979 :ひゅうが:2014/09/27(土) 15:55:30


 戦後夢幻会ネタ――閑話「F-1略史 あるいはアドーア・スキャンダル」



【前史】


――1967年
日本国防空軍は超音速高等練習機開発計画を始動した。
F-104「星光」(註:栄光だと失敗フラグだといった誰かが愛称を変えたらしい)の導入が進みつつある中、超音速飛行の訓練を行える高等練習機の開発は必須と思われていたのだ。
さらには空軍黎明期から運用されているF-86「旭光」シリーズの陳腐化は進行中でありその代替機の開発は必須。
これらの開発計画を統合したうえで、さらに悲願の国産戦闘機を開発しようという潮流は国防空軍の中でほとんど空気のように伝染していった。

とりわけ、国内の航空メーカーの意気は高く、三菱重工は極秘裏にプロジェクトチームを結成。実質的な開発部門のトップになっていた倉崎重蔵技師らにより開発計画を開始した。
この動きは米国に伝わり、F-104に採用の座を奪われたノースロップがのちのF-5となる機体を売り込み、その他の航空メーカーや国防総省当局者たちが頻繁に霞が関を訪問するなどにわかに動きが慌ただしくなっていく。
何しろ、最低でも100機、ことによるとそれ以上の大量発注が見込めるビジネスチャンスである。
いくら好景気とはいっても、台頭著しいマグダネル社などの脅威にさらされている各社や資金不足気味であった英国メーカーにとってこの機会は逃すべからざるものだったのだ。

だが、日本国防空軍が示した要求性能が、各社を驚倒させる。
練習機ならば、まだよいだろう。
航続距離がかなり長い点なども、まぁ理解できる。
だが、戦闘機型となるべきものの要求性能は文字通りケタ違いだったのだ。


  • ASM(空対艦ミサイル)2発以上(4発程度が望ましい)を搭載して空戦が可能であること。
  • 全装備状態で、低空侵攻を行い550キロ程度の戦闘半径を持つこと。
  • 上記の運用目標上から、機動性と安定性に優れること。
  • 速度はマッハ1.5以上であること。


当時としては、無茶苦茶といってもいいかもしれない。
これを聞いたアメリカの航空メーカーたちは声を上げた。
「こんな性能を要求するのは不公平だ!もっとまともな要求に下げろ!」
日本製の機体を作りたいがゆえに、無茶苦茶な性能を要求したと思っていた彼ら航空メーカーは徒党を組んで国防空軍に乗り込み――
そして激怒で迎えられた。
「要求性能を下げろとは何事か!現場に死ねというのか!」

彼らにとっては驚くべきことに、国防空軍は完全に本気だった。
制空戦闘機として採用したF-104Jに試作品の空対艦ミサイルを抱かせて低空飛行しミサイルをぶち当てるという無茶な実験を行っている程度に。

そもそも、国防軍は樺太やら朝鮮半島から侵攻してくる極東ソ連軍を洋上撃滅することを構想していた。
この目標から、国防海軍は水上戦闘艦艇群に当時開発を完了したばかりの「Yシステム」こと山桜対艦ミサイルの艦載型を搭載。
国防陸軍もまた三海峡や対馬・佐渡などに地対艦ミサイル部隊を配備し攻撃態勢をとっていた。
だが、国防空軍はそれがかなわなかった。
山桜は、一撃必殺の威力を持つがゆえの大重量であり、当時のF-86やF-104などの戦闘機には搭載できなかった。
わずかに、哨戒機として配備されていたP-2J「海王」に搭載が可能であったが、それは旧海軍の陸攻同様に大きな無理が伴うものと思われていたのだ。
極東ソ連空軍によるエアカバーの中突入してくるであろうソ連揚陸艦隊に対艦ミサイル攻撃を行うには、戦闘攻撃機というべきものが必要だ。
そして、北海道や北九州で対地攻撃を実施するにも。

