304. 攻龍 ◆KjSC6/6g5M 2009/11/20(金) 01:20:20
大分年代をさかのぼりますが、本編にちらりと出ただけのフネに少々光を当てて見ます。

モニター『三景艦』登場。

日清戦争、その中でも海軍にとって一大決戦となった黄海海戦。
その大海戦は世界海戦至上、砲戦と単縦陣の有利を世界に示したものだった(それ以前は、リッサ海戦の戦訓たる「砲戦&単縦陣よりも衝角&横列陣による体当たりが有利」が主流を占めていた)。
その海戦終了後、凱旋を果たした連合艦隊だったが、その中に満身創痍の船体に鉄板を張り、上部にはキャンバス布を張り、その上にペンキを塗った痛々しい姿の艦がいた。名を松島といった。

その生い立ちからかなりいびつなフネであったが、日清戦争の勝利でその存在価値自体を失ってしまった。
次に来るであろうロシアとの死闘の前には当然役不足、かといって艦齢から廃艦は論外。
正直、次代を担う若人に胸を貸す練習艦以外には使い道が無かったのだった。
普通なら、このまま"役立たず"のレッテルを貼られたままその生涯を終えるのであった…そう、普通なら。

人材そのものがチートといってもいい憂鬱日本、その日本を引っ張る夢幻会の連中は対ロシア戦役(日露戦争)のシュミレーションで頭を抱えていた。
どうやってみても、旅順が初期の戦闘で日本の壁になるのだった。
良港たる旅順は要塞化され、当時の水上艦の戦闘距離では制圧は困難を極めたし、その艦隊は逐次強化されているので万一無力化に失敗して暴れられたら陸軍は完全に干上がり、大陸の拠点を失うことになる…。
その存在は陸海両軍にとって極めて厄介な"くさび"になったのだった。

この旅順制圧に多種多様な案が提案されては様々な問題から却下され続け、半ばやけになったある高官の一言「だったら要塞の射程外から巨砲を叩きつければいいじゃないのか」から流れは音を立てて変わっていった。
先の一言を実行に移すべく実働部隊は選定に当たったが、鋭意整備されている新型戦艦はとても博打じみたプランに割く余裕は無く、巡洋艦戦隊には巨砲自体が無い…。
頭を抱えていた連中のその目に映ったのは…いまや艦隊からはずれ練習艦として新人教育にあたっていた三景艦だった。
「をい、アレ…いけるんぢゃないか」
早速練習艦に乗り込んでの実物確認、事務所に戻って設計図の確認、改造できる工程余裕を工廠に確認、改造図作成の打ち合わせ…それらの努力は実を結び、三景艦はその爪を研ぎなおして"戦力"として艦隊に復帰することとなった。

その改造は予算と工廠の余力問題・艦齢等諸般の事情からある程度妥協されたものであったが、それでも"対旅順作戦"任務に必要な内容を満たすべく努力が払われた。
内訳としては…
  ・最大の商品[存在価値そのもの]たる主砲[仏32cmカネー砲:三十二拇加砲]を大仰角化(10→40度)し、最大射程を大幅に向上(8,400→24,000m、弱装薬使用時)した。
  ・損耗の激しいボイラーを国産新型の宮原缶(石炭専焼)に交換し、新造時以来の全力運転を可能とした。
  ・大仰角改造工事(砲塔を持ち上げて大仰角化・その重量保障で砲塔装甲撤去)で最大射程時の安定性向上の為船体側面にバルジを装着。
  ・長距離射撃時に自艦からの弾着確認が困難なため、陸上や僚艦からの無線弾着指示に対応すべく無線室の設置。
等という、完全に"モニター"としての運用を前提としたものであった。

これらの改装を終えた三景艦は、日露戦役初期に発生した旅順攻略戦闘において当初想定された目的で使用され、結果旅順艦隊に対し大打撃を与えることに成功、遁走を図る同艦隊に連合艦隊総出のたこ殴りで全滅…という大戦果を上げることになった。
さらに日本海海戦において、かつてのライバル鎮遠とともに第3艦隊に属した三景艦は本隊到着までの間バルチック艦隊に対し威力偵察を実施し、以降の戦闘を有利に計るべく尽力した。

その後、再びその目標を失った三景艦は…今度こそ練習艦としてその任務を全うし、かつての栄光をその胸に若人を育て上げ、その生涯を終えていった。

モニター『三景艦』
基準排水量:4,450t
全長:90m 全幅:18m
機関:宮原缶8基(石炭専焼) - レシプロ2基2軸 6,000hp   最大速力:15kt(実績値)   
・三十二拇加砲(カネー式38口径32cm砲)  単装1基
・40口径12.7cm砲      単装12基
・37mm5連装機砲            5基

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最終更新:2011年12月31日 16:40