44 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/07/06(金) 23:55:19




 スイスは中立国である。


 これはナポレオン時代の終わりを象徴し、その後のヨーロッパを決めた会議である、
『ウィーン会議』において国際的に認められた事であり、そしてそれは会議のあった1815年から、
第二次大戦が終わる1942年まで、およそ130年もの間固く守られ続けてきた。

 しかし、その中立も終わりを迎えようとしていた。



         提督たちの憂鬱 支援SS ~永世中立の終焉~



 スイスに中立国という肩書きを与えたのが国際会議であるならば、
その肩書きを奪ったのもまた国際会議であった。その名を『サンタモニカ会談』と言う。

 今や日本史、世界史の教科書でも一段落を割かれる程のこの会談は、
とかく日英枢軸で世界に線を引いた事ばかりが注目されがちだが、その裏で話し合われた問題には、
これまで永世中立国、欧州富豪の金蔵、諜報機関の戦場として機能していたスイスの扱いもあった。

 事の発端は第二次世界大戦の休戦まで遡る。この時スイスが枢軸国に完全に囲まれる事が確定したため、
スイスに財産を預けていた非枢軸系の資産家達は潮が引くようにスイス銀行から資産を引き上げ始めたのだ。
これによりスイスの銀行は、政府の財政出動さえ焼け石に水なレベルの大損害を被った。

45 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/07/06(金) 23:55:50

 そこにつけこんで来たのが、スイスを包囲する枢軸国である。
スイスが枢軸国にとっての安全地帯(他国に手出しされにくい)となったのに合わせて、
枢軸諸国の高官や資本家らが、非枢軸系資産家の撤退と入れ替わるようにして預金を始めた(※1)。

 また、ドイツのヘンシェル社やフランスのルノー社など、枢軸系の企業がスイス国内への進出を進めた(※2)。
支社や工場の生み出す雇用は馬鹿にならず、スイス国内の失業者はこういった枢軸企業に流入していく。

 こうしてスイスは、サンタモニカ会談前には既に経済において枢軸への依存を強めていたのだ。
そして枢軸国の代表として会談に出席したアドルフ・ヒトラーはこれを背景として、
これから進むであろうスイスを枢軸へ編入する動きを黙認するよう日英の代表へ強く迫った。

 そして、これに対して日英が懸念を示したかと言えば、両者は眉1つ動かさなかった。
元々日英の間では、スイスが枢軸に膝を屈する事は織り込み済みであったし、エリコン社などの技術が枢軸に渡るのは惜しいが、
いち企業の技術を守るためにこれに反対できる程日英には余裕が無かった。そもそも、イギリスはともかく日本の場合、
夢幻会の努力によって国内の軍需企業が順調に成長していたため、エリコン社の価値は相対的に低下していたのだ(※3)。

 それだけでなく、日英の資産家の資本はその殆どがスイスから引き上げられていた事、
枢軸に加入しない場合は陸の孤島と化す事、北欧はスウェーデンが国際協力機関の設置場所に内定している事から、
日英には最早体を張ってスイスを守る事のメリットが無くなっていた(国際連盟は消滅しているも同然である)。

 かくして、あたかもミュンヘン会談におけるチェコスロバキアの如く、スイスは列強の庇護を失ってしまった。

46 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/07/06(金) 23:56:33

 ドイツを除いては数少ない列強である日本とイギリスが、スイスの中立を支持するどころか、
まるで死体に群がるハイエナの如く専門家の引き抜きを始めている現状に多くのスイス人が憤慨していた。

 スイスの武官の長であるアンリ・ギザンもその1人である。

 彼はスイスの武装中立の強力な推進者であり、またリュトリでの熱烈な演説から国民の支持も大きかった。
彼の構築した国防戦略は、枢軸側も突破法とそのコストに見合うだけのリターンを見出せなくなる程完成度が高かった。
しかし、彼の国防戦略はあくまで枢軸側が武力に訴えた場合のみその真価を発揮するものであり、
枢軸側が新たに取り始めた、こういった『経済的な』侵略にはあまりにも無力だったのだ。

