331: 名無しさん :2018/11/06(火) 21:29:32 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
大陸日本におけるコーカソイド系民族について (中編)


3 漢時代の匈奴

匈奴は紀元前4世紀~5世紀にモンゴル高原からユーラシア中央部にかけて活動していた遊牧民族である。
たびたび中華への侵入、攻撃を繰り返し漢の武帝による攻撃や様々な要因で大打撃を受けつつも北魏の時代まで存続し、やがてこれまでの異民族同様多くが中華の民へ同化され埋もれていった。

世界史の教科書などでも取り上げられるこの民族であるが、言語系統や民族系統などは現在に至るも決定的な説は出ておらず不明なままである。
一般的には、当時東胡と呼ばれていた後のモンゴル系、テュルク系のモンゴロイド、またはそれら様々な語族や部族が混在した勢力だったのではないかとされる。

しかし、実は匈奴はコーカソイド系、或いは様々な部族や民族が入り混じっているがコーカソイド系が主体ではなかったのかという説がある。
発掘された石像や毛織物の容貌が明らかに白色人種の風貌であることや、後漢時代に分裂したうちの片方である北匈奴が滅亡して中華圏から姿を消した後、康居(現カザフスタン)へと逃れ北部に居住し悦般となったことが北斉の『魏書』や唐の『北史』などに記されており、それが後にアフガニスタン北東部へと南下してエフタルとなりインドやペルシャから「白いフン」、中華からは「白匈奴」と呼ばれていたためだ。

少なくとも、史実においても匈奴には多数のコーカソイド系民族が含まれていたことは間違いないだろう。
しかしこの世界ではスキタイ人の大移動により活発となった草原の道を通り多くの金髪因子がやって来たため、匈奴は殆どが北方系コーカソイドの集団であった。

匈奴は戦国時代から趙・燕・斉・魏・韓などと共に秦への攻撃を行ったが、これらの五ヶ国は滅ぼされ趙・燕・斉の3ヶ国に住んでいた北方系コーカソイド民族達400万人以上が日本大陸西部へと逃れていった。
匈奴も軍勢を撃破され、内蒙古のオルドス地方を占領されると同時に長城も築かれるなど始皇帝の存命中は劣勢の状態が続いていた。

しかし始皇帝の死後、冒頓単于が即位すると再び勢力を拡大し、東の東胡を滅ぼした後に西の大月氏を敗走させ南の楼煩を併合。
そして楚漢戦争中の中華へと侵攻し、瞬く間に巨大な大帝国を築き上げた。
漢の初代皇帝劉邦も匈奴に大敗を喫し、毎年貢物を送る弱腰外交を取らざるを得なくなる。

だが漢で武帝が即位するとそれまでの弱腰外交から一転して攻勢に転じ、衛青や霍去病といった優れた将に恵まれた漢軍によって匈奴は打ち破られ、内蒙古の地まで奪わてしまい、漢から人質を要求されるなど完全に力関係が逆転してしまう。
その後も傘下諸部族や匈奴寄りの周辺諸国の離反、内紛による東西分裂など苦しい時代が続いたが、その後何とか国土を統一させしばしの間漢と匈奴は平和な時代を過ごすことができた。

そして漢の一時滅亡や新の建国、そして滅亡と後漢の成立といった中華地域の混乱が訪れると再び勢力を盛り返し、辺境地域を散々に荒らし回った。

しかし後漢建国から暫く経った46年、匈奴国内で異常なまでの日照りや蝗害に見舞われ前代未聞の大飢饉が発生した。
これにより、史実匈奴では国民の3分の2が餓死したと言われるほどの大打撃を受けたと言われている。
匈奴の人口は140万人~200万人ほどであったとされており、事実だとすれば90万人~130万人が死亡したことになる。
当然の如く匈奴は大幅に弱体化することとなった。

332: 名無しさん :2018/11/06(火) 21:31:36 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
しかし大陸世界においては史実と少し異なる展開を見せる。
日本東部に住んでいるスキタイ系の民族と匈奴は同じ北方系コーカソイド集団であり、かつて日本へ移り住んだ集団が通っていた経路を通じ活発ではないものの最低限の交流は維持されていた。
そして大飢饉により本来死すべきであった匈奴の民たちは、餓死するくらいならばと日本への移動を開始する。
本国での飢餓や日本への移動の最中に10万人あまりが死亡したものの、実に120万人もの人々が間宮海峡を渡り樺太、北海道、東日本へと移民した。
秦の統一による西日本へのコーカソイド移民には及ばないものの、空前の規模の民族大移動が再び行われたことになる。
当地にいたスキタイ人たちは、同じ系統の民族であったことや広大という言葉すら不足するほど土地が有り余っていたなどの要因から彼らを同朋として迎え入れ、自らの勢力へと組み込んでいった。
匈奴の君主であった単于蒲奴も、領域内の民の移動を黙認していた。
というより、重荷になるとむしろ積極的に口減らしとばかりに送り出してすらいた。

