225 :ひゅうが:2016/06/24(金) 01:14:39
ちょっと思いついたのででっち上げてみた


――「ゆらり、ゆらり、のそり、のそり、とて神ありましき
流さる神の名は日留仔
(中略)
大海の只中にてゆらぎ、母よ 母よと嘆きたまひき
やがて涙は真砂となり、さざれ石に海苔むし、新葦原となれり
鳥通ひ、葦原は森となり、清水流る
千代八千代の昼と夜を経て日留仔神、天の真砂と潮騒を杜唄となしてついに鎮まれり
故に此の島を名づけて神前島と謂ふ」

国記逸文より


以上は、神崎島の鎮守、常世神宮縁起に引かれた「国記」の失われた一部による神崎島の創世記である。
この文からわかるように、神崎島は日本神話において葦船に乗せて流された蛭子神の涙がふりつもって成ったと大和朝廷は認識していたと思われる。
しかしながら、神崎島の周囲の空間位相が混乱している(神崎島から一定範囲が長期にわたってクラインの壺状態にあったという)という特異な現象から安定した行き来が不可能であったことにより確証はとれなかったことから日本書紀編纂にあたって本文は「証なし」として削除された。
とはいえ、隼人や蝦夷とは違い神崎島は早い時期に大和朝廷の影響下に置かれていたようであり、このことは種子島などの小諸島に令制国として多禰国が設置されていたことにも見て取れる。
しかしながら、南島由来の信仰である常世神信仰が皇極天皇年間に大きな盛り上がりを見せたことから朝廷の警戒を呼んだことも事実であり、結果として日本本土における神崎島の記録は(行き来が基本として片道であることもあり)ほとんど存在しないことになってしまった。

            柳田國男 「神崎島考」(1937年『民間伝承』特別号所収)より
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最終更新:2023年11月05日 17:02