119: yukikaze :2018/04/15(日) 20:55:34
とりあえず以前から構想していたものを投下。

百式汎用軽装甲牽引車

全長:4.3m
全幅:2.07m
全高:2.5m(幌付き)
重量:5.2t
懸架方式:シーソー式連動懸架
速度:40km
エンジン:統制型100式発動機水冷4ストローク直6ディーゼルエンジン 120馬力
武装:なし
※ 外見はソ連のAT-S類似


(解説)

日本陸軍が開発した装軌式汎用車両。
1940年の『日本陸軍装軌車統合整備計画』により設計された車両であり、兵員輸送、砲兵トラクター、貨物輸送といったように、多目的に使えることをコンセプトにしている。
能力的には及第点であり、生産性も可能な限り考慮されていたものの、国力の問題から、必要数量には程遠く、戦前日本の限界を示す一例となっている。

同車両を語る前に、まずは『日本陸軍装軌車統合整備計画』について説明しようと思う。
1939年のノモンハン事変の敗北は、陸軍のあらゆるところで影響を及ぼすことになるのだが、彼らが青ざめた結果の一つが、想像以上の速さで進む『消耗戦』であった。
一連の航空撃滅戦の結果、陸軍航空隊の中核として丁寧に育てられていた精鋭達が瞬時に磨り潰された事例が象徴的ではあるが、九七式中戦車が投入されるまでの間、一方的に蹂躙されるがままであった陸軍機甲部隊も同様ではあった。
小手先の戦術などではどうにもならない『数の暴力』というのを、彼らは嫌というほど味わったのである。

こうした血の戦訓に対し、陸軍中央の反応も早かった。
いや・・・早くならざるを得なかったというべきであろうか。
史実では幾分遅くではあるが、それなりに正確な情報を流すなど、巷間言われているような『全てを隠蔽』などということはしなかったのだが、この世界では聊か勝手が違った。

その最大の理由が、九七式中戦車の活躍にあった。
史実でも戦線拡大派の関東軍と、戦線不拡大派の参謀本部との争いがあったのだが、この世界では、戦局が劣勢になり焦りを見せていた関東軍が、九七式中戦車の活躍を喧伝することにより、世論の空気を味方につけようとした。
それ自体は別におかしい話でもないのだが、この行為は参謀本部の逆鱗に触れることになる。
そう。九七式中戦車の生産を意図的に遅らせ、九五式中戦車改(史実チニ)を主力として整備することに注力したのは参謀本部だったのである。
参謀本部にしてみれば、関東軍のこの行為は、文字通り『面当て』以外の何物でもなかった。
喜劇的なのは、この宣伝による事態打開を考案した辻政信は、そこまで深く考えていなかったということなのだが、こうした行動に対し、参謀本部は現地部隊の運用の拙さを糾弾。
そこから以降は、お互いの責任の擦り付け合いという泥仕合に発展し、その醜態に激怒した昭和天皇の一喝を受け、畑陸相によって喧嘩両成敗という形で終るのだが(なお、辻は史実と同様予備役は免れたものの、参謀本部の怒りを受けて、陸軍中央に戻ることはなかった。)、結果的に陸軍は、昭和天皇に対し、ノモンハン事変の戦訓の徹底的な洗い出しとそれへの回答を進めるよう確約させられることになる。(張作霖爆殺事件からの悪癖であった『現地部隊による暴走』が、完全に消滅することになったのも、この時の改善が要因)

120: yukikaze :2018/04/15(日) 20:56:23
こうしたことが背景になり、史実より早く陸軍兵器行政本部が設立されることになるのだが、初代本部長に任命された小須田 勝造中将は、『日本の生産力では、多種多様な兵器を開発しても、ソ連の生産力相手には蟷螂の斧であり、兵器の整理・統合を図ることで、必要数量を確保する必要がある』として多種多様な兵器の開発を凍結し、生産する兵器を集約することを決定している。
小須田の整理は徹底しており、航空総監であった東条英機と権限上の問題で対立することも起きたが最終的には、東条が譲歩するなど(小須田の『使用機材を統一して欲しい』という『懇請』に、東条が、責任者として受け入れるという形になっている)整理統合を進めており、太平洋開戦時に一定の成果を上げることになるのだが、その中でも徹底していたのが装軌車の統合計画であった。

