109 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/05(日) 16:34:12

 福建共和国は成立から発展まで、その全てが日本の強い影響下にあった。
しかし、所謂『勝ち組』の影響下であった事は福建にとっては僥倖であっただろう。
さらに言えば、戦後共和国に組み込まれた浙江省にとっても。

 さて、日本の戦勝は多くの国民を喜ばせていたが、
それを素直には喜べない日本人もいた。それは食品や繊維など、軽工業の関係者である。


        提督たちの憂鬱 支援SS ~福建共和国の軽工業~



 日本の国際的地位の上昇は日本円の価値が上がる事を意味していた。簡単に言うと円高だ(※1)。
そうなると輸出は著しく不利となり、また人件費の安い国――正に福建共和国がその1つだ――に、
軽工業の中心が移動してしまうのではないか、という現実味のある懸念があった。
そして外国からの安い製品の流入で国内での競争が著しく不利になるという懸念も。

 この懸念を抱く相手は最初はアメリカや中国であり、そして福建になった。
しかしアメリカ・中国と福建の違う所は福建がれっきとした友好国であるという事だ。

 さらに言えば福建共和国は今の所日本から最も近い国の中で最も信頼できる国であり、
そのため彼らの懸念通り日本から少なくない繊維・食品産業が福建への進出に乗り出したのである。

110 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/05(日) 16:36:06

 だがこれは福建にとって好機であり、当然ながら福建はこのチャンスを逃さなかった(※2)。

 福建共和国はすぐに外国資本による軽工業に対して税制優遇措置を取り、
福州市を始めとする幾つかの市に『経済特区』を設置。冒頭の繊維工業団地も、
法人税の減税などを看板にしてあの手この手で誘致した結果の1つだ。

 これら外資による工場は増加傾向にあった福建の労働力の良い受け皿となり、
特に農村の次男坊、三男坊などは『金の卵』として青田買いされ(※3)これらの工場へ集団就職した。
一方農村では働き手こそ減ったものの、共和国はこれに対し農業機械の購入補助金を出すなどして対応した。
この農業機械は、その殆どが日本から格安値で払い下げられた中古品であった。

 福建はこの後さらに軽工業を受け入れ、発展を続けていく。その勢いは一時『アジアの紡績機』と呼ばれる程であった。
一方日本の軽工業は福建共和国との単純な価格競争を避け、品質一番、価格二番へと価値観をシフトさせていった(※4)。
また、日本そのものが軽工業から重工業、そして先端技術開発へと産業の中心の変革を目指していった。


 そして福建共和国のこの成功モデルは他の多くのアジア国家に重大な教訓をもたらし、
以後タイ、インドネシア、ビルマ、フィリピンなど東南アジアで同様の試みが広がっていく。
華南連邦との経済摩擦こそあったものの、両国そして両国のバックにいる国もその拡大を望まず、
華南は一次産業中心、福建は二次産業の中でも食品加工と繊維工業が中心と役割分担がなされた(※5)。

 こうしてアジア各国と日本は、一方は優れた先進技術の、
一方は安価な商品の恩恵を受けつつ、強固な結束を築いていったのだった……


    ―――西洋人は使役し、そして東洋人は………調和する
                            ―――ある小説家の言葉


                 ~ f i n ~

111 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/05(日) 16:38:13

(※1)
この円高のためにメイドインジャパンの価格は軒並み上昇し、
ベトナムでは「日本製の缶詰は金持ちの証」とさえ言われるようになっていた。
1950年代にこの円高は一旦落ち着きを見せるが、それでも日本円は非常に強い通貨の1つである。
円高華やかなりし頃の様子を描くジョークに、次のようなものが残っている。

 ある日、福建人とフィリピン人とタイ人の外交官が一緒に大阪へ食事に出かけた。
大阪は食事が質に比して安い事で有名だったからである。
3人は話し合った結果、大阪名物の『たこ焼き』という物を食べてみる事にした。

 3人は手近なたこ焼き屋に入ると、勘定はどう払うかを前もって決めるために相談したのだが、
3人とも「自分が3人分奢ろう」と言い出して聞かなかった。お互い自分の寛大さを見せたかったのだ。

 そうこうしている内に店員がメニューを持ってきた。

 それを見て、3人は割り勘する事に決めた。



 そして3人が熟議の上で注文した物は………たこ焼き30個セットが1ヶだけだった。

(※2)
日本の動向に対するこの反応の速さは、多くの日本人に賢い犬のそれを連想させた
(一部の日本人は福建を実質的な属国とさえ見ている)。そしてそれが、日本人の福建に対する評価をさらに高めていた。

(※3)
福建共和国ではまだ高等教育が都市部までしか行き届いておらず、
また戦乱が遠のいたため農村では人口過剰が起きつつあり、さらに都市での生活は豊かであるという先入観があったため、
末っ子らを都市に出そうとする農家と少しでも安く雇える労働者が欲しい企業の利害が一致した。

(※4)
当時の日本の言葉に、「戦後、靴下と缶詰は安くなった」というものがある。
これは日本に福建や華南などから安価な商品が入り始めた事を最も端的に示している。
現代までに福建で成功した日本企業で特に有名なものとしては、権藤金吾が設立した東洋製靴や、
歴史ある企業の明治製菓などが挙げられる(東洋製靴は福建共和国軍の軍靴も製造している!)。
『品質一番、価格二番』については、決して価格勝負を捨てた訳ではなく、過度な品質偏重を示すものでも無い。
この言葉はある程度高度な品質を維持しつつ、顧客に受容される価格設定を目指す事を意味している。

(※5)
華南連邦は地の利を活かして農林水産業に力を入れ、農産物や漁獲物はもちろん、建材の輸出にも邁進した。
日本では本土の林業が圧迫されると批判を受けたが、イギリスでは安価な華南製建材は人気を博した。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2012年08月05日 19:41