この観点から、国防空軍は新型の戦闘攻撃機を欲していたのだった。
だからこそ、「低空飛行をやめてくれ」「搭載量はもっと加減を」といった要求は許せるものではなかった。
とりわけ、「うちの機体ならなんとかなる、そちらが合わせてくれ」というあるグラマン社の営業担当(註:本作はフィクションです)が言い放った一言は国防空軍を激怒させる。

ある意味で、外国機導入派を総出で国産機開発派へと鞍替えさせてしまったといってもいい。
こうして、国防空軍は「将来の新型機への布石と技術経験のために」新型高等練習機と戦闘攻撃機の開発を決定。
安全保障会議の裁可を経て正式に計画をスタートさせる結果となった。

980 :ひゅうが:2014/09/27(土) 15:56:43


【アドーア・スキャンダル】


国産機開発決定で万々歳、めでたしめでたしでエンドロール、ということにはならない。
開発を担当することになった三菱重工では頭を悩ませていた。
敵のレーダーをかいくぐるための低空侵攻と、大重量の搭載量、そして戦闘半径の実現がまずは問題だった。
機動性の確保は、高翼構造デルタ翼の前方にカナード翼を設けるというアイデアや徹底した風洞実験によって目途がつきつつあった。
だが、航続距離と搭載量の両立が問題だった。

安全性の問題から、機体は双発が望ましい。
さらには燃費上の問題から、ターボファンエンジンを採用することもまた同じである。
だが、当時実用段階にあったエンジンとしてはロールスロイス「アドーア」ターボファンエンジン程度しか小型軽量で燃費のいいエンジンが存在しなかったのだ。
しかも、ライセンス契約を締結し導入したエンジンは、アジアの高温多湿環境で不具合を続発。しかも先行量産型のために性能も安定しなかった。
これを用いれば、確実に推力不足に陥り搭載量を削減せざるを得なくなってしまう。
そうなると、いざという時の山桜ミサイル搭載という開発目標が達成できないばかりか格好の獲物をソ連軍に提供するだけである。

と、ここで救いの神が現れる、
水面下において米国のエンジンメーカーであるGEが新型のターボファンエンジンの提供を申し出たのだ。
とはいってもこれはまだ開発中。
実現できれば見どころのあるものになるとは思われたが、現時点では「限りなくターボファンエンジンに近い」というYJ-101ターボジェットエンジンが試験中であるくらいである。
航続距離的には微妙だったが、それでも魅力的であることには変わりない。
条件もまた良好だった。
先の一騒動を受けて戦闘攻撃機計画に対する米国メーカー出入り禁止状態となっていた状況を問題視した国防総省の助け舟である。
彼らは、日本メーカーとの共同開発とライセンス生産を提案してきたのだ。
破格の待遇である。

倉崎技師は、空軍当局にある提案を行った。
練習機型については「アドーア」エンジンを採用するとともにロールスロイス社に対して、推力向上を含む改良型を独自設計し提案。
戦闘攻撃機型についてはGEの提案と二股をかける。
設計にはあらかじめ将来的なエンジンの改良や発展の余地を残していたためにできたことだった。
試作機用に試験購入した「アドーア」エンジンのテストでは日本の仕様にあわないために改良点が多々あると判断されたことからこの提案は実行に移された。
どちらにせよ、エンジンの推力が向上した上でモノになれば日本の利益となるし、GE社のまだ完成していないエンジンに賭ける必要がなくなるためである。

