3 :taka:2014/07/08(火) 04:20:50
ぢゃ、一番槍頂きます(mgmg


1945年 沖縄 首里

しとしとと雨が降りしきる中、沖縄を巡る戦いはまだ続いていた。
戦車と随伴歩兵の墓場と恐れられた嘉数の戦い、それと同格の戦いと評されるシュガーローフ(安里五二高地)の戦い。
本土の政界、軍上層部から進撃が遅く損害が膨大過ぎるとの批判故にバックナー将軍は攻撃を止められなかった。
続々と増援は送られて来るが、何も知らない援軍達以外の将兵は既に厭戦気分が漂っていた。
軍の広報部は沖縄を落とせば日本の継戦意欲をくじき奴らを屈服させられると盛んに喧伝していた。
だが、それまでに何人米兵が死ねばいい? それまでに、戦友や自分自身は生き残れるのか?
バックナーは、嘆息と共に雨飛沫で覆われた瓦礫の街を双眼鏡で見渡した。
長引く夏季の雨によって部隊の移動と補給は遅れに遅れていた。
空軍の支援も途絶え、戦車も泥沼にキャタピラを取られ動きを大きく制限されていた。
特に日本軍の対戦車部隊狩りとして期待され投入されたシャーマンのジャンボなどはその重装甲の代償故異様に重く、
前線にたどり着くまでにドロの中に車体を埋没され動けなくなり全く役に立たなかった
となれば、前線を押し上げるのには比較的泥に足を取られない装甲車、そして歩兵での侵攻でしかない。
バックナーは苦心して(それこそ圧迫されていた輸送力を酷使してまで)砲を前線に運び支援砲撃を強化した。
だが航空支援も重装甲の戦車の支援も望めない市街戦は沖縄上陸軍に更なる出血を強いた。
日本軍は砲爆撃により壊滅した市街地を、なるだけそのまま広大な防御陣地へと変えたのだった。
最小限の補修と、土嚢による強化で、見た目は廃屋や単なる残骸の山が簡易的な銃座や歩兵たちの待ちぶせ場所になった。
また、建物から水平射撃で打ち込まれてる擲弾筒や、無反動砲の直接射撃は分隊規模にまとまって進撃する米兵にとって極めて脅威だった。
手榴弾の数倍の破壊力を誇る擲弾筒と、ぼろっちい民家程度なら一発で風穴を開けられる無反動砲の破壊力は対歩兵用の火力として効果的なのだ。
加えてあちこちの穴や窓からの狙撃、軽機関銃の射撃は米軍歩兵部隊の足を十m毎に阻害した。
しかも、迂闊に足を止めて隠れれば例の無反動砲を撃ち込まれ遮蔽物ごと吹き飛ばされる。
勿論、軽装甲の装甲車が迂闊に市街地へ入れば直ぐに無反動の餌食になる事は散々実証されたことだった。
米兵に出来る攻略方法は、厳重な支援砲撃の元、犠牲を顧みず接近し馬乗り攻撃を敢行して虱潰しに日本軍陣地を破壊して行く事だけ。
まさに敵も味方も区別がつかぬと言わんばかりの攻撃で、多くの命を踏み躙りながら米軍は市街地を攻略していった。
部隊の損害が6割を超えた中隊長が、無線で司令部に対して吠えた。この部隊は再三補充兵を受けていた。それでも六割の損害だった。

「ふざけるな、此処は東方のスターリングラードか!? この瓦礫と泥塗れの街を獲るまでに俺は何人部下を死なせればいい?
 昼過ぎには近接砲撃で何人の部下が死んだと思ってる! あんたらは俺達のハンバーグをジャップに腹いっぱい食わせる気か!!」

少し離れた位置に見える、既に半壊した首里城。
あそこを占領できれば、日本軍はここから撤退するとどこからともなく噂になった。
攻略にあたった隊長の中には、その噂をあえて吹聴して士気を高めようとする者達も居た。
だが、前線の兵士達は冷ややかか、またはうんざりした面持ちで無視するか嫌そうに呟いた。

「じゃあ、アソコを占領するまで何人死ぬんだよ。それまで俺達は生きてるのか?」

その後暫く、米軍の攻勢は絶えず続いた。
補給が続かない日本軍の弾が切れればもはや戦えまいと言わんばかりの消極的な小競り合いが続いた。
その前線を全く押し上げないバックナーの作戦指導に後方の司令部は激怒。
「雨季が終わり、十分な装甲戦力と航空支援を得てから攻勢に入る」との彼の答弁も詭弁だと切り捨てた。
事実、アメリカ本国の方ではバックナーを「戦意と指導力に乏しい指揮官」と断じて更迭する動きすら出ていた。

だが、バックナーが更迭される事はなかった。
なぜなら、その必要がなくなったからである。

雨が止んで快晴が続き、漸く米軍の本領が発揮出来る状態に入ったその日。
攻勢準備の為前線の視察に訪れていたバックナーのジープを、道路の脇に隠れていた日本兵の無反動砲が吹き飛ばしたのだ。
サイモン・B・バックナー。彼が長く続いた大戦において、最後に戦地で倒れた米軍の将軍であった。

終わる

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最終更新:2014年10月27日 15:26