114 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/07(火) 23:03:59

 1917年、革命という名の暴力的な産声を上げ産まれた国ソビエト連邦は、
それから四半世紀ほどを経て建国以来最大の困難に直面する。そう、『八月蜂起』だ。

 経済力・技術力・軍事力…………全てが疲弊した国内の現状を無視して、
なおもドイツとの戦争を続けようとしたソビエトの最高権力者スターリンは、
かつての腹心達からの忠誠すら失っていた。反スターリン派は彼らの参入により一挙に勢力を増し、
ついに8月15日、反スターリン派はクレムリン、NKVD本部などを中心に蜂起した。

 この第二の革命によってスターリン体制は倒れ、内務をラヴレンチー・ベリヤ、
軍事をゲオルギー・ジューコフ、外交をヴャチェスラフ・モロトフが主導する、
所謂『八月トロイカ体制』が成立。ソビエト連邦は戦災からの復興へ乗り出した。


       提督たちの憂鬱 支援SS ~After八月蜂起~


 八月トロイカ体制が全力で取り組んだのは、スターリン時代に行われた全てを否定する事だった。
その代表的なものが、「ソビエトは正教徒と戦争し、その余力でドイツとも戦争していた」
などといわれる程に激しかった宗教規制の緩和である。

 スターリン時代、ロシア正教の信者はアメリカ風邪感染者に等しい扱いを受けており、
スターリンの命令で信者ごと焼き払われた教会は数知れない。彼はその意味で織田信長を超える男だった。

 そんな彼の行為を否定した新政府は、宗教規制緩和の手始めとして『イコン所持の自由化』を布告した。
所持できるイコンは政府公認のもののみであり、それを購入するには相当な資金が必要ではあったものの(※1)、
同時に日本の助言を受け、農民・労働者に生産物の一部を自己責任の下自由に処分する事を認める『生産責任制』を敷き、
彼らに金を稼げばイコンを所持できるという希望を持たせる事で労働意欲の改善を目指した。

115 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/07(火) 23:04:32
 また、スターリン時代の民間需要を無視した軍事最優先の計画経済も改革が進められていく。
その手始めとして、地域の需要に即した経済を構築するため、新しく『人民市場』という試みが始まった。

 これは同時期に作られた『隣人組合』(※2)同士の協力により市町村単位で開かれる市場で、
大型の掲示板に住民一人一人が供給不足の品、供給過多の品を貼り出す事で、互いに余っている物、
足りない物を認識し、それらを自由に交換ないし売買できるようにするという物だった。

 しかしこれは失敗に終わる。人民市場が機能するには十分な需要と十分な供給が必要だが、
ソ連では元々需要に対して供給が圧倒的に少なかった上に、農家が作物を出し惜しみした事によって、
最も重要な品目である食品の供給が極僅かしかなかったのだ。

 政府側も備蓄の放出はしていたが、それらは全てロシアの広大な大地に吸い込まれて消えていった。
仮に1億円あっても、それを1000万人で分割すれば1人には10円しか行き渡らないのと同じである。


 さて、人民市場の失敗だけでなく、極東偏重の工業化政策や共産主義の理想とは程遠い奴隷労働により、
八月トロイカ体制の立場も非常に危ういものではあったが、そんな彼らの政策の中でも一際異質な物があった。


 それこそ、ラヴレンチー・ベリヤが中心となって進めた性犯罪撲滅運動である。

116 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/07(火) 23:05:09
 独ソ戦、特に後期の独ソ戦は、後にイギリスや日本の歴史家から
「原始人が近代の武器を手に戦った」(※3)と揶揄される程のモラルハザードが起きていた。
ソ連側では武装親衛隊の捕虜は取らないのが常識だったし、ドイツ側もパルチザンには容赦無かった。
ソ連はこの戦争で百万人を超える女性を軍に動員したのだが(※4)、
これら女性兵士は敵味方から暴行の対象になる事が少なくなかった。

 ドイツ兵のそれはともかく、ソ連兵のそれは当初政府と軍によって組織的に隠蔽されてきた。
しかしスターリンが倒れると、ベリヤはこの事実を隠していた者達を徹底的に暴き出して処罰、
ジューコフも赤軍建て直しのため綱紀粛正に乗り出す。ベリヤとは犬猿の仲で知られていたモロトフでさえ、
対外イメージ回復のためベリヤへの協力は惜しまなかったという。

