377 :ひゅうが:2015/01/05(月) 18:05:26
―――西暦1995年1月8日


「空母だ!海軍が来てくれたぞ!」

夜明け直後、未だ炎上を続けるに神戸港に歓声が上がった。
完成間近の明石海峡大橋をくぐり抜け、数十隻の艦艇が入港する。
艦種や国籍は様々だった。
退役間近に世界周遊の途につく艦艇を集めたアメリカ海軍は、緊急事態のために洋上行動中だった第7艦隊の原子力空母までも動員しここに投入していた。
独立を来年に控えた香港駐留の大英帝国海軍太平洋艦隊は、海上の客船クイーン・エリザベス2世を臨時に海軍籍に「復帰」させるという荒業を使って救援活動を宣言。
俊足を生かしてすでに瀬戸内海に入っていた。
その後方には、台湾海軍第1艦隊のヘリ空母と、フィリピン海軍臨時派遣部隊が続いている。

だが、このとき入港したのは、呉周辺の宿毛湾と佐伯湾に展開する国防海軍第二艦隊を筆頭とした艦艇だった。
距離的に一番近いうえ、核戦争に備えて常時即応態勢をとっていたこの艦隊は、スクランブル発進した編隊からの情報を見るや独断で出動「予備」命令を発す。
これを感知した市ヶ谷からは、首相官邸に向けて数枚の書類と手錠につながれたジュラルミンケースを持った士官が急行していた。

戦後44年(日本にとっての戦争は朝鮮戦争が最後であった)を数えるこの年、政権の座についていたのは左派と中道の連立政権であったが現実主義者でもあった。
でなければ、ソ連崩壊時にチタ政権に従いウラジオストクへ向かった大連艦隊への攻撃命令をためらい轟轟たる非難のもとで罷免された先代と同様に干されていたに違いない。
何より、彼は九州出身者としてあの「戦争」を肌で感じている。
平和の維持には努力と、何よりも武力が必要であることを知っていたのだ。
それに、
「勝手に他国の領土を侵しておきながらまったく反省の弁をもたずに故郷の領土主張を続ける連中」
に対する好意的反応は潔癖な彼にとって無理なことだったのだが。
(より皮肉なことに、これは彼が嫌う方の人々も同じことを考えていた)

テレビを横目に見ていた首相は、血相を変えた士官たちを上から下まで見つめ、2分で話を聞き、そして5秒で書類に印を押してからケース内のスイッチに暗証番号を打ち込み、カギを回した。
核戦争時に行わなければいけない動作の訓練を嫌がっていた首相の意外な一面に士官たちが瞠目するまもなく、事態は動き出したのだった。


宿毛湾と佐伯湾に待機状態であった退役前の航空母艦「大鳳」と、退役間近の「信濃」はこれをもって一時的に軍艦籍に復帰し国防海軍直轄艦として戦闘部隊に編入。
同時に、艤装中だった航空母艦「瑞鶴(Ⅱ)」も船としての機能に支障がないことを確認し軍艦籍に編入。
夜にならないうちに大勢の工員の「帽振れ」に見送られながら先代瑞鶴以上ともなる35ノットの速度で海上を驀進しはじめる。
瀬戸内海国立公園法は、有事の際には適用されないのだ。

そして、「あの艦」もまた――

378 :ひゅうが:2015/01/05(月) 18:05:57

「戦艦だ…」

「長門だ!長門がきたぞ!」

そう。港内の安全を確認しにやってきたLCAC(ホバークラフト)に続き、港に入った艦は、「戦艦」の名を冠する艦だった。
戦艦「長門」。
横須賀の岸壁でモスボール保存されていたはずのこの艦が動いたのは、前任者の首相らのある意味人気取りの産物だった。
もともと、90年代にかけての大宰相であった中曽根政権への当てつけとして、保管艦から記念艦への改装が決定したのを政治主導でひっくり返したのが前宰相だった。
アジア諸国へ先の大戦の反省を示すために信濃ともども解体するという口先だけの発表は、それを主張した北京や某国の上から目線の反応以外は激怒によって支持率の低下を招いていた。
その直後、ソ連崩壊に伴い発生した日本側での呼称「日本海事変」が発生。
チタ政権の核ミサイルによる恫喝にパニックになった前首相は国防空軍や国防陸軍による対艦攻撃禁止命令を出してまんまと対馬海峡へ入られてしまう。
このため、泡を吹いて倒れた前首相(公式発表)の命令が取り消されたときには阻止行動に突入できたのは、米海軍の大和型戦艦の末裔である2隻と、さらに大和の末妹である「信濃」という状況が発生してしまっていた。
この失態から、怒り狂ったチタ政権が弾道ミサイルを発射し、史上初の中距離弾道ミサイル迎撃戦が実施されるという目も当てられない状況が発生。
それでも政権にしがみついた新興革新政党は、「引退にあたっての国民への広報」として、第2次日本海海戦で活躍した長門を全国に巡回させることにしたのである。
幸い、通常航行する分には機関は問題なし。
大戦後に機関を総取り替えするレベルでのオーバーホールが実施されていたのがこのとき生きた。

発生当時、広島湾内で公開展示をしていた「長門」は、15ノットの速度で瀬戸内海中央部を横断。
追いついてきた空母機動部隊の先頭にたって神戸港に入港したのだった。
すでに砲弾はなく、レーダーも戦闘に耐えるものではない。
だが、50年代末から70年代初頭にかけて数多の海軍士官を育て上げてきた居住設備は健在だ。
飛行甲板上にヘリと物資を満載した機動部隊に加え、「長門」は2000人以上の被災者に食と寝床を提供できると考えられていた。

現在、紀伊水道を急行中である戦艦「モンタナ」や「オハイオ」はいまだ軍艦としての機能を維持しているため、他艦と同様に使える区画に制限がある。
それだけに、「長門」の存在は国防海軍にとっての救いであったといってもいい。


何より――日本人は知らないはずもない。
戦艦長門の最初の戦闘は、あの関東大震災だったという事実を…





【蛇足】 この震災後、神戸もまた記念艦長門の誘致を目指すべきという運動が盛り上がったのであるが、結局は予備砲身と錨、そして震災時に掲げていた軍艦旗が寄贈される形となった。
神戸ポートサイドに「長門記念館神戸館」が存在するのはそうした理由である。

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最終更新:2015年01月22日 13:00