358: yukikaze :2017/04/16(日) 21:57:20
14試局地戦闘機 雷電

全幅  12.0m
全長  10.0m
全高  4.3m
翼面積 22.50㎡
自重  2.700kg
全備  3.800kg
発動機 三菱『火星』23型(1,800hp)
速度  612km(高度6,500m)
上昇力 6,000mまで5分40秒(8,000mまで9分45秒)
航続力 1,600km(正規) 全速30分+2,000km(増槽あり)
武装  九九式二号20mm機銃×4(翼内・携行弾数各250発)
爆装  三式ロケット弾発射器×4(内部には、R4Mロケット弾10発が携帯)


(解説)

日本海軍が14試局地戦闘機として三菱に開発を依頼した戦闘機である。
当初『重爆撃機用戦闘機』と位置付けられていたものの、「いかなる飛行条件でも機体がいうことをきく」と、パイロットが絶賛する程の安定した機動性能と、高い稼働率もあいまって、当時としては異例の『陸海共用戦闘機』として採用され、日本軍用機としては最多の6千機以上の生産を誇ることになる。

同機体が計画されたのは、日中戦争での戦訓であった。
この時、中国空軍の爆撃機隊に無視できない損害を受けていた海軍は、12試艦上戦闘機の試作機を領収した直後の昭和14年9月に、三菱単独指名で『14試局地戦闘機』を提示し、翌年の4月には計画要求書を交付することになる。
この時の海軍側の要求としては以下のとおりである。


  • 最高速度 高度6,000 m において325ノット(約601.9 km/h)以上。
      340ノット(約629.7 km/h)を目標とする。
  • 上昇力  高度6,000 m まで5分30秒以内、上昇限度11,000 m 以上。
  • 航続力  最高速(高度6,000 m)で0.7時間以上(正規)。
  • 武装   20 mm 機銃2挺、7.7 mm 機銃2挺。
  • その他  操縦席背面に防弾板を装備すること。

海軍がかつて三菱に提示した12試艦上戦闘機と比べるとマシではあるが、それでも厳しいのには変わらなかった。
特に厄介だったのが最高速度600kmを生み出すための高馬力エンジンで、この時の三菱の選択肢にあったのが大直径の爆撃機用エンジンである『火星』と、海軍が愛知に命じてライセンス生産させていた『アツタ』であり、堀越としては『アツタ』に多少の食指は動いたものの、かつて三菱が液冷エンジンで痛い目を見たという実績を鑑みて、確実に性能を発揮する『火星』をエンジンとして選んでいる。

だが、ここからの流れは、ある意味、堀越にとっては不本意なものであった。
堀越自身は、大直径エンジンを搭載することから、機首を絞り込み、全長の40パーセントで最も太くなる紡錘形の胴体を採用し、それに適合するようエンジンに延長軸を追加したものを採用しようと考えていた。
もっとも、結論から言うと、堀越がそれをものにする事は出来なかった。

359: yukikaze :2017/04/16(日) 21:58:21
何故か? それは機体設計の概念を作り終り、いよいよ形にしようとする矢先、堀越及び堀越の女房役である曽根が、激務による過労から相次いで倒れ、問答無用で長期療養せざるを得ない羽目になったからであった。
ある意味これは三菱の構造的な問題と言ってもよかったのだが、三菱以外の他社は、設計において、基礎設計と詳細設計を分けてチームを作っていたのだが(基礎チームが設計した後、そのチームの一人が代表になって詳細チームと中身を詰める)、三菱では基礎設計と詳細設計を同じチームが行う体制にあった。
平時ならばこれでもよかったのだが、戦時において、試作機がひっきりなしに舞い込み、しかも正式採用された機種の改修まで連日来るようになると、もはや対応は不可能であった。
三菱は、慌てて海軍中型機担当の第三設計部を、事実上の機体改修設計の受け皿に変更し、併せて陸軍中型機担当の第五設計課を第二・第三課への応援に回すなどしたものの(この影響でキ83の設計が事実上不可能になった)この時の混乱は、かなり後まで尾を引くことになる。

