725 :ひゅうが:2014/09/21(日) 00:35:18
――「剣号作戦」概略



【解説】―――第2次大戦末期において、唯一の攻撃的作戦能力を有していた潜水艦隊により実施されたウルシー環礁奇襲作戦。
とはいっても潜水艦による泊地突入ではない。
史上初というより唯一の「潜水空母」と艦載機を用いた「潜水機動部隊による航空攻撃」である。
目標となったのはウルシー環礁にたむろする空母機動部隊ではなく、その整備を担当していた浮きドック群と工作艦であった。


【構想と開発】―――潜水空母による奇襲攻撃のアイデアを出したのは、開戦時のGF長官であった山本五十六によるものといわれている。
その目標となったのは、パナマ運河や米国東海岸であったといわれているがその実施には困難が伴った。
すでに潜水艦艦載機による米本土へと空襲を実施していた日本海軍だが、本格的な艦載攻撃機の運用となるとほぼ不可能であり、艦載機と搭載艦の開発から入らざるをえなかったためである。
このために用意されたのが、伊400型潜水艦である。
だが、高コストであるため当初20隻を建造予定であった本級の建造は5隻で打ち切られ、うち3隻が完成した段階で5番艦伊404は建造中止され解体。4番艦伊403は未完成状態で戦後に米軍に接収されることになった。

そのかわりとなったのが、マル追計画において3隻が建造されることになった伊13型(甲型改2)潜水艦と、「運荷筒」とよばれる無動力の海中曳航型輸送コンテナだった。
日本海軍は、これらを用いた第2次真珠湾攻撃やパナマ運河攻撃を構想していたのだ。
だが、その計画は搭載機の開発難航で遅れに遅れた。

愛知飛行機で開発されていた試製「晴嵐」は零戦の50倍に達するほどの高コストであり、しかし性能も予定を下回ると予想されていたのである。
特に発動機は液冷エンジンを搭載したために日本海軍での運用にたいへんな困難が伴っていたのだ。
海軍はこれにいらだち、ついには開発中止を決断しそうになったが、ここで救いの神が現れる。
川西飛行機のエキセントリックな技師 倉崎重蔵とゆかいな仲間たちである。
横のつながりを有する彼らは、陸上機化された烈風の一件で仲間に入った堀越二郎技師をもって日本の主要航空メーカーを網羅。
どこからか困難を耳に入れ、助け舟を出したのである。

「なにも反復攻撃して、後生大事に機体を持って帰らなくともよいだろう。」

この一言に象徴されるように、搭載機から帰投の際にフロートを取り払って生存性を高めるとともに、せいぜいが一二度の使用を前提とすることから大きな搭載量を持てるように大馬力の空冷エンジンを搭載。
カタパルトからの発進が不可能な場合を考慮してロケットモーターによる加速を可能とする頑丈な機体へと晴嵐を生まれ変わらせたのだ。
さらには、レーダーをかいくぐるためにフロートを簡略化した「滑走板」を装備して魚雷艇のように海面を滑走するというのちの米試作戦闘機「シーダード」に似た方式をとることで搭載量を増大。
無理をすれば2トンという開戦時の陸上攻撃機なみの爆・雷装を実現することになった。

こうした暴走じみた動きは当然ながら航空本部に制止されるのだが、「なら何とかできるのか?」という倉崎と、過剰な性能要求に神経をすり減らして鬼神じみた雰囲気を出していた堀越らの設計者が徒党を組んで「マイム・マイム」を踊りまくるという椿事を起こしたことで黙認に転じた。

そしてようやく搭載潜水艦が完成し、機体もそろった頃には日本海軍はすでに沖縄にまで追いつめられていた。
海軍は、沖縄沖における全力を投入した艦隊決戦を側面支援するべく潜水艦隊による攻撃作戦を計画。
その一環として、前線に展開する米機動部隊の整備を行っている泊地と修理補修能力の撃破を思い立ったのである。
幸い、片道攻撃か空中給油という技術を用いた攻撃計画は立案されており、調査もほぼ完了状態にある。
海軍は、第6艦隊第1潜水隊に配備していた伊400型3隻と伊13型2隻、そして輸送潜水艦伊351型2隻を投入し、総勢25機をもってウルシー環礁への攻撃を実施する「剣号作戦」を立案するに至った。

