4 :ひゅうが:2014/11/21(金) 00:03:26

戦後夢幻会ネタ――「射撃指揮装置」


――「こいつは大変な代物だぞ…」


西暦1943年2月。
日本本土の一角、呉海軍工廠にやってきた一井伊之助中佐はそう述べたという。
彼の目の前にあったのは、敵国であるアメリカ海軍が保有しているはずの艦船。
そしてそれに取り付けられていたある一群の装置である。

Mk.37射撃指揮装置。

対空砲の照準を決定し、空中を移動する目標に追随してこれの向き、仰角などを調整していくための、いわば「目」である。
この時代、発達著しい航空機に対抗するために、陸海軍を問わずにこの手の装置の開発が盛んであった。
その意味では、この「敵」の装置を手に入れられたことは日本海軍にとってとても意味のある事柄であったのだ。


これを遡ること1か月あまり。
はるか1万キロ彼方の南太平洋では第3次ソロモン海戦が勃発。
夜間に入り乱れた艦艇は互いに魚雷や砲弾を叩きつけあい、果ては戦艦同士が1万メートル未満の距離でどつきあう饗宴の果てに日本側の勝利に終わっていた。
と、その戦後処理にあたり、日本海軍は奇妙なことに気が付く。
海上で大破漂流していた艦のうち1隻が、どうみても味方の艦艇ではなかったのだ。

フレッチャー級駆逐艦 ド・ヘイヴン(DD-469)
就役してまだ半年にも満たない新鋭艦だった。
本来ならば後方から船団護衛の任務に就いていたはずであったこの艦は、二度のソロモン海戦に加えガダルカナル島への輸送作戦で消耗したアメリカ海軍の戦力不足を象徴するかのようにこの海戦に投入され、そして運悪く艦橋と機関部に巡洋艦「古鷹」の20.3センチ砲弾を浴びて戦闘力を喪失していたのだ。
なし崩し的に出された退艦命令の中、本来施されるべき自沈処理が行き届かなかったのが当然といえるくらいにこの艦は赤々と炎上していたという。

だが、ダメージが及んでいたのは艦橋と、電源である機関部のみ。
その主要な射撃指揮機構はまったくの無傷といってもよかったのである。
海戦に参加した第11駆逐隊司令をはじめ、戦艦大和艦長であった高柳儀八少将らの勧めもあって連合艦隊はこの艦を捕獲曳航することを決定。
当初は上層部の誰もこの艦の重要性については認識していなかったために、当時切り替えられた直後の海軍暗号の混乱状態にあっても米側にもこの事実は把握されていなかった。
そのため、簡単な艦体修理を施されたド・ヘイヴンは1か月をかけて日本本土へ曳航。
調査研究のために海軍技術本部や水雷学校の研究者たちがここに集結したのである。

だが、研究者たち立ち合いのもとで行われた射撃試験は海軍関係者を驚倒させる。

「誤差最大0.7度だと?!」

この当時就役を待つばかりの新鋭防空駆逐艦「秋月」型をはじめとした艦艇に搭載されていた射撃指揮装置の平均角度誤差は2度ほど。
それにくらべ、米国製のこの高射装置は3倍の精度を誇ったのだ。
この時をもって、海軍中央はことの深刻さを認識。
水上砲戦の精度に異常なまでにこだわった日本海軍らしいお粗末さであったものの、はじめるのに遅すぎることはない。
当時進められつつあった対潜・電波技術の強化に加えて射撃指揮装置の強化に本格的に取り組み始めることになる。
折しも、射撃訓練中であった戦艦「日向」の第5砲塔が爆発事故を起こしていたことから海軍中央は艦隊の防空能力強化のために二線級と判断された戦艦4隻を防空戦艦化することに決定(わざわざ航空母艦化しても使いどころが微妙と判断された)。
これにあわせ、新型の射撃指揮装置の開発が決定したのだ。

5 :ひゅうが:2014/11/21(金) 00:04:29
その解答はいたって簡単。

一部丸々のコピーがそれである。
ミッドウェー海戦後に研究されていた三式射撃指揮装置の中枢部にこのMk.37の主要部分をコピーし、さらには国産レーダーの搭載を図るという方法で行われた開発は、もとから機材が存在していたことから機械部分については順調に進む。
しかし電子機器についてはついに完全な再現が断念された。
かわってアンテナは日本側が開発中であった4号1型対空電波探信儀(米軍SCR268レーダー)を簡略化したものへと変更し、94式高射装置の改良型である機械式計算機と結合することでついに1943年10月、完成に至る。


かくして、三式高射射撃指揮装置は完成に至る。
搭載は、まずは防空戦艦「伊勢」型と「扶桑」型から開始され、続いて秋月型防空駆逐艦、
さらには射撃管制用レーダーの補助装置として大和型戦艦をはじめとする各艦艇へと大車輪で搭載が進行していった。

こうして、マリアナ沖海戦時点では秋月型と金剛型にこれらの装置が搭載。
米側が五月雨式に放った攻撃隊は、日本側が必死でかいくぐった防空網と同様のそれに迎えられることとなった。

「日本海軍の対空火器は倍増している」

という当時の米海軍パイロットの報告は、何のことはない、この三式射撃指揮装置のためであったのだ。
この成果に満足した海軍は大車輪での増産を続け、レイテ沖海戦時点では海軍のほぼすべての大型艦艇へと配備を完了していた。
レイテ沖、アキャブ沖、そして沖縄沖――日本海軍の終末にあたって、三式射撃指揮装置と、これをさらに発展させた大型の五式射撃指揮装置は最後まで航空機の打撃力に屈し切ることはなかった。


余談ながら、末期の日本海軍が多用した電波妨害などの戦術は、これらの装置がついには米海軍なみの精度を実現できなかったためのものであったが、戦後の米軍側の調査によって皮肉な事情が明らかとなった。
米側が強力なレーダーによって照準を行うべく「レーダーを主」とした構成によってMk.37を運用していたのに対し、日本側はまったく逆に光学照準の補助にこれを用いていた。
そのため、もとから優れた性能を発揮していた94式高射射撃指揮装置の性能を強化した光学照準によって迅速に射撃を行うことができたのに対して米側は電波妨害によって光学照準を迅速に行いきれず、相対的に不利となっていたのである。

その差を生み出したのは、たった一つの構成の差――光学照準による照準算定の自動入力機構を有するか否か、であったという。

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最終更新:2014年11月24日 14:49