そしてもう一つの爆弾が、所謂『クラサキノート』であった。
1940年初頭にドイツの研修から帰還した空技廠の倉崎重蔵技師が齎した数々のデータは、当時の日本において列強に追いついたと思われていた航空技術能力がまだまだであることを痛感させる内容に満ち溢れていた。
無論、この手の報告については、倉崎以外もこれまでも報告していたのだが、倉崎の齎した内容は質量ともに圧倒しており、日本航空界にとっては文字通りの爆弾であった。(ちなみに倉崎がこれほどまでに圧倒的なデータを持ち帰れたのは、彼の航空知識がドイツにとっても激震を齎したからであった。それはメッサーシュミット博士が『うちで働かんか?』と本気で勧誘した事からも分かる。なお倉崎が齎した知識により、メッサーシュミットはジェット戦闘機開発に大きく前進することになる。)
実の所、このクラサキノートの重要な点は、性能及び空力に着目しすぎていた航空業界に対し、『飛行機は工業製品である』という観点から見ることも必要であることであり、そこら辺を理解していた民間メーカーや空技廠の面々はきちんとそれを理解し、戦後において十分に生かし切っていたのだが、所謂『性能や空力を重視した面々』ですら、このノートに書かれている中身と、詳細なデータを前にしてうなだれる者多数であった。(倉崎を嫌う面々ですら、『ドイツ空軍やメッサーシュミット社』などの公的なデータを否定する程の蛮勇を持つ者はいなかったのだ)
このノートについては、ドイツ側の了解を貰った上で、倉崎が空技廠や各社(なお陸軍にも渡しており陸軍へのカードにしようとした海軍の航空本部の上層部を怒らせていた)に対して公開したのだが、三菱にとって悲惨だったのは、堀越が構想していた胴体設計が『プロペラの後流によって空気抵抗が生じてしまい、却って障害が発生する』というデータが赤裸々に記されていたのだった。

三菱にしてみれば『何でよりにもよってこの時期に・・・』と、頭を抱えたい内容であった。
不幸中の幸いなのは、未だ基礎設計が大まかにしかできていない状況であったことから、試作機が完成する時点での発覚よりはマシであったことだが、堀越の設計を基礎として、他の技師に設計させようと考えていた三菱にとっては、『これからどうするんだ』と言う気分であった。(逆に空力において基本的に正解の回答を選んでいた中島は、試作中のキ44に自信を深めたという。)

この事態に、三菱はとうとう最終手段を取ることになる。
彼らは、『誉』エンジン問題で、空技廠上層部から疎まれ、事実上追放処分を待つばかりとなっていた倉崎に接触し、大馬力直径エンジンに適合した胴体設計についての指導を頼んだのである。
倉崎にしてみても、空技廠上層部(ついでに海軍航空本部のお偉方)には幻滅しきっていた時期でもあったため『今更横紙破り増やしても別にいいや。海軍放逐されても陸軍にでも行けばいいし』(陸軍側からも非公式に『うちに来ないか? 席は用意する』と勧誘があった)と、割り切っていたために、三菱にフォッケウルフ社から提供してもらったデータを渡すと共に、倉崎が温めていた構想も基本概念として提供している。
後世『雷電はフォッケと倉崎の相の子』扱いされる所以ではあるが、絶体絶命状態だった三菱は、倉崎のこの時の恩を忘れることなく、戦後において彼を三顧の礼で招聘している。

360: yukikaze :2017/04/16(日) 21:59:06
以下、本機についての特徴を説明する。

胴体構造については、倉崎がフォッケウルフ社から齎したFw190のデータを利用している。
基本的にはFw190のそれと変わらないのだが、倉崎曰く『海軍パイロットは視界に煩い』という嘆息から史実の高さを増し視界を向上させた「ガーラント・ハウベ」をつけた型になっている。
なお、前下方の視界がキャノピー側面の胴体への食い込みで確保されていることは、日本陸海軍のパイロットにとっては好評で、接地の寸前まで良好な着陸視界を得ることができると評価されている。

翼については、航続距離の関係で翼内タンクを積まないといけないことから、完全に一新されている。
これは倉崎の『戦闘機に対する空対空戦闘は二の次と言っても、あいつらは12試艦戦を基に考えるから絶対にいちゃもんつける』という予測によるものであり、事実そうであったのだが、この時、倉崎と三菱は、以下の解答を作っている。

