352. 名無しモドキ 2011/06/18(土) 13:52:01
アメリカの黄昏−1942年8月15日(現地時間)−   対米諜報組織「ビーグル」

1942年8月13日木曜日    アメリカ合衆国バージニア州ノーフォーク

  ペントン有線放送と車体に青い字で大きく書かれた大型ワゴンが、同じくペントン有線放送と書かれた門を
くぐって倉庫兼事務所の前で止まった。中から降りてきた作業着の男は、暑さのために開け放たれた倉庫のシ
ャッターごしに中の男に声をかけた。
「ブランケ主任今戻ってきました。」
「スレッサーか。ご苦労だった。で、すまないが一休みしたらケーブルの取り付けでイングルノックまで行っ
てくれないか。アルバートアベニューとピアスストリートの交差点の近くだ。詳しい住所はここに書いてある。」
ブランケ主任が紙をスレッサーに押しつけるように渡した。
「ええ、俺ですか。俺じゃないとだめな仕事ですか?」
「そういう仕事だ。頑張ってくれてるから支社長がボーナスをはずんでくれるそうだ。」ブランケ主任がウインク
する。そう、スレッサー以下支社で3人しかできない仕事がある。他の作業員とほぼ同じ内容の仕事でも給料とは
別に一軒あたり32ドルの手当が現金で出た。ただこの仕事を自分以外の誰かがしていることはスレッサーには知ら
されていない。

「いや、休みが欲しいいんですけど。下の女はまだ赤ん坊ですけど、上の坊主がどこかに連れて行けと五月蝿いん
ですよ。家内もいい顔をしないし。」スレッサーは、ダメ元で聞いてみた。ここ四半期の忙しさは生半可ではない。
7月などは2日しか休日がなかったうえに連日超過勤務が続いた。そのおかげで給料以外に1200ドル近い稼ぎにな
ったが使う暇がない。
「うーん。じゃ、来週の月曜日から木曜日は休みにしてやる。そのかわり日曜出勤してくれ。」意外にもブランケ
主任は望外のことを言った。
「本当ですか。じゃ、頑張ります。で、終わったら帰らせてくださいよ。でも、なんでそんなに気前がいいんですか。」
「実はな、サンフランシスコの本社が基幹社員の一週間ほど研修をすることになってな、ついでに家族も招待するから
二週間こないかって言ってきたんだ。で、土曜日に女房と子供を連れて出かけることにしたんだ。飛行機で行くもんだ
から毎日墜落したらどうしようって女房も子供も喜んでいるのやら、心配してるのやらで大変な騒ぎさ。で、俺ばかり
がいい目を見るのは気が引けるから、お前のことを支店長に相談したら休ませてやれって言うんだ。なんとかシフトを
組んで見よう。」ブランケのことを陰で悪く言う人間もいるがスレッサーにはいい上司である。

