207 :ひゅうが:2014/09/16(火) 01:30:12

戦後夢幻会ネタSS――その0.92「船有問答異聞 ~1945年3月 東京~」




――「海軍にもう船はないのか。国民を、戦禍から守る術はないのか。」


すべては、この言葉からはじまった。


1945年2月、この言葉は滅びつつある帝国の統帥部に激震を広げた。
もっといえば、その出所が、というべきだろうが。
帝都の文字通り中心から漏れてきたというこの言葉は、陸軍による嘲笑交じりに語られていたという。

この当時、日本帝国海軍はレイテ沖海戦において合衆国が誇る二個軍団6万名余をあの世へ転属させ、その半分程度を中期的にこの大戦から脱落させていた。
ついでとばかりに主力艦となる戦艦や空母を10隻ほど、補助艦艇以下をその倍以上も水底へ送り込んでいたがこの時点ですでにその命運はつきつつあった。
何しろ、主力となるべき空母機動部隊は残存空母のうち戦闘に耐えるものが新旧合わせてわずか7隻とほぼ壊滅状態となり、それに引き替えレイテを生き延びた米機動部隊は第一線に投入できる新造航空母艦だけで20隻、航空機1500以上にも達すると見積もられていたのだ。
まさに比べる方がバカバカしい。
水上打撃戦部隊こそ一定以上の質量を維持しているがそれだけだった。
あと一回戦えば、すべてが消滅してしまう。
半ば以上の諦めに支配された海軍だったが、それでも彼らは役割を果たす覚悟を決めていた。
だが同時に、自らに振るわれる武力をして守るべき帝国本土とその民を焼かれることを彼らは恐れていた。
ある意味、無尽蔵の国力を持つ米国という怪物に直接正対していただけに現実に気付かされただけだともいえたのだが。


一方で、これに対する帝国陸軍は意気軒昂だった。
わかりやすくいってしまえば彼らはごく一部をのぞいて極めて能天気であったといっていい。
要するに、舞い上がっていたのだ。
中国大陸においては、北九州や沿岸部の鉄道網へと加えられる攻撃を阻止すべく実施された内陸部の飛行場占領作戦、それにかこつけた占領地拡大が大成功に終わり、米中の一体となった反撃作戦も、底上げされる形となった航空戦力と適切な運用がなされていた機甲戦力そして健気という一言では片付かない精強な日本歩兵によって文字通り粉砕されていた。
太平洋においては、ニューギニアやソロモンといった外郭地域からの素早い「転進」によって主力は温存され、フィリピンでは大損害を受けたものの沖縄や台湾、そして本土での決戦準備は万端である。
資源?海上輸送?
それは海軍の責任だ――
極めて無責任なことに、彼らはそんなことを考えていたのだった。
だからこそ、もはや最後の防衛線を引く覚悟を決めていた海軍に比べ、陸軍は今度こそ米軍を叩き潰してやるという陽性の気配で満ち満ちていたのである。

だからだろう。
沖縄か硫黄島における決戦を主張する陸軍、そしてそれと同時に士官レベルで動き始めていた降伏も視野に入れた和平工作を推進する海軍という対比が生まれたのは。
そして、その意識の違いは、陸軍参謀本部にどこからか蔓延した冒頭の言葉、そしてそれにより有無を言わさぬ勢いで進み始めた海軍の迎撃作戦は、海軍側が悲壮という言葉では足りない勢いで進行したのに対し、陸軍側の、特に作戦部においては海軍の尻を叩けとばかりに攻勢攻勢の掛け声で行われた。

より正確を期するなら、沖縄方面の防衛を統括する牛島中将を筆頭にした「実戦部隊」レベルでは海軍とほぼ同じくらいに悲壮感に満ちた持久戦を志向していたのに対して参謀本部は水際防御にあくまでも専心しようと口を酸っぱくしていたといってもいいかもしれない。
そしてこうした風潮に、陸軍の長老たちは無力だった。
無責任な連中ほど声が大きく、そして上の言葉を借りて好き放題できるというのは彼ら自身が行い、また看過していたためである。
それに、抗戦派の将帥ほど陸海軍において彼らを利用するだけ利用するというのは、もはや伝統行事といってもよいほどに使い古された日本軍の組織運用法だった。