最初に、すんなり決まったのは九七式中戦車の大増産であった。
これはもう当然と言っていい決定であったのだが(なにしろチニを蹂躙していたBT戦車を、射的の的のように吹き飛ばしたのだから当然である)、陸軍が求める生産を達成するには、他の生産ラインをどうにかする必要があった。

次に槍玉にあがったのが、九五式軽戦車改(チニ車)の即時生産中止であったのだが、これには参謀本部の『機甲戦力主力としては非力でも、37mm砲に換装すれば、偵察車両としては使える』『車体がそれなりに大きいので、自走砲などの支援車両の母体にも使える』と、強硬に主張し(勿論、これは参謀本部の面子を守るためである)、小須田にしても、プライドの高い参謀本部と余計な喧嘩をして話が進まないよりも、最低限の面子だけは守ってやることで、貸しを作った方がマシと判断し、最低限のラインを維持するという点で妥決している。

だが、小須田が妥協したのもここまでであった。
それ以外の軽戦車の開発及び九五式軽戦車の生産については、完全に中止を決定している。
対中戦線ではまだ役に立つとはいえ、ノモンハンで戦力としての価値を激減させた以上、チニ以外の車両を生産するだけの意義などどこにもなかったのだ。
同じ理由で軽装甲車についても、力不足であるという理由で生産を中止している。
無論、そのままでは中国戦線で治安維持をしている部隊からの反発が出るのは確実なので、前線部隊には九七式中戦車を配備する代わりに、後方には前線から引き抜いた九五式軽戦車改等を充当することによって、対処するようにしている。(小須田自身は、警備用車両に関しては、最終的には装輪式装甲車を以て充てることを考えており、6輪トラックの武装化の研究を命じたりもしている。)

また、支援車両についても彼は整理統合を推進することになる。
無論、彼も『専用車両を作った方が効率的』であるのは十分理解していた。
しかしながら繰り返すように、多種多様な専用車両を作っても、貧乏神の呪いにより、必要な数を揃えられないのである。
ならば、多少効率が落ちるとはいえ、多目的に使える汎用車両を『量産』することで数を揃える方がマシだと判断したのだ。

その小須田の構想によって生まれたのが、百式汎用軽装甲牽引車であった。
彼は、複数製造されていた牽引車のうち、重砲用とそれ以外のそれぞれ各1種だけに統合。
更には、それ以外の牽引車には『人員輸送』『貨物輸送』可とする機能をつけることで、量産性の促進を図ろうと考えたのである。
普通に考えれば『失敗ルート乙』と言われるプロジェクトであるのだが、厄介なことに、彼に助言をしていたのが、九七式中戦車開発時に、参謀本部に逆らって開発部から追い出された技術者達であり、未来知識を利用することで、『カタログスペック上は』納得いく青写真を作り上げた事や何より陸軍の大多数が、支援車両に対してほとんど関心がなかったこともあって、とんとん拍子に話が進んでしまうことになる。

121: yukikaze :2018/04/15(日) 20:57:00
以下、同車両の特色について語る。

同車両は、一言で言ってしまうと、九五式軽戦車の機構を徹底的に利用した装軌車両である。
エンジンこそ、開発していた統制型エンジンであったが、サスペンションも九五式のものならば履帯も同じであり、操縦方法も同じと、これまでの生産ラインに影響を及ぼさないよう、新規開発を徹底的に廃している。
流石に車体については新規開発であるが、エンジンを前面に、車体下のシャフトを介して車体中央部の変速機、操向変速機へと動力を伝達し、後部の起動輪で無限軌道を駆動させた。
また、車体中央部の変速機からは車体床下のウィンチ用制動機へと動力が分配されることになる。
なお、ウィンチについても、九四式6t牽引車(史実の九八式6t牽引車)のそれを流用しており、これまた開発の短縮を図っている。
カーゴトラックのような車体上部に装軌式の走行装置を持っている外見が示すように、後部の貨物部分には、2tの荷物の積載あるいは、完全武装の1個分隊の将兵を乗車することが可能である。
ただし、九五式の機構をそのまま受け継いでいることから、1組2本のコイル・スプリングが相互に連動し合い、車体の上下動がなかなか減衰しない傾向があり、車酔いする者が続出するなど、不評散々であった。