  スレッサーは事務所の休憩室で人心地つくと、再びワゴンを走らせてイングルノックを目指す。目的地近くまで
くるともらった地図で場所を確認する。イングルノックは、ノーフォークでは三番手といった高級住宅地だが、その
家は広い芝生に白い瀟洒な二階屋で住民の裕福さがうかがいしれた。
「コーニッシュ海軍中佐のお宅でしょうか。ペントン有線から取り付け工事にきました。」ドアのベルを押してから、
暑さのためか開いている二階の窓めがけて大声で声をかけた。
「あら、来週になるかと思っていましたけど早かったのね。」ドアが開いて40代の半ばの女性が出てきた。
「奥様、海軍さんは特別優遇です。アメリカ海軍があってこそ我々が枕を高くして寝れるんですから。」
スレッサーは笑顔で答えた。技術ではなくしゃべれる作業員であることがスレッサーの真骨頂である。
「で、どのくらい時間が掛かりますの。」無愛想な作業員に辟易としていた中佐夫人は警戒心を解いて聞いた。
「この前までケーブルがきてますので、引き込み工事と屋内の配線だけします。ただ申し訳ありませんが、
今週は忙しくてわたし一人しか来れなかったので3時間ほどお時間をいただきたいのですが。で、屋内への
ケーブルの引き込みは電話線の引き込み口を利用したいのですがいいでしょうか。別に穴を開けるとまた
1時間ほど余計にかかりますが。」
「そうね壁に勝手に穴を開けると主人が気にするかもしれないからそれでやって。」
「じゃ、表の方から作業を始めます。壁にハシゴを立て掛けていいですか。ハシゴの端にマットを巻き付け
ていますから壁には傷はつけません。」
「丁寧なのね。いいわよ。」中佐夫人は感心したように言った。
353. 名無しモドキ 2011/06/18(土) 13:59:31
  スレッサーは電線と一緒に架設してある有線のケーブルから電話線の引き込みまで、引き込みケーブルを取り
付けると屋内にケーブルを送り込んだ。そして、この時に電話線を引き込んでいるヒューズボックスに細工をする。
ほんの小さな端子を電話線に差し込んで有線ケーブルにある予備線に繋いだのだ。これで、この家の電話は完全に
盗聴できる。端子と予備線を結ぶ線はか細く、万が一電話工事の作業員が触ればあっという間に抜けて二つの線を
結んでいたとは思えないほどのものであった。

  屋外の工事を済ませると、中佐夫人の望む部屋にスレッサーはラジオ型になっているステレオ式のスピーカーを
設置した。テストと操作方法の説明を兼ねて中佐夫人に有線放送を聞かせる。
「へー、凄いわね。全然レコードなんかより音がいいのね。それにステレオってその場で聞いているみたいじゃな
いの。」中佐夫人は満足そうに言った。
「ここが選曲スイッチになってます。地元のラジオ局も含めて8局のラジオが聴けます。また、各種の音楽ジャンル、
クラシックからカントリー、ジャズまで6種類から選んで音楽を一日流せますよ。また、21と22番はリクエスト用
です。会社の方へ電話していただければお好みの曲を流します。このリクエスト回線は利用者が増えれば順次増やし
ます。」スレッサーはどんどん選曲を変えながら説明した。スピーカーは双方向方式で室内の会話が盗聴できるが
このことはスレッサーには知らされていない。
「友達のヘレンがいいって言うからお願いしたけど予想以上だわ。レコードを買うことを考えたら月25ドルの値打ち
はありそうね。」中佐夫人は笑顔で言った。
「もちろんですよ。お宅は海軍さんですから、今月は無料です。リクエスト料金もかかりませんからどんどんリクエ
ストしてください。また、海軍割引で機材のレンタル料込みで料金は22ドルにいたします。取り付け工事費も無料
です。」スレッサーは笑顔で説明する。
「それでお宅の会社儲かるの?」ちょっと怪訝な顔で中佐夫人は聞いた。
「ええ、でも奥様、どんどんお友達に紹介してください。それではわたしはこれで失礼します。具合が悪ければすぐに
電話をしてください。リクエスト同様に二十四時間対応します。」
「凄いサービスね。すこしだけどこれ・・。」中佐夫人はチップのつもりか、1ドル札2枚をスレッサーに渡そうとした。
「奥様、当社では正規の料金以外にお客様から金品を受け取ることは禁止されております。」
「でも。いいじゃないの。黙ってればわからいわよ。」中佐夫人は信じられないといった顔で言う。
「困りました。それでは何かあった時は、私を指名してください。会社から指名料を貰えます。これが私の名刺
です。」スレッサーは名刺を取り出して丁寧に言った。

「わかったわ。必ずあなたを指名するわ。でも、ちょっと待ってて。」中佐夫人は名刺を受け取ると、しばらく
部屋を出て行った。帰ってきた時のは、コルク栓を弾丸かわりに撃つ玩具のライフル銃を持っていた。
「あなた、男のお子さんがいるっていったわね。うちの子が使ってたんだけど貰ってくれない。いいや、いら
なくなったのであなた捨てておいて。ね、そういうことにすれば貰ったことにならないでしょう。」
スレッサーが受け取った玩具の銃はずっしりとした重さがあり、玩具とは思えない精巧さであった。

