99 :ひゅうが:2012/07/27(金) 19:19:02


提督たちの憂鬱支援SS――「マルタの歌声―Escort`lied` of Malta―」


――西暦1962(昭和37)年7月 地中海 マルタ島


二人の男が歩み寄った。
一人は東洋人の初老の男で、優しげな垂れ目にも関わらず口元の皺が下へ寄っており奇妙な違和感を覚える容貌をしていた。
もうひとりはアングロサクソンであることが明らかで、いかにも英国紳士といった様子。しかし制帽をわずかにあみだにかぶっている様子はこの男性がプライオリスクール出の貴族貴族している性格とは真逆の性質をもっていることを一目で印象付けるものだった。

二人は、彼らを遠巻きに見つめシャッターを切る無粋な記者どもを無視してバレッタ城塞の1000年の歴史がしみこんだ石畳を一定のリズムで歩み寄り、そして乱暴に互いを抱擁した。

「元気だったか!チム!!」

「トム!貴様も健勝そうでなによりだ!!」

二人の口からほとばしるのは俗に「ダートマス訛り」と称される少しだけくだけたクイーンズイングリッシュだ。
それもそのはず。
この二人は齢70を目前にしながらもまるで背筋に黒檀の棒でも入っているかのような男。青い海を通じて結ばれた絆を持つ組織に奉職していた者同士だった。
日本海軍予備役大将 有賀幸作と、英国海軍予備役大将 サー・トーマス・フィリップス。
彼らは再会を祝しあう。




これより四半世紀の昔、マルタと呼ばれるイタリア領のこの島は何度目かの戦火に包まれた。
それじたいは珍しくもない。
この近辺では紀元前の昔から、フェニキア人、ギリシア人、ローマ人、アラブ人といった名だたる民族が興亡をかけて争ってきた。
というのも北にはシチリア島、南にはかつてカルタゴと呼ばれたアフリカ北岸を見る地中海の最も狭まった海域にこの島は浮かんでいたためである。
しかも19世紀の終わりになると地中海とインド洋という二つの海が運河で結ばれ、その戦略的な価値は上昇しこそすれ低下することはなかった。
そしてその争いの系譜に新たな勝者と敗者が加わったのはこの20世紀の前半もそろそろ終わろうとしていた頃だった。

大日本帝国と大英帝国。当時は蜜月とも称された同盟を結ぶ間柄の二つの国家は、旧世界秩序を撹拌せんとする「枢軸(アクシズ)」の主軸イタリアとドイツと対決した。
大英帝国の心臓インドから伸びる大動脈、スエズ・地中海航路を守ろうとする人々と切断せんとする人々はこの小さな島の周辺で夥しい量の血を流していたのである。


第2次世界大戦初頭。
まやかし戦争と呼ばれるポーランド崩壊後の1年あまりの間、西欧は平穏であった。
もちろん第3共和政フランスが国家を傾けてまで建造したマジノ要塞線を挟んで連合国(ユナイテッドネイションズ)と枢軸国(アクシズネイションズ)はにらみ合いを続けていたしはるか北の永久凍土ではスオミの武士たちとロシアの熊どもが互いに荒い息を吐いていた。
しかし、この地中海は違った。
先の欧州大戦において大英帝国を失血死寸前に追い込んだドイツの鮫たちとその眷属たちは陸での鬱憤を晴らすかのように暴れまわり、それに触発されてローマ人の末裔たちも自分の庭で思う存分活躍していた。
世界恐慌の影響を受けて誇れるだけの海上の城を生み落とせなかった二カ国は合理的にも海面下に活路を見出し、国運を託していたのだ。
もちろん国力的に劣勢である独伊が他の枢軸諸国をつなぎとめるために目に見える戦果を欲していたという生臭い事情も存在していたが、その戦略は図にあたった。
当面の主敵となった「かつて」七つの海を支配したという大英帝国海軍は条約によって海面下の敵の数を制限するだけで満足しており、四半世紀前と同じ過ちを繰り返したのである。

愚かとしか言いようがなかったが、それを補って余りあるほど彼らは迅速に行動した。

100 :ひゅうが:2012/07/27(金) 19:19:35

大英帝国海軍は旧植民地人たちにカリブ海の基地を差し出すかわりに中古の護衛艦艇を「とりあえず50隻」譲り受けることにした。そして戦力化の時間を稼ぐべく同盟国にして同じく四半世紀前にこの海で奮戦した同業者を用心棒に呼んだのである。

彼らこそが大日本帝国海軍。
新興国ではあるが海軍に関しては最強の一角とも称される者たちだった。
日本人は多数の輸送船を守る牧羊犬を量産し、太平洋や日本近海という世界有数の荒い海で使用することを前提に磨き上げられた艦艇や搭載兵器をもって地中海に乗り込んだのである。

もちろん、潜水艦という名の主力兵器の量産体制に入った独伊両国は牧羊犬ごときにはひるまず獲物を狙う群狼を次々に放つ。
対する日本海軍は、新型の高性能ソナーに加えレーダーや多連装噴進爆雷(通称ヘッジボッグ=針鼠)に対潜航空機群といった新兵器を投入。
職人芸の域にまで高められた錬度をもって相互に連携し不届きな狼を狩ってゆく。
1939年末から1941年中盤の1年半、地中海では互いに200隻以上の「主力」艦艇がぶつかり合った。


