5. 名無しモドキ 2011/03/06(日) 21:27:52
「サヨンの鐘」    −憂鬱世界版− 史実での、サヨン・ハヨンさんのご冥福をお祈りします。

  「無情というか、人間の運命というものは、如何にしても代え難いとしか思えませんな。女の子が丸木橋で、滑って
流されるなんてことのないように、一車線とはいえ自動車も通過出来る橋を造ったんでしょう。」台湾の高原地帯とは
いえ、礼装を着た陸軍中佐は、額に吹き出る汗を拭きながら隣に座った、内務省の官僚にささやいた。
  「それは、どうですか。親切な日本人駐在の出征を送るときに増水した川に、一人の少女が流されたという史実を我々
が知っているからそう思うだけかもしれません。さあ、式典が始まります。今日は、純粋に、勇敢な彼女の冥福を祈り
ましょう。」

  山深い、リヘヨン村には周辺の村々からも大勢のタイヤル族が正装して集まっていた。県知事の、少女を讃える辞、
タイヤル族頭目による哀悼の辞、そして、はるばる東京から、訪れた四人の女学校の生徒により、真新しい四阿屋風の
記念碑に備えられた鐘がつかれた。群集のあちこちから嗚咽の声が聞こえた。

  サヨン・ハヨンは、台湾タイヤル(日本統治で高砂族の一派とされる)族リヘヨン村(社)で生を受けて、小さい頃
から利発であった。小学校では、日本人の女性教師が、彼女の才能を惜しみ両親を説得して奨学金試験を受けさせた。
日本統治により、女子を含めて初等教育は普及していたが、高砂族が中学校に進学することは、かなり大きな村でも一年
に一人という時代である。リヘヨン村(社)からは、初めての女学校への進級者であった。
  サヨンは、両親以下大勢の村人に、送られて恩師の女性教師に付き添われ、彼女の旅立ちに合わせるかのように新しく
できた橋を渡って台北の女学校に出発した。日本人、漢族などが学ぶ女学校では、高砂族は珍しかった。  この女学校の、
日本人校長が民族融和に熱心で、先住民族である高砂族の歴史文化を学ぶ科目などを設けていた。サヨンは高砂族の中で
は、最優秀の生徒であったことから、この校長は2年生の時に、提携している東京の女学校の編入試験と、その女学校が
外地からの生徒のために設けている奨学金をサヨンに薦めた。
  高砂族にとって、台北という都会だけでも遠隔の地である。しかし、サヨンは恩師の恩に報いるためにも、小学校の教
員資格を取ろうと思っていた。その女学校が卒業後の課程として小学校教員のための専科を設けていると知ると、高砂族
の女子教育のためにと東京へ行くことを決心した。

最難関ではないにしろ。東京でも名の知れた女学校に始めて台湾先住民の編入生がくるとといことは校内でもちょっと
した話題になっていた。ここで、始めてサヨンは疎外感を味わうことになる。
「まあ、お顔に刺青なさっているのかと思ったら素顔ですのね。」「ヘビとかもお食べになるの?東京ではあまりいませ
んのよ。」「イノシシ狩りとなさってましたの。」「蛮族なのに日本語がお上手ですのね。」
  これらは、お嬢様方の、悪気のない、少なくとも本人らにとって悪気のない天然に近い偏見であるが、サヨンの心を傷
つけた。
6. 名無しモドキ 2011/03/06(日) 21:31:46
  この女学校でも、サヨンは忘れ得ぬ恩師に出会った。ロシア系と中国系のハーフである、美術の若い男性教師で
あった。自分の外見から、からかわれたり、仲間外れにされたこと、それが悔しかったこと、勉強をすることで次第
に一目置かれるようになったこと。そして、自分のことを知ってもらうために努力したことを彼女に伝えた。
  やがて、サヨンは、学校を説得して、許可を貰い母親からもらったタイヤル族伝統の髪飾りをするようになった。
そして、サヨンはタイヤル族のことを知ってもらいたいと思い、文化祭でタイヤル族の文化について展示をすること
にした。サヨンが一人で、展示のための作業をしていると、クラスでも目立たない無口な生徒が、手伝いたいと言っ
てきた。彼女は、東北地方の学校から途中で編入してきた生徒で、時々なまりが出るため、からかわれている生徒だ
った。
「サヨンさんのような標準語がうらやましいです。でも、あなただけは、わたしのことを笑ったりしません。どうか、
友達になってくれませんか。」彼女はそういうと熱心に、サヨンにタイヤル族のことを聞いては展示品の説明文など
を書いてくれた。

  これが、切っ掛けになり、サヨンには何人かの友達ができた。1938年のある夏の日、放課後、サヨンたちは帰り道に
遠回りをして多摩川の土手を歩いていた。前日の大雨で川は増水していた。その川岸で、大勢の小学生が騒いでいた。
彼らの指さす方には、小学校低学年の男の子が川に流される姿が見えた。
  サヨンは、それを見るなり、制服のまま川に飛び込んだ。サヨンは浮かんだり、沈んだりしながら男の子に近づいて
抱きかかえたが、一緒に流されて行く。やがて、近所で作業していた大工たちが、急を聞いて駆けつけてロープを投げ
てくれた。サヨンは、男の子をロープに結わえたが、そこで力尽きて流されていった。官民あげての捜索の結果、サヨン
の死体は翌日収容された。

  このニュースは、ラジオ新聞などが大々的に取り上げた。これは、日本中の感動を呼び、サヨンの両親のもとには多額
の義援金が寄せられた。サヨンの両親は、サヨンの兄弟のための教育資金だけを受け取ると、残りの義援金は、高砂族の
教育資金のために寄付した。この資金は、サヨン奨学金として、毎年、更に寄付を集めて内地留学を志す、高砂族子弟の
ために使われている。
  サヨンの通っていた女学校では、生徒父兄が募金を集めてサヨンのために慰霊の碑と、サヨンを記念した一対の鐘を、
女学校と彼女の生まれ故郷であるリヘヨン村に贈った。この鐘が「サヨンの鐘」と後に呼ばれるようになる。

  日米開戦直前、アメリカのハースト系新聞が、「日本人とは」という特集記事の中で「日本では、女子学生が水兵服
のおさがりを着ている。しかし、泳ぎは、日本の水兵と同じく上手ではない。」とキャプションをつけた戯画を掲載した。
猿顔のほほに、サヨンと刺青をした女学生が流されていくその戯画が伝えられると、人種偏見的な記事と相まって日本で
は大きな怒りの声があがり、アメリカでも心ある人々の顰蹙をかった。
  開戦後、「アメリカの水兵さんは、泳ぎが上手いから撃沈されても泳いで帰れるよな。」と思いを込めた幾多の必撃の
砲弾爆弾がアメリカの軍艦の襲った。
  
  あまりにも扇情的な戯画は、日本の特務機関が、アメリカ人画家に手を回して描かしたことは、別な所でも、絶対に出
ない話である。
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最終更新:2012年01月01日 09:48