「日本製だそうよ。まあ、こんなものを作らせたら上手だけど、こんな凄い機械は日本人には作れないわね。」
中佐夫人はステレオ受信機の方を見て言った。
「もちろんこれはゼネラルエレクトリック社の最新型ですからね。世界一の機械ですよ。」スレッサーも笑い
ながら受け答えた。

  二人はペントン社が受信機をアメリカ製に見せかけるため部品の大部分を日本から輸入して、ゼネラル
エレクトリック社で請負の形で製作させたものであることは知らない。そして日本との関係悪化で部品供給
が途絶えたため、この受信機以外の製品生産にも支障が出始めてゼネラルエレクトリック社の重役陣が慌て
ふためいていることなどさらさら知るよしもない。
354. 名無しモドキ 2011/06/18(土) 14:08:45
  日没前には、スレッサーは仕事を終えてワゴンを運転して家路についていた。その時、スレッサーは思いつ
いた。そうだ、5月からの臨時収入で家のローンを払おう。全部とはいかないが、半分以上のローンを払える
ほどの稼ぎがあるはずだ。毎月、銀行に払っているローンがぐっと減る。自分の給料がほとんどつかえるじゃ
ないか。そう考えるとスレッサーは幸せな気分に包まれた。どうだい夢のような生活じゃないか。7年前は生
まれたばかりの赤ん坊に与えるミルクにも事欠く失業状態だった。妻のエミリーは当時20代の前半だったが
生活苦でやつれて今より年寄りに見えていたほどだ。

  今の会社にいるブランケ主任は、以前居勤めていた会社でも上司だった。それが、スレッサーと同じ時期
に解雇されてしまった。そのブランケから電話があったのは、いよいよアパートを家賃滞納で追い出されよう
かという頃だった。至急会いたいというブランケに呼び寄せられたのが今の会社の支店長室だった。
「まあ、以上説明したようにこの会社のしていることはニュービジネスだ。ラジオだけでなく各種の音楽を
高品質の音声で各家庭や店舗に届ける。
  西海岸を中心に1年前に始まり、今度東海岸で最初の営業拠点をこのノーフォークに立ち上げることになった
んだ。それで、人を探してきた時に君のことを話したら支店長が、その人材なら是非雇いたいと言うんだよ。」
ブランケが早く決めろと言うように急かしたのを憶えている。
「試用期間として週に55ドルで三ヶ月勤めてもらってから正式採用ですがそれでいいですか?」まだ三十代半ば
といえるような若い眼鏡をかけた支店長が尋ねる。
家賃を払えば苦しいがなんとかなりそうな金額だったのでスレッサーは二つ返事で了承した。

  支店長が退席した後で、本社の営業課長という男が部屋に入ってきた。ブランケと、その課長はある秘密の
仕事についてスレッサーの意向を確かめた。
「実は今から言う話はFBIからの仕事だ。聞きたくなかったら今断ってくれ。聞いた以上は承知してくらない
と困る。」
本社の課長は声を落として言った。ブランケは特別な賞与が出ることを説明した。スラッサーはしばらく迷った
末に犯罪に関係ないことならと承諾した。
  話の要点は、FBIによる防諜の必要のある軍人や企業人、軍事機密を知る技術者学者などの家庭の盗聴である。
盗聴という行為は後ろめたいかもしれないが、その人物に合衆国に敵対する人物が近づいていないか、機密は
守られているかを知るための行為である。その人物を守るため、合衆国の機密を人知れず守るための行為で恥
じることはないと説明された。
スレッサーは疑いなくこの話を信じた。

