595 :598:2014/01/17(金) 23:09:05

598です。また大陸日本のサブカルについてネタを少々。いつも通り転載等はご自由にどうぞ。

1933年。夢幻会はあの強敵に電撃作戦を仕掛けることを決定した。すなわち、前世において様々な困難にも関わらず、日本アニメに立ちふさがった巨星ディズニーが白雪姫を世に送り出す2年前の1935年に大陸版映画のらくろを封切り、その後も矢継ぎ早にアニメ映画を量産することでジャパニメーションの地位を確固たるモノにしようと考えたのである。
憂鬱世界に比べても遙かに潤沢な予算が組める、大陸日本だからできる荒技といえよう。

かくして大陸世界で初の長編アニメ映画作製に向けて夢幻会は動き出すのだが、中には大陸化した世界のせいで思わぬ苦労を背負い込むメンバーもいた。のらくろの声優を担当したこの2人もその口であった。

「まさかこんな事になるなんてな」
「ああ…まさかこんなにも【のらくろ】の声優志望がいるなんてな」

発端はのらくろの声優を公募しようした時まで遡る。
この時代、声優という職業は存在せずラジオドラマなどで声優が必要な場合は、舞台役者などからオーディションで選ぶのが一般的であり、前世においてもそのやり方を使っていた(一部の夢幻会メンバーが声帯模写まで習得し平成の有名声優の名前で参加したりしていたが…)
夢幻会は、配給元となる東宝にその旨を伝えたのだが、そこで思わぬ所から待ったがかかったのである。それこそが大陸日本で独自の進化を遂げた紙芝居屋「移動紙芝居」の関係者であった。

広大な日本大陸での輸送・移動の問題を解決するため、史実よりも遙かに早く、かつ安価に自動車が一般化した大陸日本では、この時代にすでに車を用いた各種のサービスが盛んに行われており、子ども向けの行商と紙芝居をあわせた「移動紙芝居」もまさにそれであった。
初期型の軽トラに紙芝居、玩具、お菓子、紙芝居屋によっては子供服や貸本まで積んで町々を回る移動紙芝居は、農村部などにおいては子供達に絶大な人気を誇っていた。そしてその紙芝居の人気作品の中に「紙芝居版のらくろ」があった事から、「我こそがのらくろを誰よりもうまく演じられる」という移動紙芝居屋が、自前の車で大挙してオーディション会場に現れたのである。

「いや、逆に考えるんだ…選ぶ対象が増えたことでより質は良くなる。そう考えるんだ…」
「お前、それ朝から5回目だぞ。えーとそれじゃあ次…332番さーん」

かくして日もとっくに日も暮れたなか、審査員の2人は急遽3日間となったオーディション期間を費やして、2000人超える【のらくろ希望者】の声を選定していくのであった。

移動紙芝居、映画やテレビの普及に伴って徐々に減少していった彼らの一定数が声優の先駆けとなり、大陸版第一次アニメブームを支えたのは、サブカルチャー史では有名な話である。
 

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最終更新:2015年01月10日 20:49