大飢饉から2年後の48年、匈奴は分裂し南匈奴が建国された。
南匈奴は北匈奴を攻撃し、本拠地をも陥落させ北匈奴は更に北方へと後退していった。
その後南匈奴は漢に臣従し、長城の内側に住むことを許されたり大飢饉の際に食料の援助を受けるなど厚遇された。
北匈奴も勢力を盛り返し辺境の地を荒らし回っていたものの、史実では南匈奴が漢に厚遇されていると聞くと年間数千人の投降者が出たとされている。
しかし大陸世界においては、裏切り者の南匈奴や宿敵の漢に降ることをよしとせず、史実の投降者たちは日本大陸へ移動していった。
このため小規模ではあるものの東日本への移民が断続的に到来することとなった。

しかし87年に北匈奴へ東の鮮卑族が侵入し当時の単于が殺害され、更に蝗害による飢饉まで発生し北匈奴は大混乱に見舞われた。
このため北匈奴の民は鮮卑を避けて大きく北を迂回し日本へと逃れる動きを加速させた。
これに乗じて南匈奴と漢は連合軍を結成し、89年に北匈奴への攻撃を開始する。
史実ではこの攻撃に北匈奴は敗北し、20万人もの投降者を出したと言われているがこれらも大陸世界では鮮卑を避ける北方迂回ルートで日本へと逃げ延びていった。

そして91年、遂に北匈奴は漢の攻撃により決定的な打撃を受けた。
北匈奴の単于は日本へと逃げようとしていたが、漢に臣従していた東の鮮卑が今まで領域を北周りに通って日本へ逃げる一般の民は放っておいたものの、今回ばかりは逃がさないと南の漢や南匈奴と包囲網を張っていたため、単于に率いられた北匈奴は西への逃走を開始する。

これにより北匈奴は中華圏から完全に姿を消し、悦般やエフタルとして活動を続け、現代ではパキスタン北部やイラン北部、アフガニスタンの一部などで僅かにその痕跡が見られるのみとなっている。

しかし大陸日本においては数十年に及ぶ移動で実に150万人あまりもの匈奴の民がスキタイ勢力下の東日本へと流入した。
これにより当時100万人ほどであった人口が一気に250万人にまで増加し、数的には西の大和朝廷に劣勢であるものの大幅な国力増進を成し遂げることとなった。

333: 名無しさん :2018/11/06(火) 21:35:25 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
4 五胡十六国時代

後漢の滅亡後に三国時代の戦乱を終わらせ中華を統一した西晋だが、当初有能であった初代皇帝の司馬炎は統一しただけで満足してしまい、急速に政治への興味を失うと同時に女遊びに耽るなど統一までの頃の姿が嘘のように堕落していき、国家基盤の整備を怠った。
その子司馬衷も暗愚であり、皇后である賈南風はそれを利用し国政を自分たちの一族が握るため、各地の皇族たちによる八王の乱と呼ばれる内乱を引き起こした。
それと同時に各地の諸侯は傭兵として異民族を国内に引き入れたため、内乱と合わせて西晋は大混乱に見舞われた。
これを期に隋統一までの300年あまりにわたり、中華は再び動乱の時代を迎えた。

この頃中華へと侵入、胎動した異民族は主に匈奴・鮮卑・羯・・羌の5つであり、これらは五胡と呼ばれた。
このうち氐と羌はチベット系の民族であったとされている。
しかし羌に関しては当時印欧語族であったという説が存在したり、羌の構成種族であった小月氏(大月氏と違い中華に留まった者たち)はコーカソイド系だという話が存在する。
だが現在の四川省で羌の子孫と言われる少数民族のチャン族はモンゴロイド系の外見でチベット・ビルマ語派のチャン語を話しており、正確な所は不明である。

匈奴は分裂し漢に臣従することで生き延びていた南匈奴のことであり、この世界においてはコーカソイド系の集団であった。
羯は匈奴や小月氏から派生した集団であるとされており、漢民族からは「白羯」と言われ印欧語族に分類されるコーカソイド系であったと見られている。
鮮卑は後漢までの歴史書ではモンゴル系の集団であったとされているが、西晋時代に流入してきた鮮卑族は「白虜」、要するに肌が白かったと言われており「赤髯碧眼」など明らかにコーカソイド的な容貌をしていたという。

