211: 新人艦長 :2017/10/26(木) 11:54:41
昨日言ってた総統の綺麗になった日リメイク版。12時から投稿するぞ。
以下注意、独自設定一杯、若干のご都合主義あり

212: 新人艦長 :2017/10/26(木) 12:00:08
1944年6月6日、その日は歴史上ではDデイとして知られる
 この日、フランス北部ノルマンディー地方の海岸から自由と正義を標榜する連合軍およそ15万が悪しきナチスをフランスから追い払い抑圧されし民衆を解放するために上陸した。
 だがこの世界ではあまり知られていない別の呼び名がある。

 「総統の綺麗になった日」と



 ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーはその日ドイツ南部ベルヒデスガーデンの別荘にいた。
 普段は典型的な夜型人間だった彼だがこの日は珍しく朝早くに目が覚めてしまい、仕方ないので外の空気にでもあたろうかと思っていたその時、血相を変えた副官が飛び込んできたのだ。
「総統。フランスに連合軍が上陸しました。これは誤報でも夢でもありません」
 そう報告すると、ベルリン戦などを奇跡的に生き延びたこの副官はのちに自伝にヒトラーはこう言ったという

「何てことだ…私はなんてことをしてしまったんだ…」



 さてナチス政権幹部そしてヒトラー自身の賢さについては諸説あるもののヒトラー自身はIQ150、その他幹部も120を超えているメンバーが多かったといわれている。IQ85-115の間に約68%の人が入るとされるので明らかにヒトラーをはじめナチス幹部は非凡な頭脳を有していたということになる。(じゃあなんでヒトラー美大落ちたんだよって話になるが)
 もし、そのような悪魔的な頭脳をフル回転させたら?もし幹部たちの非凡な頭脳をフル回転させたら?

213: 新人艦長 :2017/10/26(木) 12:00:55
「副官、今すぐカイテルに連絡、即座にフランスにいる全装甲部隊をノルマンディーに移動、カレーとチャンネル諸島にいる部隊をノルマンディーに送れ。
穴埋めはノルウェーにいる部隊を送れ。あとギリシャ、ユーゴ、バルト三国、ルーマニア、ブルガリア、ウクライナ、ベラルーシ、から全部隊を撤収しろ。
 戦線をバルカンはクロアチア国境沿いに、東部戦線は東プロシア、ヴィスワ川、ハンガリー国境まで後退させろ。
 フランスは全部隊、すべての資源、物資を本国へ輸送。輸送完了までノルマンディーで連合軍を食い止めろ。
 デーニッツに今すぐ全Uボート部隊にノルマンディーを攻撃させろ。水上艦艇はチャンネル諸島からの撤収支援。あとティルピッツとシャルンホルストをバルト海に戻せ。今すぐだ。
 ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラー、シュペーアを至急呼んでくれ。今すぐ話がしたい。副官?聞いてたかね?返事は?」
 その豹変ぶりに口をぽかーんと開けっぱなしにしていた副官は終わるや否や返事して電話に走った。

 数時間後、文字どうり急いでベルクホーフにやってきたヒムラーとシュペーアとゲッペルスが会議室に入ると(ゲーリングはベルリンの空軍省から動けない)電話をゲーリングとカイテルとデーニッツと繋いだままこう演説した。
「いいか諸君。今ドイツは危機に瀕している。この危機はもう回避することも防ぐことも不可能だ。この危機はドイツという国家、そして民族そのものが滅ぶという危機だ。
 このままでは1年もせずにドイツは灰になる。そしてドイツという国家そのものが消えてしまいかねない。
 私はそのような未来を望まない。だから私はこの危機を作ってしまったものとしてそのような未来を防がなければならない。だから諸君手伝ってくれ」
 このいままで聞いたことがないほど丁重かつ丁寧な演説は突貫作業で国内予備軍司令部およびOKR、海軍本部、ゲシュタポ本部、空軍省、各地の軍集団クラスの司令部につながれての行われた。
 この演説は多くの将校が今祖国がいかに危機に瀕しているかということを再確認させられた。
 ヒトラーへの忠誠がこの演説後一気に高まり、国防軍に存在した反ナチグループは急遽クーデター計画を無期延期にしたがこの一か月後その反ナチ一派の一部が暴走し、総統大本営で爆弾テロを起こすも爆弾の入ったカバンを忘れものと扱われたせいで死亡したのはテロを起こした将校とカバンを運んでいた従兵のみで済んだという。(なおこのことを聞いた極東の某秘密結社は「ダーウィン賞ものだな」とか「やったぞ。我らがロンメルの死亡フラグ折れた」とか言ったとか言わなかったとか)



 その後、ノルマンディーでは史実よりも戦闘が長期化、また補給が断続的に途絶し、連合軍は史実以上に損害を被りやっとこさノルマンディーを解放したのは8月半ばであった。(ちなみにパリは普通に無防備都市宣言したうえで撤退した)
 ギリシャ、ユーゴでは7月に入ると撤退を開始、史実よりも一カ月以上早くギリシャから総撤退、ユーゴも9月に入るとクロアチアに向け撤退し始め10月にはベオグラードが放棄(その際無防備都市宣言が行われた)、12月にはクロアチア国境沿いに強固な防衛線を築き最終的にクロアチアは4月にイタリアから来たイギリス軍によって解放されることになる。
 東部戦線は撤退の準備中にバグラチオン作戦を食らうも中央軍集団はなんとか38個師団中28個師団が指定された防衛ラインまで到達、そのため8月に起きたワルシャワ蜂起はわずか3週間で鎮圧された。(ちなみにスロバキア蜂起も似たような感じで終わった)
 南部ではヤシ=キシニョフ攻勢が起きる前に撤退、そのため準備万端であとは待つだけのところを逃げられ、急いで追撃しようとしたものの失敗。このときの司令官は粛清された。
 北部もバルト海攻勢が起きる直前に撤退、このときドイツ海軍が支援し、ティルピッツとシャルンホルストが艦砲射撃で赤軍3個師団を壊滅させるなど大暴れした。(なおこのときのバルト海艦隊の司令官と陸軍指揮官は粛清されました)北方軍集団は史実同様撤退後クールラントポケットに閉じ込められるも11月に海軍の支援のもと撤退する(なおこのときも海軍は大暴れして、被害だけならレイテより多くの損害を与えた。その後ソ連側の指揮官は(ry)
 こうして最後の冬がやってきた。史上最も血に濡れた最悪の冬が…

214: 新人艦長 :2017/10/26(木) 12:06:29
はい。いかがでしょうか?
戦局以外だと7月20日事件がシュタウフェンベルグ大佐の暴走で起きてます。なんでクルーゲとかロンメルは自殺せずのんびりとした余生を過ごしたとか。

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最終更新:2017年10月26日 14:35