191 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/10/25(木) 20:43:14

 1943年、アルゼンチン大統領ラモン・カスティージョは、
外交筋からもたらされた情報を手にして思案していた。その内容が極めて重要なものだったからだ。


『チリの海軍士官と造船技師が日本への留学を計画、日本は可否の回答を保留中』


 ―――――チリは着実に、日本に接近している。


      提督たちの憂鬱 支援SS ~南米ABCの動静~


 南米には、欧州と同様に一強――アジアにおける日本や、
北米におけるかつてのアメリカ合衆国のような――が無い。アルゼンチン、ブラジル、チリの三国が、
"南米ABC"として周辺国から一歩抜きん出ていたが、これら三国も国際的地位はそう高くなく、
よって南米は国際社会の中でも一段下に見られていた。

 しかし"人類史上最悪の災害"、"レビヤタン(旧約聖書に登場する怪物)の憤怒"と呼ばれる大西洋大津波と、
日本がアジアのみならず太平洋地域最大最強の国家となった事で、南米にはにわかに注目が集まり始めたのだ。

 ブラジルはABCの中でも津浪によって最大の被害を受けた。
特にサンルイス、フォルタレサなどは港湾に壊滅的な打撃を受け、
またアマゾン川を遡上した津浪の名残は内陸部のマナウスでも観測されたという。

192 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/10/25(木) 20:43:51

 その代わり、ブラジルはサンタモニカ会談とその後の列強の折衝によりその版図を広げている。
同じく津浪によって洗い流された植民地、ギアナ、スリナム、ガイアナをその宗主国から受け継ぎ(※1)、
さらに首都が消滅して無政府状態に陥っていたベネズエラには英独伊の三国から支援を受け治安維持を名目に進駐。
後にブラジル連邦共和国ベネズエラ州として完全に併合される事になった。

 このようにしてブラジルは、沿岸の大打撃と引換えに豊かな資源地帯を手に入れたのだが、
その開発に必要な初期投資、統治に必要なコストを考えると±0、むしろマイナスであったと言えよう。

 無理な出費と国民の不満は急速に増大したが、ブラジルの指導者ヴァルガスは欧州列強の後ろ盾を受け、
その独裁体制を1947年末まで維持。その後は民主的選挙を目玉に据えた新憲法を制定し自ら独裁を止めた(※2)。
人気取りなどと批判はあったものの、ヴァルガスはその後しばしば対立する国民と軍、また枢軸の間を上手く渡り歩いて、
ブラジルの工業化及び近代化を強力に推し進めたため『ブラジルの国父』と『強権的独裁者』という、
2つの相反する評価を受けながらその天寿をまっとうしたのだった。

 ABCの中でも最大の勝ち組と言えたのがC、すなわちチリだろう。
何しろこの国は唯一太平洋に面しておりかつ大西洋に面していなかったため、
津浪被害はゼロ、そして最も日本の勢力圏に入りやすいのだ。

 津浪のドサクサでアメリカ資本に支配されていた銅山などを接収し、
新たに日本の資本を受け入れた事はチリに多大な富をもたらし、また富と同じくらい大切な友好関係を築く助けにもなった。

 海軍士官と造船技師の留学は1945年になってようやくGOサインが出て、
チリは南米ABCの中でも随一の海軍(※3)を築き上げていく。また、陸軍も冬教戦などを筆頭に人材交流が活発化、
アンデス山脈におけるアルゼンチン軍との偶発的戦闘、アンデス事件ではその成果が大きく発揮された(※4)。

193 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/10/25(木) 20:44:29

 さて、そのアルゼンチンである。

 ラモン・カスティージョが退陣し、代わって政権の座に着いたのがエデルミロ・ファーレルだったが、
その実権は副大統領であり陸軍大臣のフアン・ペロンが握っていた。彼は親枢軸の人物であり、
目の上のコブのような存在だったアメリカ合衆国が津浪被害で瓦解するとさらにその動きを強めていく。

 フアン・ペロン主導の親枢軸政策は、前大統領の不安が現実になるのを早めた。

 アルゼンチンが枢軸に接近している事を知った日本はサンタモニカ会談の前から、
まるでそれが規定事項であるかのようにチリ、ペルー、ボリビアなど南米西側の国々を抱き込んでいった。
また国外に対しその精強な軍隊を誇示し、自国がアジア太平洋のリーダーであると知らしめた。

