293 :ひゅうが:2016/08/05(金) 15:04:36

神崎島ネタSS――幕間「海峡」



ええ。
私が現場に入ったのは37年の5月でした。
その頃にはもう作業基地ができていましてね。
そんなに前からはじめていたのかと驚いた覚えがあります。
え?接触時にはすでに計画が動いていた?あの機材は神崎島の本土と補陀落島の…
ははぁなるほど。それであれだけの機材が即座に調達できたんですな。
いや納得しました。
現場にいたのは、陸軍の工兵から転出してきた人たちや国鉄のトンネル屋、帝大からきた地質学者の先生方、そして土方の…ああ今でいう建設会社の親方衆でした。
大湊からは海軍の士官さんたちが何人も来ていましたね。
あとで聞いた話ですが、あれは水中音響探査だの、海峡要塞地帯の地質調査を転用したのだとか。
はぁ。海底定置ソナーの?
なるほど。あの頃はもうロスケの…ああいけませんね。ソ連の潜水艦が津軽海峡を通ったとかで大騒ぎしていましたからねぇ。
あの頃は連絡船は臨時も含めて5往復はしていましたし、はじまったばかりの国道高規格化とかで膨大な物資が津軽下北に流れ込んでましたから。
文字通りてんやわんやでした。
ええ。
そうです。地質コアというやつですね。それがずらっと並んで、海底の地質図がすでに作成されていました。
帝大の先生方なんて目を輝かせていましたねぇ。
何しろ津軽海峡の荒波の中で140メートルの海の底からさらに200メートルを掘削調査するなんて前代未聞でしたから。
はい。それだけじゃないですよ。
海軍の調査だってのをいいことに、そこかしこの海底で沈底機雷の古いのを爆破して、その地震波を使っての地質調査もやったらしいです。
おかげで漁協からはだいぶ文句がきましたねぇ…
あれはどうやって保障したのやら。
え?作業員としての優先雇用?
ははぁ。あの頃はマグロなんて赤身以外は捨てていましたからね。名高い大間のマグロが出回りだしたのはあの後…
ああそうですか。冷凍ねぇ。どうりで何も言わないわけだ。
それで、思った以上に断層が多いことがわかった。
当初計画のように5年くらいで掘りぬくのは難しいとね。
で、みんな頭を抱える中で、あの神崎島の人たちがきた。
で、でっかいアレが陸上げされたわけです。
まだ6月になる前でしたね。
そう。トンネルボーリングマシン。TBMってやつです。
私らはみんな「モグラ」と呼んでました。
いや、おったまげましたよ。
あれでフナクイムシのように岩盤を削りつつ周囲の壁を固めていくわけですから。
先端についているのは真っ黒い頼りない刃だけなわけでしょう?
そんなことができるのかとも思いましたけど。
はぁ。
あれは超硬合金。ダイヤモンド以上。
なるほどね。
それでみんな半信半疑なわけですが、投入された初日からすごかった。
言われた通りにすでに発破やら何やらでつくっておいた広い孔に入って…確か最初は日進200いったんじゃなかったかなぁ…
これはいけるとみんなお祭り騒ぎでした。
その頃には、作業基地にきた人はもう5000人を超えていましてね。
ええ。黒部の方に分散投入予定だった人員をこっちに回したそうです。
あっちはあっちで大変だったみたいですが…
ああ、そうです。岩盤温度が100度を超えていたとかで。
もっとも、そこを抜けるとわりかしすいすい進んだそうです。
で、こちらも負けていられるかとね。
はい。はい。
もうお国の御用ですからね。
もう目玉の飛び出るようなお金が使われたおかげか、それまでのタコ部屋と比べたらまるで極楽じゃないかなんて言うものが…
はぁ。
あとからきた人たちは東北の農家の?
そうですか。
あそこはその前の年まで地獄を見たそうですから。
みんな必死で働いていましたからねぇ。
そのうち、遠巻きに見つめるだけだった人たちもいつの間にか食堂で働きだしたり、道路の普請を手伝ったりと…
いやぁ嬉しかったですねぇ。
私たち技師ってのは、安易に飯場なんかに混ぜたらいけないという不文律があったのですが。

295 :ひゅうが:2016/08/05(金) 15:09:35 ええ。
食事はきちんと一汁三菜がつきました。
豚汁にはきちんと豚肉や根菜類なんかの具がたっぷり。
それに飯です。
最初は麦飯かとがっかりしたものでしたが、まさかあれほどおいしいものが出るとは思いませんでした。
下処理というのですか。それをきちんとしているからうまいのですね。
それでもどうしても食いたくない人も最初は多くて、そのかわりに栄養剤が渡されたりも…
はい。それを闇に流すものが続出したので、結局はお菓子の支給になりました。
これがうまくてですねぇ…
で、麦飯を食べると余計にもらえたものだから、それならという形でみんな食べ始めました。
まぁいろいろ問題になりましたから、いつの間にか白米に――
え?そうですか。白米自体にビタミン剤を添加ねぇ。
まぁ気にはなりませんでしたよ。
何しろああいううまい米を食べるのははじめてでしたから。

