503 :ひゅうが:2016/07/23(土) 16:16:28
艦こ○ 神崎島ネタSS――幕間「転換期 1937年前半」



――1937(昭和12)年3月から4月にかけて、大日本帝国はのちに「逆コース」といわれる政策転換と立法措置をとった。
第二次2.26事件により、こともあろうに外地から帝国へ合流しに来た国家元首を右翼団体が襲うという大失態を演じていた帝国を、天皇はもとより廣田首相も許しはしなかったのだ。
まずは、著名な大アジア主義者であった頭山満が動いた。
くだんの「さくら会」は一部陰謀団の所業でアジア主義の思考に反する軍部独裁を企図する軍国主義者なり。
それが公式発表となった。
続いて、内閣情報局総裁が、1月半ばの逮捕以来沈黙を守っていた「ゾルゲ事件」の内容を公表する。
満州事変前後より、ソビエトの意に沿うように国策が操られていた可能性に言及した下村総裁は確信犯であったのだろう。
事態は、政友会前総裁 鈴木喜三郎や、総裁代行四名のうち鳩山一郎が、同じく政友会の名士であった久原房之助が軍機保護法違反で取り調べを受け、さらには新体制運動の中核的存在だった近衛文麿が昭和天皇の御下問に窮して貴族院議長職を辞するまでに発展する。

もちろん、ゾルゲ事件の中核となった「ゾルゲ諜報団」もただではすまなかった。
忌々しいほどに敵に対しては有能と称される憲兵隊と特別高等警察が異例の合同捜査を行った結果、芋づる式に彼らの協力者が摘発されたのだ。
その中には、最後の元老として権勢をふるっていた西園寺公望の息子を筆頭に、いわゆる政財界名士やその子弟が多数含まれていた。
その数実に約3400人。
新聞はかきたてた。「中華民国との全面対決こそコミンテルン指令なり」と。
完全なる事実とは異なったものの、大筋では間違ってはいなかった。

この時を待っていたかのように、廣田内閣は当時は弱腰と轟轟たる非難を浴びた第一次廣田声明にのっとり、梅津美治郎大将率いる関東軍に対して山海関からの撤収を下命。
停戦監視を、天津駐留のイギリス軍およびアメリカ軍に依頼することまで行い、事態については国際連盟ならびに常設仲裁裁判所の裁定を受ける旨を通告した。
と同時に、南京の日本「公使館」は「大使館」へ格上げ。旧北京政府支持であった日本はついに南京政府の承認に踏み切ったのだ。

唐突な日本の政策転換をいぶかった欧米列強だったが、それも、日本国内に尋常でない量の石油などの各種資源が供給され始めると納得にかわる。
「どうやら日本は巨大な資源地帯をおさえたらしい」
さらには、勅令により軍部大臣現役武官制が再び失効したのちに陸相についた人物の名は欧米に懐かしい記憶を思い起こさせる。
元陸軍大将 柴五郎。
彼の名を聞いたイギリス国内では、「まだ生きていたのか!!」という声が上がったという。
30年あまり前、義和団事件の只中にあって敵中深く孤立した北京の各国公使館での55日間に及ぶ籠城戦を成功させた指揮官である。
維新の賊軍会津の出であったために栄達とは無縁であったが、その人柄は列国の大使たちも認めるところだった。
日本は明確にシグナルを送っていた。

南京には、松井石根と犬飼健を中心とした外交団が入っていたし、新京と南京では盛んな使節の往来が続いていた。
同様に、延安とモスクワ間でも。
さらには、新たに発見された大油田の開発について米国スタンダードオイルと帝国石油が合意したところで、世界は極東情勢の変化をみてとった。

ゆえに――大英帝国は、そのシグナルに応えることにした。


5月に予定された、新国王ジョージ6世の戴冠式に際して日本政府に訪問団の派遣を要請。
同時に、新たに日本領に加わった「国家」にも代表団を送ってほしいと吉田茂駐英大使に要請したのである。
実現の暁には、満州問題についての口添えや国際連盟復帰への助力を行うという空手形を切って。

504 :ひゅうが:2016/07/23(土) 16:17:42
【あとがき】――とりあえずこのままだと何も進まないため、さらっと国外情勢について概説。
英国紳士はやっぱり英国紳士でしたw

タグ:

艦これ 神崎島
+ タグ編集
  • タグ:
  • 艦これ
  • 神崎島

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年11月12日 15:38