線に対し、脆弱な開城市は明らかに不利となっていたのである。

384 :ひゅうが@風邪薬補充完了:2014/07/11(金) 21:11:29

だからこそ、この地を攻めた者たちは確信していた。

「楽な任務だ。だがここを突破できれば俺たちが首都一番乗りを果たせるかもしれないぞ。」と。


その慢心は、粉々に打ち砕かれることになる。

「全車、弾種徹甲! 対戦車戦闘用意!」

その号令が無線で響き渡ったとき、ソ連軍は恐怖に戦くことになった。
多数の発砲炎。
そして、「上から」降り注ぐ砲弾は、T34-85やしまいにはJS-2の砲塔天蓋を次々に打ち抜いていく。
何が起きたのかわからない戦車部隊指揮官は、市街地の陰からぬっと姿を現したその「戦車」に記された国籍表示を見て絶叫する。


「なぜ97式戦車がこんなところにいるんだ!!」

彼らこそ、開城市に立てこもる韓国陸軍守備隊(第1師団残余によって編成 指揮官は白善燁少将)とともにこの地に展開した「日本国警察予備隊 第1管区隊」。
その主力となったのは、5式改戦車。
97式戦車の後継として日本本土で終戦を迎えたはずの幻の巨獣たちだった。

大戦末期、日本陸軍は諸外国が開発した強力な重戦車群へと恐怖を深めていた。
予想される日本本土における戦いにおいて投入されると思われたM26パーシング重戦車などはその筆頭であった。
彼らの持つ97式戦車やその発展型では限定的な対応しかとれず、下手をすれば一方的に撃破される。
なんといっても、97式戦車ファミリーは「前面以外の装甲と回転砲塔をあきらめる」ことによって米軍相手に有利な戦いを繰り広げることができていたのだから。
その敵の性能が彼らを上回れば、窮地に陥るのはもはや当然である。
陸軍機甲本部はこれに対して本格的な対抗を検討し、結局あきらめた。
工業力の不足や本土における交通インフラの限界から、ドイツのように60トンやら70トンの戦車を作っていてははじまらないという世知辛い理由だった。

「わが軍の戦車は、ついに回転砲塔を積めないのか…」

日本戦車の父 原乙未生中将が嘆息したように、それは回転砲塔を搭載していなかった。
ある意味97式戦車の発展型ともいえる。
だが、回転砲塔をあきらめたことによってその性能は非常に高い。
主砲としては五式十二糎七戦車砲(長)を採用。これは、開発期間短縮のために三式1十二糎七高射砲用の装填機構と、海軍が開発中だった五式十二糎七高角砲の砲身を流用したものである。
極めて仲の悪いといわれた海軍に頭を下げてまでこの砲が採用されたのは、97式ファミリーの最終型に搭載された十糎戦車砲が米軍の新戦車(M26の改良型である105ミリ砲搭載型 M45のこと)に対しては威力不足であると考えられたためだった。
彼らがもっていた三式十二糎七高射砲では重量過大であったのだ。
軍中央は反発を示したが、中国大陸やビルマにおいて強力な戦車砲に救われていた現場の声と97式で名声を馳せていた原中将ら機甲本部の声、そして末期症状を呈しつつある太平洋戦線という現実はこれを黙殺。
結果、試作車両はフィリピンにおいて死闘が展開されつつある1944年11月に完成し良好な性能を示した。
苦虫をかみつぶしたような軍中央は直ちに量産を指示。
重量55トンという日本史上最大の「重戦車」は、6月までに154両が製造されることになった。
そしてそれらは、ほぼすべてが武装解除された兵器群の墓場といわれるGHQの赤羽倉庫群へと放置されていたのだった。

その後、大陸の国民党軍向けの賠償装備として選定されるも引き渡されなかった多くの装備とともに1948年の再軍備にあたって本車は返還される。
収蔵されていた接収武器群のうち解体を免れた本車90両あまりがその対象となった。
そして、朝鮮戦争の勃発にあたって派遣された部隊には、エンジンを米国製のそれに換装した最新型50両が含まれている。
日本戦車伝統ともいえる「高い仰角」と、遠距離から敵戦車の「天蓋」を撃ちぬくことを目指して設置されたステレオ測距儀はソ連戦車の砲塔天蓋を見事に叩き割ることができた。

そして…

「戦車、前へ!!」

派遣部隊の「チリ」車35両は、西住小次郎 一等警察正に率いられノモンハンの再現作業を開始した。

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最終更新:2014年07月12日 00:41