  まったくの嘘である。合衆国の機密を守る仕事ではなく機密を盗むことが目的である。ペントン有線会社の
創立者はフレデリック・ペントンという男で、日本で見かけた有線放送のパテントを取得して会社を始めたと
いう建前であるが、ペントンは日本情報局のエージェントである。
  日本人出資者の資金を日本の銀行から上海の中国系銀行を迂回させてサンフランシスコの地方銀行から有望
な企業としての融資という名目で資金を調達して事業を拡大してきた。つまり資本的にはペントン有線は日本
企業であり、経営は元商社マンの日本人がコントロールする雇い入れた現地スタッフが取り仕切っていた。
  この事業自体がアメリカでは目新しかったため、そこそこの収益を上げていたがその目的は広範囲な盗聴で
ある。事業を開始して5年目には東西の沿岸12都市へ有線サービスと盗聴は拡大していた。そしてこの全米の
大都市を背景にした大規模な諜報を取り仕切るのは通称「ビーグル」と呼ばれる機関である。

  堅物でも家に帰れば何事かの話はする。その人物がその日に家にいるか、残業したか、出張したか
ということも重要な情報である。日本人という人種的制約があるために、情報局は欧米ではヒュー
ミントでなく機械力を重視したシギントを発達させた。
  軍隊を含めて官僚組織は、計画した事業は常に計画のように進行していると報告する習癖がある。
その実態と報告との乖離は家で愚痴となって出る。膨大な情報を厭わずに分析することにより、いく
つかの計画ではアメリカ軍部上層部より、日本の情報部が実態を正確に把握していることもあった。
355. 名無しモドキ 2011/06/18(土) 14:12:43
  とは言うものの人間は重要な要素である。今では敵対する組織の情報をリークすることでマフィアなどの
犯罪組織にも協力者を得ていた。組織的な犯罪組織は権力機構に食い込んでいる。シギントによるヒューミント
の支援である。アメリカ企業に関する情報は夢幻会を通じて日本企業にリークされており元手はかかるが
ペントン社の収益など問題ないほどの価値をもたらしていた。

  また、日本に協力するようなことがないと思われる人間でも上手く使う手管を「ビーグル」は編み出した。
例えばスレッサーを引き入れた主任のブランケは、ドイツ系二世でドイツかぶれである。彼が前の会社を
解雇された理由は、そのファッショ的な行動と親ドイツ的な政治団体への参加が原因である。ブランケは
その盗聴を仕掛けているのがドイツ諜報組織であると思わされている。

  さて、話はスレッサーに戻る。最初の盗聴を仕掛ける仕事は緊張したが、今ではほとんど通常の仕事
手順のようになっていた。今日も自宅が近づくにつれて盗聴作業を行ったことなど忘れていた。
スレッサーは助手席に置いた玩具のライフルを見た。9月から小学校に通うことになっている息子が
玩具のライフルを手に持って喜ぶ様が目に浮かんできた。

  ノーフォークは軍港だから、土日は出動した艦艇が帰還して軍人で近隣の海水浴場などは混雑する。
スレッサーは、人出がそれほどでもない17日の月曜からの休みを利用して海水浴、それに西海岸に行
くというブランケに道具を借りてキャンプに家族を連れていってやろうかと考えた。そして、本当に
今の仕事に就けてよかったとしみじみ思った。ようやく家族に父親らしい事をしてやれると・・。


  結果的にブランケと家族が助かったのはまったくの偶然ではありません。情報局中枢からの、開戦
前後には有能な人材を任務から遠ざけて組織隠匿に万全を図られたしとの通達のおかげです。ただし
西海岸にブランケが居たのはペントン社の都合による偶然です。たとえ任務から外れても東海岸に
残った所謂有能な人材は失われたのですから。

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架空の話を自分で書きながらも人の世の無常さを感じてしまいました。現実、3月11日金曜日の午前中に
週末には家族を楽しませてやろうと考えていた父親はたくさんいたにちがいありません。
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最終更新:2012年01月01日 09:45