  •  旋回半径の縮小よりも高い維持旋回率の向上
  •  速度と高度を維持したままの連続機動の向上
  •  全速度域にわたり安定した横転率の向上
  •  短時間の急上昇よりも高高度までの持続上昇

「いかなる飛行条件でも機体がいうことをきく」を求めた所以ではあるが、何のことではない。Fw190でクルト・タンクが目指したものと同じ中身であった。
もっとも、Fw190のように、エルロンと操縦桿をワイヤーではなくロッドで結合することで操縦系統の「伸び 」を極力押さえ、強引な横転操作でもネジレやタワミが発生しないよう剛性の高い翼を付け、ロール特性を高くするということはしていない。
ここら辺はパイロットの『好み』もさることながら、Fw190の場合、補助翼系は全部ロッドとカムであり調整が大変で且つ調整してもガタが多くなること確実であった為、採用が不可能であった事が大きい。
倉崎が『どんなに最良の解答を見つけても、『工業力』が全てをひっくり返す』と慨嘆したように、彼らは『今の工業力でも可能なレベルでの回答』を探さなければならないという、英米独の技術者よりも過酷な条件で制作する必要があったのだ。

そして倉崎たちの出した解答が、高高度性能(高速での持続上昇・持続旋回)を獲得する為に、6.4とアスペクト比の比較的高い翼を採用すると共に、細長い翼で高速性能を追求して翼厚比を小さくすると、捩れ強度の確保が難しくなることから、横操縦に抗力板を使い、捩れ強度中心に近い位置に動翼を置くことで、主翼にかかる捩りモーメントを低下させ、捩れ変形による操縦性への影響を抑えている。
もっとも、抗力板は高速時にこそ効果を発揮するものの、低速時には極端に効きが低下する欠点があるため、補助翼と抗力板を併設し、低速時には補助翼のみ動かし、対気速度の上昇とともに抗力板の動きを大きくし、逆に補助翼の作動角は小さくする機構を組み込んでいる。
そしてそれを、史実紫電改で使われた腕比変更装置を導入することによって、低・高速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化だけでなく、補助翼と抗力板の制御も組み込むことにしている。

361: yukikaze :2017/04/16(日) 21:59:40
これによって、零戦のように、無段階に変わるのではなく、手動二段(高低速)切り換え式であったことからパイロットからは『ゼロ戦の方が絶妙な操作感を体感できた』と言われる一方、ゼロ戦が苦手としていた高速ロールなども普通にでき(ゼロ戦の場合は面積の大きなエルロンと主翼自体の剛性不足が大きいが)『低速での格闘戦以外ではゼロ戦に圧勝』という結果を残している。
なお、ゼロ戦でのトラウマなせいかトリムタブやバランスタブはつけていないが、補助翼面積を史実飛燕レベルに抑えた事もあってか、『高速時での操舵力も軽かった』と言わしめている。

武装については、20mm4門を搭載することで、主敵である米軍重爆撃機はもとより、対戦闘機戦闘でも終戦まで敵の一線級と戦っても撃ち負けない程の火力を誇っている。
1943年にはドイツから導入したR4Mロケット弾を10発内蔵した三式ロケット弾発射器を2基(後に4基)搭載できるようにされ、連合国爆撃機部隊から『トージョーのバグパイプ』と、呼ばれ、恐怖の象徴になるなど、重爆撃機殺しとして名を上げる一方、前述したように、高い維持旋回率と高速度での連続機動及び横転率、更には降下制限速度も850km近くあるなど、高速での格闘戦や一撃離脱戦といった、従来の日本軍機では苦手としていた部分でも連合国の戦闘機と互角に戦えるようになっており、連合国では『日本がFw190をライセンス生産した』という情報が出るまでになっていた。

最後に防弾であるが、これも『重火力のB-17』に対抗できるよう、主要部分には防弾鋼板が張られている。
例えば、座席後方に12mmないし5mmの防弾鋼板が装備され、キャノピーの防弾ガラスも50mm。
オイル系統も装甲された上で2重の冗長性を持ち、被弾時の生残性が高められていた。
これにより、自重が当初の2,550から最終的には2,700にまで増加し、海軍側から『防御を削れば速度と上昇性能は向上するはず』と言われたりもしたが、前線からの『B-17の火力は凄まじいので、それに対応できる機体を望む』という声によって立ち消えになっている。
もっとも、機体性能向上を望む声も強く、それは『土星』エンジンを積んだ雷電改で結実することになる。

