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流れをまったく無視したものですが、ドイツに纏わるネタSSをどうぞ



※戦後夢幻会支援ネタSS ・ 東プロイセン軍集団

 東プロイセン軍集団(英:Army Group East Prussia、独:Heeresgruppe Ostpreussen)は
 第二次世界大戦の東部戦線におけるドイツ国防軍の軍集団である。
 1944年10月のソヴィエト赤軍によるバルト海攻略作戦において包囲されていた北方軍集団が
 1944年12月から1945年1月にかけて東プロイセンへの脱出を成功させたことが編成に繋がった。

 東プロイセン軍集団はケーニヒスブルク防衛、ひいては東プロイセン防衛戦で重要な役割を果たした。
 ケーニヒスベルクからハイリゲンバイン、ダンツィヒを通ってドイツ本国へと至る連絡線を
 長期に渡って維持し、東プロイセンのドイツ国民が本国へと避難する時間を稼いだ。
 1945年5月4日夕方、ザームラント半島のピラウ港を防衛していた最後の部隊が
 海軍の支援を受けながら撤退を行い、東プロイセン軍集団は消滅した。


  • 設立

 1944年10月10日にソヴィエト軍が発動したバルト海攻略作戦によって北方軍集団が中央軍集団と分断。
 26個師団、およそ20万名の将兵がラトビアのクールラント半島に閉じ込められることになり、
 所謂クールラント=ポケットが形成された。
 しかし12月24日、アドルフ=ヒトラーが発したとされるドイツ国家及び国民の存続に向けた指令、
 所謂ネロ指令に基づいて北方軍集団のクールラント脱出作戦(ニコラウス作戦)が発動。
 北方軍集団は中央軍集団や海空軍と連携し、一気に東プロイセン方面への脱出を実行した。
 ソヴィエト軍は直ちに阻止攻撃を行ったが、近海まで接近したリュッツオウらドイツ艦隊の砲撃を受けて、
 効果的な阻止攻撃を行えず、軍集団の過半が東プロイセンへの脱出に成功した。
 一部は脱出できずにクールラント半島へ引き返したものの、後に海軍の支援を受けて脱出している。
 またこの脱出の際、北方軍集団は持ち出せない重装備や武器弾薬をを現地のラトビア人パルチザンに提供しており、
 クールラント占領に動いたソヴィエト軍が少数の戦車すら伴った彼らの抵抗に悩まされることになる。

 1945年1月25日、東プロイセンで戦力再編を行った北方軍集団は、兼ねてからの命令に基づいて改称。
 東プロイセン防衛を主目的とした東プロイセン軍集団となった。
 なおこの北方軍集団の名称変更を受け、従来の中央軍集団が北方軍集団に改称。
 そして、従来のA軍集団が中央軍集団に改称された。


  • 防衛戦闘

 東プロイセン軍集団は第16軍と第18軍で構成されており、前者がケーニヒスベルク周辺の防衛。
 後者が先述したハイリゲンバインからダンツィヒに至る連絡線の防衛に振り分けられた。
 東プロイセンからのドイツ国民脱出を企図したハンニバル作戦やツィルベロス(Ⅱ)作戦期間中、
 同軍集団はケーニヒスベルクや連絡線の固守に成功した。
 特に八次に渡ったケーニヒスベルクへの攻撃は、第16軍の奮闘によって跳ね返され、
 多くのドイツ国民がケーニヒスベルクや周辺の港からドイツ本国へと逃れる時間を稼いだ。


  • 消滅

 東プロイセンからの国民脱出がほぼ完了したと判断された1945年4月22日より、
 東プロイセン軍集団は順次本国への脱出を開始した。
 ケーニヒスベルクから後退した第16軍残存主力は第18軍に合流し、
 ソヴィエト軍の猛追を受けながらもドイツ本国まで脱出を果たした。
 また陸路での脱出が難しいと判断された第16軍の一部はザームラント半島で防衛戦を展開したが、
 こちらは5月4日夕方に最後の部隊が脱出船団にて撤退。
 ここに至り、属する全ての部隊が東プロイセンから脱出したため、東プロイセン軍集団は消滅した。


  • その後

 第16軍と第18軍の残存戦力を再編成し、ベルリン外周のソヴィエト軍に対する
 反撃の戦力とする計画(ポンメルン集成軍)が存在した。
 しかし再編成中にドイツが無条件降伏を行うとの連絡が届いたために中止。
 カール=ヒルペルト上級大将率いるおよそ13万名の残存戦力は、
 ソヴィエト軍にではなく西部方面の連合軍に降伏した。

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最終更新:2014年12月11日 18:42