952 :辺境人 ◆WvgPQuc/WQ:2012/05/14(月) 17:18:04
<提督たちの憂鬱 支援SS「コレクター」>

 昭和21年 神奈川県相模原

「よくもまぁこんなデカブツを日本まで持ってこれたもんだな。戦車輸送用の鉄道があるからって船や列車に乗せるのも一苦労だったろうに……」

「要塞砲に転用するための戦艦の砲身を輸送するための給兵艦で運んできたそうだ。それでも港で陸揚げする時はかなり苦労したらしいがな」

「整備とはいえこの規模の大砲はさすがに管轄外だし防錆処理が主になるだろうが、これだけデカいと防錆塗料もグリスも山ほど必要になりそうだな」

 横浜などと比べればまだまだ田舎といっていい神奈川県相模原にある広大な立地を持つ工廠。日本の戦車生産のおよそ半分を担う相模原兵器工廠の敷地の一角に巨大な大砲が鎮座していた。巨大な大砲というのはただ存在するだけで男の本能をくすぐる物体なのだと実感させるその威容にうたれた男たちは感嘆と呆れのまじった感想を呟く。

 それはアメリカが満州に持ち込んだ物で名を11インチ列車砲リトル・ボーイと呼ばれる砲であった。日本の旅順要塞攻略用に10門以上が持ち込まれたものの開戦当初の空襲により一発も砲火を放つことなく破壊されたが1門のみが破壊されずに生き残り、鹵獲されたのである。

 90口径という常識外れな砲は砲身だけで25mを超えており超弩級戦艦の主砲ですらその長さは劣る。そんな怪物砲をタダ同然とはいえ手に入れたことから旅順要塞にでも要塞砲として据えつけてはどうかという意見もあったが鹵獲兵器の運用は苦労が多いこと、アメリカ合衆国の復活を阻止するためにかの国を貶める方針からアメリカの砲を使うのは問題があるとして断念された。フィンランドなどの友好国に供与するという案もあったが日本ですら持て余しかねない代物だけにかえってフィンランドの迷惑だろうと(やや日本からの一歩通行気味な)好意から却下された。

 結局は溶かして屑鉄として再利用する意見が強くなり、しかし屑鉄にするにも大きすぎて手間がかかるという理由から解体も後回しにされ旅順の一角で野ざらしになった巨砲に別の運命がもたらされたのは戦後のことであった。

 戦時中、多数の兵器が鹵獲された。米国の兵器は言うに及ばず、ソ連から入手した撃破されたドイツの戦車や航空機なども研究のために共食い整備で修理して稼動状態までもっていくなど並々ならぬ努力が費やされていた。

 だが、研究が終われば後はそうした兵器はむしろ場所を取るだけの邪魔者となる。一部は武装を取り外して満映などの映画会社に売却されたりしたものの相当数は廃棄されることとなった。そこで夢幻会の一部からアメリカ合衆国の滅亡によりスミソニアンやアバティーンといった軍事博物館が消滅する代わりに日本で同じような物が作れないかとの意見が出たことによりイベント好きの夢幻会メンバーと軍部を中心に陸海空のそれぞれの博物館が建設されることとなったのである。
 海は呉や横須賀、佐世保、舞鶴など軍港のある都市が、空は所沢や各務原、厚木など航空に縁の深い都市が名乗りを挙げて選定がなかなか進まず、陸も富士の戦車学校(史実の千葉戦車学校は将来的に戦車が機動できる土地は確保できなくなると分かっていたため創設されなかった)の近くに建設する案や大阪の砲兵工廠の近くに建設する案もあったが、戦車工廠のすぐ側ならばレストアも楽だろうという理由で一足先に決定したのであった。

 そしてここで夢幻会メンバーのコレクター魂が刺激され、あらゆる伝手を使って様々な兵器がレストアされていくこととなる。当然ながら趣味が関わると暴走しやすい面々だけに誰もが予想したようにエスカレートしていった。

953 :辺境人 ◆WvgPQuc/WQ:2012/05/14(月) 17:18:42
「やはり多少形が変わろうとティーガーは絶対に展示したいだろう、少年時代の夢的に考えて]

「こちらでは米ソの兵器の方が希少性が高い。となれば歴史的な価値からM3やT39などを保管するべきだ」

「第一次世界大戦時代に戦勝記念品として持ち帰ったA7Vなどもきちんと修復すべきだ。史実じゃボービントンですら野ざらしだったから錆だらけになって廃棄されてしまったがこっちではちゃんと保管したいし」

「戦車だけが展示品の全てじゃない。世界の銃器を集めた銃器コレクションを……」

「男たるもの大砲を忘れたらいかん! 旧式砲を片っ端から売り飛ばしたから国産兵器なのに希少性が高くなってしまった重砲たちも!」

 陸戦兵器のみに限ってもこれである。他の航空派や軍艦派も場所の選定も含めて喧々囂々の議論がなされ、どさくさに紛れて各国からの収奪品も分配・整理されていった(これには美術館などに収蔵されず有力者の個人資産へと流れていった物も存在した)。


 こうしてリトルボーイ列車砲もそのコレクションの一つとして日本に持ち込まれたのである。様々な大型兵器を展示するために広大な敷地が必要なことからもともと広めに作られた工廠の一角だけでは足りず周辺の土地を更に購入することで隣接するものの別の施設として(新兵器の生産を行う以上、一般人が気軽に入れる博物館と同じ敷地ではスパイに入り込まれやすくなってしまう)新規に博物館として開館された。リトルボーイはその目玉として正門近くに据えつけられ、その威容を敷地外にまで見せ付けることとなる。

 こうして軍や三菱などからの出資で財団法人として設立された陸軍兵器博物館の職員は退役した軍人の天下り先として元整備兵などを主としながらも傷痍軍人なども受け入れることで公益性を重視する姿勢を示し、運営費は一部は税金が投入されるものの基本的に企業や一般国民からの寄付などで賄われた。それだけでなく戦時中などに撮影された写真や映像など機密レベルの低い記録の保存活動や映画における展示品の有償レンタル、陸軍のPRを目的としたいわゆる広報センター的な仕事を請け負うことで年々増える一方の収蔵品の収集費や維持費を自前で稼いでいった(一説には「単なる箱物に税金を湯水のように使わせる気はありませんから」と大蔵省の魔王が言った影響とも言われている)。

 そして最終的には数百輌の兵器群を擁する世界最大規模の軍事博物館となり、史実より早くプラモデルの製造に手を出したタ○ヤ模型の職員がメジャーを持って入り浸るなど世界中の軍事マニアにとっての聖地と化していくのであった。

<完>

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最終更新:2012年06月26日 13:57