なお、防御については『支援用だから』という理由で、最低限の弾片防御しかなく、これも乗車する歩兵にとっては『図体はデカいのに防御無しなんて、棺桶じゃねえか』と、不平の声が上がったりする要因となる。
もっとも、エンジン機構の上部に運転席を置いたことで、運転席からの視認性はとてもよく、運転がしやすいという長所もあった。(一番の理由は、貨物室の容積を可能な限り確保したい為。)

このようにいいことづくめに見える同車両であったが、結果的に見ると、小須田の目論見は達成することはなかった。
仮に小須田の計画が平時であったならば、彼の計画は順調に進んだのは間違いない。
しかしながら、彼や彼に助言した技術者にとっても誤算だったのは、計画時は戦時であり、そして戦地では何よりも『明日できる兵器』よりも『今ある兵器の補充』を求めていたのだ。
如何に既存ラインの大幅活用を組み込んでいたとはいえ、生産ラインの切り替えは一朝一夕では行えず、何より陸軍の大半が求めていたのは『九七式中戦車の生産ラインの拡充』であったのだから、小須田の想いとは裏腹に、支援車両の生産ラインの整理統合はなかなか進まないのが現実であった。

それでも、1942年には何とか、同車両の生産ラインが本格稼働を始め、置き換えも進んでいたのだが前線では『九七式中戦車殿を寄越せ』という声が強く、生産は抑制的であり、しかも小須田の後に本部長についた木村兵太郎が、兵員輸送と小須田が進めていた6輪型武装トラックに対し懸念を示し研究の一環として提案された和製マウルティアに飛びついたことで、6輪型トラックの配分に狂いが生じることになるなど(和製マウルティアの機構に九五式の機構が使われたことで、百式汎用軽装甲牽引車との生産配分の混乱も助長させた)、最後まで国力の無さに足をひっぱられ、終戦時までに1,300程度と、当初の計画と比べると大幅に少ない。

そのため、『日本陸軍装軌車統合整備計画』については、画餅と批判する向きもあるのだが、小須田の見込みが甘かったのは事実だが、同計画がなかった場合、九七式中戦車の生産数も予想を下回っていた事を考えると、擁護の余地はあると言える。
また、同車両のコンセプトは、戦後も高く評価されており、このことが、アメリカで開発されたM113の大量導入に一役買ったとも言える。(なお国防陸軍においては、同車両の再生産あるいはMT-LB装甲輸送・牽引車類似の車両の開発も考慮していた。)

122: yukikaze :2018/04/15(日) 21:10:52
投下終了。

コンセプトとしては『九五式潰す代わりに汎用車両作ろうぜ。ただし機械化ができるとは言っていない』
だってねえ・・・間違いなく東条は『戦闘機重点主義』やってくるし、装軌車両のリソースは九七式中戦車殿が持っていくこと確定していれば、その他の車両を大量配備出来るなんて無理ですし。
ただ、それでも何とかならんかなという想いと『やっぱり駄目だったよパトラッシュ』をやりたかったためにひねり出したのがこのネタ。

外見については、AT-Lの方が良かったかと思いましたが、空間活用の為にAT-Sに。
あと、6t牽引車の代替もではなく、4t牽引車の代替だけで済ませようかとも考えたのですが
4tだとエンジン馬力で良いディーゼルが80馬力しかなく、緊急の時に物足りない為、エンジン馬力を120にまで上げついでに6t牽引車の代替まで行うという暴挙に打って出ます。

小須田中将については実在の人物です。非転生者でして、そのままだとあまり活躍できそうにないので、転生者組で且つ九七式中戦車開発時に追い出された技術者や技術将校をつけることで、入れ知恵をつけさせることに。
ただ、九七式と同様『正論かもしれんけど最良策というだけで受け入れられる訳ねーだろ』というのを出させてもらっています。

木村については、まあ同情すべき点はあるのですが(何しろ現場や東条からの突き上げありますんで)、小須田の見通しの甘かった分までが彼の失態にされたりと散々な目にあっています。

しかし・・・こうしてみると、ロシアのMT-LBはよう考えられた車両だなあと・・・

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2018年04月16日 14:51