328 :ひゅうが:2014/09/17(水) 11:39:42

戦後夢幻会ネタ――ネタ設定の雑記「桜花一代記」



――空技廠 4式対艦誘導弾「桜花」

生まれる時代を10年ほど間違えたといわれるこの兵器は、沖縄沖海戦の前哨戦となる「九州沖空中雷撃戦」で鮮烈なデビュー戦を飾ったことで有名である。
また、少し軍事方面に知識がある人間は、これの発展型がのちの国防軍が誇る「山桜」対艦誘導弾システム(通称Yシステム)であることを知っていることだろう。
だが、その来歴がはっきり言うなら誤謬と誤算に満ち満ちたものであったことを知る者は少ない。




【開発経緯】


実は、この誘導弾システムは構想時は極めて不適切な、もっといえば外道ともいうべき考えによって「短期間に急造」されるはずだった。
そう。
軍令部内や海軍航空隊の一部将校によって構想された有人機に爆弾を抱かせて体当たりさせるという「特別攻撃」、略称でいえば特攻兵器としてこの「桜花」は構想されたのだ。


この構想の始まりは、1944年6月のマリアナ沖海戦における悪夢のような対艦攻撃の結果を受けたものであった。
この戦いにおいて、マリアナ周辺において最終的に作戦用航空機1300機あまりを集中してのけた連合艦隊だったが、空母12隻撃沈破という成果と引き換えになったものに彼らは慄然としたのだ。
撃墜、あるいは機材の破壊を受けたのは、このうち8割となる1000機余。
今後も続くであろう米軍の侵攻を防ぎきるにはあまりに大きな損害だった。
まして、米軍の対空砲火は威力を増しており、防空システムも洗練を極めている。
そして、新造空母が20隻以上も後ろに続いているとなれば、冷静でいられるわけがないだろう。

そのため、現場部隊レベルから上がった声を汲むという形をとって軍令部の一部は、空技廠に「有人体当たりロケット機」の開発を指示したのである。
しかしながら、この動きはとんでもない反発を海軍内部に生むことになる。


「夜間対艦攻撃という打つべき手があるのに、外道に走ろうとするとは何事か!」

意外にも、その声を上げていたのは攻撃精神過多とも思われがちな男、源田実だった。
ついで彼とかつてコンビを組んでいた連合艦隊司令長官南雲忠一大将や、第3艦隊の小沢治三郎中将、レイテ沖で国民的な英雄となっていた宇垣纏中将も反対の声を上げた。
これは、設計を指示された空技廠の技官が川西飛行機随一の設計者となっていた倉崎重蔵にふともらした情報が伝わったものであるとされている。
既に海軍内部で公然化しつつあった対米和平工作(あるいは降伏工作)を担っていた一派と財官の繋がりはこの時点でも相当に強固なものであったのだ。
そしてとどめとなったのは、軍令部が航空本部を通さずに「空技廠の独断で」という扱いで開発を進めようとしていたことだった。
誰も、体当たり攻撃機を作るという火中の栗を拾おうという軍人らしさを持った軍事官僚はいなかったのだ。


こうした動きを察知した陸軍は、逆に特攻精神なるものを高らかにブチ上げようというところまでいったというが、いくつかの事情によって沙汰やみとなる。
ひとつは、陸軍を牛耳っていた東条英機首相がマリアナにおける大損害の責任をとった嶋田繁太郎海相とともに退任し後継首相の推奏に手間取っていたこと。
そしてもうひとつの理由は、海軍が陸軍に頭を下げたことだった。

対潜戦備の充実と潜水艦隊の強化のために尽力したがために軍令部において冷や飯を食わされていた阿部俊雄大佐がその相手となった。
彼は、陸軍航空本部に出向いて文字通り見事な土下座を遂げて陸軍軍人たち、そして役目を押し付けた海軍上層部を唖然とさせた。
そしてその引き換えに、陸軍が開発していた赤外線誘導装置や電波高度計の技術、そして電波誘導技術をぶんどっていった。
土下座一本で何をと思うかもしれないが、陸軍としても彼の挙は想定外だったのだ。
血気盛んすぎる少壮将校たちは溜飲を下げた後で、阿部にこれを強いた海軍上層部への敵意とそれ以上の同情をしていた。
そして陸軍上層部と怒れる将校たち数十人の前で従卒一人を後ろに土下座をするという行為はその上層部にも海軍の本気具合を誤解させ、また恐怖させていた。
ここまでしておいて何もしないということは、プライドで頭の先までできている軍事官僚にとって相手に手袋を叩きつけるも同然の行為なのだ。

