946 :ひゅうが:2012/05/10(木) 21:40:22

提督たちの憂鬱支援SS――「スピーチをまた」


――西暦1945(昭和20)年4月 大英帝国 帝都ロンドン


「では、予定を確認します。今回行うのは、左肺動脈へのステント(拡張材)挿入とバイパス手術、そして左肺下葉の部分的切除となります。」

「了解、しているよドクターホンマ。君には迷惑をかけるがよろしく頼む。」

はい。と、本間丈太郎はできるだけ和やかな表情を作りつつ頷いた。
ベッドで奥方と、同名の娘にカーディガンをかけてもらいながら笑う少しやせ形の中年男性は穏やかな表情をしていた。

「ミスター・アルバート。」

思い切って本間は言った。

「やはりよろしかったのですか?今回の手術は内視鏡手術。しかも肺の方は実用化されたばかりの光晶質線・・・光ファイバーケーブルを利用した軟性内視鏡を用いたものです。やはり侍医団の方の仰るように安全面を考えて開胸手術にした方が・・・」

「ドクターホンマ。」

彼が答えようとしたのを制して、先ごろ父の地位を継いだばかりのうら若き彼の娘が少し目を細めながら言った。

「父は、体力が落ちています。それに。」

「いいんだ。これは私のわがままだよ。先生。私は、声を失いたくないのだ。」

ゆっくりと罪を懺悔するかのように男、先代英国王ジョージ6世は声を絞り出した。


――本間がここへ呼ばれたのは、彼の師匠がやった事業をある意味引き継いだためだった。
内視鏡。
遠く平成の時代においては患者に負担をかけないために開腹創を局限する目的で使用されているこのマイクロスコープは、この世界では既に1930年代には実用化の域に達していた。
これは、明治時代以降加速に加速が重ねられていた理化学研究所の薬学と、今やドイツの職人の手になるそれに匹敵するまでになっていた日本の光学・精密機械技術の賜物でもあった。とりわけ、「中の人」と呼ばれる別世界からの憑依者の中に、その道に通じた人材がいたことも進歩に拍車をかけていたのだ。
かくて、1910年に胃カメラという形で実用化の域に達した内視鏡は1920年代には硬性のものではなくまるでヘビのように形や向きを変えられる軟性のものが出現。
1929年には小型の手術器具を装着してのポリープ切除手術を成功させるに至っていた。
さらにこの1940年代に入ると、理研と海軍技研が共同で光ファイバーケーブルを実用化したことで本格的な内視鏡手術の時代が到来。

2度目の世界大戦が終了する頃には満足すべき臨床成果を上げていたのである。


とりわけ、東亜大学付属病院は臨床例を蓄積しており、本間もそこに所属していた。
そんな彼に突然訪英の依頼がきたのは1944年の年の瀬も近づく頃だった。

政府からの特命ということでそれに従った本間は、そこで驚くべき事実を告げられる。
依頼者は英国王ジョージ6世その人。
内容は、英国ではじめられたばかりの人間ドック検査で発見された、進行しつつある動脈硬化と初期の肺がんの内視鏡手術だった。

日本政府としては落ちるところまで落ち込んでいた対英感情を改善させる機会を探しており、また英国政府としてもこの機会は願ってもない。
何より、患者であるジョージ6世とその家族が驚くべき熱意をもってそれを推進していた。

947 :ひゅうが:2012/05/10(木) 21:41:18


「夫は、この通り吃音を患っています。」

はじめての会見の席で、戦時中の疲れからか言葉を発せない夫にかわりエリザベス王妃はそう言って本間の手をとった。

「ですが、肺がんを摘出するともなれば胸を大きく開くうえ、体に大きな負担をかけます。ですが。」

内視鏡手術ならその負担も軽くて済むというではないか。と彼女は切々と訴えた。
本間の必ずしもうまくない、むしろへたくそな英語力を使って翻意を促しても、当の本人の意思が固い。
ジョージ6世は、若干どもりながらも本間のことを書いた「サイエンス」誌を手に取り、「君に頼みたい。ぜひとも手術をお願いする。」とそう言って頭を下げたのだ。

結局、あれよあれよといううちに本間は外堀を埋められ、英国政府はジョージ6世の病臥を発表。娘であるエリザベス王女が摂政として一時的に国務を代行することを明らかにしていた。
彼女いわく「パトリックおじさま(エドワード8世、大西洋大津波で行方不明)が生きていればこんな苦労はせずともすんだのに」とのことだったが、もはや本間は覚悟を決めるしかなかった。



「しかし、なぜ私なのです?」

今日、手術前夜になり、患者本人に重ねて説明を行う段になって思い切って本間は訊いてみた。

「言ってもいいのかな…いや、君が英語が下手だったからだよ。」

ジョージ6世は苦笑しながら言った。
しかし本間がむっとしているのに気付くと、すぐさま補足した。
どうも彼は親しい間柄の人間には吃音が出にくいらしい。
少々早口だった。

「正確には下手でもそれを恐れず身振り手振りや絵を使って私に説明しようとしてくれたからだろうね。」

もともとは雑誌で見たプロフェッショナルが君だったからなのだがね。と彼は付け加えた。

本間としては、通訳を介してなにか間違いがあったら困るために意を決してやっていただけのことだったのだが、彼にとってはそれが有りがたかったのかもしれない。

なんだ。と本間は肩の力が抜けるのを感じていた。



――翌朝、本間に深々と頭を下げる奥方たちや彼のスピーチの師匠たちに向け、本間は力強く頷き返すことができた。


尚、後日談としてのちにウィンザー公となった彼やその家族と本間(と弟子の間)の付き合いは半世紀近くに及ぶことも付け加えておく。

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最終更新:2012年05月19日 17:33