そんなわけでうまいものを食べるとみんな気分がよくなるのか、いつの間にか陰湿ないじめや虐待なんてのも見なくなりました。
だからですか。あとからやってくる人はみんな驚きますし、働いている連中も「ずっとここにいたい」なんていっていました。

はぁ。あれはだいたいが神崎島の。
なるほど。美味なうえに、提督の厚意から10年間無償供与を決めた。
それは市場に流すわけにはいきませんねぇ。農家がみんな破産する。
まぁ、あの米の味が忘れられないからみんな栽培法だの、農法の改革だのは熱心に講義を受けていましたよ。
ええ。
夜間学校ってやつですね。
都会にあぶれていた高等遊民きどりの連中を雇用しまして、臨時の夜間中学校を仕立てたんです。
そのうちに、現場に詰めていた帝大の先生方の使い走りの連中も加わりまして、いつの間にやら大所帯です。
みんな小学校を出たようなのばかりでしたからねぇ。
それに、その頃出始めたばかりの科学映画みたいなのを上映してくれたり、合唱したり、まぁいろいろです。
そのうちに、壁新聞みたいな感じでみんなで作品を持ち寄ることも増えましたっけ。
ええ。8月ごろにはもうそんな感じでしたよ。
当時の現場監督をやっていた陸軍の今村さんって人ができた方でねぇ…
ああ、そうですか。
職場改革の一環。文部省と内務省が音頭を取って?
はぁ。
確かに労働者の云々とアジる奴はいましたが、誰も本気にしませんでしたねぇ。
何しろよく食ってよく働いて、そしていい給料もらいましたから。
それまでと比べたらもう天国ですよ。
そのうちにそいつらも、再び資本家に搾取させるわけにはいかないとかでわりと協力的になりました。
ええ。団体交渉もやりましたよ。
意外にうまくいくので欲をかこうとした奴らは、逆にたたきのめされました。
もちろん物理的にではなくて、数字の海に呑まれたのですね。
まさか手弁当で工事をやれなんて言われたら、そりゃいやになりますわな。
結局、彼らもせっかくの職場で周囲に白い眼で見られるのに耐えられなかったのですねぇ。
もっと危険な連中はいつの間にか――
はぁ。
真性の危険人物を見極めて?
ああゾルゲの残党狩りの一環でしたか。
その頃にはもうそういう連中も「この生活を広めるのだ」とかなんとかいってましたから見極めやすかったでしょう。

296 :ひゅうが:2016/08/05(金) 15:10:06
そうです。3基ずつ並列で掘り進んでいたうちの真ん中の奴に大出水が起きたんです。
もうみんな大慌てでねぇ…
工事の大事だって我先にトンネル先端に走っていった光景は壮観でしたよ。
最初はなんてお荷物だといわれていたポンプがこれほど頼りになったことはありませんでした。
薬液を高圧ポンプで注入して地盤を固めて、切羽を開放し…3日は不眠不休だったんじゃないかなぁ…
ようやくおさまってきたあたりで年を越しまして、みんな万歳三唱です。
どこから持ってきたのかしめ縄をTBMの後ろに張りましてね。
もちろん酒をのむわけにはいきませんから、湧水をもってきて乾杯です。
水杯なんて縁起でもないと思われるかもしれませんが、当時は気にならなかったなぁ…

はい。はい。
海峡の向こう側から掘り進んでいる連中とはずっと連絡を絶やさずにいました。
14年に入る頃にはいつ貫通するかで賭けがはじまっていましたよ。
三度目の大晦日の頃にはもう自然と「正月休みも出勤」という空気が出来上がっていました。
ぜひとも参加したいなんてのが大勢いましてねぇ…。
そうです。
私が計算担当でした。あと10メートルというところで機械を止め、互いにドリルを…
そうです。
もう1日になってたんじゃなかったかなぁ。
ともかく、そんな頃でした。
ええ。こちらから通したドリルがわずかに先に。
しばらくしてから管がこっちに出てきました。おそるおそる機械を外してみると…

ええ。そうです。あれが「風が通った」瞬間でした。

みんなしんとしましてね。誰ともなしにすすり泣きが漏れ始めました。
いやぁ、嬉しかったですねぇ。
もちろん本孔の貫通まであと1か月ありましたが、それでも本州と北海道が一つにつながる瞬間に居合わせたんですから…


   元青函隧道建設営団 技師 藤平健吾へのインタビューより

297 :ひゅうが:2016/08/05(金) 15:12:11
【あとがき】――というわけで、やっぱり我慢できなかったw

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最終更新:2023年11月23日 13:12