594 :ひゅうが:2014/09/11(木) 16:01:35


戦後夢幻会ネタSS――その0.93「天佑未だ我らの手にあり―第二次日本海海戦概略―」




【朝鮮戦争中盤】

8月9日の釜山陥落によっていったんは終結したはずのこの戦争は、2つの理由によって継続を余儀なくされた。
ひとつは、釜山橋頭保から脱出した「南側」の政府が、当時領有権を主張していた国境の島「対馬」へと「遷都」を実施し強引に居座っていたこと。
そしてもうひとつは、頑迷なまでの李承晩大統領の徹底抗戦宣言に疲れ果てていた大統領護衛師団(国民防衛軍により編成)が「北側」の工作によって丸ごと離反。北側へと帰順してしまったことである。
言うまでもなく、当時の日本国は連合国軍による保障占領下にあり、交戦権についてもGHQに所管されていた。
そのため、いくら警察予備隊と海上警備隊という事実上の国防軍が存在していたとはいってもGHQの許可なしには奪還はおろか反撃すらできないことになっていたのである。
「北側」はこの「義挙」を追認し、一足早くソ連軍によって貸与されていた「義勇艦隊」、事実上のソ連太平洋艦隊をもって対馬へ侵攻。
これを電撃的に制圧してしまった。
さらには、独断で反撃を行う警察予備隊部隊を捨石として命からがら脱出した李承晩大統領が「古来から韓国の正当な領土であった九州島」からさらに反撃宣言を行うにおよび、日本国政府に対して「正当なる領土の返還と李承晩賊徒の追放」を要求。
公式に日本列島を固有の領土として主張するに至っていた。

これを当然ながら日本政府は拒否。
しかし連合国はソ連による圧力もあって後手後手の対応に終始。
さらには欧米特有のアジアへの無理解と、GHQを統べるジョージ・パットン元帥の「甘い」対日政策に不満を覚えていた仏ソなどの抵抗もあって、国連安保理ではいったんは日本領の割譲という形で事態が収拾される一歩手前にまで至っていた。
しかし少しばかりの知恵のあった英米両国による拒否権行使によってこの案は葬られた。
その直後から九州北部においては潜伏工作員や半島からの難民を組織化した北側の「征日軍」によるテロが続発。
有名なところでは北九州市街戦・筑豊炭鉱連続暴動・八幡製鉄所爆破・小倉駅炎上などが挙げられるこれらの事態は瞬く間に全国に波及。
東京や大阪などでも少なくない勢力を持っていた反戦左翼勢力による武力闘争――という名の騒擾が発生していた。


  【吉田挙国一致内閣成立】

文字通りの「国難」ともいえる事態に対し、議会において勢力を保っていた中道左右両勢力は、国民的な人気を保っていた吉田茂首相の呼びかけに乗る形で挙国一致政権を樹立。
朝鮮半島を事実上統一した北側に停戦とテロ支援の解除を求めるに至った。
しかしながら、その裏ではパットン元帥と、のちに吉田機関と呼ばれることになる「日本国総合研究機関(通称総研)」や保安庁運用部・海上警備隊隊務部の手によって着々と反撃の準備を整えていたあたりは吉田のバランス感覚の賜物であろう。
日本側のこの呼びかけに対し、北側はこれを拒否。
ソ連からの義勇軍参戦をちらつかせ、日本政府の解散を声高に要求するなどの高圧的な対応に終始していた。
一方、北九州に張り付いていた南側の臨時政府もこれに乗る形で日本列島を民族反撃のための不沈空母とする声明を発表。
8月20日には、五島列島において義勇艦隊の一部による上陸と住民の殺戮、それに対する臨時政府軍の反撃とこれまた住民排除という事件が発生し、GHQによる介入が行われるなどの事件が発生し日本の朝野に大きな衝撃を与え、日本政府とGHQはもはや平和裏の手段による事態収拾を断念するに至った。

かくして、8月22日、衆議院において政府提案による「国家緊急権による防衛態勢整備」と「憲法改正」が発議。
即日、総議員の実に89%の賛成によって参議院に送られ、8月25日にはこれも可決。
来る9月7日の国民投票が決定され、同時に警察予備隊と海上警備隊に「防衛出動」「治安出動」の両命令が下達されるのである。
これを見計らったかのようにGHQと米軍も動きだし、新たに設置された国連緊急警察軍司令部(東京)のもとに実戦部隊を統合。
極東米海軍司令官レイモンド・スプルーアンス大将のもとで稼働戦力の大半が対馬海峡をめざし動き始めた。

595 :ひゅうが:2014/09/11(木) 16:02:17

【第二次日本海海戦】

そして9月7日。
国民投票の結果、7割以上の賛成によって憲法改正案は可決、これも即日成立。
同時に、国防軍への改組を待たずに海上警備隊および警察予備隊は対馬へと侵攻を開始するに至った。
朝鮮半島本土、群山方面への侵攻を警戒していた義勇艦隊の初動対応の失敗によって侵攻は成功。
旧帝国海軍の生き残りたる「ながと」「さかわ」、そして「しなの」を前面に押し出した海上警備隊の支援によって、要塞施設の少なかった対馬南島はわずか3日で陥落する。

