153. 攻龍 ◆KjSC6/6g5M 2009/05/17(日) 17:42:36
支援SSというにはあまりにお粗末ですが、一つ。

『「金剛」型巡洋戦艦開発秘話』とよばれるもの…

日露戦争の真っ只中、明治37(1904)年6月に発注された「筑波」型装甲巡洋艦が日本における巡洋戦艦発展の始祖である。
これは当時の高速巡洋艦に匹敵する速力と戦艦と同等の火力を持ったうえ、防御に関しても水平防御はともかく当時の交戦想定距離において必要十分な能力を持つ前ド級高速戦艦ともいえるフネであった。
主砲こそ当時の主力艦「三笠」と同等(当時の製作能力の限界から)であったが、その戦略価値は遥かに上回るものであった・・・が、その優位はすぐに崩れた。

「ドレッドノート」型戦艦と「インヴィンシブル」型巡洋戦艦の登場である。
これにより、前ド級高速戦艦「筑波」型はその価値を減らすところとなったのである。
夢幻会の面々は大いに悔しがった(歴史を知っているから余計に)が、当時は日露戦争の真っ只中。3連装主砲やタービン機関、主砲の多数配置などと言う新技術に挑む時間も金も無かったので、ある意味どうしようもなかったのである。

さて、いよいよ今回の主役の話に移ろう。
「金剛」設計前、夢幻会ではその設計、製作をどうするかの会議が開かれていた。
問題は史実同様、全面的にイギリスに依頼するか、日英合作とするか、全部国産とするかというものであった。
色々な議論が交わされたが、最終的に日英合作とすることに決定した。
これは、夢幻会系の技術指導などで史実よりかなり改善されてはいたものの、やはり技術的に不安な部分があったこと、日英の外交的な点などが関係したと言われる。

明治42(1909)年にビッカーズ社(以下毘社)から売込みのあった13.5in-343mm×8案をもとに計画がスタートしたのだった。
主砲については、当時毘社が輸出用に開発していた14in-356mmに変更された。これは夢幻会的にWW1に間に合う範囲内で納品される最大の主砲であったからだった。(英国からは15in-381mm主砲が提案されたが、WW1に間に合いそうに無かったので却下された。)
船体構造に関しては、史実同様「レシャド五世 - エリン」をタイプシップとして、これの巡洋戦艦仕様として開発が進められた。これは後に艦の居住性が他の戦艦に比べて悪いという欠点となった。
機関部は、史実同様に石炭・重油混焼缶+直結タービンにより計画出力で64,000馬力を発揮可能とした(実際は公試全力出力で78,000馬力を発揮した)。

155. 攻龍 ◆KjSC6/6g5M 2009/05/17(日) 17:45:35
あ・・・えらいこっちゃ、順番間違えた・・・これ本来は2番目になるはずでした。

日英間で最大の議論が交わされたのは防御構造についてであった。
これは毘社側は自国戦艦の装甲減厚版を提示したのだが、日本側は従来とはかなり異なった防御構造を提案した為、その製作が可能であるか否かから議論が始まったのである。
最初毘社側は日本提示案について「机上の空論であり、検討の余地無し」などと反応したが、こちらから重量計算書や防御理論その他の具体的な資料が提示された上、「これが実現しないのならば計画は白紙」との強い意見から船体防御構造の再設計を行った。
その結果、排水量は原案から大きく増えたものの、日本側の求めた防御構造を織り込んだ設計案が何とか出来上がった。

従来と異なる防御構造…後に集中防御構造と呼ばれるものであるが、流石にそれをそのまま採用は出来なかった。これは海外発注の設計の為、その設計を全部提示するわけにはいかなかった為であった。
さらに、従来の装甲防御と異なるのが、敵砲弾を外側ではじくことを考慮に入れたものであった。従来型は艦内の多重装甲で砲弾エネルギーを吸収させるものであったのだが、これでは大威力の砲弾には対応できないからだった。
これらはイギリスの設計陣に大きな衝撃を与えるものであったが、当初は受け入れられることは無かった。これが受け入れられたのは、ジェットランド海戦以降の設計見直しからであった。

