31 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05:53:10

提督たちの憂鬱支援SS―――「ヴォルガ点描1945―鳥は空にいない―」



――「ポーランド人の子供は、四年制の基礎学校以上の教育を受けることは許可しない。
職業学校は存続させる。
ポーランド人の子供は500までの簡単な計算ができ、名前を書ければ十分である。
文字が読める必要はない。
地理・歴史・文学史などの科目は禁止する。
授業時間は午前中を通じて二時限、午後は水曜日と土曜日を除いて一時限とする。」

H・ヒムラー親衛隊(SS)全国指導者承認済み
1940年 大ドイツ帝国ポーランド総督府・東方植民省布告


――「すなわち彼ら(ドイツ人・ハンガリー人・フィン人・ルーマニア人)は祖国ソヴィエトへブルジョワ的な野心と唾棄すべき感情の結果としてその数数千の第五列を匿っている。ことに現状大祖国戦争を戦っている主敵たるドイツ人はその性向が非常に強く民族そのものが利敵行為を働いていると云えよう。
よって祖国ソヴィエトを守るべくソヴィエト最高会議幹部会は、(中略)サラトフ州・スターリングラード州のドイツ人を『移住』せしめることとする準備を開始せよ。」

イヴァン・セロフ内務人民委員代理
1941年8月28日 ソ連最高会議幹部会命令



――承前

ヴォルガ河はヨーロッパ・ロシア有数の大河である。
遠く1500キロ以上離れたモスクワ北方のルイビンスク湖(と北ウラルヴァイ丘陵の広大な森林)の本流、そしてそこからさらに東方1000キロに位置するウラル山脈中北部のカマ河の二つに源を発するこの大河はちょうど「Y」の字のように南へと流れて、かつてこの地を支配したモンゴル人の末裔であるタタール人の古都カザン付近で合流。その後は北斗七星と微妙に似ていなくもないような筋道を大地に描きつつ南方のカスピ海へと注いでゆく。

そう。カスピ海である。

激戦地スターリングラードの北方に隣接するこの地の隣国はタタール人の国という意味のタタールスタン共和国かカザフスタン共和国というユーラシア大陸の中央部に位置していた。
このあたり一帯はヴォルガ河西岸のヴォルガ高地を大河が削り取り、さらにはるかウラルの彼方から運ばれてくる土壌とあわせて東岸にこれでもかと堆積させた場所だった。
有名なウクライナの黒土と同様の地味豊かな大地がそこには広がっていたのだ。
だが、ロシアの多聞に漏れずこのシベリアとロシアのほぼ中間に位置する場所は国土の広大さに比して開発する人手が足りずに18世紀後半までは放置されていたようなものだった。
ロシア人がかつてのモンゴル人への恐怖からか大河を利用して東方への拡張を行っているうちに町が作られたとはいえ、ロシアの町というものは紀元前の中華の「国」と同様城壁か柵で囲まれた耕作地と住居の集合体のようなものである。
それら「点」と無数の河川という「線」の間をコサックという東欧版モンゴル人が移動していく。
それは彼らルーシの民の記憶「タタールの軛」の時代からまったくそのままである。
ゆえに――土地の全てを活用するような使い方をするにはある民族の登場を待たねばならない。

132 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05:53:57

ヴォルガ・ドイツ人。
そう彼らは呼ばれる。
プロイセン人であった女帝エカテリーナの御代より大規模に行われたこれら移民は、宮廷や商工業といったロシア帝国のトップ集団に地位を確立しつつあったドイツ系の集団に比べて影響力は比べるべくもなかったが数は最大であったといってもいい。
北米大陸と同様、ロシアは農業革命で生じた多くのドイツ人を飲みこむことになったのである。
1763年から1766年にかけて徴募人の募集に従った彼らは、肥沃ではあったがまったく未開拓な土地に直径60ヴェルスタ(64キロメートル)から70ヴェルスタほどの円形の土地を「管区」として定住。
出身地や宗派によって分かれたこれら「管区」は当初は番号で呼ばれたものの、のちに出身地や入植者の「姓」で呼ばれるようになる。
現地化のはじまりだった。
のちにこれが発展し、ヴォルガ東岸地域の名もなき土地には名称がつけられていく。のちにロシア語の名称も名付けられるものの、現地住民がそう呼ぶことはなかった。
当初3万人程度だった人口は19世紀末(1897年)には39万人の大台を突破するに至っている。
発展に従って自治州化がなされ、身分も入植者かられっきとしたロシア帝国臣民へと「格上げ」される。
そしてそれは、徴兵がなされることでもあった。
この頃までに世代を重ねた入植者たちはドイツ語を話すものの、立派なヴォルガの「住人」となっていた。