 また、ベリヤは赤軍だけでなく官民内部における同様の問題についても厳しく対処した。
性犯罪に対するベリヤの攻撃の激しさは史実を知る人間からすればおよそジョークとしか思えない物で(※5)、
特に彼の"身内"であるNKVD内の容疑者に対しては史実連合赤軍も裸足で逃げ出す程の苛烈な懲罰が科せられた。
関係者の証言によれば内容は多岐に渡り、時にはベリヤ自身が死刑を執行した事もあったそうだ(※6)。

 これら過激な撲滅運動によってソ連国内の性犯罪件数は19世紀のインディアンの人口を超える勢いで減少。
この政策は悪名高い『インディアン絶滅政策』をもじった訳ではないが国内外から『性犯罪者絶滅政策』とまで呼ばれるようになった(※7)。
後にドイツでもこれをモデルにしたと見られる動きが『道徳再建運動』の名で広まり、日本でも性犯罪への取り締まりは強まっていく。

 ベリヤは勿論多くの被害者から感謝されたが、その裏には多くの冤罪被害があった事は紛れもない事実である。
政治的敵対者を追い落とすために性犯罪をでっち上げるなどといった事例は、監視の厳しい中央ならまだしも地方では多々あり、
無実の罪より命を失った者は1万人を優に超えると見られている(※8)。


 八月トロイカ体制は、実行される政策の成功、失敗如何を問わず少なくない犠牲を払っていた。
日本の専門家達(世界レベルで見れば道徳的)はこの体制を指して「スターリン時代との違いは磨り潰す対象だけ」などと揶揄したが、
ついにこの性犯罪撲滅運動だけは日本人からでさえ大きな批判を受ける事は無かった。

 そう。肩書きこそ違えど、どちらにも、弱者たちの犠牲があったにも関わらず……


                  ~ f i n ~

117 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/08/07(火) 23:05:42
(※1)
価格は1人の目線で見るととても買えそうにない程だったが、
集団で資金を貯めれば買えなくもないように見えるというものだった。
この価格設定は日本の大蔵省がアドバイスしたものという説がある程絶妙のラインである。

また、労働態度や生産効率の良い労働者にはイコン購入の割引券などの特典が付き、
これもソビエト労働者の生産意欲改善に少なからず貢献した。

さらに、スターリン時代は苛烈な弾圧を進めるソビエトに対して一致団結していたロシア正教徒を、
「イコンを金儲けに使うとは許せん」という一派と、「規制緩和を素直に喜ぼう」という一派に分裂させる事もできた。

(※2)
思想統制や統制物の配給のため、市町村で5~10世帯を1組として作られた組織。
史実日本の隣組とほぼ同一の特徴を持ち、「互助精神・愛国心の育成」が編成の表向きの名目。

(※3)
どちらが原始人かを言わないのは彼らなりの配慮である。
当の独ソは当然ながら、この言葉について原始人とは相手の事だと解釈していた。

(※4)
動員された女性は衛生兵から工兵、狙撃兵から対戦車特殊攻撃隊(武器は何と収束手榴弾!)まで、
とにかく思いつく限りの仕事が与えられた。勿論男性兵士の"慰安"も仕事の1つだった。

(※5)
ただし、攻撃の程度には被害者の年齢が大きく関わっていた事に注意しなくてはならない。
1945年から1950年までの間、ソ連において性犯罪容疑で死刑判決を受けた者の内訳は、
被害者が16歳以下の容疑者が78%、17歳以上の容疑者が22%であり、
また、判決から死刑執行までの期間は前者が平均4時間、後者が平均3日と大きな差がある。
日本の近現代ロシア史研究家の多くが、この処遇の差はベリヤの個人的嗜好によるものだとしている。

(※6)
ベリヤのこのような行為は、その地位が似通っているドイツのヒムラーとよく対比される。
ベリヤが直々に行った処刑で最も残酷な物として知られるのが、6歳の少女に対する集団暴行事件におけるもので、
容疑者は何と『石打ち』(対象者に大勢で石を投げつけて死なせる)によって殺害された。
しかも刑の執行は一般公開の形が取られ、観衆の石投げ参加が許可されるという異例の事態となった。

(※7)
当時のアネクドート(ロシアのジョーク)の中には、
「10トンの小麦に手を出すより、10歳の娘に手を出した方が重罪」というものまである。

(※8)
無実の罪で検挙されながらも奇跡的に身の潔白を証明して生き延びた赤軍大佐(当時)イワン・P・クリンの著書、
『それでも私はやってない』が当時の取調べの苛烈さ、冤罪を食い物にする人々、冤罪被害者の悲哀を生々しく描いている。

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最終更新:2012年08月18日 12:36