208 :ひゅうが:2014/09/16(火) 01:31:11


「あいつらをなんとかせねばなるまい。」


のちに和平派といわれる人々がささやきあった、そんな時だった。
驚天動地、そういわれる行動をとった佐官がいた。
彼の名は、阿部俊雄。
当時の海軍大佐にして、対潜戦の専門家。そのわりには宮中にも官僚たちにも伝手を有しているために、正しいことをある程度正しく押し通せるだけの力をもった数少ない佐官の一人だった。

彼は、こともあろうにある陸軍大将のもとへ怒鳴り込んだのだ。
怒鳴り込んだ先にいた男は――東条英機陸軍大将。
首相を退いてなお、憲兵隊を実質的に手中に収めることで権力を維持していた「忠狂」である。
そして、阿部はこの東条をも激怒させた。
その理由は――


「おそれ多くも主上の言葉を捏造し、統帥権を壟断しようとするは何事か!
主上の言葉を借りて外野からはやし立てるとは何事か!!」


近衛師団へその日のうちに怒鳴り込んだ東条の台詞がすべてを表していた。
そう。阿倍は、冒頭の言葉が蔓延した発端を掴んでいたのだ。
事の起こりは、内地勤務になっていた東条幕下の少壮将校が酒の席で「主上もこのようにいっておられるはずだ」というありもしない妄想をまくしたて、海軍のふがいなさを口を極めて罵ったことによる。
それが、伝言ゲームのように独り歩きして蔓延していったのである。

たちが悪いことに、それにうすうす感づきながらもそれに乗っかった政治的軍人は数多かった。
阿倍は、そんなことを発端となった料理店のエキセントリックな店主の証言と重臣たちの証言という形で立証してのけたのだ。
さらに、その動きを東条の復権のために見逃し、あるいは煽ったものが彼の行儀の悪い腹心たちにいたことも。


ここで、東条の「忠狂」という異名が表に出る。
彼は文字通りの忠臣だったのだ。ただし愚直に過ぎ、それは狂気と裏腹で、かつ独善的なものであったが。
だが、そんな彼をしても今回のことは許せるものではなかったのだ。
本土決戦で自らが対米戦の表舞台に立ちたいがためにこれを煽る陸軍士官たち、そしてそれを煽る陸軍将帥。
まだ負けていないとばかりに徹底抗戦を訴える海軍将帥。
そんな連中が、敬愛する主上の言葉を利用する――しかもその発端はただの酒の席での放言。
そんなことに、東条の精神は耐えられなかったのだ。
即日強引に参内した東条は、今にも腹を切りそうな勢いで事の次第を報告すると何事かを聞き、そしてその足で憲兵隊へと向かった。


1945年3月31日。
その日、帝都東京はもとより日本各地で憲兵隊は動いた。
逮捕拘禁、あるいは拘束されたのは、近衛師団長をはじめとするかつての東条派士官たち、そしてこの期に及んで政治的策動を続けていた将帥や少壮士官たちだった。
この点、東条が心血を注いで育て上げていた憲兵たちは、少なくとも現場レベルではきわめて優秀であったといっていい。
だが、一度動き始めていた動きが止まることはない。
おぼろげながらに何かが起こっていることを察しても、それは夜と霧の帳の中に消えてしまっていたのである。


「我々は全力を挙げて沖縄の陸軍を支援してのけよう。たとえ、連合艦隊が全滅したとしても。」


古賀峯一大将のこの言葉に、東条大将は深々と頭を下げたという。



終戦時、それを阻止しようと策動するはずだった徹底抗戦派は、こうしてその首魁と思われた東条大将自らの手で「粛軍」されたのであった。
そしてそれは、もう一方の勢力、すなわち阿部大佐を筆頭にした和平派が政府の主導権を握ることを意味していた。

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最終更新:2014年09月26日 04:08