上記のように、対重爆戦闘だけでなく対戦闘機戦闘にも充分使え(ただしゼロ戦や隼のような低速域での格闘戦に慣れている面々には不評だったし、そのように使えば脆かった)、速度も600kmを超えるとともに火力・防弾も十分で且つ稼働率も高い戦闘機の登場に、海軍だけでなく陸軍においても注目を浴び、1942年に行われた陸海対抗空戦において、高速度領域において圧倒的なまでの強さを発揮した雷電を陸海共用戦闘機として採用するということにまで発展している。
この決定に、中島と川崎は抗議するものの、如何せんキ61にしろ鍾馗にしろ稼働率が悪いわ、武装は弱いわ(これは陸軍のせいでもあるが)、空対空戦闘でも雷電に目の前でやられるわと、散々な状況を見せつけられれば、彼らの抗議もむなしいものであった。
せめてもの抵抗として『三菱で生産が賄えるのか?』という意見にも『では川崎と中島でライセンスさせよう』という意見により、川崎が雷電のライセンスをさせられるという屈辱を味わうことになる。
(中島はゼロ戦と隼の生産があったため事なきを得た。)

同機体は、1942年のドーリットル急襲を皮切りに、1944年に主力戦闘機の座を疾風に譲っても尚、1945年の終戦まで、日本の空だけでなく、大陸やフィリピン、南方の島々で、隼やゼロ戦とともに激闘を繰り広げることになる。

362: yukikaze :2017/04/16(日) 22:14:52
投下終了。和製フォッケが作りたかった。反省はしない。

まあ冗談はさておき、史実でも1942年初旬で600km近い空対空戦闘でも使える
重戦闘機があれば、あとが滅茶苦茶楽だよねというのが、この機のスタート地点。
で・・・該当候補はと言えば『速度と上昇力はいいがそれ以外が悲惨な二式単戦』か『設計の失敗が最後まで祟った雷電』の2機種。

アカン・・・ここでダメやんと思ったが、気を取り直して時間犯罪続行して、鍾馗よりまだ改善の余地が高い雷電を何とかすることに。倉崎さん。出番ですよ。
勿論倉崎の意見だけではどうにもならないので、『ドイツの技術力は世界一ぃぃぃぃっ!!』というインパクトにも仕事してもらうことに。よかったね。Me262。史実よりも暴れられるよ。

そんで元になるのはドイツの空飛ぶ軍馬ことFw190。
ただし史実見ても、この機体は日本陸海軍パイロットにはあまり好まれていない。
どうも日本の陸海軍パイロットは、低~中速度でのワイヤーでの絶妙な操縦好みまくって高速ロールを好んでいなかった模様。まあここら辺はドイツとかでも一緒なんだが。
なので、Fw190の操縦系統をそのまま使うのではなく、史実紫電改に近い操縦系統にする事で少しでも反発を和らげることに。ああ、めんどくせえ。

まあこれで『高速での格闘戦が得意』という、日本側が今まで歯噛みしていた領域で戦えるという点を全面的にアピールすることと『そもそもこれ重爆機用だからね』と理由づけすることでパイロット達にも納得できる理由を積み重ねることに。疾風の出番は作っておいたぞ。

速度に関しては、史実雷電よりも空力特性に優れているものの、重量や翼面積の関係で同じレベルになったと思っていただければ。まあ空戦能力はこっちが上ですが。
なお疾風に主力の座を取られたのは、空戦能力もですが速度と航続距離が向こうが上というのも。だって胴体内の燃料タンクも減少していますからねえ。

なお土星エンジン積んで、胴体延長してできた雷電改ですが、速度は640km、上昇速度も6,000mまで5分30秒切るなど『待ち望んでいた雷電』そのものでしたが、航続距離が1,400km、増槽組み込んでも1,800kmが御の字という状況で、局地戦闘機の色彩を強めることになりました。

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最終更新:2017年05月04日 12:30