329 :ひゅうが:2014/09/17(水) 11:40:21

「私が笑いものになるくらいで、十死零生などという外道を行った汚名を後世に残さずに済むなら安いものでしょう。」

誰がそこまでやれといったと詰問された阿部がしれっとそう答えたことにより、海軍上層部の大半はもとより実戦部隊の大半が彼やその背後にいる人々への好意的感情を持つに至っているあたり、阿部は恥のかき時を心得ていたといえるかもしれないがそれは余談である。

ともあれ、実に官僚的理由であったが空技廠は「ロケット誘導弾」の開発に本気で取り組みはじめる。
いつのまにか、体当たりロケット攻撃機は高度な誘導システムを有する誘導ミサイルへと変化していたが、往々にしてこういったことは起こるものである。

以下に各型を解説する。





【桜花11型】


桜花の本分は、敵機動部隊の迎撃網の外側から攻撃を実施し、敵主力艦に大打撃を与えることにあった。
そのため、まずは対空砲火の届かない射程距離40キロ程度の火薬ロケットを搭載したものが構想された。
これを桜花11型と称する。
だが、これはマリアナ沖海戦の戦訓以前からそれほど役に立たないことが判明していた。
アメリカ海軍が有する優秀なレーダーに加え、ピケットラインといわれる哨戒線は攻撃隊が艦隊から100キロ程度は手前で戦闘機隊に捕まるという悪夢のような状況を生んでいたためだ。
そのため、11型は誘導装置の試験のために用いられ実戦投入もされていない。
電波高度計タキ13改造の高度維持装置と、ケ号装置といわれた陸軍の赤外線誘導装置の試験は比較的にでは順調に進む。
とはいっても、現場で使用できる兵器としての実用性にはまだまだ洗練が必要であり、後述する22型や33型と同様に実戦には投入されていない。
試験は早くも1944年7月中には実施された。
伊豆沖に設置された目標への誘導と、赤外線の選択走査には、テレビジョンを開発していた日本放送協会や東北帝国大学の協力を得ていたという。
なお、この試験中に、運用予定部隊となっていた第721航空隊が発射した一基が温泉旅館の源泉排気塔にぶつかり「エロ爆弾」の異名をとることにもなっている。




【桜花22型】

桜花11型による試験の結果、高度を一定に保った上での巡航と目標への命中についてはめどが立った。
だが、敵艦隊の迎撃圏外からの攻撃と、迎撃を困難ならしめるための速度の確保についてはロケット推進では実現不可能と判断された。
そこで空技廠は、1942年11月に伊号第30潜水艦によりドイツからもたらされたドイツ製のジェットエンジン(当時はタービンロケットエンジン)BMW003試作型とJumo004A試作型の転用を考え付く。
このエンジンは、日本海軍がドイツに提供した戦艦長門用41センチ主砲と、活躍していた翔鶴型航空母艦、そして航空母艦飛龍の設計図面と引き換えにされた数多くの先端機器の中でも特に気難しい部類に属していたためにこの当時に至っても艦載機用には実用段階に達することができなかったためである。
(これについては伊号第34潜水艦による第3次遣独潜水艦作戦と呂号第501潜水艦によって得られた最新型の導入によって試験機レベルでは目途がたちつつあったが期待されたような空母艦載機としては使用できないことが判明していた)

希少資源を使わない型では最大でわずかに30時間といわれた耐用時間を甘受しつつ動力化することで、海軍は射程の延伸を図った。
そしてそれを実現するため、機体の大型化と母機の変更も行われた。
量産が開始されたばかりの陸上攻撃機「連山」や、陸軍から分捕った高性能エンジンであるハ‐44を搭載した(そして操縦性の悪化した)一式陸上攻撃機45型が登場するのはこの頃である。
1944年9月、レイテ沖海戦直前の時期に桜花22型は射程距離300キロを達成。
最大速度も時速780キロに達したことからその開発目標を達成した。
だが、そのエンジン製造に手間暇がかかるうえに赤外線誘導という関係上は250キロ以上では誤差が大きすぎるために製造は12基で打ち切られ、以降の主力は弾頭を変更し量産性を上げた桜花43型へと移行することになる。