ソ連成立時の内戦の間に自治を達成したヴォルガ・ドイツ人自治州は、スターリングラード州の東北、カザフ共和国に隣接する総面積27500平方キロ(1922年)の「ヴォルガ・ドイツ人自治共和国」へと昇格する。
エカチネルシュタットと呼ばれていた町をマルクスシュタットと改名してその政治的中心地としたこの国は、ロシア内戦時や農業集団化時などで多くの悲劇に見舞われていたものの基本的には他のロシアと同様の地位にあった。

――1941年までは。




――西暦1945(昭和20)年7月 大ドイツ帝国 東方地域(オストラント)
ヴォルガ・ドイツ共和国 首都サラトフ


金髪碧眼やドイツ人らしい無骨な面立ちをした男たちが舗装された道をゆく。
こわごわとした者もいるが、大半は肩で風を切っているといってもいい。
当然だろう。
彼らを恐怖で支配した鋼鉄の男は既になく、彼らは危ういところでではあったが念願であった「独立」を達成していたのだ。
南方、かつてスターリングラードと呼ばれたヴォルゴグラード市を中心にした緩衝国家カルムイキア共和国とならび、この大地は8月事件以後に乱立した新興独立国のひとつとなっていたのだ。
隣接するカザフ共和国やタタールスタン共和国とならび、彼らはこれらと同等以上の地位にある。

第2次大戦の結果、根こそぎ動員を行われたうえ戦場と化したヨーロッパ・ロシア地域ではロシア人が激減。
反対に前線への投入をためらわれたヴォルガ・ドイツ人たちは一定の人口を維持していたのであった。
さらに、ウクライナや白ロシアを自国の勢力圏とした大ドイツ帝国(よく第3帝国と呼ばれるが彼らの自称はグロース・ドイッチェ・ライヒである)は彼らヴォルガ・ドイツ人を「来るべき東方生存圏のさきがけ」として称揚した。

これはバグラチオン作戦の失敗で多数が捕虜になったヴォルガ・ドイツ人に収容所で対面した総統の感激もあったが、宣伝相ゲッベルスの手によるものでもある。
内外蒙古の合同が話し合われる現在、尻尾をふるソ連をあやしつつイランとカスピ海を通じてカザフ地域やことにタタールスタン共和国と友好関係を深めつつある日本人たちに対抗する手段は必須であった。
それに――

133 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05:54:32

―――道をゆく男たちは、車道となる部分を歩く別の真っ黒い集団を意図的に無視していた。
長旅の果て、苦悩をもできなくなった虚ろな表情をした人々は男だけではなく女や子供もいる。
汚れた格好を取り除けばむしろ外見は歩道の人々よりも美男美女であろう。
だが、彼らを分かつものがある。
二等市民や一等市民といった戸籍上の区分(必ずしも法的な差別というわけではなかったが)以上に、俗に奴隷と自由人と呼ばれるもの以上に、勝者と敗者という言葉がそれだった。

かつてポーランド人と呼ばれた人々が集団の名前だ。
現在は西プロイセンと呼ばれる地域に住んでいた人々は、この数ヶ月前にこの地を通った東部ポーランドの住人達に続き「労働軍」の一員として東北シベリアの大地へ向かっている。
一部はウラルの工業地帯へ。そして大半は極北のコリマ金山やレナ炭田、ドネツ油田へ。
冬季にはマイナス40度以下に下がるシベリアの大地では彼らの大半が生き残れる保証はない。
ロシア人が働く西シベリアのチュメニ油田(第3バクー油田)やノヴォシビリスクのクズネツク炭田と比べれば天国と地獄というものだった。
それを知っているからこそ彼らの表情は「ない」のだ。


ソ連は第1次ソ連・ポーランド戦争で自国の弱みに付け込んで領土拡大を成し遂げたポーランド人に逆恨みじみた感情を抱いていたし、ドイツは敗戦のどさくさにまぎれて自国の入植者を追い出し、数百年来定着していた西プロイセンを奪い去ったポーランドを許さない。
そしてこれにソ連の壊滅した工業の復興と欧州の復興という大義名分があわされば恐るべき化学反応が生じるのもむしろ当然かもしれなかった。
この二つの国家は巨大な官僚機構を有し、人間の理性を偏愛するような機械じみた哲学を有していた。
これに民族感情が加わり、ひとつの結論を導き出す。
「民族浄化」とのちに呼ばれる「東方問題の最終的解決」がそれであった。