あるUボートは強固な輪形陣を喰い破ってインド洋の女王とうたわれた高速貨客船を真っ二つにして沈め、ある芸術家の名を持つイタリア潜水艦は襲撃を終えて脱出する味方を逃がすために河の名を持つ日本巡洋艦に体当たりした。
ある護衛艦はエジプトへ送られる英国陸軍機甲師団を搭載した輸送船を魚雷攻撃から守るため自らの身を8本の魚雷の射線上にさらして轟沈し、ある航空機搭載護衛艦は「やる気を出した」独伊空軍の空襲から大型タンカー群を守るべく囮となって艦長以下実に半数もの乗組員を失いながらマルタ沖へたどり着き座礁した。

戦史はこの壮絶な戦いを「地中海の戦い」と呼ぶ。



――「地中海の戦い」はその後の太平洋で行われた華々しい大海戦の陰に隠れてあまり注目されることもなかった。
にわかにこの隠れた血戦が集まるのは、大英帝国の宿敵にして錯乱の結果仲間のはずの自国海軍をだまし討ちされたフランスの「ル・モンディア」紙が掲載した特集による。

いわく、「英国人は合衆国に阿(おもね)るためにわざわざ日本海軍の戦力を地中海で消耗させた」。
いわく、「自らは海軍の主力を出し惜しみしておきながら、日本海軍には主力艦隊を派遣させようとし、あまつさえ自らは血を流さずジブラルタル奪還を強制した」。
そしてまたいわく「こうして消耗させた日本海軍を合衆国に始末させようとしつつも英国の戦いでは自分勝手にも自国防空に畑違いの空母艦載機を転用させた」。
「合衆国は義勇の名の下に手を汚さないうえ兵器輸出で暴利をむさぼったのに、いったん使えるとなると日本戦闘機を実質無償で自国に供与させ一部を合衆国に横流しした」。

フランス海軍の上級将官たちのインタビューや専門家の解説を交えて掲載されたこの特集では最も多くのページが「地中海の戦い」に割かれ、こう結んでいた。

『ああ健気なれ極東から来たりし英霊たちよ。唾棄すべしジョンブルの卑劣を。天はこれを許すべからじ!!』


この反英感情万歳の特集は大いに受け、数日を経ずにベルリンの雑誌の表紙を飾る。
こうなると「海外の反応」にとりわけ関心を持つ性質を持つ日本人、それも対米戦を前にした「英国の裏切り」を忘れていない日本人たち――現在40歳以上という社会の中核を構成する――の脳裏に再び不審の火がつく。
「知られざる日本海軍の奮戦」を知らなかった後ろめたさをごまかすかのように、日本国内ではこの話題でもちきりとなったのだった。



日本海軍と英国海軍はこれらの動きに眉をひそめた。
感情と現実の区別を知る人々は憂慮した。そして互いの上層部は幾度かの話し合いの末、有る程度この動きを黙認するかわりにひとつのイベントを企画する。

「地中海戦役四カ国共同慰霊祭」。

それまで個別に行われていた「地中海の戦い」の慰霊祭を合同で開催し、そこに日英から二人の男を送り込むことにしたのである。
元大英帝国海軍「H部隊(マルタ駐留艦隊)」指揮官、サー・トーマス・フィリップス。
元日本帝国海軍「遣欧第2艦隊第1護衛隊」指揮官、有賀幸作。

いずれも海軍大将を経て退役した男たちで、地中海で地獄を見た男たちだった。

101 :ひゅうが:2012/07/27(金) 19:20:14

互いに「チム(煙突)」、「親指トム」と愛称で呼び合う男たちは式典と記者会見を前に思い出を語りあい、やがて肩を組んだ。

二人は歌い始めた。
日英の化けの皮をはがそうと鵜の目鷹の目で見つめていた男たちは目を剥く。
二人が歌うメロディーラインは「敵国」たる枢軸ドイツの「パンツァーリート」だった。


――夜を駆け
潮騒射抜き
水底の敵
科学で照らす…


「エスコートフリート」。それがこの歌の名前だった。
二人に続き、おそるおそる互いを見守っていた日英のかつての「戦友」たちは唱和しはじめた。
かつてアレクサンドリアやリバプールを出港した際、勝利した時、そして味方艦が沈みゆくのを見守った時のように。


――故郷の地を
遠く離れ
敵中の航路(みち)
護衛り(まもり)て進む
シラクサが沖
沈み去ろうと 悔いはなし
捧げよその身
友のため。


ラジオでゲッベルスの宣伝とともにあまりに頻繁に流されまくったメロディーに負けるまいとして名もなき船員たちが作りはじめた替え歌は、今では忘れ去られたはずだった。
しかし男たちは決して忘れることはなかった。
あの栄光の果ての敗北に涙し、歴史に憤った日を忘れることなど彼らにはできなかったのだ。



――我が友よ
戦隊組んで
歴史を仰ぎ
歌口ずさもう
栄誉も名もいらぬ
友の無事こそ我が誉れ
開けよ道を
マルタへの道を・・・


朗々と歌声がとどろく。
ようやく、記者たちは男たちの視線がどこへ向かっているのか気付いた。
風雨にさらされた二つの碑(いしぶみ)。
ひとつは漢文で、もうひとつは漢字仮名交じりで記されたそれには、二つの大戦において献身した人々を称える文言と、犠牲となった艦艇の名が記されている。
自分たちに都合よくも弾劾を期待するあまりに記者たちが都合よく忘れていたそれを、男たちは仰ぎ見ていたのだ。

誰もが恥じ入り、下を向く。
いつのまにか歌は5番にさしかかり、勇壮だったメロディーはこの海で散った全ての人々を悼むようにゆったりしたものとなった。


――明日来たり
航路の果てで
悪運が
我見はなせば
もう二度と
故郷を見ることは叶わぬ
艦は我らの墓標となる…




歌声は、地中海のエメラルドグリーンの海原に響き渡り、そして消えていった。

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最終更新:2012年07月27日 20:17