939 :グアンタナモの人:2012/05/05(土) 09:17:32
「捧げー、銃!」
一九六五年一一月一日。
ノルウェー王国の首都、オスロでは荘厳な国葬が執り行われていた。
北欧条約機構諸国のみならず、遠く大日本帝国などからも多くの参列者が訪れたノルウェー史上最大とも言われた国葬。
それは戦後わずか一〇年少々で現在のノルウェー王国の土台を築き上げた、一人の英雄に捧げられたものであった。
その人物の名は、ヴィドクン=クヴィスリング。
史実とは違う形で歴史に、そして辞書にも名を刻んだ、世界で最も有名なノルウェー人である。
―― 提督たちの憂鬱支援SS クヴィスリングという人 ――
憂鬱におけるヴィドクン=クヴィスリングの歩みは当初、彼の名が汚濁に塗れている史実世界と大差ないものだった。
彼は一八八七年、北欧ルーテル教会に属する聖職者の家庭に生まれ、特に歴史の変化に巻き込まれることなく、すくすくと成長。
生まれからくる勤勉さも変わらず、後に入隊したノルウェー王国軍の士官学校を優秀な成績で卒業した。
ちなみに史実における彼をよく無能と判ずる者がいるが、これは大きな誤解である。
士官学校卒業後は参謀本部の将校を務め、国防相として時の内閣に入閣。さらに史実では戦争の混乱を縫って、政権掌握すら成し遂げた。
それらは少なくとも、単なる無能にできる諸行ではないと断言できるだろう。
さて、話を戻す。繰り返すようだが当初、クヴィスリングの歩みは史実と大差なかった。
そんな彼の歩みに明確な変化が現れたのは、一九三二年も半ばを迎えた頃の出来事である。
王国軍の近代化を成し遂げるには、考えの古い私では役者不足である。
一年前に発足したばかりの農民党政権。史実と同様、そこに国防相として入閣していた彼はそう言葉短く宣言し、なんと史実よりも早く国防相を辞任してしまったのだ。
何故、このような事態が起きたのか。
そこには史実とは異なる流れをノルウェー王国に齎した大日本帝国――と言うよりは夢幻会――が関係していた。
当時、夢幻会は刻々と迫る第二次世界大戦に対し、西欧諸国への牽制を狙って北欧諸国への梃入れを始めていた。
そしてノルウェー王国は、その中でも優先的な梃入れ先と定められていたのである。
独力で軍を近代化させつつあるスウェーデン王国や、まだ国力的に十分ではなかったフィンランド共和国に比べ、ノルウェー王国は比較的梃入れがし易かったのだ。
このような追い風から、ノルウェー軍は史実を上回る速度で近代化を遂げていく。
それは軍隊としては喜ばしいことであったが、あまりに急速な変化についていけない者も当然ながら存在した。
国防相という立場にあったクヴィスリングは、その変化についていけなかった者の一人であった。
彼が士官学校で学んだ軍事と、実際に繰り広げられていく軍事があまりにも異なっていたためだ。
故にクヴィスリングは国防相を辞任。再び軍へ舞い戻り、新しい軍事の研究に勤しむ道を選択することとなる。
ちなみに本来ならばこの頃、クヴィスリングが影響を受けるはずだったあらゆる思想は、日夜寝食すらも惜しんで軍事研究に邁進する彼の目に留まることはなかった。
940 :グアンタナモの人:2012/05/05(土) 09:18:20
こうしてクヴィスリングは一度、歴史の表舞台から舞台袖へと消えた。
しかしながら、歪み続ける歴史は再び彼を歴史の表舞台に上げる。
一九四〇年四月、英仏連合軍、そしてドイツ軍によるノルウェー王国侵攻。
三大国の軍靴に祖国が踏み荒らされていく様に、クヴィスリングは悔しさで血が滲むほど拳を握り締めたと言う。
無論、彼とて何もしなかった訳ではない。将軍の地位にあった彼は軍部隊を指揮し、果敢にも抵抗を行なったからだ。