9月11日、朝鮮半島への侵攻はないと判断した義勇艦隊は、出撃していた海上警備隊艦隊の撃破により、「日本艦隊と離れている国連軍艦隊への圧力と各個撃破」を図り鎮海湾を抜錨。
これに対する海上警備隊の第1・第2艦隊も対馬を離れ、海上における義勇艦隊の捕捉殲滅を図る。
そしてこのとき、佐世保を抜錨した国連軍艦隊はすでに対馬海峡を押し渡りつつあり、海上警備隊の対馬奪還作戦を事実上の囮とした仁川上陸作戦準備は最終段階に達していた。
これを確認した海上警備隊 警備艦隊司令長官 吉田英三 一等警備監は以下の電文を発信する。



――発 警備艦隊(GF)旗艦 警備艦「ながと」
  宛 国連緊急警察軍(朝鮮半島派遣軍)極東海軍司令部

本文 「天佑未だ我らの手にあり。全艦突撃せよ。」

1950(昭和25)年9月12日0550





9月11日午後10時12分、対馬海峡東水道に達した義勇軍艦隊は対馬へ緊急展開した警察予備隊航空隊および、海上警備隊第1艦隊の「しなの」「かつらぎ」「かさぎ」から発艦した航空隊による「夜間」波状攻撃を受ける。
レイテ沖海戦や沖縄沖海戦の戦訓から海上艦隊の防空能力を過大評価していた義勇艦隊だったが、朝鮮半島南部にろくな航空戦力を展開していなかった(というよりは存在してなかった)北側の事情と、北九州に展開した強力な極東米空軍と対馬からピストン出撃ができた日本側の事情という大きな格差から戦況は一方的となった。
義勇艦隊を構成していた新型の駆逐艦群や巡洋艦群は甲板上の対空火器群や小火器群に大きな被害を受け、その日の夜を迎える。
9月12日午前3時、航空機を避けつつ全力で対馬へと突進していた義勇艦隊は、対馬海峡上空から投下された照明弾により赤々と照らし出された。
沖縄沖海戦において活躍した阿賀野型軽巡洋艦の生き残り「さかわ」を筆頭にした10隻の艦隊型駆逐艦による夜襲である。
レーダーはもっていても、その扱いに慣れていなかったソ連軍に対し、海上警備隊は米軍供与のレーダーにより夜間レーダー射撃を可能としていた。
さらに、彼らの乗組員は沖縄沖海戦において宜野湾へ突入に成功した第2水雷戦隊の生き残りによって構成されている。
比べるだけ野暮というものだろう。
この突撃は夜間の通り魔的に行われたものの、日本側の被害がほとんどなかったのに対し、義勇艦隊は軽巡洋艦「サハリン」「ラーゾ」(註:チャパエフ級 極東コムソモリスク・ナ・アムーレにて建造)を失い、「ラーザリ・カガーノーヴィチ」が大破。貴重な戦艦「ノヴォロシースク」(旧伊戦艦カイオ・ジュリオ・チェザーレ)小破。
駆逐艦4隻が撃沈されるというさんざんな結果となっていた。

この段階に入り義勇艦隊は撤退の可否を問い合わせたものの、ソ連首脳部による厳命から突入は継続。
9月12日午前6時30分、暁の水平線上において義勇艦隊は、海上警備隊第2艦隊の誇る「ながと」の姿を見た。
砲撃の中で、「しなの」機動部隊(第1艦隊)の航空攻撃を受けるという常識をどこかに置き去りにしたような状況にあって、義勇艦隊の戦艦「ポルタワ」と「ガングート」は砲撃戦開始後わずか30分で次々に砲塔天蓋を叩き割られ戦闘力を喪失。
「ノヴォロシースク」は果敢に砲撃戦を挑み命中弾3発を得るもいずれも長門型の分厚い装甲に阻まれて威力を発揮できず。
重巡洋艦「タリン」(旧独重巡リュッツオウ)に至っては、格下のはずの「さかわ」に艦橋側面の魚雷発射管を直撃されて大炎上しのちに轟沈するというソ連海軍の技量の低下を象徴するかのような結末を迎えていた。
午前8時になると、海上に浮いている艦はほとんどが海上警備隊艦隊のものだけとなり、最後まで浮いていた駆逐艦「ヴィノスリヴイ」(オグネヴォイ級駆逐艦)の降伏によって海戦は終結する。

かくして、のちに第二次日本海海戦、あるいは第二次対馬沖海戦と称される海戦はまたしても日本海軍の完全勝利によって終結したのであった。

596 :ひゅうが:2014/09/11(木) 16:02:50

【仁川上陸作戦】

9月13日午前6時、朝鮮半島の中部、仁川沖において大艦隊が姿を現した。
大和型の18インチ主砲を受け継いだ戦艦「モンタナ」と「オハイオ」、そしてまだまだ戦果が足りぬとばかりに参加した「長門」が艦列をならべて行った艦砲射撃とともに、国連軍4万名と警察予備隊第1管区隊1万余名が仁川港に上陸を開始。
その上空は6隻の空母から発進した航空機200機あまりが常時張り付いてこれを守り、海上警備隊の対潜艦隊は押っ取り刀で群山沖から急行しつつあったソ連潜水艦隊を狩出していった。
同時に、釜山に集結していた北側の日本征伐軍には戦艦「イリノイ」「ケンタッキー」と英国艦「ハウ」が巨弾を見舞っており、レイテにおいて現出した地獄をここでもまた生産しつつあった。
すでに制海権を失っていた北側に抵抗する術はなく、朝鮮戦争はここに国連軍の総反撃フェーズへと移ることになるのである。




――日本海軍、未だ死せず。
日本の各新聞はもとより、世界各国の新聞はそんな見出しを載せた。
5年前に消滅したはずの日本海軍の生き残りたちは再び世界へその名乗りを上げたのである。

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最終更新:2014年09月26日 03:58