726 :ひゅうが:2014/09/21(日) 00:35:53

【実施】――1945年3月22日、米軍沖縄来襲の報を受け、呉鎮守府に待機状態にあった第1潜水隊は「剣号」発動命令を受領。
1隻あたり2筒ないしは1筒の運荷筒を引きながら豊後水道の南下を開始した。
作戦中は敵の探知を避けるべく夜間のみのセイル深度浮上を継続してひたすら南下していった。
4月7日、ウルシー「西方」500キロの作戦海域に到着した第1潜水隊は発動命令を待ちつつ機会を伺った。
というのも、当時ウルシー環礁には沖縄方面へと出撃する航空機輸送用の護衛空母群が出撃準備を行っており、警戒が厳しいという報告が入っていたためだった。

そして4月14日深夜、九州沖で大量の「桜花」誘導弾が発射され混乱しつつある米軍の目が沖縄に向いている頃、第1潜水隊は浮上。
運荷筒を切り離した潜輸が危険を冒して周囲を円形を描くように浮上航行することで消波海面を作り出した。
そうしている間に第1潜水隊は暖気格納庫内で暖気運転していた機体を次々に曇天の夜に送り出していく。

ミンダナオ島ダバオとルソン島から発信されていた誘導電波を使った航法と事前の位置測定によって飛行する攻撃隊は、500キロあまりを海面すれすれの高度を保って飛行。
午前3時1分、ついにウルシー在泊艦艇の灯火をとらえた。

環礁南方のマンゲロング水道から突入を開始した航空隊は滑走板(フロート)を切り離し、浮きドック群へと殺到する。
超低空飛行でレーダーをかいくぐっていたために攻撃はまったくの奇襲となり、攻撃隊は現地に展開していた大型浮きドック5基すべてに魚雷を命中し撃沈破。
工作艦「ヴァルカン」「メデューサ」を撃沈し「エイジャックス」「ジェイソン」を大破。
当時在泊していた護衛空母「クラ・ガルフ」を大破着底させた。

夜間であり、当初は魚雷艇による襲撃という誤報が飛び交ったために米軍の対応は後手にまわり、さらには日本本土やフィリピンからの航空攻撃と考えたためにおそるべき夜間戦闘機「ブラック・ウィドウ」もその方面へと出払ってしまっていた。
その間に、攻撃隊は退散に成功。
機体を投機し作戦海面で潜水隊に収容された。



【結果】――米軍は最後まで、空母艦載機か陸上機による攻撃と誤認していたことから潜水隊は終戦1週間前に帰投。
呉において終戦を迎えた。
しかしささやかに思われた攻撃の結果は絶大で、米軍はこの結果浮きドック群が全滅したことや工作艦が西太平洋から消滅してしまったことから日本側の攻撃の結果受けた被害を補修する能力を失った。
その結果、ハワイへ退避するしか補修方法のなくなったことから必然的に被害は拡大。
「落ち武者狩り」によって多くの損傷艦を失うことになるのである。

終戦後、米海軍に接収された攻撃参加潜水艦はそのコンセプトを大いに注目され、さらには呉工廠で建造中のまま接収された伊403潜は米軍の指導下で改装・完成。
同型艦の伊400ファミリーの仲間として「USS.シーバット」の名を与えられて太平洋艦隊に配備された。
本級の任務は、同じく日本から接収された桜花43型の改良型を用い、米国製の艦対地誘導弾を運用する戦略潜水艦のはしりであった。
そのため、1960年代に入りレギュラス巡航ミサイル搭載潜水艦が配備されるまでは現役にとどまり、作戦行動に参加している。

なお、朝鮮戦争中に行われた夜間の少数航空機を用いたとされる「第3次ウラジオストク攻撃」には上述の「シーバット」が日本人艦長のもと参加していたともいわれるが詳細については明らかではない。

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最終更新:2014年09月28日 09:35