されど圧倒的過ぎる軍事力の差は、そう簡単に覆せはしなかった。
かくしてノルウェー王国は敗北。指揮系統を喪失したノルウェー軍残存部隊は亡命政府が落ち延びたスウェーデンへの無秩序な撤退を演じることとなる。
だがしかし、そこにクヴィスリングの姿はなかった。
侵攻時、ノルウェー北部で作戦指揮を取っていたクヴィスリングは指揮系統が寸断される中、あらゆる手段を用いて限定的ながら北部に存在した部隊間の連絡を確保。
あくまでも本土で抵抗することを決意した軍残存部隊を率い、北辺たるラップランドへと撤退したのだ。
祖国から侵略者を駆逐するために。
そんな思いを胸にラップランドに潜伏したクヴィスリングは、国内外で順次発生した抵抗組織を巧みに糾合。
ついには〝国民連合戦線〟という一大パルチザンを編成し、ノルウェー全域での抵抗活動を開始するに至る。
小は連日連夜の兵站襲撃から、大はナルヴィク蜂起まで。
クヴィスリング率いる国民連合戦線が陰に日向に行なった抵抗活動は苛烈を極め、ノルウェーに展開していた枢軸陣営の占領軍に最後まで出血を強いる。
基幹人員に多数の軍人が居ることに加え、クヴィスリングが侵攻直前まで研究していた新鋭戦術群――特に冬戦争発の各種ゲリラ戦術――は極めて有効に働いたのだ。
また彼自身も独自にいくつかのゲリラ戦術を編み出した。
航空機のゲリラ運用がその最たる例であり、時折ふらりと通り魔の如く現れる航空部隊に占領軍は頭を悩ませたと言う。
国民連合戦線は旧軍残余の航空機が数機残されており、ラップランド撤退の際に必要な器材を運用部隊が持ち出していたことが功を奏した形である。
神出鬼没な彼らは共食い整備で徐々に稼働率を下げながらも活動。ノルウェー国民に抵抗を呼びかけるビラ撒きの他、時には鹵獲した爆弾で輸送船を撃破するなどの成果すらも上げた。
そしてこの時に国民連合戦線航空部隊が根城としたラップランド山間部には、後に彼の名にちなんだクヴィスリング空軍基地が設置。
山をくり貫いた格納庫を多数持つことから難攻不落の航空基地として名を馳せ、一部の人間から『鬼神や片羽が潜んでいそう』と語られることとなる。
クヴィスリング自身もこういった航空機の活躍にかなり感銘を受けたらしく、晩年の彼がノルウェー空軍の整備に尽力したのもここに端を発するという見方が強い。
もっともこうした国民連合戦線の跳梁に枢軸占領軍も黙ってはおらず、討伐部隊を編成。
ラップランドの国民連合戦線根拠地への侵攻を試みている。
だが現地のサーミ人協力者の案内を受けた国民連合戦線は、各地で地の利を活かした逆襲を敢行。
討伐部隊を敗走させるに飽き足らず、兵器の鹵獲すらも行ない、逆に戦力の補強を成し遂げていた。
またこの頃、当時ラップ人と侮蔑されていたサーミ人達の協力を得たことがクヴィスリングの民族主義偏重を押し止め、融和主義に転じさせたと言われている。
941 :グアンタナモの人:2012/05/05(土) 09:19:03
一九四二年、亡命していた旧軍部隊を再結集させ、さらに近隣諸国からの支援を取り付けたクヴィスリングは総反攻を開始。
この時点で国民連合戦線は鹵獲や支援、密造――ノルゲ短機関銃などが当て嵌まる――によりほとんど正規軍と変わらぬ火力を有していたとされ、東部戦線に戦力を投じていた枢軸軍のさらなる出血を決定付ける。
反攻の狼煙となったナルヴィク蜂起では市民の蜂起に呼応し、クヴィスリング指揮の鹵獲戦車部隊が市内に突入。
対戦車装備が東部戦線に回されたことで、戦車を撃破する手立てを失っていた占領軍を各個撃破していく。
近隣諸国からの支援で稼働率を回復した航空部隊も奮戦し、ナルヴィクの防空に一役買った他、湾内に輸送船護衛のために停泊していた駆逐艦を一隻撃破していた。
