288 :ひゅうが:2016/10/01(土) 21:22:16
神崎島ネタSS――「万有引力の法則(学者的な意味で)」
――1937(昭和12)年7月7日 神崎島 鎮守府提督執務室
「山下です。入ります。」
ノックもそこそこに、虎…というよりは熊のような体格をした男が入室した。
「入れ。ああ山下さん。やはり来ましたか。」
「はい閣下。来ました。ところで――」
精一杯の微笑を浮かべ、山下奉文は、目の前の若いんだか年をとっているんだかよくわからない提督の方向に向けていった。
「ちょっとあちらへいっていてくれないかな。」
「えー?」
駆逐艦がまとわりついている。
文字にしたらどんな状況だという風になるだろう。
ジャンパースカートを着ているということは夕雲型。
そして長袖のセーラー服であるから特Ⅲ型駆逐艦。
数か月を共にすれば、山下にもそれくらいはわかるようになっていた。
皆、いい娘さんたちである。
「みんな!邪魔をしないの!」
「えー?でも…」
両手の人差し指をツンツンさせる駆逐艦清霜。
「すぐ終わるの?」
少しばかり底のしれない瞳で山下を見つめる駆逐艦響。
山下は微笑して頷き、ポケットに手を突っ込んだ。
「ほら。」
ここに来る前に駄菓子屋で仕入れたドロップ缶だった。
酒飲みである山下は、同時に甘党の素質があった。
ちなみにこの島で「人間どっく」なるものを受けてからは晩酌は週に一度と決めている。
「えー。」
「ふふふ。これだけじゃないぞ。」
山下は、ドロップ缶の下に隠した何枚かの券を取り出した。
中将の給料をもらっている山下としては、生活費がほとんどかからないこの島の勤務の分をこうしたものに変えるのにあまりためらいがない。
「わっ!」
提督に「よじのぼっていた」艦娘たちが一斉に山下の方へ向かってくる。
「山下さん。」
「いえいえ。」
あまり食事前に甘味はと言おうとする神崎提督を山下は反対側の片手で制し、器用に「間宮券」を配っていった。
290 :ひゅうが:2016/10/01(土) 21:22:59
「ありがとう!」
少しばかり早くできた孫を見るかのような目で山下は艦娘たちが執務室の出入り口で手を振るのにこたえた。
「てーとくも!またね!」
一瞬、凄絶なほどに濃厚な感情が視線に載せられたのを受け流しつつ山下は、後方でパタリという音がしたのを確認し、表情を戻した。
「あまり与えすぎないでください。あの子たちはいい娘ですがルーチンワークと化してしまうとあるべき感謝がなくなってしまいます。」
「それについては提督にお任せしますよ。」
「私も甘やかしすぎてしまうから逆に心配なんですがね。」
「そこまでは責任を持ちかねますな。」
ああ、また赤城たちがスネる…とボヤく神崎。
それをしてやったりという表情で見ていた山下は、数秒後に切り出した。
「本日未明、北平郊外の盧溝橋において銃撃事件が発生しました。
当初警告通り、北支駐屯軍はただちにホットラインを通じて北平市長および現地軍に事件を通報。
即座に警備部隊を兵営へ下がらせました。現在、市長および国連調査団北平支所が調査に向かっています。」
「すでに国際社会へ一報は入れているのですね?」
「もちろんです。『また』悪者にされてしまうのはごめんですからね。」
同じ質問を参謀本部にぶつけた山下は、一言一句違わずに「彼」と同じ言葉で返した。
「石原さんですか。」
「あれも、もう少し謀略癖をひかえた方がいいと愚考しますが。」
みなまで言うな。と神崎提督は一瞬の目で促した。
背筋にいきなり金属製の物差しを差し込まれたような感覚にほんの少しだけ毛が逆立つ。
この若いのは時々こうしたところを見せるから侮れない。
数十人どころじゃない数を顎先で海底か地下かどこかよくわからないところまで送り込んだことがある者の傲慢さと悲惨がそこには同居している。
当然だろう。
かの「戦争」において彼は現在の米海軍数十個分の艦艇を沈め(鎮め)ているのだから。
「そろそろ自重してくれる…とは思いますよ。あれでもだいぶこたえているようですから。」
「最終戦争論、でしたか。」
山下は、ここのところの趣味となっているいわゆる「近代史」の知識を頭の引き出しから取り出した。
「ええ。その前提条件となる日支連繋が実はシナ…いえ中華民国側からみれば大中華復興という同床異夢だったことがよほど衝撃的だったのでしょう。」
少しぬるくなってしまったコーヒーを神崎は口に含む。
「後始末が終われば引退予定という話は?」
「いえまったく。親任式以前は朝鮮で仕事をしていましたし、終了後は面倒ごとをさけるためにその足でこちらへきましたから。」
山下は、かつて皇道派と目されており、2.26事件のとばっちりを受けて左遷されていた。
それが急きょ復帰することになったことから、面倒事を嫌ったのだった。
御奉公が再びできる以上、かつてつまはじきにした相手が掌を返してきても相手をする気になれないのは当然だろう。
291 :ひゅうが:2016/10/01(土) 21:23:29
「ま、今年を乗り切れたら、という条件付きですがね。」
「ならば、再びの山を越えたというべきでしょうな。」
山下はほほ笑んだ。
「すでに日支対立の芽は、シナと欧米列強との対立にすり替わりつつあります。
わが国はこのまま国土の再開発に力を注ぐだけです。」
そうすれば自然と軍事予算も増えていく。
資源が足りてしまい、そして資金も提供される上に当面の軍事的な裏付けができてしまった軍隊というのは現金なものなのだった。
「そういえばアインシュタイン博士とあの学生はいつまでここにいるんです?」
「それが…この島に研究所を作りたいとか。」
「ええ…」
「プリンストン高等研究所の所長ですからねぇ…一度帰って引き継ぎをしてから、といっているのですが。」
「『史実』の情報はよろしいのですかね?」
「大丈夫でしょう。あれだけ脅されてまだ無邪気でいることはできないでしょう。
もしも大々的にばらされてもそのときは――レッドパージ再びです。」
それよりは、まだまだある余命の間に超ひも理論の確立に力を注ぐ。
科学者はそういう生き物だった。
――だが、二人は決定的に間違っていた。科学者の知的欲求の強さは彼らの想像をはるかに超えていたのだ。
二人は、この数週間後にイギリスからこの島へ移住の申請が出たこと、そしてそれを出した人物の名前に驚くことになる。
男の名を、スブラマニアン・チャンドラセカール。
のちに、ブラックホールの発見者として知られ、超新星爆発における質量限界「チャンドラセカール限界」にその名を永遠に刻むことになった当時27歳の天才である。
彼は、自ら証明したブラックホールの理論を理解しようとしなかった英国天文学界に見切りをつけてアインシュタインの誘いに乗ることに決めたのだ。
かくて歴史は再びねじ曲がる。
のちに、物理学者のディスアボラと称される欧州の碩学たちの極東への移動はこうして端緒についたのであった。
292 :ひゅうが:2016/10/01(土) 21:25:01
【あとがき】――お待たせしました。
またしても幕間的な話。
この世界では「盧溝橋事件(笑)」になってしまいましたとさ。
そして欧州の学界の様子が…
最終更新:2023年12月10日 18:09