330 :ひゅうが:2014/09/17(水) 11:41:21



【桜花33型】

桜花33型は、桜花22型とほぼ同時に試作されていた機体である。
これは、国産のネ-20軸流ターボジェットエンジンを採用した22型の簡易型的な立ち位置にあった。
また、機体自体も主翼面積を増大しつつ後退翼化、垂直尾翼を大型化するなどして安定性を増大させるなどして高速での安定性を増大させている。
だが、問題となったのは当時のネ-20エンジン自体が推力580キロ余と不足気味であることだった。
国産ジェット戦闘機に搭載予定であったネ-20はどう考えても2基を搭載しなければ所定の速度が出せない。
これでは、最大速度は500キロ余となり迎撃されてしまうのは確実であろう。
そこで、海軍は当時開発されたばかりの三菱重工製TR1300を思い切って採用することにする。
推力は一気に1.3トンとなり、最大速度は820キロに達するはずであった。
ただしこれにより、ネ-20の耐用時間50時間余に対しその運用可能時間は12時間へと減少している。
弾頭は2トンにまで達し、1944年10月には桜花22型にわずかに遅れて飛行に成功した。
だが、桜花22型同様に明らかに過剰性能でありあまり意味がないことから実戦配備型としての採用は見送られ、使用されたTR1300の簡易型を搭載する桜花43型へと開発は移行することになる。
なお、本型のうち製造された5基はすべてが沖縄戦に投入された。




 【桜花43型】

桜花シリーズの開発経験から、桜花33型を基本としつつもエンジンを簡略化し、かつ弾頭を大和型戦艦用に大量に製造されていた主砲弾改造のものに変更。
これによって一式陸上攻撃機45型でもギリギリ運用可能な重量におさめたのが桜花43型である。
エンジンはTR1300を簡略化したものを「ネ-130レ」として採用。実用推力1トン程度、耐用時間は10時間を切っている。
計画自体は桜花33型の試験中から行われており、1944年12月には試験に成功。
即日、「4式対艦誘導弾」として採用された。
同時に、三菱飛行機高砂工場においてエンジンの量産に着手。
3月末時点において量産型の桜花43型200発が出荷され、そのほぼすべてが九州南部の鹿屋基地と沖縄本島へと送られていた。
また、同時に量産体制に入っていたG8N「連山」も東南海地震における混乱を避けて中島飛行機太田工場において生産されたほぼすべてが九州に送り出されていたという。

本機は、昭和20年4月の名高い「夜間空中雷撃」に加え、沖縄本島において使用され多大な戦果を挙げた。
終戦後は直ちに進駐軍がこれを接収し、エンジンなどをコピーした上で200発あまりがアメリカ海軍および陸軍航空隊の手で運用されたようである。
しかし、原子爆弾の登場により1950年までに陸軍航空隊(のち空軍)の対艦誘導弾はすべて廃棄されてしまった。

331 :ひゅうが:2014/09/17(水) 11:42:06


【桜花54型】

桜花43型と違い、桜花22型に使用されたネ-20軸流ターボジェットエンジンを使用した上で弾頭を500キログラム程度にした廉価型が本型である。
当時比較的数がそろっていた陸上爆撃機「銀河」などの旧来の機体にも搭載できる程度の重量であることが求められ、機体構造もジュラルミンから合板づくりへと退化している。
桜花43型と同様に、陸上を発進して敵艦へと突入することも可能であり、終戦直前には日本本土の各地において秘匿基地の建設計画が進行中であったという。
また、誘導システムを赤外線誘導型ではなく陸上基地や車両からの電波によるラジコン操作として重量を節約し突入時のロケット噴射器を倍以上へ増大させた「54乙型」、エンジンをジェットエンジンではなく、改良型のコンポジット火薬ロケット推進器へと変更した「55型」も存在しているが量産前に終戦を迎えた。




【桜花67型(局戦桜花)】

本型は桜花のエンジンを、TR1300またはラムジェットエンジンであるネ-150へと変更し有人型の局地迎撃戦闘機としたものである。
弾頭や誘導装置にかわって採用されたばかりの4式30ミリ機関砲2門ないしは対空ロケット爆弾を搭載することで米陸軍航空隊の新鋭機B-29やB-36による本土への大空襲時における「高射砲」的役割を果たすことが期待されていた。
機体はそのためにジュラルミン製となっており、発進時は桜花用秘匿基地のカタパルトを、降着時には橇を使った。

有人型は1945年4月に初飛行したが、すでに本土空襲への対処には陸海軍防空戦闘機部隊が成果を上げており、またB-29の配備数は欧州戦線に比べて少数(100機程度)で終わりB-36に至っては未完成であったことから第一線にごく少数が配備されたところで終戦を迎えた。
烈風改艦戦型やターボプロップ烈風、そして震電改とならんで幻の新鋭機として知られている。
なお、特別に本型に55型用のロケット推進器を搭載した音速突破試験機が終戦直前に連山より投下され飛翔したと倉崎重蔵技師の著書にあるが、速度計が故障していたとされるために記録は未確認。
ただし、パイロットであったとされる坂井三郎氏は倉崎技師とともに終戦後に渡米し、音速試験機ベルX-1の開発にアドバイザーとして参加。
現在もチャック・イェガー氏との間に深い交友があることで知られている。

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最終更新:2014年09月28日 09:22