また南朝時代の宋で編纂された説話集「異苑」において、東晋の二代目皇帝である司馬紹の政敵だった軍人の王敦は、司馬紹のことを「黄頭鮮卑奴(金髪の鮮卑野郎)」と呼んでいたと記されている。
司馬紹の母親であった荀氏は北方の燕(現在の遼寧省付近)に居住していた鮮卑族の出身であったとされており、司馬紹の金髪は母親からの遺伝と見られる。
このように、少なくとも西晋時代以降の鮮卑は北方系コーカソイドの集団であった。
つまるところ五胡と呼ばれた異民族のうち3つがコーカソイド系異民族であったということになる。

八王の乱によって中央が乱れると、各地への威令が届かなくなると同時に不運にも毎年のように飢饉が続き西晋は急速に弱体化していった。
この情勢にまずは中華西方の奥地にいた氐族と羌族が反乱を起こし、氐族の李特が成都を占領した後その息子李雄が皇帝を称し成漢(後蜀)の建国を宣言する。
それに乗じ匈奴の酋長であった劉淵が漢王を名乗り、漢を建国した。
劉淵は聡明であると同時に非常に寛容な英傑であり、漢族や白羯を傘下に加え瞬く間に勢力を拡大。
これら異民族の反乱「永嘉の乱」が五胡十六国時代の本格的な幕開けとなった。

もはや西晋の衰退ぶりは目を覆わんばかりの惨状であり、遂に漢国五代目の劉聡が西晋の首都洛陽を陥落させる。
この際洛陽は焼き払われ皇族・貴族・市民らの多くが殺戮、当時の皇帝であった司馬熾も連行され2年後に毒殺される。
これによって西晋は完全に滅亡し残党も華北から撤退、甥の司馬睿を擁立し江南の地で東晋を建国する。
西晋を滅亡させた劉聡は皇帝に即位し国号を漢から趙(前趙)に改めたが、その子劉曜の時代に白羯出身で奴隷から将軍に成り上がった石勒と対立し反乱を起こされる。
劉曜は投降後の振舞いが原因で暗殺され、その子劉煕も将校や王、公卿もろとも皆殺しの目に遭い、前趙は漢の時代も含めてわずか25年で滅亡し後趙が建国された。

334: 名無しさん :2018/11/06(火) 21:39:37 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
この頃の華北の地は漢人の多くが駆逐され、完全に異民族の土地になっていた。
特に中部から東部にかけてその地を闊歩しているのは匈奴、白羯、鮮卑といった北方系コーカソイドの集団であった。
当初の後趙は漢民族の知識人などを登用し華北の安定を成し遂げたものの、その後帝室内部での抗争が頻発するようになると
国内は不安定化すると同時に漢民族も冷遇されるようになり、華北の漢民族の不満は年を経るごとに蓄積された。
そんな中第三代皇帝石虎の養孫で石閔と名乗っていた漢民族出身の武将冉閔は傀儡とした皇帝を相次いで擁立するなど権勢を誇っていたがその態度から擁立した相手に排除されそうになると今度は漢民族に呼びかけて反乱を決行する。
首都の鄴で始まったこの反乱により、胡人が老若男女問わず20万人も虐殺されたと言われている。
それだけでなく漢民族でも体格が大きかったり鼻が高い、髭が多いなどの特徴をしたものが胡人とされて多数殺害されるほどの酷さであったという。

冉閔は皇帝に即位して国号を大魏(冉魏)と定め、後趙との戦争を開始。
後趙は鮮卑族の前燕にも援軍を要請し共同で冉魏の討伐を行ったものの撃退され、さらに最後の皇帝石祗が部下に殺害され後趙は滅亡した。
また冉閔は建国にあたって『殺胡令』という「国内外に関わらず武器を持った胡人は殺せ」「胡人を殺害した漢民族は官位を授与、または位を上げる」などといった漢民族による積極的な胡人殺害を推奨する命令を天下に公布し、徹底的な漢民族至上主義の国家建設を推し進めていった。

史実ではこの命令により華北各地で漢民族による胡人に対する凄まじい暴虐の嵐が吹き荒れた。
特に白羯などはその後中華の歴史に殆ど名前が登場しなくなるほどの大打撃を受けた。
またこの混乱で各地で盗賊も跋扈するようになったため、華北は大飢饉に見舞われ人肉を喰らい合うこともあったという。
最終的に数百万人もの胡人が漢民族による虐殺や飢饉などで命を落としたとされ、華北は酷く荒廃した。