こうしてナルヴィク市は解放。『クヴィスリングが参りました』で始まる解放演説は、ノルウェー国民を大いに沸き立たせた。
以降、彼らの反抗は続き、一九四三年にノルウェー王国を含む枢軸陣営占領下にある諸国の回復が確約されるまでの間にノルウェー北部と中部の奪回を成し遂げる。
対する占領軍は反攻に加えて、引き続き行なわれていた抵抗活動により、既に疲弊しきっていた。
占領されていた諸国の回復が行なわれていく中、ノルウェー王国からの撤退が最優先にされたことがそれを物語っているだろう。
そして一九四四年、ノルウェー王国は回復。
オスロに凱旋したクヴィスリングはノルウェー国民の後押しを受け、新しく発足した政権の首班に就任した。
史実を知る夢幻会関係者の頬を引き攣らせた、以降一〇年に渡る長期政権、クヴィスリング政権の始まりである
しかし、クヴィスリングの手で新たな船出を始めたノルウェー王国の前途は多難だった。
英国と欧州枢軸、ソヴィエト連邦に囲まれた北欧は、各陣営が国力を取り戻した暁には前線基地として再び踏み躙られる恐れがあったのだ。
そして傍目見れば、すっかり強国となったスウェーデン、フィンランドと比べて、ノルウェーはその〝足の踏み場〟に違いなかった。
当然ながら、クヴィスリングはそんな現状を座視しなかった。
彼はフィンランドを参考にした産業改革――フィンランドのそれは日本の助言を得ていたため、彼の着眼は正解だった――を実施。
加えて、国内諸民族の融和を行ない、民族ごとの独自色を残しながらもノルウェー国民としての連帯感を作り出した。
こうした内政でノルウェー王国全体の国力を高めていく一方、中立という題目がちり紙よりも薄いことを実感していたが故に北欧諸国などとの連携も推し進めた。
彼が国民連合戦線時代に培った徹底的なまでの足による外交は、北欧諸国のみならず、遠くの大日本帝国までにも及ぶ。
現在の北欧条約機構の基礎や、大日本帝国などとの関係はクヴィスリングが成したといっても過言ではないだろう。
942 :グアンタナモの人:2012/05/05(土) 09:19:47
またクヴィスリングはノルウェー王国軍を再編する傍ら、国民皆兵制度を導入。
これが国防意識が高くなっていた国民に受け入れられたことで、わずか一〇年でノルウェーを大きなスイスとも言うべき高度防衛国家に変貌させた。
我々を踏み躙って一を得ようとする者が居るのなら、我々はその足に噛みついて一〇を失わせる用意をせねばならない。
彼の宣言通り、ノルウェー王国は足の踏み場呼ばわりの汚名を掃い、踏んだら最後、足が無くなるとさえ言わしめるに至る。
さらに空軍が整備され、展開力を高めた王国軍はやがて北欧防衛の一端を担うようになる。
アイスランド防衛のために展開する北欧条約機構軍の主力がノルウェー空軍であることからも、彼らの立ち位置が窺い知れるだろう。
クヴィスリングはノルウェー王国を同盟諸国が必要とし、欠けてはならない歯車の一つに変えることで、その地位を確固たるものにしたのである。
その後、クヴィスリングは一九五四年に惜しまれながらも勇退。
以降は一九六五年一〇月二五日に亡くなるまでの間、政治活動を行なわず、国家に迷惑をかけぬように私人として慎ましく暮らしたとされる。
葬儀も目立たぬように執り行ってほしいと遺言が残されていたが、国民感情がこれを許さず、冒頭の国葬が行なわれる運びとなった。
今日、辞書を開くと〝クヴィスリング〟の文字は、愛国者の代名詞として記されている。
それはこれからも変わらず、ノルウェー人、グドウィン=クヴィスリングの名を残し続けることとなるだろう。
(終)
最終更新:2012年05月08日 19:01