日本側(夢幻会)としても、全て新型の設計を提案して全部コピーされるわけにはいかなかったので、ある程度の妥協をせざるを得なかった。
その結果、垂直装甲に関しては縦が水線下〜中甲板、長さが機関部全面と各砲塔部に223mm(傾斜15°−実質290mm相当)というかなり強力な垂直防御を手に入れた(代償として中甲板以上は弾片防御50mmに減厚された)。また水線下に50mmの延長装甲が艦底まで達して、水雷防御を兼ねていた(大和の舷側装甲配置をイメージしてください)。
水平装甲については、従来喫水線付近に主要装甲板を持っていたのを、中甲板に主要装甲板をおくように改められた。これにより艦内空間は余裕が得られるうえに、一枚物の装甲板とする事で重量あたりの防御効果を有利に出来た(例:75+75mm…105mm相当よりも優れる)。その結果機関部上面で127mm(中甲板)+38mm(下甲板)、砲塔部で140mm+51mmと当時の常識外に強化されていた(これはダンケルクを上回る)。
主砲塔については史実とさほど変更がない。ただし日本に回航後防火シャッターや弾火薬庫への注水装置が設けられ、額面数値以上の耐久性を得る努力が払われた(英国式砲塔は構造上防火シャッターがないと砲塔爆発→弾火薬庫誘爆になりやすい)。
主砲の測距儀は原設計には含まれなかったが、日本に回航後艦橋頭頂部と2.3番砲塔に設置された(これは当時英国製中型測距儀は機密扱いであった為である)。
副砲以下は省略します。
水中防御は史実金剛やイギリス戦艦と比べて大幅に強化されていた。水雷防御隔壁を兼ねた舷側延長装甲(50mm)があったためである。ただし石炭の収納・取出しにはかなりの重労働が要求され、機関員からは非常に大きな不満となっていた。そのため早期に重油専燃化工事が行われる必要が生じた。
154. 攻龍 ◆KjSC6/6g5M 2009/05/17(日) 17:43:55
艦内居住性についてはその後の国産戦艦に比べて劣っていたが、それでも史実と違いトイレだけは改善されていた。そう、和式便器の全面採用であった。これは地方出身の新人海兵にとても喜ばれることになった。
あと、艦内の通風装置が強化され、南方でも灼熱化に苦しむことは少なくなった。

これらの改設計を織り込まれた「金剛」型巡洋戦艦の1番艦  金剛の起工は明治44年1月に毘社のバーロー建造所で行われ、2〜4番艦は予定通り日本国内の建造所で建造された。
この「金剛」型巡洋戦艦の基本設計はその姿を変えつつその後の国産戦艦に受け継がれていった。

金剛型巡洋戦艦(新造時  私案?)
常備排水量:30,800t
全長:214.6m
全幅:32m
ボイラー:36基
主機:直結タービン、2基、4軸推進
機関出力:計画出力で70,000馬力  公試全力出力で85,000馬力
最大速力:27ノット
航続距離:14ノットで8,000浬
武装
・四五口径36cm連装砲4基8門
・五〇口径14cm単装砲6基16門
装甲(基本)
・垂直部  水線223mm(傾斜15°)、上部副装甲帯50mm、水中弾防御兼水雷防御隔壁50mm
・水平部  機関部甲板127mm(中甲板)+38mm(下甲板)、弾火薬庫甲板140mm(中甲板)+51mm(下甲板)、
・その他  バーベット229mm、砲塔前楯229mm、司令塔254mm

なお、本艦の基本設計に携わった設計者ジョージ・サーストン卿の語るところによると…ジェットランド海戦前は「アレは基本設計に携わっただけだ。その後は日本が勝手に設計を弄繰り回したに過ぎない。決して私の作品ではない!」であったが、海戦後は「あのフネは私と日本の誇るべき合作だ。なぜ(英国)海軍はあのフネを採用しないのだ!」とのことであった。
また、本艦完成により夢幻会関係者は「WW2にも通用出来る『高速戦艦』が完成した」と大喜びであったと言われた。

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最終更新:2011年12月31日 16:34