だがここでこの時代の日本にいた転生者たちが再び暗躍し、現地のコーカソイド系遊牧民を救うため渤海湾から日本への脱出を決行する。
また鮮卑族の西燕にも協力を要請し、同国の領域であった遼東半島に避難民を移動させそこにも大規模な脱出船団を何度も派遣した。
なお、当時朝鮮半島南端に居住していた戦国時代に中華から逃れてきた趙・燕・斉の遺民たちも自分たちと同じ民を漢民族による蛮行から救うべきだと協力を表明し、こちらも脱出船団を派遣するなど日本の動きを支援した。
現地の胡人たちも、この地から逃れることができるのであればと日本への亡命を選択した。

冉魏は当然の如くそれを防ごうとしたが、国内の混乱や前燕の攻撃によって頓挫。
漢民族の絶え間ない攻撃や盗賊の跋扈、飢饉や疫病の蔓延により膨大な犠牲者を出しつつも150万人以上の胡人が日本へと逃れることに成功する。
冉魏も西燕の攻撃により僅か2年で攻め滅ぼされ、その西燕もチベット系の氐族に建国された前秦に滅ぼさるなど目まぐるしい展開が続いたが前秦による華北統一と漢民族の登用や匈奴、鮮卑の積極的な移住政策により一時的に平穏を取り戻すことができた。

しかし南北統一を強行し東晋へ侵攻するも大敗を喫したことにより、各地の統制が緩み異民族も次々に離反するなど前秦は急速に弱体化した。
その後鮮卑族によって建国された後燕や西燕、攻め込んだ東晋といった国々によってあっけなく滅ぼされ、再び戦乱の世に逆戻りしてしまう。
ここで鮮卑族の一派である拓跋部の中核氏族である拓跋氏に率いられた北魏が台頭。
華北に割拠していた国々を次々に滅ぼして回り、遂に華北を統一して五胡十六国時代を終結させ、中華は南北朝時代へと突入していく。
また統一過程で後燕、西燕、北燕、南燕といった拓跋部とは別の鮮卑族の国家(北燕は鮮卑化した漢人状軍によって建国されたが)も北魏や東晋によって滅ぼされていき、この過程で大量の鮮卑族がかつての後趙滅亡時のように大量に日本へと逃げ延びていった。
五胡十六国時代の終結までに、日本大陸に亡命したコーカソイド系異民族300万人余りに上ると言われている。

その後中華で中心を占めるようになった拓跋部を中心とする鮮卑族は漢化しつつも唐の時代に至るまで支配層として存続したが、やがて匈奴同様に完全に漢民族へと取り込まれてしまい現代ではその痕跡は歴史書以外では一切見られない。

しかし日本へと亡命した鮮卑、白羯、匈奴といった面々は混血しつつも当時の容貌を保ったまま現代へとその血脈を繋げることに成功している。

335: 名無しさん :2018/11/06(火) 21:48:15 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
以上になります。
予定が詰まってしまったことと色々あってプライベートが上手く行かなかったので遅くなってしまいました。

五胡十六国時代に活動していた異民族たちも、史実では同化や民族浄化で消えていきましたが、この世界では
大陸日本に多くの人々が逃れることに成功しています。
ほんと歴史上虐殺や民族浄化は多々見られますけど中国の場合古代からもうスケールというか次元が違うんですよね。

漢民族の方がいくら多数派とは言え数百万人もいた異民族たちが現代では一切その痕跡は表面上見られなくなっているという点も
中華における残虐行為の凄まじさというものを象徴しているのではないでしょうか。

しかし大陸日本と転生者という存在によって、史実の過酷な運命から異民族たちは逃れることができています。
殆ど転生者たちの派手な髪をした美少女たちが欲しいという何とも言えない欲望のせいですが、
まあ異民族たちも安全な場所へ逃れることができるので双方win-winでしょう(笑)

後編では南北朝時代から唐までの時代を書きたいと思います。

344: 名無しさん :2018/11/06(火) 23:22:47 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
見返してみたら氐という漢字が?として表示されていますね。
?になっているところはチベット系部族の氐、首都のところは鄴です。
見にくくてすいません。

346: 名無しさん :2018/11/06(火) 23:26:15 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
あれ、表示されない…
殆ど使われない常用外の漢字なのでちゃんと表示されないんでしょうか。
もしあれだったらwiki掲載してもらった時に何とか直しましょうかね。
あと、wiki掲載もokです

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最終更新:2018年11月07日 13:43