ドイツ人はいう。「中部ポーランド人は『除去』しよう。労働力にならぬ者は日本人のいうように北米に移すのもよい。だが、我らから富と土地と誇りを奪った挙句露骨な敵視とあわゆくばドイツを占領しようと企てた西プロシアの盗人どもはゆるすことはできぬ」と。
ロシア人はいう。「力が足りぬ。そこに人がいる。必ずしも従順ではない。ならばやることはひとつだ」と。
二者に共通していたのは、その「対象」を理解する意思のないこと。そして「対象」の労働力にのみ興味があることであった。


かくて――人は東へゆく。
やってみればあまりにそれは簡単であった。
総力戦を実現した国家という怪物は身じろぎするだけですべてを可能とし、鉄道や船舶といった大量輸送設備は「たった数百往復」で数百万の人々を1万キロ以上も移動させることができた。
ならば、いずれ人は慣れるのだろう。
「不自然な」国境線と複雑な環境は厳密に区分された。
まず独ソ双方にとって一定の満足すべき結果であろう、と両国政府は信じた。

人は忘れることができる生き物である。
ポーランドと呼ばれた大地ではかつて西プロイセンで行われたように都市や土地の名前が変えられ、それを伝える人々も「どこかへ」消えた。
そして語られる言葉もなくなった時、記憶は歴史になる。
それが人為的にか時の流れの果てにか、あるいはその双方を兼ねるのかはともかく。



「さて、家に帰らなければ。」

歩道を歩く誰かが言った。
車道を歩く誰かが振り返ったが、歩道を歩く人々は気付くことがなかった。

134 :ひゅうが:2012/08/18(土) 05:55:27
※ 補足1―――1955年の統計では、旧ポーランド総督府、現ノイエプロイセン州・クラカウア州・レンベルク州・ノイエルーベン州の総人口は1245万人。
内訳は1等市民(ドイツ本国系人)93パーセント、準1等市民(東方系ドイツ人)5.6パーセント、2等市民0.7パーセントである。

※ 補足2―――1960年、カリフォルニア共和国と太平洋同盟諸国は旧モンタナ州から旧アイダホ・ワイオミング州における自由ポーランド軍管区地域を5年後をめどに自治州へと昇格させる方針で合意した。同地域の住民は420万人。
内訳はポーランド人85.7パーセント、カナダ人8.8パーセント、カリフォルニア人3.2パーセントである。

135 :ひゅうが:2012/08/18(土) 06:03:18
【あとがき】――この物語はフィクションです。ただしヴォルガ・ドイツ人は実在します…というよりしました。
冒頭に挙げたように史実1942年において他のカフカス諸民族などとともに中央アジアカザフスタンなどへ強制移住させられ人口を激減させるも故郷に戻れることはありませんでした。
現在、旧ヴォルガ・ドイツ人自治共和国は存在していません。

コンセプトは憂鬱版「民族の悲劇果てしなく」。

136 :ひゅうが:2012/08/18(土) 09:34:52
【追記です】

※ 補足3―――タタールスタン共和国…首都カザン。人口はタタール人が大半を占める。彼らはもとはキプチャク・ハン国を構成したモンゴル人やテュルク系の人々、イスラム商人を中心にした人々である。
タタール人自体はソ連全土に500万人程度が居住し、うち300万人程度の「カザン・タタール人」がここに居住する。1552年のイヴァン雷帝による征服以後ロシアの版図に入りソ連時代は自治共和国。
憂鬱世界ではチュヴァシ共和国・バシコルトスタン共和国・ウルドムト共和国といった故地の一部を追加したうえで「高度な自治」を実現。
モスクワから1000キロという戦略的な位置にありヴォルガ水系中部の要衝であるため憂鬱日独のソ連東西分断政策の要でもある。

※ 補足4―――カルムイキア共和国…あるいはカルムイクとも。現首都はエリスタ。中央アジアのモンゴルにルーツをもつかつてのオイラト人、カルムイク人の国である。旧ソ連時代はスターリングラード州およびヴォルガ・ドイツ人自治共和国、カザフスタンに隣接。
カルムイク人は1630年に内乱を避けて同地に移住。人口約20万人程度。なお、カルムイク人は熱心なチベット仏教の信徒であり、ロシア唯一の仏教国でもある。
憂鬱世界ではスターリングラード州・ロストフ州・アストラハン州の一部を追加した緩衝国家となっている。
廃墟となったスターリングラード市を挟んでヴォルガ・ドイツ共和国に隣接。
チベット仏教国家であるため憂鬱チベットとは友邦である。

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最終更新:2012年08月18日 12:41