605 :ひゅうが:2016/06/26(日) 20:49:09
ネタSS 神崎島考 その2


――伝説的な神話の時代は、日本本土における5世紀頃にはすでに過ぎ去り、神崎島は歴史時代を迎える。
というのも、大和朝廷の全国統一事業の進展とともに日本本土から渡来する人々が増加し、それに伴って社会が形成され始めたからである。
その中心となったのが、おそらくは朝廷の宗教的権威を有する常世神宮であった。
まつる神が天津神とも国津神とも言い難い蛭子であったことを考えれば「常世大社」といってもよかったのかもしれぬが、これが神宮とされたことは当時から島民が日本本土への帰属意識と共に疎外意識も感じていたためであろう。
この頃の記録によれば神宮禰宜と神前国造を兼ねる神崎氏が当初から島の祭政を担っていたようである。
とはいっても姓氏が記されはじめるのははるかに後代の11世紀頃からで、外界からの渡来人との対比によって名乗られ始めるという性質のものだった。
本土における皇室のようにそれ以前は彼らには苗字や氏族名は存在しなかったのである。

島の政治体制は、実のところこの頃とほとんど変わっていない。
直接民主制と代議制の中間的な、「寄合」と「会議」の併用である。
物部、大伴などの本土由来の名前もあれば、秦や姫といった大陸由来の名前もこの頃の記録にみられ、彼らのような血族集団が不定期に地域ごとに寄合を行い、代表者が常世神宮において会議を定期的に開催して全体を統括する、というのがその形式である。
現代においてはこの寄合が「国議会」となり、会議が「大宰」という名称で呼ばれている。
神崎島はこの半直接民主制を少なくとも1400年は継続しているが、議会というよりは原始民主制が御一新後に近代的制度に整えられたといった方が無難であろう。
彼らは自ら憲法を制定することはなかったし、律令や法度などは基本的に日本本土のそれをそのまま導入して運用によってカバーしていたからである。
基本的にこれらの政治的行動は、島ぐるみでの治水や道路網敷設、後代になってからは科学技術振興と軍備の整備に限定されていた。
というよりはそれ以上の、たとえば島外への拡張方針や島の多くを占める大森林地帯の開拓を行うことが物理的に不可能であったのである。
神崎島は、時間がゆがんでいる。
実際、一晩眠っていれば人間のみが作った道などは草木に呑まれ、森の木々の配置すら変わってしまうという特異な環境にある。
そのため、古来から島に生きる「妖精」と呼ばれる種族の手を借りねばあらゆる生産活動は不可能なのである。
(なお、生物かそれともそれ以外か、そして寿命などの詳しい情報は科学的に現在も収集中であるが我々はその答えを見つけられていない)

そのため、これらの制度は一貫して妖精と人類の調停機関、協賛機関であった。
人間は彼らがいなければ社会の維持ができず、極めて長命である妖精は人間が作り出す文化的な産物を享受できなかった。
そのために両者には緊張ではなく協力が生まれ、今日に至っているのである。
事実、両者間による軍事衝突は記録上は一度も発生していない。
欧米における「議会政治」ともいえるが、島の軍事権については一貫して神崎氏に委ねられているあたりは古代律令制時代からかわっていない。

606 :ひゅうが:2016/06/26(日) 20:50:15 それにしても不思議であるのは、彼らがその絶対数が限られ、人間のみの手でのあらゆる生産活動が不可能な特殊な環境であるがゆえにほとんど戦乱が起こらない(起こりえない)この島において、なぜあれほどの軍事力が確保されたかであろう。
「島志」によれば、それは、伝説的な軍事衝突が理由であるという。
西暦における580年、南北朝時代のシナ(陳)から十数隻の船団が渡来。
蓬莱の薬を要求して常世神宮に乱入したという。
動乱期の大商人が有する船団であったとも、不老不死にとりつかれた南朝陳の皇帝による厳命だったともいわれるが、彼らの侵攻は人口において非常に限られていたこの頃の島にとっては大打撃で、建造物や武器の風化によって混乱し数か月後に撃退されるまで島に大きな傷跡を残した。

このときが、神崎島においてはじめて「提督」と呼ばれる役職が設置された最初であり、以後この職はこと軍事に関する限り神崎氏に絶対的な権力を与えることになる。
(なお、このときの初代提督は『耶摩登(やまと)』という女性であったという)
そしてこれが土蛮の酋長的な兼業でなく、法治に基づいた官職へと移行するには、この数百年後のある事件が必要となった。

源平合戦の発生がそれである。

源平合戦において壇ノ浦にて滅亡の時を迎えた平家であったが、伊予河野氏が源氏方についたことにより勢力圏を分断された伊予国南部や紀淡海峡南部の平家海上勢力は、薩摩島津氏らをはじめとする源氏方による追撃を受け、南方へ敗走した。
彼らの少なくない数が神崎島へ至り、やがて島民となったと「島志」は語る。
その中には、平家の武将 平維盛(たいらのこれもり)の姿もあった。
その数は実に1000名を数えていたという。

当時の島(人口5万名程度)においてこれほどの集団の定着は大事件であった。
さらには彼らはその多くが都由来の教養を身に着けており、都落ちの際に持ち出した各種文化的な産物がともに渡来したという。
神崎島に仏教(修験道的な色彩が強い)が渡来したのはこの頃である。
彼らの定着に伴い、それまで明文化されていなかった寄合や会議の決定は文書化され、施行される法治主義が確立する。
こうして、曲がりなりにも神崎島の体制は確立した。

彼らは、自らの政府を律令制下における軍事組織である「鎮守府」と名付けた。
しかし、源氏の追撃から海上を守るという意識の強い平家は「鎮守府将軍」を設置せず、海上戦力の指揮を担当していた「提督」をそのまま鎮守府の頂点へと据える。
その下に統治機構として設けられたのが「太宰府」。
これらの命名からわかるように、神崎島の軍事政権的な国家への変貌はこうして制度化されたといってもいいだろう。

そして、その真価が問われる事態は目前にまで迫っていた。

日本本土においてはその歴史的事件はこう称される。

「元寇」と。



柳田國男「神崎島考」(1937年)抄より

607 :ひゅうが:2016/06/26(日) 20:54:06 【あとがき】――とりあえず鎮守府誕生までやってみた。
神崎鎮守府は、統治機構としても存在しているので、朝鮮や台湾総督府的な組織として位置付けております。
文治的な意味で複数の令制国を統括する「大(太)宰府」をおき、その上に鎮守府を置くという形になりますね。

…もちろんカバーストーリーですので本当にこんなことがあった…のかは誰にもわかりませんw
たぶん妖精さんか、日瑠仔神あたりしか知らないでしょうw
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最終更新:2023年11月05日 17:04