 ここに至ってその後大統領となったフアン・ペロンの取り巻きからも、従来の親枢軸一筋の外交から、
丁度イタリア、トルコが進めていたような枢日両勢力の橋渡し的な外交への政策転換を考える者が出始めたが、
それに対するペロンの答えは一貫して「否」であった。


 日本の歴史学者の中には、「アルゼンチンがイタリア、トルコのような道を選んでいれば、
アルゼンチンの発展は5年は早まっただろう」などと言う者もいるが、彼には彼なりの理由があったのだ。

 チリとアルゼンチンの間には、言うまでも無くアンデス山脈が横たわっている。
最高峰は6960mにまで達する長大かつ高い山々だ。一方ブラジルとの間にはラプラタ川があるが、
この川は水深が浅く専門の工兵隊さえいれば容易に渡河できてしまう。少なくとも登山よりずっと楽だ。
さらにアルゼンチン首都ブエノスアイレスはラプラタ川沿い。ブラジルに近い。

 日本と枢軸、どちらかに接近するという事は、もう片方とは関係が後退するという事だ。
そして日本に近づいているチリ、枢軸に近づいているブラジル、2つの隣国を天秤にかけて、
ペロンが選んだのは枢軸、そしてブラジルだった。

194 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/10/25(木) 20:47:00

 アンデスがある以上、枢軸つまりブラジルと戦争になった時、チリからの援軍はどうしても遅れる。
日本からの援軍は広い太平洋を挟んでいるためさらに遅れる。海上・航空優勢は確実に保てるだろうが、
陸上優勢は難しい。奇襲によって首都を初めとする重要拠点が瞬時に落とされるというシナリオも考えうる。
その後勢力を盛り返して勝つ事ができたとしても、地上戦で国土が被る被害は甚大なものとなる。

 一方、日本つまりチリと戦争になった時、ブラジルは陸続きかつ交通が容易なため連携を取り易い。
また、欧州枢軸の北米における拠点はカリブ沿岸であり、素早い対応が可能な筈だと彼は考えた。
経済的にも、ブラジル-アルゼンチン間の交通整備の方が、チリとのそれよりローリスク、ハイリターンだ。

 橋渡しという考え方もあるだろうが、これから世界が新たな《ブロック》に分けられようとしている中、
どちらにも良い顔をしよう、などという八方美人政策が、列強であるイタリアや欧州に近く発展しているトルコならともかく、
果たしてアルゼンチンにできるのか?したとして日枢はそれを受け入れるだろうか?というのがペロンの持論だった。

 そのため、フアン・ペロンはアルゼンチンを枢軸の一員とできるよう尽力したのだ。


 その判断は、後世の歴史家により批判も賞賛も受けた。

 しかしそれは所詮後知恵による分析というもの。人が過去に下した決断の真価は、その人の現状にこそ表れる―――

 これがフアン・ペロン晩年の言であった……


                   ~ f i n ~

195 :名無し三流 ◆Mo8CE2SZ.6:2012/10/25(木) 20:47:34

(※1)
本国の津浪復興に注力せねばならず、これら植民地をこれ以上維持するのは難しいだろうと判断した英仏蘭はこれを手放す事にした。
ただし地下資源の割引販売に代表される種々の利権はある程度残している。
多額の費用がかかる津浪復興をブラジルに押し付け、おいしい所だけ頂こうという魂胆である事は言うまでも無い。

(※2)
日本の事実上の独裁者であった嶋田繁太郎の、権力に執着しない姿勢に影響を受けたためとされる。
ちなみに、憲法制定後最初の選挙ではヴァルガスが79.4%の得票を得て当選した。
その後も、ヴァルガスは高齢を理由に引退するまで大統領の座を守り続けており、
急進左派系からの『名ばかり選挙』といった批判もある。

(※3)
史実アメリカ的な海軍ではなく、あくまで沿岸防衛に特化した海軍である。

(※4)
1959年6月、折からの悪天候により視界が悪かったアンデス山中で、
両国の国境警備隊が鉢合わせ。互いに国境侵犯をしているものと勘違いし戦闘に発展した。
両軍とも最初は1個分隊のみだったが、アルゼンチン側は直後に1個小隊が援軍として到着。
戦闘は地形と武器を巧みに使ったチリ側の圧勝に終わり、アルゼンチン側は退却を強いられた。
当然大問題となったが、列強の仲介で本格的武力衝突には発展せずに済んだ。

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最終更新:2012年10月28日 16:45