 それでもギザンはスイスが枢軸に取り込まれないよう、官民様々な方面に強く働きかけを行った。
だが、結果から言えばこの働きかけは失敗に終わる。行政側は経済的な理由から枢軸へ接近せざるをえず、
民間企業も影響力を増す枢軸の資本と、技能者の流出によるダメージから枢軸系企業との協調姿勢へ動いていた。
さらにスイス国内のドイツ系住民が、あくまで武装中立を掲げるギザンに対し『時代遅れ』と大規模な批判を展開。
行政との摩擦も相まって、彼のスイス国内における地位も揺らいでいく。

 そして1945年6月4日、アンリ・ギザンは全ての職務を退き、静かに引退生活に入った。
一説にはドイツ、イタリア等の働きかけを受けた政府が彼の肩を叩いたのではないかとも言われているが、その真相は定かではない。
ただ、ギザンは引退に当たって、次のような言葉を残している。それはごく簡潔なものだった。


               「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」


 ギザン引退後のスイスの運命も、またこの言葉を彷彿とさせるものだった。
枢軸国は、かつてのように中立を標榜する国を武力で踏みにじるような事はしなかった。
そのかわりに、相手を外交的に孤立させ、経済的にじわじわと国内を侵食していき、
そして中立という看板を、少しずつ、着実に削り取っていったのだ。

 スイスの永世中立も、こうして終焉を迎えた。老兵の如く、中立も死なず、ただ消え去ったのである…………


                   ~ f i n ~

47 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/07/06(金) 23:57:27

(※1)
 また、スイスはドイツ国内で迫害を受けていた所謂『退廃芸術』作品の避難場所としても機能している。
ヘルマン・ゲーリングに代表される退廃芸術に一定の理解があった人々は、あの手この手でかき集めた芸術作品を、
スイスに作った私的な貸し金庫へせっせと運び込んでいたという。

 ゲーリングは退廃芸術展のために押収された作品を引き取って私物化したり、
武装親衛隊がユダヤ人から押収した作品をヒムラーら親衛隊上層部に掛け合って私物化していた。
その熱心な様子を見たラインハルト・ハイドリヒは後に、「彼は自身の事をルネサンスの人間と呼んでいるが、
その実体は極めて世俗的な人間に過ぎない」と語っている。

 そんなゲーリングのコレクションの中で特に有名なものが、
オランダ人ハン・ファン・メーヘレンから購入したフェルメールらによる17世紀絵画群である。
これらはゲーリング本人によって『如何なる鑑定にもかけるべからず』という奇妙な遺言が遺されているが、
その理由については都市伝説の域を出ないが、ゲーリングが何らかの手段で絵画群が贋作である事を知り、
自身の名誉を守るために贋作である事を闇に葬ろうとしたのではないかという見方が強い。
ゲーリングの死後、そして21世紀になっても、この絵画群は鑑定にかけられておらず、真贋は不明のままである。

(※2)
 この進出攻勢には勿論、スイス支配の第一歩として経済を依存させようとする枢軸諸国の思惑もあるが、
もう1つにはスイスを枢軸の『要塞化軍需工場』にするという計画があった。スイスはヨーロッパ諸国の中でも、
外界勢力から最も攻撃を受けにくいという地理的アドバンテージがあるため、万が一日本と全面戦争になり、
戦略爆撃機や弾道ミサイルによる猛撃を受けても被害が少ないであろうスイスに工場施設を整え、
本土が大損害を受けた時はスイスの工場を使う事で急場を凌げるようにしようと考えていた。

(※3)
それでも日英は、全体主義を嫌うスイス人技術者らが自国へ脱出できるよう手を尽くしていた。
特にイギリスはその老獪さをいかんなく発揮し、エリコンFF20mm機関砲の開発チームのおよそ3割を引き抜いている。
日英によって専門家が引き抜かれた企業は、エリコン社の他にもSIG社(銃器)、サンド社(薬品)、
スイス国営製作所(航空機他)が挙げられる。これら人材流出はスイスの高い技術力に少なからぬ打撃を与えた。

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最終更新:2012年07月07日 08:11