710. ひゅうが 2011/12/27(火) 02:39:57
提督たちの憂鬱支援SS(短編)――「我ら蛮人に非ず」

――西暦1890年、大英博物館の司書が発表した書籍は、世界を驚かせた。
題を「日本の算法とその解説」としたその書籍は、1000ページ近い大著であるにも関わらず大英博物館の出版部に問い合わせが殺到。
隣国フランスやドイツ、イタリアなどの各国語訳が出るなどの大ベストセラーとなった。

この本は、極東の小国である日本が伝えてきた独自の数学について概説しており、それ自体は目新しさがありこそすれ、まったく注目に値するものではない。
しかし、その後半部分に記されていたものこそが問題だった。

「算額」。
写真と図入りで掲載されたこの奇妙な風習は、神にささげる目的で一般庶民から商人、サムライまでもが数学をまるでクロスワードのようにたしなんでいた極東の伝統だった。
恐るべきことに、それに付録していた資料には事もなげに日本列島の識字率は70パーセントを超えていたとも記されている。
著者である南方熊楠の語り口と相まってこの本は社交界の話題となり、欧州ではにわかに極東の島国への関心が高まって行った。
そして翌年に出版された南方が編集した匿名の著者による「算法少女」という小説は折からの小説ブーム(シャーロックホームズシリーズなどと同じ推理小説ととられた)その動きに大いに寄与したのだった。

そんな中の一人にフランスの数学者ポワンカレがいた。
彼は、南方の著書の末尾に掲載された一つの問題を見て愕然となった。
1822年に相模国(神奈川県)の寒川神社に奉納された算額には、「六球連鎖の定理」と後に呼ばれる未発表の幾何学的法則が記されていたのである。

――外殻の球体に内接する2つの球体の周囲を取り巻く、互いに接する(連鎖)球の数は常に6となる。

これを、19世紀初頭に入澤新太郎博篤という名の数学のプロフェッサーの助手が証明し、数学書に掲載していた・・・
この事実は、ポワンカレの手によって確認という形で発表され、数学界に衝撃を与えたのだった。

当然、著者である南方熊楠のもとには数学者が殺到。
争うように彼の手で西洋数学に直された例題群を読み漁り、再び驚愕する。

例題を書いた者の数は様々であり、百姓の娘から殿様まで幅広い階級にまたがっていた。
このことを訊かれた南方が語る日本列島の人々の姿に再び西洋諸国は衝撃を受けることになる。

初等学校生徒程度の町人の子弟がピタゴラスの定理を使いこなし、農民は余暇を使って数学を楽しみ、求婚の際にはどんな僻地の村でも自ら詩(俳句や短歌、甚句など)を吟じなければ無教養とそしられる。
こうした庶民の暮らしは、19世紀以前に夢想された古典的ユートピアそのものだったのだ。

もちろんこうした「庶民への過剰な教育」に力が注がれ過ぎたがために徳川幕府は近代化された工業力の整備に失敗したとする論調もあった。
だが、そういった議論は、1894年の日清戦争と続く日露戦争で一掃された。
ことに、日露戦争の転換点となった日本海大海戦において「兵が全て自分の名前を書け、兵器の取扱説明書を読めた」ということを知り、また海戦に参加した兵士が英国の雑誌に論文を投稿するにあたって、疑念は驚愕に変わったのだった。

その頃には、近代的測量法をほとんど自力で構築して精密極まりない地図を作り上げた伊能忠敬の業績や、官吏としては恐るべきほど清廉さを重視し薄給で国家に奉仕した武士階級への再評価が進んでおり、かつて南方熊楠が代弁した事実を欧米列強に認知させていた。

「我々は蛮人に非ず」。

彼の出版した本を嘲った大衆紙の記者に南方熊楠が放った一語は、英国や欧州の上流階級の共通認識となったのであった。
711. ひゅうが 2011/12/27(火) 02:42:12
【あとがき】――短いですが投稿しました。
やっと自前のPCが使えるようになりましたのでこちらから投稿です。
実はチートな江戸時代の日本を欧州が認識するとしたら何かなと考えましたらこういうものに行き着きました。

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最終更新:2011年12月31日 16:55