練習機型として開発が先行していた機体が1969年10月に初飛行し、良好な性能を示していたこともこの判断を後押しした。

しかしロールスロイス社は、実質的に唯一の供給源であることを強みとして、後世に残る愚行を冒してしまう。
図面だけを受け取り、改良型のエンジンを日本側に供与しようとしなかったのだ。
改良型のために別料金というのが彼らの言い分だった。
彼らは、日本側の足元をみていた。
すでに航続距離と米国メーカーとの顛末は彼らの知るところとなっており、自らを絶対的な強者であると判断していたのだ。
先行量産品の粗悪品を掴まされ、さらには独自改良を加えた改良型をまた別料金で買わされるというボッタクリすれすれのやり方に、さすがの空軍当局者も怒り、ロールスロイス社と進めていた攻撃機型のライセンス交渉を白紙撤回。
練習機型として計画されていた70機分で契約を解除し、GE社との間で新型ターボファンエンジンの共同開発を行うことを通告した。

この、世に云う「アドーア・スキャンダル」は、数か月後にどこからか新聞にリークされて日本はもとより欧米のマスコミに面白おかしく書き立てられることになった。

この時点で練習機型となるT-2は初飛行を済ませており、さらには航続距離が若干低下するもののYJ-101エンジンは良好な性能を発揮しつつあった。
改良型となるYJ-102-mod.Jターボファンエンジンも試験に入りつつあり、驚喜した空軍当局者は推力4トンに達する高性能エンジンのライセンス契約を締結していた。
さらにはのちにF-404となる発展型の開発すら開始されていたのである。

981 :ひゅうが:2014/09/27(土) 15:57:30

騒動を知った空軍の現場教育部隊からも「アドーア」ではなく、エンジンをYJ-101かYJ-102へ換装してほしいという要望が続出。
結果、「アドーア」エンジン搭載型の製造はわずか21機で打ち切られる。
急きょ石川島播磨においてノックダウン生産されたYJ-101が審査の末にIHI-901エンジンとして採用、きわめて良好な運動性と上昇性・加速性を示したのは1970年8月のことだった。
ただちにライセンス生産に移行し、すでに製造されたT-2初期型のエンジンの換装を行うことを国防空軍が決定し、新聞報道に流れた時点でロールスロイス社には、ライセンス生産品の「アドーア」改良型とともに丁重な感謝の文言が送られていたという。

この騒動は、当時日本国内の航空会社が選定していた次期旅客機としてロッキードL1011「トライスター」を、破格の売り込みにも関わらず完全拒否することまでに発展。
さらには同機エンジンの開発失敗もあって、ロールスロイス社は1971年に経営破綻。
当時の英国企業としては極めて珍しい「国有化」と、1973年にRB211エンジンのIHIへのライセンス生産許可という屈辱を味わうことになるのである。




【戦闘機型の完成】


T-2の最初の教育部隊への配備後となる1972年、公式にはT-2改と呼ばれる戦闘機型が初飛行を迎えた。
エンジンの変更による航続力の低下は大容量のドロップタンク装着によって補ったものの、それでも当時開発されたばかりのASM-1対艦ミサイルを最大4発搭載しての低空侵攻能力を実現したT-2改は、のちのF-2戦闘攻撃機よりは劣るとはいえ良好な性能を発揮。
ただちにF-1戦闘攻撃機として制式採用された。
設計を担当したのが、大戦後期に紫電シリーズを設計した倉崎技師であることもあって、

「シデンカイ再び」

あるいは、零戦を開発した三菱が製造メーカーであることから

「ゼロから1へ」

と称されるに至る。
さらには胴体側面と内翼ハードポイントに待望の「山桜」を搭載できるという余裕のある搭載量にも関わらず、当時の英国の主力戦闘機であった「ライトニング」に匹敵する推力重量比を持っていたことから「極東最強の戦闘攻撃機」の名をほしいままにした。

頑丈な機体構成から重量が増加したものの、エンジンはそれを補って余りある力を持っていたのだ。

1974年4月、初の配備部隊が三沢基地に編成されるとともに配備は進行。
当時の好景気もあって、最終的には158機が導入された。
本機の製造にあたって設置された製造設備は、のちに発展型となるF-404エンジンを装備したF/A-18の採用の決め手となったといわれている。

本機は、ソ連崩壊時の――

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最終更新:2014年11月14日 14:38