621. ひゅうが 2011/11/24(木) 13:06:41
支援SS――歴史作家

――西暦1943年1月  ローマ  クイリナ―レ宮殿


「ふむ・・・シオノ女史は相変わらずか・・・。」

この人は、ときどきとんでもない知り合いがいるということは知っていたが、今回もまた驚かされることになるな。
そう、情報部を統括するチェーザレ・アメーは実感していた。

「アメー。」

「は。」

「シオノさんが、ローマへ来られる。」

「シオノ女史というと、あの『コンスタンティノポリス年代記』の作者である歴史作家のムツエ・シオノ女史ですか?」

「そうだ。あのシオノ女史だ。」

アメーは、目の前の男、ベニート・ムッソリーニの嬉しそうな顔を見ながら、彼女の経歴を記憶から呼びだしていた。
ムツエ・シオノ。
名前からもわかるように、日本人の歴史作家である彼女は、東京帝大の第1期女性入学枠で教養学部に入り、ローマへ留学。
1920年代後半からはその経験語学能力をいかして主としてヴェネツィアなどの海を中心にした地中海の歴史についての著作を多く書いている歴史作家だった。

それだけではなく、大戦勃発時のダンケルクで出会って以来数奇な運命で交際するようになったフランス人歴史家フェルナン・ブローデルとの共著である「地中海年代記」シリーズは、彼女の語り口により博士論文であるにもかかわらずイタリアの読者を熱狂させるベストセラーとなっていた。

この点、イタリア人は敵国や敵対民族を無条件に貶めるナチスの一般親衛隊のような連中とは違った。
だからこそ、数カ国語を操る教養人でありながらも街頭行動部隊「黒シャツ隊」を率いてローマ進軍を成し遂げ、かのレーニンをして「彼がいなければイタリアでの革命は起こらない」といわしめた社会「趣味」者でありながら王党派であるムッソリーニが長期政権を築いていたのだともいえる。

彼女の欧州での評価はたいした物で、第2次世界大戦の勃発でドイツの圧力に押されて居住地であるヴェネツィアから日本へ帰る際は、地元市民とともに政敵と目されるバドリオ元帥や空軍のバルボ将軍とムッソリーニがそろって見送りにきたほどだった。
のちに、かのヒトラー自身も彼女の著作(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世、あるいはエルサレムの握手)を読んで感銘を受け、イタリア駐在大使を直々に叱責したのだともいう。

そして国を離れた後も、ムッソリーニは彼女と文通をしていた。
かのチャーチル卿という文通相手が爆撃で死亡してからは、彼と本当に親しいのは彼女だともいえたのだった。

「その彼女だが、こんど新シリーズを書くそうだ。」

これは大ニュースだ。
実を言うとアメーも、何冊か本を持っている。

「題は、ローマ人の物語。日本政府の上の方も非公式ではあるが協力をしてほしいとのことだ。」

アメーの心臓は跳ね上がった。
ローマ帝国の再興をかかげるムッソリーニ。だが、そのローマ人を語るものとしてイタリア人がギボンを読まねばならないという事実にムッソリーニはたびたび不満を漏らしていた。
これは大事だ。

「彼女いわく、『ローマは、理念の帝国だった』とのことだ。それについて存分に書いてみたいという。ならば、末裔たる我々が協力しないわけにはいくまい?」

そう。かのドイツが北米へ出張っている間に日本との関係を深めるためにも。


――1944年から年1冊のペースで刊行され、最終的には続編もあわせて30巻を数えることになる歴史物語の大著は、こうして始動した。
コンスタンティヌス大帝を冷徹な計算を働かせた絶対君主として描き、それまでは暗君とされたティベリウス帝やネロ帝を市民の第一人者たろうとする苦悩する人々として解説したその内容は賛否両論を巻き起こしたが、60年代以降の学問的裏付けによりこの感覚は受け入れられた。
その評価については、晩年の「親友」ムッソリーニが書いた推薦文にすべてが要約されているといえるだろう。

「非キリスト教徒が記した非キリスト教徒ローマ人に関する最良の賛歌である」と。
622. ひゅうが 2011/11/24(木) 13:07:58
【あとがき】――ドゥーチェが好きなんでやった。反省はしている。

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最終更新:2011年12月31日 00:29